先日、東京国立近代美術館の女性学芸員が企画した「ぬぐ絵画-日本のヌード1880~1945」展を観に出かけた。メエトル黒田Click!の作品をはじめ、和田英作、萬鉄五郎Click!、村山槐太Click!、中村彝Click!、小出楢重Click!、熊谷守一Click!、安井曾太郎Click!、梅原龍三郎などそうそうたる画家たちの裸体画が展示されていた。個人的な好みでいえば、小出楢重の作品がとてもよく、熊谷守一の一部の作品も印象に残った。でも、同展に惹かれたのには別の要因もあった。
地下鉄・東西線の竹橋駅が最寄りの東京国立近代美術館が、「ぬぐ絵画」展の車内広告を東京地下鉄株式会社(東京メトロ)へ持ちこんだところ掲示を拒否されたという話が、まったく別のルートから流れてきたのだ。ポスターに使用された作品は、1907年(明治40)に制作された黒田清輝『野辺』(黒田の父あての手紙によれば「春の心地」とも)であり、その裸体画面が明治期の警察用語に照らせば、「風俗壊乱」に相当するということらしい。東京メトロは、形式上は「民間」企業と同様の株式会社であり、「国」がつくったポスターを一企業が拒否したことになる。
さて、東京メトロが同展の車内広告を拒否したのは、おそらく社内の広告審査規定にもとづき、女性の裸体を車内に掲示することで風序良俗を乱し、男性客の「劣情」に火を点け痴漢行為を誘発する、または私立学校へと通う小中学生たちへ勉強を妨げる悪影響を与えるばかりか、非行へのきっかけづくりになる怖れもあるから・・・とでもいうような理由だったものか? 東京メトロは「私企業」なので、車内広告を規制するのは同社の権利でもあるのだけれど、首尾一貫して女性ヌードはダメだというのなら、それはそれで交通機関としてのひとつの見識だろう。
ところが、わたしはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』(某金融業者)や『ミロのヴィーナス』(某専門学校)を用いた広告を、過去に車内で何度か見かけている。ということは、『ヴィーナスの誕生』や『ミロのヴィーナス』の下半身まで入れた裸体は「風俗壊乱」の怖れはないが、黒田清輝の上半身ヌードを描いた『野辺』が、「卑猥」で「スケベ」で「いやらし」くて「猥褻」だと感じた、広告審査の担当者(おそらく男だろう)がいたのかもしれない。
この出来事から、1895年(明治28)に起きた第4回内国勧業博覧会における「朝妝(ちょうしょう)事件」と、それにつづく1901年(明治34)に起きた白馬会第6回展における「腰巻事件」を想起する方も多いだろう。いずれも、黒田清輝の裸体画にからんだ事件だが、メエトル黒田の作品に「猥褻」感をおぼえ「風俗壊乱」の怖れがあると、21世紀の今日まで明治官憲と同様の眼差しをもった人間が生息しているとすれば、東京メトロの広告審査担当は“特別天然記念物”ものだ。
もっとも、『ヴィーナスの誕生』や『ミロのヴィーナス』は西洋美術の立派な芸術だが、デッサンもあまりうまくはなく東洋のローカルな黒田清輝が描いた『野辺』は、観る者の「劣情」を刺激するだけの単なる春画レベルであって、芸術として成立しえていない・・・というような、“上から目線”の「卓見」を東京メトロがお持ちであれば、また話は別なのだが。
「腰巻事件」とは、白馬会第6回展へ出品された黒田清輝『裸体婦人像』(1901年)などが、警察によって「猥褻」であり「風俗壊乱」の怖れがあるとして、腰から下を布で覆われた事件だ。さらに、展覧会の開催中に当時の枢密院議長・西園寺公望Click!が見学に訪れ、「腰巻」を外して鑑賞させたことから問題がこじれ、今度は「脱がす」ことができない板で下半身を覆うという滑稽な工作までがなされた。白馬会の裸体画は第8回展から特別室に集められ、美術関係者のみに公開されることになる。レンタルDVD店のアダルトコーナーのようなものだ。東京国立近代美術館では、東京メトロ用に制作した車内広告を廃棄せず、抗議の意味もこめているのだろう、ヨコ長のプロポーションをタテにして文字などを重ね印刷し、改めて小型ポスターとして利用し掲示している。
わたしのプロモーション感覚からいえば、今回の黒田清輝の作品掲示拒否「野辺事件」は、国側が一企業(といっても株主は国と東京都なのだが)から公表権の侵害をこうむっているわけだから、東京地裁へ告訴すれば最大の宣伝効果が得られたと思うのだ。法廷では、メエトル黒田の上半身裸体像『野辺』を用いた車内広告がなぜダメなのか? 『ミロのヴィーナス』や『ヴィーナスの誕生』の下半身を含めた全身裸体広告は、なぜ車内掲示が許されているのかも争点となり、久しぶりに「猥褻とはなにか?」とか、「風俗壊乱とはなにか?」の裁判が現出していたのではないか。
一企業が広告に使用されたビジュアル表現を任意に選別して、車内掲示の可否を決めるのは自由であり勝手なので、公表権のみを訴因の拠りどころとする国側にあまり勝ち目はないかもしれないのだが、それにも増して多大な宣伝効果が生じ、「ぬぐ絵画」展は1901年(明治34)の白馬会第6回展の「腰巻事件」以来、押すな押すなの大盛況美術展として近来にはない成果をあげ、裁判費用を差し引いてもたっぷりと収益のあがる、大成功の催しとなっていたのではないかと思われる。
裁判では、かつて警察・検察に摘発起訴されて「猥褻裁判」を闘った元・被告たちに、今度は国側の証人となって出廷してもらい、東京メトロの広告審査がもつ女性の裸体に対する「淫靡」な偏見や、黒田清輝の作品に対する「猥褻」な眼差しをこそあぶり出していただき、「芸術と猥褻」について徹底した法廷闘争を繰り広げる・・・というのはいかがなものか。
おそらく、各週刊誌の編集部はこのネタに一も二もなく飛びつき、東京メトロの車内には・・・
「野辺は、のべつまくなし男を刺激するアオカン猥画で、痴漢幇助の怖れがある」東京メトロ
「野辺のどこが猥褻か、のべてみよ。み~んな悩んで大きくなった」東京近美証人・野坂昭如
「オレ仏像撮ってる場合じゃないし、清輝先生を見倣い浄閑寺淫乱裸体だ」裁判傍聴人・荒木経惟
・・・というような太ゴチ字間ヅメで真っ黒なフォントの中吊り広告が踊り、黒田清輝の『野辺』が一部墨塗り(週刊文春)、あるいは布張り(週刊新潮)、さらには思わせぶりなモザイク(週刊プレイボーイ)といった処理がほどこされて、車内じゅうヒラヒラ揺れるのではないかとみられる。
そして、東京国立近代美術館の「ぬぐ絵画」展は、入場を待つ行列が同館を三重に取り巻き、最近は映画を撮らずNHKで映評ばかりしている山本晋也監督が、「三重は昭和15年の日劇・李香蘭公演以来ですよ。久しぶりにお立ちですので、下落合焼きとり未亡人シリーズの映画を撮るですよ」と、下落合(現・中井2丁目)在住の作家・利根川裕を呼んで「トゥナイト」時代のコメントのようなことを口走ってしまい、NHKの番組を降板させられたりするのかもしれない。
東京近美の「ぬぐ絵画」展では、1897年(明治30)の白馬会第2回展に出品された黒田清輝『智・感・情』も展示されているが、明治期の官憲はなぜか当作を「猥褻」で「風俗壊乱」の怖れがあるとは感じなかったようだ。21世紀現在の、170cm前後の女性プロポーションのようでもあり、あまりにも当時の日本女性とはかけ離れていたから「感じなかった」のだろうか。ところが、『智・感・情』の画像を掲載した同年の『美術評論』第2号が、発禁処分となっている。
「裸体画を公衆に示すを得るは美術作品其物に限るので有つて、写真版其他印画として発売することは、仮令其原画が如何なる名作なるにもせよ許可せられぬ」とは、明治官憲の取り締まり規定だが、東京メトロの広告審査にも似たような条項があるのだろうか? でも、造形された、あるいは描かれたモチーフが「女性」でなく、「ヴィーナス」であれば規制はされないのだろうか? 青木繁描く日本の「女神」たちはどうなのか? ちなみに、佐伯祐三Click!が描く「ヴィーナスはん」は、はたしてどちらの範疇にあてはまるのだろうか? 東京近美の「ぬぐ絵画」展は、しあさって1月15日(日)まで。
◆写真上:東京メトロの車内広告は、重ねて文字などが印刷されタテ型ポスターとして活用されている。もとの印刷が消されないのは、企画した女性を含めた東京近美の抗議姿勢だろう。
◆写真中上:左は、1907年(明治40)に制作された黒田清輝『野辺』。右は、同作の画稿。
◆写真中下:上左は、1901年(明治34)に描かれた黒田清輝『裸体婦人像』。上右は、同年の白馬会第6回展会場で起きた明治官憲による「腰巻事件」写真。下は、明治期の西洋画家たちを描いた一ノ関圭『裸のお百』(小学館/1980年)の中の「腰巻事件」シーン。
◆写真下:1897~1899年(明治30~32)にかけて制作された黒田清輝『智・感・情』だが、1897年(明治30)に開かれた白馬会第2回展の出品時には未完だったと思われる。
この記事へのコメント
hanamura
niki
時代や個人によって分かれるところですね。
それにしても、中吊りにすると痴漢が増えるかも・・・というのは、
必ずしもそんなことはない!!!と言い切れないところが、
いかにも裸体=卑猥ととらえるアジア的な発想で、否定できませんね。
セザンヌの裸婦を見てもどうということはありませんが、
あの体型が魅力的とされた時代もあったのですねw
ChinchikoPapa
「ヴィーナス」はよくて『野辺』がダメという、東京メトロの線引きの眼差しに、なんとなく笑ってしまいますね。わたしも、『野辺』はとてもエロいと思いますが、同じ美術でも「エロい」「エロくない」と決めている審査の眼差しが、どこか滑稽に感じるのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
異性の裸体に関していえば、「無関心の美」と「卑猥な美」とは本質的につきつめれば、根はどこかでいっしょだと思いますね。「これは美術であって猥褻物ではない」と言い切れないのは、異性から見た裸体の美しさと卑猥さがどこかでつながっているからで、卑猥さも含めて美しいと感じる目を、人間は異性に対して持っているからだと思います。
東京メトロが、もし『ヴィーナスの誕生』の全裸は「卑猥」ではないけれど、『野辺』の半裸は「卑猥」だと判断したとすれば、どこか古典的なヨーロッパの美意識を体現している・・・といえるでしょうか。でも、その線引きをするために・・・
「これはエロいからダメだよ」
「でも、まがりなりにも黒田清輝の作品ですよ」
「いや、だめだ。エロエロ」
「たしかにムラムラしますけどぉ」
・・・とか審査して、掲示の可否を決めている東京メトロさんの審査現場を想像すると、ついおかしくて噴き出してしまうのです。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
kako
まあ、しかし、そもそも、猥褻で劣情をもよわさせないヌードに何の価値があるのかと、私は思うのですが(じゃなきゃ、脱いだ女性も、その甲斐がないじゃないですか)。
しかしながら、やはり、通勤電車の中で劣情をもよおされても困るので、東京メトロの判断は妥当なのでは…? と、一女性としては思います。
というわけで、「これは、地下鉄には貼れない」と判断された方が、その絵の価値は高いってことじゃないの? とも思うのですが。どうでしょう…?
明日、ちょうど時間ができたので、私も近代美術館に行ってきまーす!
ChinchikoPapa
なんやらこの記事、ほんま、東京近美の営業みたいになってまんがな。気ィつけていっとくなはれや~。もしかして、東西線が方向転換しはって、『野辺』が車内にぎょうさん貼ってあったら教えとくなはれ。w
わたしはどちらかといいますと、車内掲示を拒否するほど、それほどまでにエロいとは感じないのですけれど、まあ少なくとも石膏像を描いたような西洋のヴィーナスよりは、血が通った生身の人間っぽくは思います。
このあたり、「エロい」か「エロくない」かは、個々人の人生経験をベースにした受け止め方は千差万別ですので、むずかしいところではありますね。ただ、わたしは東京メトロの「線引き」の経緯を想像すると、やはり想像といいますか妄想が限りなく拡がって、筆がどんどんあらぬ方向へすべっていってしまうのでした。ww
tree2
「ヴィーナスの誕生」や「ミロのヴィーナス」はあまりにもよく知られ、陳腐化して、記号のようなものなので、感情に訴えないと判断されてきたのではないですか?
「野辺」が感情に訴えると判断した人は、「野辺」を新鮮に感じたのでしょうよ。
ChinchikoPapa
たぶん、『野辺』は見馴れていないため新鮮で、審査担当の胸にグッときたのでしょうね。w 子どもの視線は、見馴れていない「ヴィーナス」たちも当然、新鮮に映るでしょうから、そう考えますと東京メトロの掲示可と掲示不可の境界線は、あくまでも「大人の目線」・・・ということになるのでしょう。
あるいは、どこかに「既成掲示表現集」というような参考資料があって、過去に地下鉄を問わず電車やバスなど交通広告で採用されたビジュアルやイメージ表現を参照でき、それに事例のないビジュアルは避けたほうがいい・・・というような、審査の“慣習”でもあるのでしょうか。w 広告分野のデータベースは、けっこう充実してきていますので・・・。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
kako
本日の近代美術館は、ほどほどの入りで、とてもいい感じでした。久々に、小出の『裸女結髪』にも会えたし(ガラスケースに入っていたのが残念ですが)、熊谷守一の初めて観る絵がたくさんあって、嬉しかったです。15日までなのを忘れていたので、Papaさんが書いてくださったおかげです。明日は、熊谷守一美術館にでも行ってみます。
*件のポスター、私はとても気に入ったので、「これ、販売していないんですか?」と聞いてみたら、「あんまり数を作らなかったみたいで、販売していないんです」とのことでした。地下鉄構内に貼られていたら、剥がしてきたんですけど(犯罪?)、残念ながら、やはり、東京メトロは初志貫徹したようでした。
ChinchikoPapa
『野辺』は、ちょうど女性の胴体にまたがっているような画家の視点ですが、肌のピンク色からいわせていただきますと、『智・感・情』の『智』(右側)と『情』(左側)のモデルの、ほのかに赤い足先のほうが、よけいにエロい感じがします・・・って、いったいわたしはなんの話をしているんでしょう。^^;
小出作品や熊谷作品の一部のほか、意外に素晴らしかったのが萬鉄五郎『もたれて立つ人』(1917年)の、真っ赤な女性の抽象画でした。やはり、図録の写真からはうかがい知れない、実物ならではの迫力と美しさですね。あんなにきれいな画面だとは、思ってもみませんでした。
車内広告は、1車両に1~2枚ほどで10枚ちょっと、それを全東西線の電車に掲示したとしても数百枚ですから、印刷量としてはたかが知れてますね。でも、あまった広告(ポスター)を頒布すれば、元がとれるでしょうに・・・と思うのですが、おそらくそういう発想は東京近美ではしないのかもしれません。w
銀鏡反応
ChinchikoPapa
東京近美が車内広告の掲示を拒否されたのは事実ですが、東京メトロ側はその理由をあくまでも公表していません。したがって、ほんとうに『野辺』に対して「猥褻」図版だと判断し、掲示を拒否したのかどうかは基本的には不明です。でも、わたしの推測に、きわめて近い理由からだったんじゃないかと思います。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ヤマノ
ChinchikoPapa
確かに「猥褻」に関しては、騒げば騒ぐ人ほど妄想の程度がひどい人……というのが透けて見えますね。w 絵画や小説など多様な表現を問わず、それから受けた感想やイメージというのは、その人の育ちや思想、人生(経験)を丸ごと反映しているのでしょうから、一種の「鏡効果」といえるのかもしれません。