大田南畝の落合めぐる月見散歩コース。

藤稲荷神狐台座.JPG
 大田南畝(大田蜀山人Click!)というと、狂歌作者として大江戸の(御城)下町Click!で暮らしていたイメージがあるが、牛込御家人町(現・新宿区中町・南町界隈)で生まれ育った生粋の旧・乃手人だ。当時、大田南畝の親しい友人だった滝沢馬琴Click!山東京伝Click!が深川出身なので、なんとなく下町の印象があるのだろう。50歳をすぎてから転居(隠居)したのも小日向なので、南畝は生涯を山手で暮らした。彼にとって大江戸の下町は、遊びにいく息抜きの場であり、友人知人に会いにいく訪問地だったのだろう。それはどこか、永井荷風Click!のライフスタイルにも通じる感触だ。
 早稲田の穴八幡宮(旧・高田八幡社Click!)に、大田南畝たちが郊外の観月会の様子を記録した『望月帖』が保存されているのを、新宿区の資料で知った。でも、実物は一度も見たことがないし、内容もよく知らなかったのだが、昨年、新宿歴史博物館Click!で開かれた「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」展で、ようやく『望月帖』を初めて目にすることができた。
 1776年(安永5)に開催された観月会は、大田南畝たちが西大久保村と柏木村とにはさまれた、百夫街(百人町)にある知人宅に集合()し、そこから北に歩いて落合地域へと出発している。のちに戸山ヶ原(西戸山)と呼ばれるエリアの西端、北へと向かう戸塚村と柏木村にはさまれた街道を歩いて、ひとつめの月見ポイントである小瀑橋(小滝橋)へと向かっている。
 一行は、『望月帖』の挿画で見るかぎり、総勢6名ほどだったらしい。全員が二本挿しの武家のように見えるので、おそらく南畝がつとめる幕府勘定所の御家人仲間だったのだろう。神田上水に架かる小瀑橋(小滝橋)をわたると、今度は中野村と上落合村の境界に通う街道筋へと入る。現在の早稲田通りに相当する道筋だが、この地域では上落合村と中野村とを分けるこの街道が、大江戸(おえど)の府内と府外とを分ける朱引きの境界にもなっていた。左手には、のちに華洲園Click!(のち小滝台)が拓かれる小高い丘が見え、一行はほどなく右手(上落合村)の道へ入っただろう。
望月帖1.jpg 望月帖2.jpg
望月帖3.jpg
望月帖4.jpg
 昔の位置にある月見岡八幡社Click!を左手に見て、泰雲寺Click!の山門前をすぎたころに、次の月見ポイントである落合村の「酒壚」が見えてきただろうか。あるいは、その名のとおり月見岡の八幡社境内近くに「酒壚」はあったのだろうか。『望月帖』では「落合村」としか書かれていないので、月見ポイントである「酒壚」()が、そもそも上落合村にあったのか、それとも下落合村にあったのかは不明だ。挿画を見ると、田んぼの真ん中にある茶屋のような構えの家に休憩しているので、おそらく目白崖線の下、神田上水あるいは北川Click!(妙正寺川)沿いの、上落合村のどこかではないかと思われる。挿画に見える“山並み”が、丘の連なる目白崖線だろう。
 ここで表現された「村」という概念だが、いわゆる行政地域を意味する共同体としての村落ではなく、人家があり人々が暮らしている「地域」や「界隈」ぐらいの意味合いで使用されていると思われる。『望月帖』では、「落合村」の次に「東山村」にも立ち寄ったことが記されているのだが、江戸期を問わず落合地域とその周辺に、現代まで「東山村」という村名は存在していない。すなわち「落合村」は北川(妙正寺川)と神田上水が落ち合うあたり一帯のことであり、神田上水に架かる比丘尼橋(西ノ橋)をわたってたどり着いたらしい「東山村」()は、下落合村にある東山藤稲荷Click!の界隈、すなわち氷川明神社の東側にある御留山Click!山麓の丸山一帯を指しているのだろう。
上戸塚村絵図.jpg 上落合村絵図.jpg
下落合村絵図.jpg
望月帖5.jpg
 大田南畝が、下落合の東山藤稲荷界隈を気に入っていたらしいことは、のちに同社の神狐像の台座背面に、自身の筆で揮毫していることからもうかがえる。晩年に小日向へ移ってからの揮毫と思われるが、台座には「世話人/蜀山人書/良夜/藤次郎/庄助/小日向/石工勘介」の字が確認できる。南畝は「良夜」と書いているので、『望月帖』に書かれた観月会を思い出しながら揮毫し、小日向の石工・勘介に字を彫らせたのかもしれない。
 おそらく、神田上水沿いを歩いて御留山の下までやってきた一行は、田畑が拡がる藤稲荷社の麓あたりで月を鑑賞したのだろう。そのまま、神田上水と並行して通う雑司ヶ谷道Click!を歩きつづけ、一行はほどなく下高田村へと抜けていった。そして、高田氷川社や南蔵院から最終の月見ポイントである面影橋(姿見橋Click!)の上に、6名は腰を下ろして酒を酌み交わした様子が描かれている。面影橋で一行が月見をしている挿画()は、遠景に下落合の御留山が描かれており、安藤広重が制作した『名所江戸百景』Click!の第116景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」Click!とまったく同じ構図だ。ここで『望月帖』の観月会は終了しているので、おそらく幕府の高田馬場Click!(たかたのばば)をすぎたあたりで一行は散会し、それぞれの自邸や組屋敷に帰っているのかもしれない。
牛込馬場下町絵図.jpg
藤稲荷1955.jpg
角筈十二社手水鉢.JPG 藤稲荷神狐像.JPG
 1776年(安永5)の落合観月会から3年後、1779年(安永8)の8月13日~17日にも、南畝は幕府の高田馬場にあった茶屋「信濃屋」で5夜連続の観月会を開いている。このときの参加者はなんと70名にもおよび、たいそうにぎやかな月見だっただろう。
  月をめづる夜のつもりてや茶屋のかかも ついに高田のばばとなるらん
 信濃屋の女将を、さっそく「婆ァ」にした南畝の狂歌で、観月会は盛り上がったにちがいない。いまだ江戸中後期の記録なので、落合地域は江戸市中の「落合蛍」Click!ブームになってはいなかっただろう。この時期のホタルの名所は、南畝たちが散会した面影橋(姿見橋)界隈だったとみられる。

◆写真上:東山藤稲荷の神狐像台座に刻まれた、晩年の小日向時代と思われる蜀山人の揮毫。
◆写真中上:穴八幡宮に所蔵されている『望月帖』から、百夫街(百人町)に集合した一行(上左)、小瀑橋(小滝橋)にさしかかる一行(上左)、「落合村」(上落合村の月見岡八幡近くか)で休憩する一行()、「東山村」(下落合村の東山藤稲荷近くか)で月をめでる一行()。いずれも2011年(平成23)制作の「『蜀山人』太田南畝と江戸のまち」展図録(新宿歴史博物館)より。
◆写真中下:江戸末期に作成された「上戸塚村絵図」(上左)、「上落合村絵図」(上右)、「下落合村絵図」()にみる大田南畝たちの観月会散歩コース。は、『望月帖』挿画の「面影橋」。
◆写真下は、江戸時代末の「牛込馬場下町絵図」にみる一行の帰還想定コース。は、1955年(昭和30)に撮影された下落合にある荒れ放題の藤稲荷社。下左は、新宿角筈十二社Click!(じゅうにそう)に残る蜀山人揮毫の手水鉢。下右は、下落合の藤稲荷社神狐石像。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    江戸時代の冬みかんの北限地は、相模国の二宮か大磯あたりだったようですが、みかんの採れるところは暖かいですね。明治以降、避寒の別荘地が拓けたのがわかるような気がします。相模の海辺で育ったわたしは、東京にもどったとき、冬の寒さに愕然としました。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2012年01月06日 10:19
  • ChinchikoPapa

    富来の海岸べりを訪れた70年代半ば、石切り場があったのをよく憶えています。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年01月06日 10:23
  • ChinchikoPapa

    冬の旭川への遠征、たいへんですね。
    nice!をありがとうございました。>tommy88さん
    2012年01月06日 10:26
  • ChinchikoPapa

    夕陽には、平凡な風景でも雑然とした場所でも、美しく化粧して見せてくれる魔力がありますね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2012年01月06日 10:31
  • ChinchikoPapa

    本村八幡や御鷹の道は、何度かブラブラと歩きました。道端の小さなせせらぎにカルガモがいて、のぞきこむとヴァヴァと迷惑そうに叱られました。w nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年01月06日 10:36
  • ChinchikoPapa

    小学校はずっと6年間「4組」でしたので憶えてますが、中学や高校のクラスは想いだせません。(爆!) 最後は「D組」だったかな・・・。nice!をありがとうございました。>nikiさん
    2012年01月06日 10:41
  • ChinchikoPapa

    今年は、少しは明るい年にしたいですね。春からのレース、応援してますのでがんばってください。nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
    2012年01月06日 10:50
  • ChinchikoPapa

    コンサートがはじまる、少し前のざわめきと緊張感が好きですね。ライブハウスの場合は、演奏前に周囲とかわすおしゃべりが楽しいです。nice!をありがとうございました。>マチャさん
    2012年01月06日 14:17
  • sig

    こんばんは。
    ここも江戸かと思えるほどひなびた風景ですね。農民は月など当たり前でなんとも思わなかったでしょうが、大田南畝はさすが風流人で、いかにも都会人ですね。
    2012年01月06日 18:57
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    いつも身近に存在しているものは、いつも接している人間にとっては、なんてことない存在なんでしょうね。きっと、下落合村でも上落合村でも、毎年ホタルは見飽きるほど見て、秋の虫の音はうんざりするほど聴いていたでしょうから、わざわざ江戸市中から物見遊山でやってくる人たちの気が知れなかったのかもしれません。w
    2012年01月06日 20:45
  • ChinchikoPapa

    わたしは氷川明神のおみくじが久しぶりに「大吉」でしたので(7~8年ぶりぐらいでしょうか)今年は少しはマシかな・・・と、ホッと一息ついてます。でも、気を引きしめないと何があるかわかりませんね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2012年01月06日 21:33
  • ChinchikoPapa

    石畳の道が、旧街道っぽくて味わいがありますね。
    nice!をありがとうございました。>八犬伝さん
    2012年01月07日 00:06
  • ChinchikoPapa

    先日、久しぶりにパンへバターではなくマーガリンを塗って食べたのですが、いまのマーガリンは昔のものとはかなり風味が異なるのに驚きました。給食で出たマーガリンの悪いイメージがあって、ずっと避けてきたのですが、当時のものとは別モノのように進化していたんですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2012年01月07日 00:11
  • ChinchikoPapa

    わたしも、きょうあたりから仕事モードに入りましたが、この3連休でまた「気」が抜けそうな気がします。w nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
    2012年01月07日 00:16
  • ChinchikoPapa

    東京都庭園美術館は、どうしても展示されている作品自体に目がいきがちでしたが、建物の建具や装飾調度も“美術品”なんですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年01月07日 13:36
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2012年01月07日 13:37
  • ChinchikoPapa

    東京工業大学(高等学校)の後校舎は、どこか市ヶ谷の陸軍士官学校の校舎に似ていますね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年01月07日 18:36
  • ChinchikoPapa

    きょうは豊洲を歩いたのですが、さすがに吹きっつぁらしで寒かったですね。
    nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
    2012年01月08日 22:26
  • ChinchikoPapa

    確かに、バレエのチュチュのようですね。
    nice!をありがとうございました。>tontonさん
    2012年01月08日 22:32
  • ChinchikoPapa

    旅館でひとり、怖いビデオを見るというのは勇気がいります。w
    nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2012年01月08日 22:44
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2012年01月10日 10:28
  • ChinchikoPapa

    下の子が発熱したので病院で検査したところ、インフルのA型ウィルスが見つかりました。猛威を振るっているようですので、くれぐれもご自愛ください。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
    2016年12月31日 20:56

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