今年から数年先まで、おそらくチェルノブイリのときがそうであったように、食物連鎖などによる本格的な放射性物質の濃縮汚染Click!がはじまると思うのだが、暮れに映画で吉永小百合の顔を観ていたら、彼女が演じたふたりの被曝者の作品(ひとつは恋人が被曝者なのだが)を思い出した。『愛と死の記録』(1966年)と、『夢千代日記』(1985年)の2作品だ。映画にも登場している「被爆者(健康)手帳」(1952年~/「原爆手帳」とも)は、おそらく「被“曝”者手帳」あるいは「被“曝”者カード」と名前を変えて、再び大量に発行されることになるのだろう。しかも、広島や長崎とはケタちがいの数量にのぼるのではないか?
日本は1945年(昭和20)の敗戦以来、とんでもないダメージと負荷を抱えこんでしまい、まったくおめでたくはないのだが、とりあえず生きのびられているので謹賀新年。世の中、景気や経済以前の課題として、原発事故の影響もあり、これからますます少子化が総務省の予測Click!を超えて加速し、健康や人命に関してもお先真っ暗なので、もはやベル・エポック(良き時代)となってしまったころのテーマでも取り上げ、気を取り直して少しは生きる元気の“糧”とすることにしたい。
★
さて、今年最初に取り上げる記事は、街中に展開していた「寄席」「演芸場」だ。江戸時代の後期、1790年代(寛政2~12)になると江戸では落咄(おとしばなし)を専門とする、いわゆる噺家が数多く輩出した。三遊亭圓生や三笑亭可楽の初代が登場し、林屋、柳屋、立川などもほぼ同時に生まれている。それにともない、市中にある寄席の数も増えつづけ、一時の天保の改革では激減したものの、幕末には500~700軒の寄席があったといわれている。つまり3~4町に1軒の割り合いで、庶民が気軽に娯楽を楽しめる場が設けられていたことになる。
最初は、落語の寄席と講談用の寄席とで区別されていたようだが、明治以降になると小規模な舞台の総合演芸施設として、“演芸館(場)”の呼び名が一般的になっていく。そこでは、落語をはじめ、手品、漫才、講釈、講談、舞踊、芝居(寸劇)など多彩な出し物が演じられ、有名な演芸館になると(城)下町Click!の庶民ばかりでなく、芝居と同様に乃手から華族までが通ってくるようになった。
大正期には、東京市外に次々と住宅地が拓かれていくが、そんな郊外の街々にも活動写真館(映画館)とともに、寄席(演芸館)が造られることもまれではなかった。落合地域のお隣り、長崎地域(椎名町)にもそんな演芸場のひとつ、「目白亭」Click!が昭和初期にオープンしている。小川薫様Click!のアルバムには、亭前に開館祝いの花束が飾られた椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)の目白亭を撮影した、貴重な写真が残されていた。(冒頭写真) この写真は、目白亭の看板文字が右から左へ書かれているので戦前に撮影されたものか、あるいは敗戦直後の再スタート時に撮られたものだろう。目白亭の看板は、戦後しばらくすると左から右へと付け替えられている。
目白亭では、落語や漫才・漫談、寸劇、講談、浪曲などの出し物が演じられたと思うのだが、小規模な劇団によるいわゆる新劇(西洋劇など)が上演されることもあったようだ。新劇を観賞するために、わざわざ下町の専用劇場へ出かけるのも面倒なので、地元の舞台で観られないか?・・・というようなニーズも高かったのだろう。演芸場は、江戸期からの芸人の上演場所としてのみならず、明治以降は新劇の小劇場としても機能していた側面がある。
小川様のアルバムにも、目白亭で上演されたとみられる新劇の舞台写真が残されている。白樺の木立ちが見える高原のような書割の前に、3人の人物がなにか打ち合わせをしている。いま風に想像すれば、高原の森をすべて伐採して一大リゾート開発を計画しているディベロッパーと土建業者だろうか? 札束でまどわされた村民たちは、こぞって土地を開発業者に提供しかかるのだが、“熊男”のような大きな山の主が現われ、「てめえら、カネに目がくらんでかけがえのねえ美しい故郷を売っちまうたぁどーゆー了見だ? あん?」・・・とでも諭しているのだろうか、しょげ返った人々が傍らに座っている。おそらく、敗戦直後に撮影された舞台写真ではないかと思われる。
戦後すぐのころ、下町の日本橋・三越で行われていた寄席(演芸会)の様子を、1952年(昭和27)に出版された木村荘八『現代風俗帖』(東峰書房)から、少し長いが引用してみよう。
▼
近頃こゝの名人会へ来る「客」を何階級と云ふべきかは言葉に迷ふが、「ラジオ階級」と云つたならば叱責される(?)かと思ふ。どうもいつもはラジオでちんと家にゐて「芸能」をたのしんで居る人々が、今宵こゝへ集まつたといふ感じがして、この席の観客に限らず、一体芝居(しばや)や催しものの「観客席」はそれぞれに特徴があつて面白いものである。その例に洩れず、この会の風俗は全体としてなかなか活気のある、これは、アプレ・ゲールだと思つた。/----かういふ新規のモードを又一つこゝに馴致したのは、この会の主催側(幕内)の達識に依ると思ふものであるが、先ず第一に会の「一番目」へ狂言を据ゑたところが手際で、これで容れものの吃水線が見る見る深くなり、いまゝでの「有楽座名人会」又は「落語名人会」を離れて、素踊りの(坂東)三津五郎Click!が極く渋く本行に老松を「真打」へ出しても、ガタつかないものとなつた。従来これだけの客数と小屋で若太夫の堀川がかう手一杯に響いたことは、稀だろう。(中略) (桂)文楽のはなしは筋のまつたうな、近頃斯界(しかい)の山と思ふに異存はないけれども、味に矢張り「(古今亭)志ん生」は、どんな席でも、はなしには有りたきものと思ふ。同じ意味合ひで、丸一(江戸神楽)のやることが末廣で見てもこゝでも寸分違はず、高座の芸のいはゆる「ペース」に手堅いには、感伏(ママ)した。(徳川)無声君は全く「名人」の名に小ゆるぎもしなくなつたと思ふ。(カッコ内は引用者註)
▲
戦後すぐに、米国の映画がドッと入ってきて大混雑した映画館と同様に、寄席(演芸館)も長い間娯楽に飢えていた人々が押しかけて大盛況を呈していた。でも、1960年代末ごろから、街中にあった映画館と同様に寄席も次々と閉館していく。木村荘八が書いているように、落語や講談、寸劇などは「ラジオ階級」化、あるいは新たに登場した「テレビ階級」化が急速に進んでいくからだ。
わたしは、親父に連れられて寄席へ出かけた記憶があまりない。記憶の断片から一二度はあったと思うのだが、誰が出ていてなにを観たのかが子どものころなので判然としない。親父の世代も、芝居には足を運ぶが寄席の演芸については、すでに「ラジオ・テレビ階級」化していたのだ。
◆写真上:戦前の開館時、あるいは戦後すぐに再開館した直後とみられる椎名町の「目白亭」。目白バス通り(現・長崎バス通り)に面した、現在の山政マーケットClick!の位置に開館していた。
◆写真中上:目白亭で上演されたとみられる新劇で、おそらく戦後の舞台だろう。この劇の演目や詳細をご存じの方がいらっしゃれば、ご一報いただければと思う。
◆写真中下:上は、戦後に撮影された目白亭で看板文字が左から右へ「演芸場/目白亭」に変わっている。人々が集まっているのは、目白亭のホールでどなたかの葬儀が営まれていたようだ。下は、上掲写真のクローズアップで敗戦直後の目白バス通り(現・長崎バス通り)がとらえられている。幅20mにわたって実施された、戦争末期の建物疎開の跡がハッキリと見てとれる。
◆写真下:上は、1952年(昭和27)に出版された木村荘八『現代風俗帖』の挿画「名人会」より。下は、いまでも浅草で健在な浅草演芸ホール(左)と浅草大勝館(右)。浅草演芸ホールの真ん前には、上落合で暮らした古川ロッパClick!のペナントが下がっている。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sonic
本年もよろしくお願いします。
実は、お時間と機会がゆるせばとってもChinchikoPapaさんにお会いしたいのですけど.....行動範囲は間違いなく被ってます。
私は長谷川利行の大ファンなのです。
ご検討いただければ幸いです。
新年から失礼しました!!
銀鏡反応
さて昭和初期、目白にこんな演芸場があったとは、貴記事を見るまで思いもよりませんでした。まさにあの時代は、落合や目白といった、今は静かな住宅地域も、賑やかな文化演芸の空気がみなぎっていたのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも、sonicさんのブログを拝見してて「かしゃま」以外の記事に、「おや、すごくお近くじゃないかな?」と感じておりました。w
長谷川利行の下落合における足跡は、里見勝蔵との絡みで1927年(昭和2)夏の記録が、いまのところもっとも早い時期のものだと思われますが、おそらくそれ以前からじゃないかと想像しています。その後は、お隣りの長崎アトリエ村の画家たちとも交流しているようですね。
もしよろしければ、今度、近くのカフェ杏奴でコーヒーでもご一緒に・・・。^^
tomohiro.kita@gmail.com
ChinchikoPapa
昨年の暮れに発表された人口の減少率は、すでに総務省の予測を超えてましたね。いつか掲載した減少予測のグラフは、さらに急角度で下落しそうな傾向のように感じます。原発事故もあり、近いうちに総務省が修正予測を出すのではないかと思います。
1945年の夏から66年が経過しているのに、いまだ被曝地域規定のための放射線汚染調査や、被曝認定訴訟が行われている広島や長崎のケースを見るにつけ、これからあと何十年間、子々孫々の代まで事故の汚染や被害を引きずっていかなければならないのかと思うと、めまいがしそうで気が遠くなります。
「目白亭」は、目白駅から1.3kmほど離れた目白バス通り沿いの長崎(椎名町)地域にありましたけれど、おそらくより目白駅の近くにも寄席(演芸場)があったのではないかと思います。映画館は案外、観に出かけた方が多いので記憶に残りやすいのですが、寄席というと出かける方がもう少し絞られてくるせいでしょうか、わたしはいままで目白駅付近の寄席の話は聞いたことがありません。もっとも、わたしが不勉強なだけかもしれませんが・・・。
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
目白亭という演芸場があったのですね。小さくて、手作り感がありますが、こういう場所をみると演芸、芝居の本来の姿があるように思います。
ChinchikoPapa
早々に、nice!をありがとうございました。>マチャさん
mwainfo
ChinchikoPapa
こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。
よそ行きの「顔」でなく、また必要以上に強い存在感を主張せず、いかにも街中に溶けこんだ演芸場という感じで、つい入ってみたくなります。
CD制作の様子、楽しく拝読しました。中身のコンテンツも大切ですが、ジャケットデザインもとても重要ですね。ジャケットが秀逸だと、つい欲しくなるクセが昔からあります。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
kako
『絶唱』のほうは、幼稚園児でもだいたいわかるお話でしたが、『愛と死の記録』は、ただぼんやりとした記憶として残っていただけながら、ずっと気になっていて、大人になり、レンタルビデオというものがこの世にできたおかげで、再び巡りあうことができました。原爆後遺症で恋人(渡哲也)が死んでしまった後も、ごく普通に生活していたように見えた若い女性(吉永小百合)が、ある日、ふっと、恋人の後を追うように自殺してしまうというラストに、「私はこんな映画を5歳で観てたのか」と、自分でもびっくり(というより、観せた母にびっくり)でしたが、Papaさんのおっしゃる、後の『夢千代日記』(私は映画版よりNHKドラマの方が好きですが)同様、静かな怒りが作らせた作品だと思います。
はるか昔から、人々は悪政や理不尽な事件、戦争などを題材に、そこに生きる人を描いた優れた作品を生み出してきたように、今回のことも、様々な形で考察され、表現されるべきですね。微力ながら、私も努力を続けていきたいと思っています。
ChinchikoPapa
siina machiko
目白亭の舞台と思われる写真ですが、新宿区歴史博物館の常設展に展示されている新宿ムーランルージュの演劇の舞台場面の写真とよく似ていると思いました。戦前だと思いますが父はだれか関係者に知り合いでもいたのか「ムーランルージュへ顔パスで入っていたんだ」と言っていたのも思い出しました。
NO14Ruggerman
元旦は氷川神社へ初詣に行ってきました。
でも初夢に敷く絵紙をもらってきたのに
敷き忘れてしまいました。
しかも初夢は何を見たのか全く
覚えていません。
ChinchikoPapa
『愛と死の記録』(日活)は、学生時代にTVで観た記憶があります。映画館では、残念ながら見ていないですね。書かれているドームの鉄骨を下から見上げるシーンは、わたしも鮮明に憶えています。
先日、渡哲也がなにかのインタビューに答えて、吉永小百合をあまり強く抱きしめすぎて、彼女がうまくセリフを言えなかった・・・云々というような回想をしているのを見ました。蔵原監督の指示が、とにかく「強く抱きしめてろ!」というようなものだったらしいですね。余命を知った、あるいは知りそうになった人間が帰るところ、それは人だったり場所だったりするのかもしれませんが、その「絆」が形成されるのは人それぞれ異なるのでしょうね。
チェルノブイリによる命の危険を承知で、生まれ育った場所(汚染区域内)へもどってしまったサマショール(帰郷者)たちは、補償金を手に別の街や村では生きていけない人たちでした。子どもたちの甲状腺がんを防ぐため、あらかじめ甲状腺を全摘出して、生涯ホルモン剤を飲みつづける負荷を子どもたちに強いてまで、彼らを故郷につなぎとめた「絆」について考えると気が重くなります。こういう子どもたちは、当然、発がん率にはカウントされませんから、甲状腺がんになった子ども+甲状腺全摘の子どもでは、膨大な数にのぼると思われます。
『わんわん物語』は、映画館で観ていますね。小学生の低学年だったでしょうか、ついでに絵本も買ってもらった憶えがあります。けっこう長い行列に並んで、観たような気がしますね。2本立ての記憶がありませんので、ロードショーではなかったかと思います。
『絶唱』(日活)は、確かわたしも観ていますけれど、映画館ではなかったように思います。なぜかといいますと、日活の上映館へはほとんど行かず、ゴジラ(東宝)とガメラ(大映)ばかりを見てましたので・・・。^^; でも、大きなスクリーンで観た記憶がありますので、ひょっとすると小学校に来た映画じゃないかな・・・と思います。体育館かどこかで観たのかもしれませんね。舟木一夫はともかく、滝沢修の演技が印象に残っています。w
niki
とてもためになることを教えていただいてありがとうございます~^^
古代日本は神話というフィクションのヴェールをかぶってしまっているために、
日本人の文化のルーツを知っていくことはとても興味深いですね!
常陸の国は古代社会でなんらかの特別な土地ではなかったかと思って
いるのですが。
ChinchikoPapa
そして、またまた貴重な情報をありがとうございました。お父様が新宿「ムーランルージュ」と関係がおありだったというのは、非常に耳寄りな情報です。
新宿の「ムーランルージュ」もそうですし、下町にあった小劇場のほとんどは空襲で焼けてしまっていましたから、そこで上演していた劇団は劇場が再興されるまで、焼け残った東京の主に西北部の小劇場や演芸場で、かろうじて仕事をしていたと思うからです。
ひょっとすると、お父様は「ムーランルージュ」に出演していた劇団のひとつとお知り合いであり、そこのメンバーに「目白亭」での仕事を紹介されやしなかっただろうか?・・・という想定ができます。そして、戦後すぐのころに「目白亭」へ来演したのが、いまに残る2葉の写真に写る小劇団なのかもしれませんね。
ChinchikoPapa
わたしは、元旦の氷川さんの行列に怖れをなして、2日にこそこそとお参りしてきました。w 出遅れたのですが、なぜかクシナダヒメ様のお御籤は「大吉」と出まして、ちょっとウキウキ気分で正月をすごしています。
七福神の初夢絵ですが、毎年枕の下に敷いて寝るのですけれど、たいがい見た夢を憶えていない・・・という、情けない年初がずっとつづいています。きっと、ぐっすり寝ましょうという「安眠絵」なのかもしれません。^^;
ChinchikoPapa
常陸は、弥生期から古墳時代にかけて、南武蔵勢力(南関東)とも上毛野勢力(北関東)とも異なる、大きなクニがあったのではないかと想像しています。そのクニは、古墳時代からすでに刀に「反り」を持たせる、いわゆるのちの湾刀(日本刀)の技術を発明しており、現在でも日本ではもっとも古いクラスの湾刀は、茨城県から出土しています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-07-19
この湾刀(日本刀)技術の伝播を追いかけていきますと、目黒(馬畔=馬牧場)や群馬(もっと大規模な馬飼育)が多い関東各地へ流入して、騎馬戦の武器となる太刀へと進化し、一方では東北地方へと影響を与えたのではないかと考えられますね。
そして、古墳期からナラ期にかけて栄えた、日本刀の発祥地といわれますピタ・カムィ(川の主神=北上)地方の舞草(もぐさ)鍛冶と、常陸(ピタ・チ)地方のつながりも、とても興味深いものがありますね。そういう意味では、金属の精錬あるいは加工で、常陸は日本でもっとも進んだクニのひとつだったのではないかと想定しています。
「日本史」(関西史)の一面的(あるいは偏向的)な視座ではなく、関東史を念頭においた眼差しからすれば、南武蔵勢力がベースの将門から鎌倉幕府へとつづく流れ、そして上毛野勢力(北関東)がベースの足利から世良田(徳川)へとつづく流れを土台から支えていたのは、常陸や千葉(チパ=大半島)などでエンエンとつづいてきた史観にもとづく勢力(政治・経済基盤)、そして技術基盤ではなかったかと思います。
ChinchikoPapa
SILENT
かって劇場や小屋に足を運んだのが、今はネットも含め好きな場所にやってくる時代になったんですね。これは横着すぎるし、便利すぎて、心の底から楽しめるものにはならないですね。
ChinchikoPapa
芝居もコンサートもそうですが、やはり生で鑑賞するのとメディアを通じて鑑賞するのとでは、まったく印象が異なりますね。メディアの「フィルタリング」は、CDやDVD(ビデオ)ならではの芸術や表現を生み出してると思うのですが、「人」の匂いや存在感が希薄なぶん、のめりこむ深度が浅いような気がします。
hanamura
しいなまちお・K
地元の70歳代の町会員情報では、戦後まもなく(23年頃)までしか目白亭はなかったらしく、もし昭和10年頃からとしたら、それほど長く営業してはいなかったような?テレビの登場で映画が斜陽になったように、ラジオの普及ということでしょうか(玉音放送を自宅で聞いた人は少なかったのか?)。
ただ、人によって違うのですが、落語や芝居以外に、目白亭で映画「愛染かつら」を観たと自信を持って言う方もいました。
手塚治虫の「トキワ荘物語」には、トキワ荘の近所には、お地蔵さんや、芝居小屋があったと記されていますが、手塚がトキワ荘に入居したのは28年なので、彼が見た芝居小屋は目白亭ではなかった可能性が高そうです。
多田文具店(現在空き店舗)の目の前にも芝居小屋があったという情報もあるので、そちらだったのでしょう。そこは、芝居小屋のあとはパチンコ店になったそうですが、この通りには、二又交番から山政までに、7軒もパチンコ店があったそうです。
私も幼少期(30年代)、12月になると、商店街からジングルベルの音楽がひっきりなしに聴こえてきて、妙な高揚感があったのを覚えていますが、チンジャラチンジャラ、パチンコの音も入り混じっていたのかもしれません。
siina machiko
NO NAME
佐々木千里さんは、「目白映画」と池袋東口(今のジュンク堂付近)にあった「山手映画劇場」のオーナーでもあり、映画興行組合の要職にもつかれていました。千里さんいうそう多くはないお名前からみても同一人物に違いないと思います。
洛西館は戦後、「目白松竹」となり、その後目白通りの目白映画(後の「目白東宝」)の場所に移転したという説もあり、洛西館の成り立ちにも佐々木さんが関わっていたのもしれません?
ChinchikoPapa
こちらの界隈では、街中のちょっとした映画館や演芸場は皆無ですね。高田馬場から早稲田にかけては、それでも小規模な映画館や名画座がいくつかあったのですが、いまや1館だけとなってしまいました。演芸場にいたっては、わたしの記憶する限り見たことがありません。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>opas10さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしの手元の地図でも、1960年代にはもう「目白亭」がないですから、長くて10年前後しか開館していなかったのではないかと想像しています。しかも、空襲警報が鳴りつづける戦争末期は、当然、営業をつづけていたとは思えませんので、実質はもう少し短そうですね。
「目白亭」で映画『愛染かつら』が上映されてたかもしれない点、わたしも「なんでもあり」の演芸場だったような気がします。掲載しています葬儀の写真ですが、街中にある舞台を備えたこのような施設は、規模の大きめな冠婚葬祭用のスペースとしても活用されなかったか?・・・という想定ができますね。経営が苦しい際は、近くにある映画館の向こうを張って、舞台へ銀幕をたらしたかもしれません。
それとも、「目白亭」の館主でも亡くなった際の葬儀、まさに1948年(昭和23)に閉館直前の姿をとらえたものなのでしょうか。「♪花も嵐も~踏~みこえて~」(「愛染かつら」のテーマ曲は、親父もときどき口ずさんでました)・・・もう少し営業をつづけてくだされば、地元の方の記憶にもっと色濃く残ったのかもしれませんね。
昔の商店街の雰囲気、懐かしいですね。パチンコ屋の音も、いまほど大音量であくどくはなく、歳末セールをアナウンスする女性の声に混じってジングルベルの音や、現在よりも高い音程のクラクションが鳴ったりする風情に、師走の風が顔をなでるのを感じました。
あともうひとつ、匂いですね。商店街の喧騒に混じって、正月を迎えるのに散りきった落ち葉を燃やす焚火の匂いが、どこからともなくしていました。飼い犬が、師走のあわただしさに落ち着かないのか、やたらに吠えるのもそんな時期でしたね。大掃除をしたり落ち葉掃きをしたりと、ネコの手も借りたい忙しさなのに、いつの時代でもネコはなんにもしてくれませんでしたが。w
ChinchikoPapa
ちょっと、面白い展開になってきました。お父様の「ムーランルージュ新宿座」にかかわるお知り合いが同座の誰かであり、佐々木千里とも密接につながっていたとしますと、「目白亭」はかなり演劇色の強い出し物が多かったのではないか?・・・という想定ができます。
しかも、豊島区とゆかりが深そうな、そして演劇や映画に関する興行のプロだった、佐々木千里の影がチラチラしているということは、椎名町界隈の映画館や演芸場の成立には、実は水面下で資本や経営・事業、あるいは上演・上映のコンテンツなどが、多少なりともつながっていたのではないか?・・・とも想像することができます。
いずれにしましても、新宿の「ムーランルージュ」は太平洋戦争がはじまる前(昭和10年代)には人気が下がり気味で、戦後にはすたれてしまいますので、そこに出演していた劇団員たちの仕事をどうするのか?・・・という課題とともに、街中に展開していた演芸場のネットワークに、戦前あたりから着目していた・・・という可能性も考えられますね。
ChinchikoPapa
さて、とても興味深い「ムーランルージュ新宿座」の佐々木千里の名前が、浮上してきました。わたしは、彼が豊島区の区議会議員になっていたとは、いままでまったく知りませんでした。
「洛西館」や「目白亭」とのつながりとともに、これはまちがいなく、しいなまちお・Kさん地元のテーマですので、バトンタッチしたいと思います。^^ 佐々木千里は、池袋町あるいは長崎町の出身なのかもしれませんね。非常に興味深い、池袋・椎名町地域の演劇史、あるいは映画(館)史の流れが見えてくるのではないかと想像しちゃいます。
なにかわかりましたら、ぜひご教示ください。よろしくお願いいたします。
ももなーお
私のブログは浮世のことで忙しくさぼりがちです。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>thisisajinさん
ChinchikoPapa
仕事が多忙で、お元気なのがなによりです。w 本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
しいなまちお・K
稚拙ですみませんでした。
ChinchikoPapa
それは残念ですね。めずらしい名前ですので、子息とかの可能性もなさそうでしょうか。わたしも、ネットでだけですが少し調べてみて、1950年(昭和25)豊島区の法人会をスタートした方のようですので、年代的にも合いそうだ・・・と思っていたのですが。
siina machiko
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ちょっと残念な展開となりましたが、こういう観点や切り口、ある意味での問題意識が、とっても重要なポイントになりますのは、このサイトをやっていて常々感じていることです。
なんとなく、どこかで憶えている表現とか、どこかで読んだ文章の記憶とか、なんとなく既視感のある名前とか、どこか不自然でおかしな感覚とかが、思わぬ突破口になって新しい史的事実が判明し、新たな地元の記憶が次々と掘り起こされることが、ままありますね。
わたしは、「佐々木千里」というような、男性にとってはめずらしい名前の人が、なんで戦前から戦後にかけての同じような時期に、きわめて近接した地域で活動していたのか?・・・というのが相変わらず疑問に思います。ほんとうに、お互いが知らなかったのかどうか、とても気になりますね。
sig
「目白亭」。「洛西館」と並んで、いい感じですね。
<新劇舞台2>はコスチュームから見てロシアの物語のようですね。
この写真の当時から私の高校時代まで、プロレタリア演劇の流れで、プーシキンの「コーカサスの虜」とか「大尉の娘」などがよく演じられていました。
大男は熊の毛皮を羽織っていますが、チェーホフに「熊」という作品がありますね。
ChinchikoPapa
貴重な情報をありがとうございます。確かに、街中の小劇場で上演される新劇は、チェーホフかゴーリキーか・・・というような時代がありましたから、その公算が高いのかもしれません。ということは、やはりロシア演劇の上演が可能になった、戦後すぐのような感触を持ちます。
画面を見ますと、コサック帽のようなトルコ帽のような^^;ものをかぶってますので、モノがない敗戦直後にできるだけロシアっぽい雰囲気を出そうと、四苦八苦した結果なのかもしれませんね。中にはロシア人になりそこねて、イノシシ猟師みたいになってしまった役者もいそうですが。w