落合地域や長崎地域で撮影された、小川薫様Click!からお借りした写真類Click!には、記念写真Click!とは別にまるでドキュメンタリーのワンシーンを切りとったような、ドキッとするスナップ写真も含まれている。この「ドキッ」は、記念写真から感じられるような、ある時代のとあるイベントを記録した過去の画像・・・として、いまの視点から落ち着いて位置づけられる情景ではなく、そこに写っている人々がいまにも動き出しそうな、現在と変わらない地面に立ち、同じ空気を吸っているようなリアリティを感じることができるスナップならではの感触だ。それは、このサイトであまたご紹介している佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!にも通底する感覚でもある。
冒頭の写真(①)は、椎名町(旧・長崎町)のどこかの原っぱで相撲をとる子どもたちの写真なのだが、背後に見えている木組みはなんだろうか? 原っぱの樹木には、ちゃんと竹柱が添えられ手入れをされているので、公園のような風情も漂うのだが遊具のひとつで運梯のようにも、また大きな立て看板の基部のようにも見える。原っぱの向こうにはお屋敷が建っているが、正面の和館が母屋で樹木に隠れている右手の建物が洋館だろうか。1947年(昭和22)の長崎地域を撮影した空中写真で、この原っぱとお屋敷を探したのだが見つからなかった。ひょっとすると、建物疎開で壊されたか、あるいは空襲で焼けてしまった風景かもしれない。
目白バス通り(現・長崎バス通り)から、少し入った道筋をとらえた写真も何枚か残されている。降雪のあと、上原邸の2階窓から眺めたと思われる雪景色(②)や、同邸の前で雪かきをしている様子を写した写真(③)もある。おそらく、1941年(昭和16)以降の撮影とみられるが、みんな少しピントがボケ気味なのが惜しい。上原邸の門前には、近所の子どもたちが作ったのだろう、いくつかの大きな雪ダルマらしい球体が見てとれる。また、上原邸前の道路の突き当たりは目白バス通り(現・長崎バス通り)であり、通りの西側に並んでいた当時の商店街が見えている。
つまり、目白バス通り西側の商店街が、幅20m前後にわたって建物疎開Click!をさせられる以前に撮影されたものであり、1943~1944年(昭和18~19)にかけての冬季の公算が高い。画角には入っていないが、道路の左手には演芸場「目白亭」(現・山政マーケットClick!)があるはずだ。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
もう1枚の雪景色(④)は、現在も開業している刑部医院の道筋から、やはり西側を向いて目白バス通りの方角を写したものだ。左手の建物(旧・落合長崎電話局の一部か?)は雪降ろしでもしたのだろうか、屋根へ向けて長いハシゴが架けられている。右側の立体看板には「刑部内科医院」の文字が見えているが、戦後、同医院のすぐ真裏に建てられたアパート(椎名町5丁目2253番地)が、マンガ家たちが集合することになる「トキワ荘」Click!だ。「トキワ荘」の玄関は、この道路に面した細い路地を入ったところにあったのが、1955年(昭和30)の「椎名町戸別案内図」では、刑部医院と同様に道路へ面しているように誤って描かれている。路地の入り口は、写真右手の「刑部内科医院」の板塀が途切れた向こう側あたりにあった。
写真⑤は、季節を変えて目白バス通りから入るどこかの道路を写したものだと思われるが、場所がイマイチ不明だ。④の刑部医院の看板と電柱が右手に写っているようにも見えるのだが、そうだとすると左手の建物前に建てられた電柱の位置が変更されており、④の写真とは時期的に少しズレるだろうか。看板が直射日光を受け、ハレーションを起こして読めないのが残念だ。
写真⑥は、明らかに戦時中の写真で、富士美写真館Click!近くの家の前に立つのは小川様の父・上原亀吉様だ。このあと、1945年(昭和20)5月25日の空襲では、裏手に建っていた家が焼夷弾の直撃を受け、その衝撃でこの家には住めなくなってしまったそうだ。国民帽にゲートル姿で、半袖のシャツを着ているところをみると、1944年(昭和19)の夏あたりに撮影されたものか。
写真⑦も、戦時中に撮影されたものだ。防護団か隣組の集まりでもあったのか、上原家の玄関から人々が次々と出てきており、門前で談笑している様子から散会したばかりの情景だろう。左手の国民服姿の男性は、自転車できて参加していたようだ。右手の男性は防寒コートを着ているので、時期的には1944年(昭和19)の晩秋だろうか。右端の男性は、集会中の緊張あるいは我慢から解放されてホッとしているのか、タバコに火を点けようとしている。街の中から、鮮やかな色彩が消えてしまい、くすんだカーキ色や濃紺のモンペばかりが目立つ時代のワンシーンだ。
※siina machikoさんより、写真の人物たちについてコメントが寄せられています。ご参照ください。
今回ご紹介した写真類には、いかにも取り澄ました記念写真からは感じられない、時代の匂いや人々の息吹きが強く感じられる。そこに漂う空気は、「玉砕」や「転進」だらけになってしまった大本営発表の新聞記事を横目に、明日をも知れぬ戦争の影におびえ、緊張がつづく日々の中にもなんとか無事に明日を迎えようとする街の想いが、あるいは人々の願いがこもっているのかもしれない。そのような状況下で、写真にとらえられた子どもたちの元気な姿や声が、なんとか未来をかろうじて感じとることができる、“救い”になっていたものだろうか。
◆写真上:①椎名町界隈のお屋敷前の原っぱで、元気に相撲をとる子どもたち。
◆写真中上:上は、②③上原邸周辺の椎名町5丁目界隈の雪景色。下左は、④降雪後の椎名町4丁目(左手)と5丁目(右手)の境界道路で、戦後の地番では椎名町5丁目2252~2253番地(右手)あたり。下右は、1974年(昭和49)の空中写真にみるトキワ荘界隈。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)の「椎名町戸別案内図」にみる刑部医院界隈。中左は、⑤目白バス通り(現・長崎バス通り)から入ったいずれかの道路だと思われるが不明。中右は、⑥椎名町6丁目にあった富士美写真館近くの情景。下は、⑦戦時中の上原邸前の情景。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみるかろうじて焼け残った椎名町5丁目・上原邸界隈の様子。下は、1955年(昭和30)の「椎名町戸別案内」にみる同界隈。
この記事へのコメント
niki
このあたりがあの有名な「トキワ荘」あたりなのですね!
確かに、なにか目立つ者はなさそうですが、古い時代の
当時をあらわしていて、いい味が出ていますね。
ChinchikoPapa
「椎名町」というのは独特な街でして、江戸時代でも下落合村と長崎村の境目にあって、「町」を名乗っていた地域です。ちょうど、大久保村と角筈村の境目に、「百人町」があったのと似たような位置づけですね。
この記事に掲載した場所よりも、もう少し東南東(山手通りと目白通りの交差点界隈)が江戸期から「椎名町」と呼ばれているのですが、おそらく明治期に電気が引かれたのも、かなり早くからだったと思います。少し前に電柱について書きましたけれど、下落合の電線は旧・椎名町あたりから電柱を連ねて引かれているようです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
kiyo
歩きと自転車も併用しての行動範囲としては、中野~中野坂上~東中野~下落合~東長崎(椎名町)でした。
下落合の区立中央図書館にも、時々行きましたし、主には、若干近いので西落合図書館に良く行きました。
山手通りの椎名町のところから、旧目白通り沿いは、主に車で通り抜けるのに、未だによく通ります。
その旧目白通りと新目白通りとの斜めの交差点となる落合南長崎駅付近も、歩いてよく行きました。
角近くのCOOPにも、中井のCOOPに無い品揃えを求めて時々通っていました。
どこに行っても、意外に歴史を感じたのですが、ChinchikoPapa さんの記事を拝見するたび、やっぱり、
ヒトに歴史アリ、街に歴史アリだなぁと、痛感します。
そして、離れてみて、いいところに住んでいたのだなと思い知らされますね。
ChinchikoPapa
こちらからもTBを差し上げているのですが、いまのところ反映されていないようです。RSSの相性が悪いのかもしれません。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
http://www.youtube.com/watch?v=rXLB32n6lq8
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
西落合のCOOPに行かれてたんですね。わたしも、学生時代にはアパートからときどき日用品を買いに歩いていきました。当時あのあたりは、スーパーというと椎名町駅前のサミットストアと西落合のCOOP、それに目白通り沿いにあった小さな丸正しかなく、あとはほとんど地元商店街(目白通りと長崎バス通りです)での買い物でした。
当時、下宿していたトキワ荘のような雰囲気のアパートには、自転車置き場がなくて利用できず、どこへ行くにも徒歩でした。自転車があれば、もっといろいろなところへ出かけられたと思うと、ちょっと残念ですね。
ほんとうに、このあたりの街々は、調べれば調べるほど面白くて、まったく飽きが来ないです。佐伯祐三から赤塚不二夫まで語れる街は、早々ほかにはなさそうですものね。w
siina machiko
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
⑥の写真がお父様の件、お見逸れして失礼しました。さっそく文章へ追加しておきました。でも、かなり厳しいお顔をされていて、他の写真に写るお顔とは別人のように感じてしまいました。やはり戦争も末期に近いので、日々かなり緊張をされていたものでしょうか。
他の写真に写る人物につきましても、こちらのコメント欄を参照いただくよう、記事中に註釈を挿入させていただきました。
⑦の写真でお父様が羽織られているのは、おっしゃるとおり半纏のようですね。左側の自転車の男性は通常の国民服の上着、中央の男性が防寒コートのように見えます。確かに、お祖母様が手拭いで頭をおおい、お母様(上原トシ様)でしょうか、手拭いを頭から外して髪を直されている様子をみますと、引っ越し作業を終えた直後の情景のように見えます。
お父様は、寄り合いの緊張から解放されて一服しているのではなく、やれやれ被災したあとの引っ越しが無事済んだと、一服されてるところなのかもしれませんね。w でも、焼夷弾の直撃を受けずに、なによりでした。
hanamura
しいなまちお・K
恥ずかしながら、うちの「トキワ荘通り」ブログを見て気付いた次第。管理人にも感謝です。
小川様の刑部医院の写真は、私も温めていたのですが、先を越されてしまいましたw。
来年は、ラミネートの機械を購入して、トキワ荘通り(通称ですが、とうとうゼンリンの地図にも載ってしまったそうです)の街路灯に懐かしい写真を貼りまくる予定ですので、どうか目白亭の写真は封印お願いいたします。
原っぱ(空地)の写真にトキワ荘作家の象徴といえる土管が写っていないのは残念ですが、要町にいた児童漫画のハシリの帷子(かたびら)ススムという漫画家の戦後すぐの作品に土管を見つけて、やはり土管漫画のルーツもここだったことを誇りに感じております。
ChinchikoPapa
わたしは学生時代に、同級生がトキワ荘のごく近くにすんでいたのですが、遊びに行きそびれてしまいました。その後、すぐ近くにわたし自身がアパートを借りて住んだのですが、当時はすでにマンガに興味がなかったせいか、うかつなことに訪ねそこねています。目の前の商店街を、何度も往復していたのに・・・。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
実は・・・、「目白亭」についてはお正月の記事として、すでに書いてアップロード済みだったりします。(爆!) でも、ご安心ください。
「目白亭」の詳細な取材をしているわけではありませんので、半分は東京の寄席(演芸場)をテーマとし、寄席通いをつづけた東日本橋の木村荘八(洛西館へ河野通勢を探しにやってきた岸田劉生の親友です)の視線をご紹介する内容になっています。w もうひとつ、東京の郊外へ拡がりつづける活動写真と演芸場という切り口もチラリと添えてみました。
「目白亭」の成立や、その具体的な演じ物などにつきましては、ぜひ近々そちらのサイトあるいは資料でご紹介いただければと楽しみにしてます。
それから「土管」の原っぱ、懐かしいですね。大きな下水管を、地下に埋設するための工事が近づくと、近くの空き地に土管(コンクリート管)がよく置かれていました。昔は、道路端に下水溝があるのが普通でしたから、それだけでは下水の量をまかないきれなくなった1950~60年代の住宅街で、よく見られた情景なんでしょうね。
しいなまちお・K
楽しみにしております!
こちらも地元取材記事をなんとかまとめておきます。
それにしても、「洛西館」、喫茶店など大正期からの椎名町界隈の文化は、今よりよっぽど豊かだったので…
そういえば小川様のご実家だった所(上原様)の隣には「ヒカリビリヤード」としっかり地図にも載っていますね!目白通りの浅田飴の裏の方にも昔ビリヤード場があったのを覚えています。ほんとに今では考えられません。
sig
ほんとうに、取り澄ました整列写真ではない、スナップ写真ならではのリアリティを感じますね。
トップの写真のやぐらはバスケットボールのリングが付いているのかもしれませんね。ちょっと高すぎるかな。地面は刈り取りが終わった田のような感じですね。晩秋にはまた穂が15センチほど伸びて、こんな感じになるのです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
東京地方は、他の街々に比べて相対的に広いですので、街ごとに地元の文化や言語、風俗、習慣、そして美意識などがそれぞれ少なからず異なりますよね。その少なからずちがっていた「文化」が、マスメディアの発達と大量生産大量消費の時代をへて、どんどん希薄化ないしは「一般」化されて、「東京では・・・」と十把ひとからげかつ大雑把に語られるようになってしまった・・・と感じます。
そこには、比例してその土地ならではの特色ある歴史が忘却されていくという現象を、合わせて生んでいるようにも思えますね。
それでは、やはり「無国籍」ならぬ「無地域」な街角が広がるだけの、得体のしれない“場所”に変わり果ててしまうと感じます。わたしも、「今よりよっぽど豊かだった」という感触は多分に持ってまして、地元を大切にしていた人たちがたくさん住んでいた街というイメージとも重なってきます。落合地域も長崎地域も、「通りすがりの街」にはしたくないですね。w
「ビリヤード」屋さんは、下落合側にもたくさんできまして、どうやら昭和10年前後に大ブームがあったようです。1938年(昭和13)の「火保図」を見てると、目白文化村の中にもビリヤード場があったりして、よほどのブームだったんでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
確かに、バスケットボールのバスケットが付いたボードのポールのようにも見えますね。あっ、戦時中ですから「籠球の籠が付いた板の支柱」のようにも見えます。w ただ、おっしゃるように地面が田畑のような状態ですから、ボールを弾ませるのはちょっとたいへんでしょうか。
記事には公園のようにも見えると書きましたけれど、当時はわざわざ公園を設置しなくても、あちこちに原っぱはあったでしょうから、それもちょっと無理がありそうな想定のように感じます。
SILENT
最近はTシャツ姿で裸の子供を見かけませんね。
原っぱも壊滅しましたね。
ChinchikoPapa
ほんとうに、裸の子どもたちを見かけません。その昔、湘南の海辺に住んでいたころは、別に泳ぐわけでもないのに裸の子がけっこういました。落合地域は、広い原っぱがところどころに残っているのですが、「相続税原っぱ」^^;で立ち入り禁止になっていて、子どもたちを入れてくれません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
ChinchikoPapa
しいなまちお・K
バス通りの南側(洛西館の側)が建物疎開になったのは20年の3月という情報をいただきました。符合しますでしょうか?
その方は仲の湯に戦闘機が落ちた話も当然ご存知でしたが、それが何月の空襲かは聞きそびれました、すみません。
しかし、そのときB29はなんのダメージもなく飛び去ってしまったとのこと。
Papaさんが確認したいことがございましたら、また修理品をおあずかりしましたのでお聞きしておきます。
ChinchikoPapa
長崎バス通りの建物疎開については、まだどなたからも時期についてのお話はうかがっていなかったかと思います。
目白駅近くの目白通りの下落合南側が、1944年(昭和19)の秋ぐらいから暮れにかけて壊され、その際に建物を引き倒すために陸軍の戦車がやってきた・・・というお話をうかがいました。それから西へ、順次取り壊していったとしますと、翌1945年(昭和20)の春ぐらいには、バス通りあたりまで進捗していたのかもしれませんね。
戦闘機の墜落と、学習院のすぐ南側にあった国産電機へB29が墜落したのとを結びつけた経緯は、記事に書きましたとおりわたしの推測にすぎません。池袋・椎名町上空で、もっとも激しい空中戦があったと思われるのは、同年4月13日夜半の空襲と、5月25日夜半の空襲だったと想像しています。特に、5月25日の第二次山手空襲では、B29が14機墜落(うち1機が事故)しており、米軍側の被害としてはかつてない最大のものです。
国産電機へB29が墜落したのは、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲にまちがいないのですが、迎撃戦闘機の墜落は時期が不明のままなんですね。記事にもあるとおり、中沼伸一様がクルクル回転しながら落ちてくる戦闘機の姿を見ていますので、昼間空襲の可能性もあります。
また、今回の目撃証言では、B29が飛び去っていくのをご覧になっており、昼間の可能性がありそうですね。ただし、夜間でも防空用のサーチライトや照明弾・焼夷弾の光、あるいは空襲による地上の大火事などで、B29の銀色の機体がキラキラ見えていた可能性もあります。
もしご確認いただければ、昼間空襲だったか夜間空襲だったかを、お客様にお訊きいただければ幸いです。
うつぎれい
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( 当時、手塚治虫先生の弟子だったしのだひでお氏が、全盛期のトキワ荘を訪れた際の記念写真だそうです。)
ねっ、これを見るとトキワ荘の前の路地も、簡単な鉄条網で隔てられた隣りの相吉さん家の前の路地も、結構広かったって分かるでしょ?
結局この右側の相吉家の路地をギリギリまで大半酒店が買い取って、藤子不二雄両氏が忙しくなって追加の仕事場を借りる頃までに、両方の路地を狭めて真ん中に「うさぎ荘」を立てたということになりますよね?
大山家が大家さんである紫雲荘の右隣が和菓子問屋の月暮菓子店、その右側に道幅2間ずつ程のトキワ荘の路地と相吉家の路地が並んであり、その右隣が刑部医院だったわけです。
NHKの「トキワ荘同窓会」の映像でトキワ荘玄関への細い通路の右側に写っている件のうさぎ荘は、これより後、トキワ荘から少しずつ漫画家が転居し始めたころに建てられ、藤子氏がその1部屋を仕事場として借りたわけです。
紫雲荘はそのさらにあとになってに建てられ、その新築の2階奥右側の角部屋を借りた赤塚氏が仕事場の窓を開けると、トキワ荘の左端から2部屋を借りてた石森氏の部屋は目の前で、ご飯時に赤塚氏はガラリと窓を開け、「おーい石森、メシだよー」と知らせた・・・とあります。
とまあ、やたら詳しいのは、以前にも記した通り私自身がかつて石森先生ん家の押しかけ弟子で、トキワ荘の中でも石森先生についてだけやたらに思い入れが強く、トキワ荘の入口路地は現在のコインランドリーの直ぐ右隣りにあったと確信し続けて調べ続けた結果なもので・・・。
でわでわ
ChinchikoPapa
掲載の写真は、いつごろ撮られたものなのでしょうね?
先の「椎名町戸別案内図」が一般地図ではなく、地元の地図である点がひっかかったわたしは、手持ちの空中写真を調べてみたのですが、落合電話局の西側の区画は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で延焼したのか、1947年(昭和22)現在は焼け野原となっています。
おそらく、このときに刑部医院とその周辺の家々も燃えいてるんでしょうね。火災は、現在の紫雲荘が建っているあたりの小さな森に遮られ、それ以上南へ燃え広がることなく、長崎バス通り沿いの家々は燃えていません。つまり、この時点では、トキワ荘の場所も刑部医院もその北側の家々も、一辺が20~30m四方にわたって、「空き地」だったことがわかります。
1952年(昭和27)にトキワ荘が建設された当時、おそらく刑部医院もすでに再築されて建っていたと思いますが、1955年(昭和30)現在になると、先の「椎名町戸別案内図」の姿となって描かれているわけです。
その後、1960年すぎの空中写真を確認しますと、すでに空き地はどこにもなく、家々がびっしり建ち並んでいることがわかります。そう考えますと、くだんの空き地のある写真は1952年(昭和27)から1955年(昭和30)の間に撮影されたか、あるいは地元の「椎名町戸別案内図」が全的にまちがっているとすれば、1952年(昭和27)から1960年(昭和35)ごろまでの間に撮影された・・・ということになりますね。
1952年~1959年ごろまでの間に、トキワ荘上空から撮影された空中写真が見つからず、最終的な確認がとれていないのですが、もし地元地図がトキワ荘ほどの大きめな建物を誤って空き地の部分=落合電話局材の道に接して描き、またトキワ荘より小さめな相吉邸を路地の奥に確信的に描いているとすれば、地元地図であるにもかかわらず、いまだにやや不可解に感じるしだいです。