少し前の記事になるが、下落合にあった目白中学校Click!の美術教師・清水七太郎Click!を通じて、下落合にアトリエを借りようと物色していた萬鉄五郎Click!のことを書いた。中村彝Click!アトリエにつづき、その近くの下落合584番地に早い時期から建っていた、二瓶等(徳松)Click!のアトリエに決まりかけていたようなのだが、萬鉄五郎の健康が急激に悪化したためか転居できなくなり、アトリエ探しの翌年、1927年(昭和2)5月に彼は41歳で急逝してしまう。
萬鉄五郎が他界した、まさにその年、下落合へアトリエを持ちたかった画家がもうひとりいた。「フーテンとしゆき」Click!こと長谷川利行Click!だ。大正のはじめから昭和初期にかけ、下落合には数多くの画家たちが集合しはじめていた。現在の狭くなってしまった下落合エリアではなく、旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)一帯には、膨大な数の画家たちがアトリエをかまえ、また一時的に住まいを移して暮らしている。長谷川利行も、当時のそんな様子を見るにつけ下落合=「芸術村」のイメージから、自身もその一員になりたかったのだろう。
1930年協会のおもだったメンバーたちも、期せずして下落合やその周辺域に住んでいた。1927年(昭和2)6月に開かれた、1930年協会の第2回展へ『公園地域』、『陸橋(みち)』、『郊外』の3点を出品して入選したため、利行は同協会のメンバーが集っていた下落合に住みたくなったのだろう。また、佐伯祐三Click!のアトリエかどこかで出会ったのかもしれない、洋画家・藤川栄子Click!に利行はぞっこん首ったけだったので、下落合に住めばすぐ南隣りの上戸塚(現・高田馬場)に住む人妻の彼女に、いつでも会えると考えたのかもしれない。
1927年(昭和2)現在、佐伯アトリエから東へ150mほど、曾宮一念アトリエClick!からは北へ50mほどの位置にあたる、下落合630番地の森田亀之助Click!邸の隣り(佐伯が制作メモに記す「森たさんのトナリ」Click!)に住んでいた里見勝蔵Click!あてのハガキに、利行は近い将来、下落合へ引っ越して住む計画を書いて送っている。1927年(昭和2)12月17日付けのハガキから、その全文を引用してみよう。なお、このハガキは1995年(平成7)に開催された『生誕100年里見勝蔵展ー情熱の画家・フォーヴの騎手』展の会場で初めて展示されたもので、そのときが新発見だったものか『長谷川利行全文集』には未収録となっているようだ。ちなみに、当時の長谷川利行は同じく市外の日暮里807番地、寺の境内に建っていた粗末な物置小屋で暮らしていた。
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先夜ハお(ママ)逢ヒ出来ナイノヲ覚悟致シ御訪ノ結果遅クマデ御邪間(ママ)。何ニモ悦バス可キ事ヲ為サズ、色々ノ御恩恵ニ預リマシタ。私。パニチエルハ必ト本気ニ描キ初(ママ)メマス。時ガ来レバ新ラタカニ決定的ニ進ミマス。三十年協会ノ印刷物ハ便宜多キ処心当リモ有之御引受ケ申上テモ良ロシク思ハレマス。先夜ノ処ハ小サイ印刷屋ナノデスガ、ソレモ日時ト鮮活ト廉価トナレバ交渉致シマス。今暫ク我慢下シ置カレマスナレバ、イイ油絵ヲ御目ニ懸ケルコトヲ期待シテ下サイマセ。画業十数年ヲ経テ貴先覚者ニ知辱ヲ忝ウ致シ日本及外国(未定)作家ノ中第一等ノ貴兄ニ接スルコトハ正シク私ノ画生活ノ賜トナリマス。落合村ヘハコノ年末ニ五万円ホド(画商ノ入札カラ、浜口儀兵衛氏ヨリ借用)収入有之バ、速(ママ:即)時移リタシ。独慎(ママ:独身)ノ暮レトヨキ新年ヲ迎ヘマス。二十日スギニ一度御たづね(ママ:たずね)致シマス。
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以前に取り上げた、佐伯作品への評文Click!よりははるかにマトモで意味が通る内容だが、里見勝蔵のことを日本における画家の「先覚者」であり「第一等ノ貴兄」などと、目にあまる“ヨイショ”が書かれた文面となっている。1930年協会展に入選し、里見と知り合いになれたのがよほど嬉しかったのだろう。この時期、フランスの“現場”で最新の表現を吸収して帰国した画家たちは、美術界のいわばアイドル的な存在だったと思われ、利行も里見勝蔵や前田寛治Click!、佐伯祐三、小島善太郎Click!などに憧れたのだろう。中でも里見は、出身地が利行と同じ京都だったので、特に親しみをおぼえて近づきやすかったのかもしれない。ちなみに佐伯はこの時期、二度目めの渡仏をしていて下落合のアトリエには、すでに不在だった。
文面からすると、1930年協会が発行するパフレットないしは図録かなにかの制作を、いい印刷屋を知っているからと引き受けているようなのだが、実際に同協会の印刷物が利行の紹介した印刷屋で刷られたかどうかはわからない。利行は、なんとしても同協会に所属したくて里見を訪問し、のちにオベッカ・ハガキを投函していると思われるのだが、里見勝蔵のほうもそのような利行の思惑を重々承知していただろう。利行にしてみれば、最先端の表現作品を発表して突っ走っていた、1930年協会の画家たちの近くで仕事がしたかったのかもしれない。そのとっかかりが、日暮里から下落合へ引っ越すことだったようだ。利行が里見にあてたハガキからは、そのような彼の「夢」や「想い」が透けて見えてくるのだが、利行へ5万円ものカネを貸してくれる人物などどこにもおらず、下落合への転居は結局、夢物語となってしまった。
1927年(昭和2)11月に、長谷川利行は熊谷登久平や松尾恒夫と3人展「反大調和展」を開いているが、熊谷の証言によれば、利行はしょっちゅう下落合630番地の里見勝蔵のもとへ押しかけ、そのつど酒や料理をご馳走になっていたようだ。里見邸を都合のいいタダの飲み屋か、食堂がわりに使っていたフシも見えるのだが、たかられてウンザリしたであろう里見にもかかわらず、翌1928年(昭和3)の1930年協会第3回展では『瓦斯會社』、『カフェーパウリスタ』、『地下鐵道』、『洋酒場』、『新宿ビーヤーホール』と5点もの作品を入選させている。
師事や兄事した画家のもとへ、盆暮れその他のつけとどけを欠かさず、なんとしても作品入選を働きかける画家たちの話は腐るほど聞くが、さんざん押しかけられて飲み食いでたかられながら(おそらく利行の性癖から考えると、とんでもない迷惑をこうむっただろう)、それでも作品をちゃんと入選させる・・・というのは、あまり聞いたことがないケースだ。それだけ、利行の作品には魅力があったのであり、里見勝蔵をはじめ1930年協会の審査員たちも、それを認めていたのだろう。
◆写真上:森田亀之助邸とは反対側から撮影の、里見勝蔵邸があった下落合630番地の一画。
◆写真中上:左は、1932年(昭和7)に描かれた長谷川利行『赤い少女』で同様の作品は衣笠静夫邸Click!にも残されていた。右は、1935年(昭和10)に制作された同『浅草の女』。
◆写真中下:東京牧場を描いたものだろうか、1938年(昭和13)の同『朝霞のなかの牛』。
◆写真下:左は、1936年(昭和11)に撮影された森田亀之助邸のある下落合630番地で、おそらく里見勝蔵は点線の敷地のどこかに住んでいた。右は、1938年(昭和13)の「火保図」より。
この記事へのコメント
光紀
長谷川利行は何だか絵の具をケチって(実際そうだったんだろうけど)、フォーブは雑で下手糞に描くと勘違いしている印象だったんですけど、一番下の牛の絵は初見でした。
上記の言葉を取り消すいい絵ですね。
やっぱり歴史には『if』はないのですが、アトリエを構えていたらこういう作風からがらりと変化してたのでしょうかね。
そういうことを考えながら夭折した画家たちの天命を全うするということの意味と存在の難しさを感じます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
利行のいかにも“やっつけ仕事”は、絵の具を節約して薄塗りですが、本格的なタブローはけっこう厚塗りで、絵の具をふんだんに使っていますね。実は、きょうたまたま利行の『水練場』を観てきたのですが、画面が巨大なのにびっくりしました。もっと、小さな作品を想像してたんです。
隅田川にあった「水練場」は、親父も水泳の練習をした場所で、空中写真などでも何度か確認していたのですが、利行の作品の『水練場』を観るのははじめてでした。本所の「水練場」の対岸(日本橋側)には、パトロンのひとりだった衣笠静雄が勤めるミツワ石鹸の本社ビルが建っているはずですが、画面からは確認できませんでした。
もうひとつ、その衣笠静雄に譲った『靉光像』も展示されており、こちらは古いキャンバスの上に元の作品の絵具を落とさず、そのまま上から描いてあるのが歴然とわかりますね。靉光の作品の上に、『靉光像』を描いたらしく、元の絵は花の静物画のように見えました。
もし、長谷川利行がアトリエをかまえて、じっくり制作するゆとりができていたら、おそらくこのような「即興」的で勢いのある筆致は、失われていたのかもしれませんね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>八犬伝さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
kako
小出楢重の絵などは美術館に観にいきたい絵ですが、この人の絵は「うちにあったらいいな…」という気がします。
もし今、ご存命でしたら、「あまり高額のお支払はできないんですけど、その代り、うちでシチューなんか召し上がりませんか?」と、ご相談してみたいような…。
普段使いの器などでも、実際に作られた作家さんにお会いして買ったものはとても愛着があるのですが、絵画や彫刻なども、いつか、無名の方のものでも、気に入ったものを、作者の方から直接買えたらいいな…、というのが夢の一つです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも、部屋にさりげなく長谷川利行や佐伯祐三の「下落」作品があったらいいですね。税務署が怖いですが・・・。^^;
「シチュー」なんていったら、きっとたいへんなことになりますよ。毎日通ってきて、ついでに絵を何枚も買わされて、知らないうちに住みついてしまい、「出てってちょうだい!」と追い出さない限り、ずっとたかられつづけると思います。w この人が死去したあと、多くの人たちが「思い出すのもイヤだ」と、なかなか記録や伝記ができなかったぐらいですから。
近いうちに、下落合へ足しげく通う1927年(昭和2)夏の長谷川利行を、物語化したいと考えています。出演は、藤川勇造、藤川栄子、曾宮一念、佐伯祐三、佐伯米子、そして里見勝蔵の予定です。ww
わたしの部屋には、作者から購入したお気に入りの小品が2点、壁に架けてあります。オフィスにも1点、いまから20年ぐらい前に購入した、こちらは40号の大きな作品が架けてあります。いずれも「無名」の方ですが、気に入ったんですね。
ChinchikoPapa
SILENT
新潮社の本に掲載、カステラの箱に書かれた様な絵、好きです。
ChinchikoPapa
向田邦子は、利行作品を持っていたんですね。一時期、岸田劉生が欲しくて追いかけていた・・・というのを、彼女の本で読んだことがありますけれど、高すぎて手がとどかなかったようですが。利行は無事、入手できたんですね。
kako
楽しみにしています。
ChinchikoPapa
どうせたいした記事ではないですから、あまり期待しないでください。
プレッシャーになりそうです。^^;
ponpocopon
赤い少女の表情は興福寺の阿修羅のようですね。魅力的な表情だとおもいます。
ChinchikoPapa
はい、「Papaさん」でどうぞ。w
『赤い少女』は、首に太い筋肉がついているように見えますので、ほんとうに「少女」かな?・・・とも思えますね。阿修羅のごとく「少年」だととらえてもおかしくはなく、このタイトル自体、誰がいつ付加したものなのか?・・・という疑問も湧いてきます。頭部の両側には、ミズラのようなフォルムがあるようにも見えますね。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ツヨさん
sonic
彼に落合は似合わないと勝手に思っています。
土地は画家を作りますね。
ChinchikoPapa
わたしも、利行は落合にまったく似合わないと思います。w どちらかというと、隅田川沿いの向島・浅草・本所・深川あたりですね。たまに、銀座や新宿、そして池袋モンパルナスの盛り場をウロウロ・・・というのが、彼らしいです。
ChinchikoPapa
sig
ボケジャムは、「いや酸っぱいの酸っぱくないの」って言うほど酸っぱいんです。でも、それがボケジャムの身上なんでしょうね。なかなかいい味ですよ。
ChinchikoPapa
やっぱり、酸味がかなり強いんですね。w きっと書かれているように、ヨーグルトへ入れると爽やかな風味になりそうです。あと、生クリームを載せて食べるフルーツパイにも応用できそうですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
新宿の天城画廊時代に「大量生産」していた作品は、かなり出来や質にムラがあったものでしょうか。画面の好みが、大きく分かれるところなのかもしれません。
長谷川利行は、どちらかというと自分から周囲の人々を、どんどん遠ざけていった“きらい”がなきにしもあらずで、自身の性格にも大きな問題を抱えていたのでしょうね。利行が死んで、すでに高名な画家として戦後の美術界では知られており、かなりの年月が経過していた1970-80年代でさえ、展覧会を開こうと利行を直接知る人々に声をかけ協力を求めると、「あの男について関わるのは、二度とゴメンだ」といって協力を断った人たちが、いまだたくさん存在していた事実を美術界の方から聞いています。
生前は、友人知人をたいせつにせず不誠実を絵に描いたような性格で、周囲の人々からいわば蛇蝎のように忌み嫌われていた状況が、20世紀の末まで尾を引いていたということなのでしょうね。
熊谷明子
私は熊谷登久平の次男の嫁でございます。
熊谷登久平が書いたという長谷川利行がしょっちゅう里見先生宅に出かけていたという文章はどちらにありますか?
一回目は登久平とお伺いし、一升瓶三本近くあけ、その後は減らされていたというような記述はありますが、そのことでしょうか?
登久平の直系は夫で終わるので今色々調べております。
ご教示頂けると幸いです。
ChinchikoPapa
長谷川利行が1930年協会展に出品しはじめたのは第2回展(1927年)からですが、当時、下落合とその周辺域には同協会の会員画家たち(佐伯祐三・里見勝蔵。前田寛治・林武など)が住んでいましたので、利行はまちがいなく通ってきていただろうと思います。また、利行が惚れていた同じく1930年協会展の出品画家・藤川栄子も、隣りの上戸塚(現・高田馬場)にいましたので、よけいに足しげくやってきていたのではないかと思います。
下落合630番地の里見勝蔵アトリエで、一升瓶を3本空けたかどうかまではわかりませんが、里見と利行は同じ京都出身ですので、1930年協会の画家たちの中ではもっとも親しかったのではないかと想像しています。
お探しの文章は、こちらではないかと思います。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2011-12-28
ただし、1930年以降のエピソードだとしますと、里見勝蔵は近所の外山卯三郎とともに下落合から井荻町下井草1091番地(のち神戸町116番地へ地番変更)に転居していますので、そちらでのエピソードかもしれませんね。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2012-10-29