1945年(昭和20)8月15日に戦争が終わると、人々の間には虚脱感と同時に解放感が拡がっただろう。明治政府の時代からわずか78年で、「亡国」の淵へとこの国を追いこんだ大日本帝国が破滅し、それまで「八紘一宇」「鬼畜米英」などと口にしていた学校の教師たちが、墨塗りの教科書とともに「民主主義」を口にする人間に豹変して立ち現われてきた時代だ。
それを目の当たりにした元「少国民」、あるいは若い連中は、いい知れぬ反感と同時に「大人」に対する強烈な不信感を抱いたにちがいない。もちろん、戦前・戦中を通じて単なる妄想にもとづく空想論や感情論ではなく、事実にもとづいて論理的にものごとを思考・判断し、まともな主張をする人々Click!は軍の中Click!にさえたくさんいたのだが、国民の多くは親父のように警察から「非国民」呼ばわりで恫喝Click!され、殴られて沈黙させられるか、特高や憲兵隊に弾圧Click!され投獄Click!されるか、前線に送られて“戦死”させられるか、または当局によって平然と虐殺Click!されていった。
小川薫様Click!のアルバムには、敗戦直後の1946年(昭和21)の若者たちをとらえた、貴重な写真が数多く残されている。前年までつづいた戦争がようやく終わり、もうこれ以上空襲や徴兵、勤労動員の心配がなく安心して眠れる時代に入ったからだろう、みんなとても明るく生きいきとした表情を浮かべていて、戦時中の翳りのある表情とはかなり異なって見える。写真からは、暗い雰囲気が一掃されて、ウキウキした気分が伝わってくるのだ。
下落合や目白町(現・目白)界隈では、敗戦の翌年に目白文化協会Click!が結成され、その青年部である「あらくさ会」Click!では演劇やダンスパーティーなど、若者たちによるさまざまなイベントが企画・開催された。戦争で明日をも知れなかった画家たちは、未来への希望をテーマにした作品を描き、男の子たちは女の子の手が握れるダンスパーティーへせっせと通った。目白駅前にできた喫茶店では、久しく飲むことができなかったソーダ水Click!がメニューに登場し、その立ちのぼる気泡の中には、次の時代への期待や希望が満ちみちていただろう。
目白文化協会Click!と同じような文化会が、お隣りの椎名町でも戦後すぐに発足して活動をはじめている。五郎久保稲荷の氏子組織である、五若会の青年たちを中心にしたグループだ。秋の祭礼などの前後に、多彩な演劇や歌謡会などを企画して上演していたようだ。戦前と異なるのは、若い女性たちもそれらのイベントへ積極的に参加しはじめている点だろう。
それまでは、たとえば椎名町の南、下落合の目白文化村Click!で結成されていた「若人会」Click!では、戦時中に若い男女がともに活動することに対して、軍人家庭から強いクレームが寄せられたという逸話が残っている。従来の規範や道徳観からいえば、ありえないような出来事だったのだろう。若人会では、それでもかまわず無視して活動していたようだが・・・。また、長崎地域の若い画家たちが集ったアトリエ村Click!では、空襲下に演奏会やダンスパーティーが開かれていたが、当然「非国民」視Click!され官憲からは常に目をつけられていた。
椎名町の五若会青年グループは、男女が共同でいろいろな催しを企画・開催していたようだが、1946年(昭和21)現在では女性が神輿を担ぐのが、いまだ禁止されたままになっていたらしい。そのせいか、あえて神輿を担ぐハレ姿の装いをして祭礼を練り歩き、その格好のまま写真館Click!で記念写真を撮る女性たちも現れた。それは「わたしたちにも、神輿を担がせろ!」という、男たちへの言わず語らず無言の圧力になっていっただろう。五若会青年グループでは、自分たちで企画した芝居を上演したり、ときには松竹少女歌劇団から歌手を招いての歌謡舞台もあったようだ。
また、小川様のアルバムには、どなたかが渋谷の日本基督教団・富ヶ谷教会とつながりがあったものか、同教会における礼拝の様子やクリスマス会を撮影した写真も残っている。いずれも、1948年(昭和23)ごろに撮影されたものと思われる。富ヶ谷教会はプロテスタントなので、以前こちらでやはり小川様のアルバムからご紹介した、聖母マリアを強く感じさせる戦前・戦中と思われる写真類Click!は、まったく別のカトリック系教会のものだろう。
戦後の明るい写真とは別に、戦前に撮影されたと思われる上落合2丁目の記念写真も残っている。人物たちの背後には、下見板張り外壁の大きめな西洋館が写り、その前には小川様のご親族が並んでいる。中央の女性が、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、たまたま(城)下町にいて犠牲になった小川様の叔母様だ。背後の西洋館が気になるが、妙正寺川沿いの目白崖線とは反対側の斜面には、大正期から昭和初期にかけ大きな西洋館や文化住宅が次々と建てられているので、そのうちの1軒かもしれない。
五郎久保稲荷Click!の氏子でありながら、富ヶ谷教会のクリスマス会にも加わってしまうのは、神田明神Click!や下落合氷川明神Click!の氏子でありながら、クリスマスツリーClick!をウキウキしながら飾るわたしとまったく一緒で、節操がなくてとても楽しい。特に、戦争から解放された1940年代の若者たちは、楽しくすごせる“現場”があれば、どこへでも喜んで参加しただろう。彼らには、心の底から笑えない日々が何年にもわたってつづき、少しでも自分たちの「青春」を取りもどそうとしていたのだろうから・・・。そして、これから本格的にスタートする、焼け野原となった「日本の再興」という、とてつもなく大きな負荷をあらかじめ背負わされたことを、どこかで強く意識していただろうから・・・。
◆写真上:1946年(昭和21)に撮影された、女性が3人混じる五若会青年グループの記念写真。
◆写真中上:上は、1946年(昭和21)に松竹少女歌劇団から歌手(手前中央)を招いて開かれたオペラ(?)舞台の記念写真。下左は、実際は参加できない神輿担ぎのコスチュームで記念写真を撮影する女性たち。下右は、小川様の実家である上原邸を背に撮影された、おそらく戦時中と思われるお祖母様の写真。画面右手の方角には演芸場「目白亭」(現・山政マーケット)、画面左手の手前にはのちに「ヒカリビリヤード」、画面の右手奥には「富士の湯」(のち「鶴の湯」)が建っている。
◆写真中下:1948年(昭和23)撮影の、渋谷・富ヶ谷教会におけるクリスマス会(上)と礼拝(下)。
◆写真下:上は、戦前に撮影された上落合2丁目界隈での記念写真で、西洋館の前に並んだ中央の女性が3月10日の東京大空襲に巻き込まれて亡くなった小川様の叔母様。下は、1941年(昭和16)にナナメ上空から撮影された旧・上落合2丁目界隈のめずらしい空中写真。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
sig
1948年のMerry Xmasの写真、ほほえましいですね。
イエス降誕劇を演じたようですが、アメリカがもたらした民主主義は、それまでの日本の暗くて重い空気を、一気に吹き飛ばす明るいものでしたね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>mwainfoさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
その明るい解放感が、実際に経験していないわたしにはわからず、親から聞いたいろいろな話から、かろうじて想像するだけなんです。それらの話の中でもっとも多かったのは、やはり両親とも食べ物に苦労したエピソードでした。親父は、米軍のPXでさっそくアルバイトをしはじめたようで、それほど食べ物に困った期間は長くはなかったようですが、おふくろのほうはサツマイモばかりで二度と見るのもイヤだった・・・と言ってましたね。
ただし、サツマイモが食べられるのは幸せなほうで、自宅の生垣にしていたマサキの芽を摘ませてください・・・という女性が訪ねてきたときには、愕然としたようです。芽をどうするのか祖父が女性に訊いたところ、蒸してやわらかくしたあと時間をかけて煮るそうで、ほんとうに食べ物に困ってた方なんでしょうね。好きなだけ摘んでいきなさいといったら、女性がすごく嬉しそうな顔をしたのが、いまでも忘れられないと話していました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
siina machiko
アルバムを見ていると本当に戦中と戦後では叔父や叔母達の表情がはっきり違いますね。椎名町の家の中で撮った写真のなかの身内の法事の時のものに皆悪い歯並びをむき出しで笑って写っていてまるでお祝いの記念写真かと思うようなものがあります。以前は違和感があったのですが今あらためて眺めてみているうちにPapaさんのおっしゃるとおりその当時は皆とにかく前年まであった空襲も動員も徴兵の心配もなくなりほっとしていたのでしょうね。上落合の空中写真の中にその頃には叔母が嫁ぎ大工をしていた夫と娘と暮らしていた家がみえそうです。以前掲載された古川ロッパの家周辺の空中写真でよくわかりました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yamさん
ChinchikoPapa
記事中の空中写真は、少し西寄りすぎました。もう少し東寄りでしたね。記事末に、東寄りの斜めフカン写真を追加しました。ちょうど、古川ロッパや鈴木文四郎邸を中心にトリミングしています。
うちのアルバムもまったく同様で、親父や親戚たちの顔を見てますと、戦中と戦後とではまったくちがう顔つきをしています。特に、女性たちがはなやいで、くったくのない笑いを浮かべているのは、まちがいなく戦後間もないころの写真です。
戦後すぐに、親父は仲間と北アルプスを槍ヶ岳まで縦走するのですが、戦時中とは見ちがえるような生きいきとした表情を浮かべていますね。特に、女性たちとのハイキングは、もうカッコつけまくりで、ウキウキはしゃぎまくっている様子です。w 日本の敗戦は、これだけ若者たちを明るくしたんでしょうね。
siina machiko
ChinchikoPapa
叔母様ご夫婦がどちらにお住まいだったか、わかりました。わたしは、寺斉橋から上落合公園方面へ抜けるとき、いつもその前を通っています。おそらく、古川ロッパが中井駅へ出ようとして迷ったのも、この道筋から北へ折れて妙正寺川の川筋へでも出てしまったのではないかと想像しています。
ここの一画は、いまでも緑が比較的多く残っていて、静かな街並みですね。この日曜に、中井から上落合を歩いて帰ってきたのですが、ちょうど叔母様の邸があったすぐ真北あたり、もう1本北(妙正寺川寄り)の道沿いに、戦前の古い建物を改築して染物と小間物を扱う、おしゃれな和装店がオープンしていました。あのあたりは、幸運にも空襲で焼けなかった家が何軒かあったようですね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>alba0101さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>マチャさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa