東京郊外に消防組(いわゆる町火消しClick!)が設置されたのは、宅地化が急速に進む明治期から大正期あたりがもっとも多い。ただし、内藤新宿や中野のように街道沿いの宿場として早くから発展していた町には、江戸時代からすでに地元の町火消しがいた。でも、そうではない農耕地が主体の落合地域をはじめ、大久保、淀橋、代々木、渋谷などの村落では、明治以降にようやく消防組が誕生していることが『東京府豊多摩郡誌』(1916年)にも見えている。
落合地域における消防組の設立はかなり遅く、大正期に入ってから有志たちが集まり組織化されている。でも、落合地域には地元の消防組ではないが、江戸の消防警備を近郊の住民たちが担い、必要に応じて市街地へ出勤する「派遣消防組」が江戸時代から存在していたことが知られている。幕府の直轄地だった落合地域では、いわゆる「屋敷火消し」の課役があり青山御煙硝蔵(幕府火薬庫)などの警備に当たっていたらしい。その後、明治期を通じて落合村には消防組は存在せず、大正期に入ってようやく3組の消防組が誕生している。
当時の落合村では、消防経費が予算にほとんど計上されないため、村民たちは手弁当の持ち出しで消防組を維持していた。当時の様子を、『落合町誌』(1933年)の「消防」から引用してみよう。
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旧幕時代落合土民は屋敷火消を仰付けられ、主として青山御煙硝蔵の警備に詰めたるを以て夙(つと)に消防組の組織があり、丸に「尾ち」と云ふ背文字の刺子に同じ纏印を翳(かざ)して火烟の場頭に起つた勇躍振りは、江戸火消の風に化せられて、目覚ましい行動を執つたと古老は語つてゐる、維新後中絶となり、其の後久しく消防の存在を認めなかつたが、漸次都市的住宅地たる新味を加ふるにつけ、村内宮元、仲町、上町の有志の間に義勇消防組織の議を提唱せられ、時の村長川村辰三郎Click!氏の協賛を得て、先づ下落合に三組を編成せんことを期して、(中略) 次いで同(大正)十年四月第四組を上落合に設立するに至つた、(中略) 斯くて此の間村予算の上に警備費補助が計上されることになつたが、其の額甚だ微々にして消防全般の施設は貯水場、火見櫓の設置に至るまで、悉(ことごと)く地元有志の寄付尽力に委せられた、
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当初の消防組には、自治体からの公的な支援がほとんどなく、別に仕事を持った有志たちの集まりによるボランティア活動だったことがわかる。また、地元の有力者の間をまわって寄付を募ったのだろう、火の見櫓や消火用水の設置までが私費でまかなわれていた。もちろん、今日のような専門職種(プロ)としての消防員など存在していない。
また、消火設備もきわめて貧弱で、当初は江戸期と変わらない単純な手押しポンプのみだった。消防組は、昔の火消しClick!と同様に纏をかざして手にはトビ口を持ち、火災が拡がるようなら周辺の家々を壊す「破壊消火」が主体だったようだ。大正期も半ばごろになってガソリンポンプ(初期ポンプ車)が登場し、昭和初期になるとようやく本格的な消防自動車が登場してくる。
落合地域の消防組が、全面的に自治体の予算で運営され、最新の設備や装備を持つようになるのは1929年(昭和4)4月以降のことだ。1933年(昭和8)現在で、落合町内には火の見櫓が9櫓、消防詰所が1棟、車庫が1棟、絡車置き場が7ヶ所、消防自動車(ポンプ車)が3台、消火栓が59ヶ所、消防組の組員は総勢50名という構成だった。
冒頭の写真は、大正後期に撮影された下落合地域の消防組だ。旧・下落合3丁目(現・中落合3丁目)の目白文化村Click!近くにお住まいだった、小川薫様Click!のお父様・上原亀吉様Click!が下落合の消防組に参加していたときの貴重な写真で、撮影場所も同文化村近くの可能性が高い。第一文化村のすぐ西側には火の見櫓が設置されていたので、その付近の情景だろうか? 当該の火の見櫓があった坂道を、佐伯祐三Click!は『道(下落合風景)』Click!(1926年ごろ)に描いている。上原様はこの坂道沿いで、画道具とキャンバスを抱えた佐伯祐三とすれ違っているかもしれない。
写真を詳しく観察すると、基本的に江戸期の町火消しと同じ格好をしている。火除け半纏の襟には「消防組」の文字が見え、手には短いトビ口を持っている。おそらく、背文字の刺子には丸に「落合」とでも入り、纏(まとい)も存在していたのは以前にご紹介Click!した隣接する椎名町の消防組の記念写真でも明らかだ。この写真で気になるのは、手前左側の人物のみ「消防組」ではなく「葛ヶ谷」の文字が入った半纏を着ていることだ。下落合に設置された消防組3組のうち、いずれかの組が下落合葛ヶ谷(現・西落合)地域を担当していた可能性がありそうだ。
昭和期に入ると、消防自動車(ポンプ車)の導入により、近代的な消火作業が行われるようになっていく。消火用の作業服も、江戸期とたいして変わらない意匠から、より軽快に作業しやすい服装へと変わっていった。そして、落合町内の火事ばかりでなく、消防車に乗って近隣の街で発生した火災の、支援消火に出動することもめずらしくなくなっていく。
1983年(昭和58)に出版された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)によれば、落合地域でもっとも火災が多くて有名だったのは、上落合の前田地区だったようだ。現在の落合水再生センターや落合中央公園の一帯で、大正末から昭和初期には大小の工場が密集していたエリアだ。また、消防組が出動した火災で地元の方々の印象に強く残っているのは、1925年(大正14)の前田地区にあった堤康次郎Click!が経営する東京護謨(ゴム)のボヤ、1927年(昭和2)に同地区の西川鉛筆工場から出火したらしい東京護謨も延焼した大火災(ゴムが燃えて消火に手間どった)、時期がはっきりしないが戸山ヶ原にあった明治製菓工場(ママ:東京製菓の誤りか?)※の大火災などが挙げられている。特に製菓工場の火災は、砂糖に引火した火がなかなか衰えず、消火に時間がかかったようだ。
※その後、この大火災は1925年(大正14)4月29日に起きた、戸山ヶ原の明治製菓工場であることが判明した。山手貨物線の蒸気機関車から出た火の粉が、工場の敷地に燃え移り施設の大半が焼失している。また、昭和に入ってから同敷地には一時、東京製菓の工場が操業していた。
上原亀吉様も、落合町内で起きた大正期の火災に、何度となく出動を繰り返しているのだろう。いなせな火除け半纏をひっかけて手に手にトビ口を持ち、纏をひるがえした町火消したちが手押しポンプを押しながら、西洋館が建ち並ぶ目白文化村のハイカラな街を駈け抜けていく場面を想像すると、深刻な事態なのにもかかわらず、なぜか微笑ましい光景にも思えてくる。
◆写真上:大正末期に撮影されたとみられる、上原亀吉様たちが写る下落合の消防組。
◆写真中上:左は、戦後かなりあとまで残っていた目白通りに面した高田火の見櫓(1930年撮影)で、手前に見えているのが同年竣工の高田町役場。右は、昭和初期の消防自動車(ポンプ車)。
◆写真中下:左は、落合水再生センター。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる前田地区。
◆写真下:左は、1925年(大正14)10月4日の下落合氷川明神の祭礼日に撮影された上原亀吉様(右)。(下落合仲町・小泉写真館撮影) 右は、同様に氷川明神の祭礼記念で大正末に撮影された上原亀吉様(右)。(下落合・辻井一柳堂撮影) 当時の祭礼日、男たちはみんな白塗りだった。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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siina machiko
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上落合の伯母様の家は、古川ロッパ邸から近いのですね。いまでも、当時の樹木が大きく成長して残っているエリアです。きっと、周辺の家の普請をされているかもしれません。アビラ村に西洋館を建てていたのは、中井駅前の器用な工務店のようですから、きっと日本家屋だけでなく、西洋館も建てられているんじゃないかと思います。
それから、ついでに^^;、看護婦さんのいる写真は、どうやら清瀬のようですね。クロマツの林が見えてますので、戦前は松林の空気が肺病にはいいという説もあり、どうやら療養所の周囲には松が植えられていたようです。下落合に、あれほどのスペースのクロマツ林はありません。知人の親戚の方に、清瀬へ実際に入所され回復された方がいらっしゃるようですので、ちょっと確認をしているところです。詳細がわかりましたら、改めてお知らせいたします。
今回は、お貸しいただいてます写真の量が多いため、まだすべてを拝見できていません。(汗) しばらくの間、お借りできれば幸いです。ときどき、携帯の方へご質問のメールをお入れするかもしれませんが、その節はどうぞよろしくお願いいたします。<(__)>
hanamura
私が静岡の山家育ちのせいでしょうか?(特に白塗り?笑)
その静岡ですが、徳川慶喜公のおかげで、当時の写真を多く見ることが出来ます。写真記録の勉強をしたいと、思います。(しなければ!)
ChinchikoPapa
わたしも白塗りには「うーーん」ですが、大正期から戦前まで、祭りの写真には必ず白塗りの男たちや、子どもたちが登場しています。「化粧」をすることで、おそらく日常性から切り離されたハレの日を、精神的にも外見的にも自ら「演出」し、「別人」になりきったのでしょうね。
もうひとつ、白塗りの装いは一種の「無礼講」へのパスポートであり、下落合では祭りへの寄付が少なかった華族屋敷へ、神輿ごと突っこんだ・・・なんて伝承も残っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
siina machiko
さんのブログを読むまでは絶対に嘘だと思っていたくらいですから父からは(学校が台風や代休で休みなのに「今日学校あるぞ!」とよくからかわれていたので)あまり昔話などきいたことがありませんでした。ご質問などありましたらいつでもメールいただければありがたいです。よろしくお願い致します。
ChinchikoPapa
アルバムの中には、わたしが一度も目にしたことのない、下落合や上落合、さらにお隣りの椎名町(長崎)地域の風景が横溢していますので、どれから手をつけていいのか迷ってしまいます。(汗) 特に、戦争で焼けてしまっています建物も多いと思いますので、神社の拝殿ひとつとりましても、戦前の姿と重ね合わせませんと場所がわからない始末です。
また、小さな写真は高精細でスキャニングをさせていただき、大きく拡大してそこに写る建物や文字などを調べてみたいとも思いますので、お時間をいただければと思うしだいです。
少しずつ取りかかりますので、そのつどお訊ねしたいことができましたら、メールをさせていただきます。よろしくお願いいたします。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>マチャさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
yokatelier
知りたかった情報がすべて載っていて脱帽です。
生まれ育った町の変化がよく分かりました。
ChinchikoPapa
まだまだ蓄積は浅いものですので、いまだ追加の記事を書きつづけています。目白文化村でお生まれになったのですね。もし、なにかエピソードや貴重な記録などがありましたら、お聞かせいただければ幸いです。w
ChinchikoPapa