かなり前の記事で、鳥居龍蔵が関東大震災Click!の焼け跡を眺め、東京市街地の随所に築造された多数の古墳を観察・調査してまわったエピソードをご紹介Click!した。それら古墳の多くは、オフィス街や住宅街、道路などの建設によって破壊され、もはや現存していない。山手線の駅名になった大塚(大塚稲荷古墳)も、昭和初期に宅地開発で破壊されてしまった。もともと寺社の基盤として利用されていた古墳は、大震災後に再びそれら境内の下に隠れてしまった。
東京には、旧字(きゅうあざ)として大塚Click!や丸山(円山)Click!、稲荷山、摺鉢山Click!など、いわゆる古墳地名が数多く存在しているが、江戸時代の市街地造成や農地開拓で崩されたり、大名屋敷の庭園に築山として活用されてきたが、明治以降に破壊された古墳は膨大な数にのぼるとみられている。たとえば、芝増上寺の境内には巨大な芝丸山古墳Click!のほか、13~14基の古墳が存在していたが大正期以降に破壊されつづけ、いまや芝丸山古墳のみしか残存していない。
江戸(エト゜=岬、鼻)の先端に当たる現・大手町(旧・柴崎村)に築造された、のちに「将門首塚」Click!と呼ばれるようになる古墳も、大震災以降にオフィス街建設のためすべてが破壊されて現存していない。鳥居龍蔵が、1923年(大正12)の大震災直後に撮影した写真から、非常に小型でかわいい前方後円墳だったことがうかがわれるのだが、鳥居がほぼ同時期に撮影した、同古墳の写真をもう1枚発見したのでご紹介したい。(冒頭写真①)
前回ご紹介した、大震災から間もないころの写真と比べると、後円部の墳丘上に震災で倒壊した石碑が再建されているので、時期的にはもう少しあとのようだ。古墳の規模としては20~30mほど(周濠を除く)の、関東地方では非常に小型の前方後円墳Click!だったと想定できる。もちろん、平将門Click!が出現するはるか以前からこの地(柴崎村)に存在していたもので、築年は5世紀ぐらいまでさかのぼるのかもしれない。「将門首塚古墳」では、時代が500年ほど前後しておかしな呼称となるので、ここでは仮りに「柴崎古墳」と表現して記述を進めたい。
現・大手町のこの場所へ、なんらかの聖域を記念する社(やしろ)、のちに「神田明神」Click!と呼ばれるようになる社殿が建設されたのは、古墳期末かナラ時代の初期のころだろうか。730年(天平2)には、すでに社が存在していて江戸地方の信仰を集めていた様子が記録されている。もともと江戸(エト゜=岬)の先端に位置する柴崎村に祭祀された神田明神だが、将門が出現したあとの後世に、そのエピソードに由来する「首塚」の伝説とが習合したものだろう。将門自身も、この社を訪れている記録(社伝)があるので、生前からなんらかの関係があったのかもしれない。
徳川家(世良田家)と、神田明神とのつながりも非常に古い。足利氏(のち室町幕府の主体)とともに、いまだ北関東(旧・上毛野地域)で世良田氏を名乗っていた鎌倉末期、世良田親氏(ちかうじ)は幕府執権の北条氏に謀反を起こして敗れ、信州へ落ちのびて剃髪し僧侶になっている。僧名を「徳阿弥」と称して、のちに各地を巡礼することになるのだが、柴崎村の神田明神に立ち寄った際、還俗(げんぞく)して武家にもどれという神託を受けている。その神託には、徳阿弥の1字をとって世良田とともに「徳川」姓を名乗れという託宣までが付随していた。
そして、信州から三河の松平郷へと移り、在原保重に見いだされて・・・というのが、徳川(世良田)親氏をめぐる徳川家誕生の伝承だ。のちに、関東へともどり江戸へ幕府を開いた徳川家は、鎌倉期以前からつづく北関東ゆかりの世良田姓を復活させて、ふたつの姓を名乗るようになる。神田明神を江戸総鎮守社として奉ったのは、もともと徳川姓の発祥地だからだ。
神田明神は一時期、柴崎村から神田山の山頂近くへと移されていたようだが、徳川幕府が本格的な江戸市街地の整備・造成工事をスタートさせると、湯島台の現在地へと再び社殿が移されている。神田山の膨大な土砂を、湿地帯や茅島の埋め立てに使いたい幕府としては、徳川家ゆかりの神田明神の遷座はもっとも重要な課題のひとつだったろう。また、柴崎古墳そのものは移築できないので、土井利勝に周辺域を屋敷地として与えて、古墳の保存・管理を命じている。こうして、千代田城大手門前の大名小路(旧・柴崎村)に残った柴崎古墳(俗に将門首塚)は、麹町区大手町となった大正後期までその姿を残すことになった。
明治期に入ると、柴崎古墳のある敷地には大蔵省と内務省の庁舎が設置されるが、柴崎古墳自体はそのまま手をつけられていない。旧・酒井雅楽頭の上屋敷にあった庭園とともに、ほぼ元の状態のまま残されていたようだが、関東大震災で両省が焼失すると、柴崎古墳の墳丘は崩され、同時に池も埋め立てられてしまった。1869年(明治2)に大蔵省が設置された直後の様子を、1907年(明治40)に出版された織田完之の『平将門故蹟考』(碑文協会)から引用してみよう。
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大蔵省玄関の前に古蓮池あり、由来是を神田明神の御手洗池なりと云ふ。池の南少し西に当りて将門の古塚あり、高さ凡そ二十尺週廻り十五間許、其の塚の傍ら古蓮池に沿って樅樹の巨大なる枯幹あり、古への神木なりと云ふ。東より西に向って苔石数段を登れば老桜樹あり、枝を交へて右に聳へ、また老桜樹の大なるもの古塚の背を擁して立ち、其の他柯(えだ)樹の老大なるものあり、森々鬱々として日光を遮ぎり、白昼も尚晦く陰凄として鬼気人に迫るを覚ゆ・・・
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著者には塚=円墳の先入観があるので、後円部の墳丘を計測しているのだが高さは約6mとちょっと、円周が約27.3mほどだから直径が9m弱ほどで、前方部を含めると20~30mほどの小さな前方後円墳を想定することができる。周濠を想定しても、全体で30~40m規模となるだろう。江戸湾が広く見渡せたであろう、岬の先端に埋葬された被葬者はいったい誰だろうか?
さて、鳥居龍蔵が撮影した2枚の写真から、あるいは先に引用した『平将門故蹟考』掲載の図版などから、柴崎古墳のおおよその位置と向きがわかる。この古墳の前方部は、おおよそ東を向いている。つまり、明治期に設置された大蔵省と内務省の境界に沿って、ほぼ東西に築造されていた前方後円墳だ。したがって、後円部は千代田城側を向いていることになり、冒頭写真①に写る背後の木々は、大手堀をはさんだ城内の樹林だ。写真では手前が前方部で、うしろに石碑とともに人が立っている墳丘が後円部ということになる。鳥居龍蔵は、大手町通りの側からシャッターを切っており、のちに大蔵省敷地と内務省敷地の境界に道路ができ、その道端となってしまう「将門首塚」の灯籠が手前左手に見えている。
一方、以前にご紹介した同古墳を横方向から撮影した写真(②)は、大蔵省の焼け跡から南側(内務省の焼け跡方面)を向いて撮影されているのがわかる。そして既述のように、墳丘上には倒壊した石碑が再建されていないので、こちらの写真のほうが冒頭の写真よりも前である可能性が高い。いずれの写真にも、焼け跡を整理するための設備や工事人夫の姿が見られるので、後円部上に立つ人物の服装なども考慮に入れれば、撮影は1923年(大正12)の暮れも近い時期ではないだろうか。
柴崎古墳に限らず、鳥居龍蔵は旧・大名屋敷の庭園や、寺社の境内にされてしまったあまたの古墳を訪ね歩き写真に収めている。それらを見ると、江戸の旧市街地は古墳の密集地帯だったことがよくわかるのだが、いまではそのほとんどが破壊されて痕跡すらとどめてはいない。
◆写真上:鳥居龍蔵が大手町通りから西を向いて撮影した、震災から間もない「柴崎古墳」。
◆写真中上:上は、「将門首塚」の現状。下は、江戸期以前の太田氏時代の柴崎村とその周辺。
◆写真中下:上は、写真①の部分アップで石碑が再建された後円部墳丘(左)と、前方部の手前(南東側)に見えている灯籠(右)。下は、写真①より少し前に撮影されたと思われる「柴崎古墳」。
◆写真下:左は、各写真の撮影ポイント。右は、震災直後に撮られた旧・大蔵省の焼け跡。
この記事へのコメント
niki
もともと、塚だっだのですね~^^
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sonicさん
ChinchikoPapa
SILENT
今も住宅開発にめげず残っている箇所が多そうです。
都内へ出かける時は中沢新一著「アースダイバー」を持って出かけます
ChinchikoPapa
また、nice!をありがとうございました。
ChinchikoPapa
今年の夏は、ついに大磯へは行かずじまいでした。なんだか、物足りない気分です。ついでに、花水川(金目川)沿いに秦野のほうまで展開している前方後円墳や円墳などの古墳群も、子どものころ以来目にしていませんので、もう一度訪ねてみたいですね。
hanamura
ChinchikoPapa
わたしはどちらかといいますと、陸地測量隊の1/10,000地形図と江戸切絵図を手にしていることが多いです。あと、やたら具体的な各地の事情明細図(住宅明細図)とか、「火保図」とか・・・。^^;
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>マチャさん
ChinchikoPapa
fumiko
反射的にNHKの大河『風と雲と虹と』を思い出してしまいます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
あまり記憶がハッキリしないのですが、確か加藤剛が将門役で登場したドラマだったでしょうか。各地の五郎(御霊)伝説の「鉄人」伝承と今日まで結びつく、非常に興味深い人物ですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
古地図による入り江、芦原、湿原などがとても興味深いです。
これじゃ30年以内という大地震が心配だ。
ChinchikoPapa
江戸初期に埋め立てられたところは、300~400年の時間経過とともに土砂もそれなりにしまって、地盤が比較的強くなっているのでしょうが、昭和に入って埋め立てられ60~70年ほどしかたってないエリアは、揺れの激しさとともに液状化が心配ですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
pulin
そうした古糞を破壊して葬り去っておきながら大和の古糞を日本のルーツのように思っている歴史観が現代日本人にあるとしたら、皮肉な転倒ですね。
ChinchikoPapa
特に神田川(旧・平川)の周辺に展開している、「百八塚」(無数の塚)伝説に興味を持って、これまで調べてきました。
早稲田から高田馬場にかけて、戦前は「戸塚(町)」という地名でしたけれど、この地名漢字が当てはめられたのは江戸期からで、室町時代の文献には「冨塚」と書かれています。つまり「塚が富む」地域というような意味ですね。早大のキャンパス内にあった「冨塚古墳」に、そのままの地名表記がのこっていましたけれど、おそらく、108基どころではない大量の古墳群が集中的に造営されたエリアだったんじゃないかと想像しています。
換言しますと、それだけの大きな古墳群を造営する勢力(南武蔵勢力と呼ばれています)がクニを造り、南関東に展開していたと思うんですよ。
pulin
失礼しました。
ChinchikoPapa
いえいえ、お気になさらず。w わたしも、しょっちゅう変換ミスをしています。特に、なにかに気を取られていたり忙しかったりすると、ついやっちゃいますね。
ChinchikoPapa
nagano
ChinchikoPapa
わたしも、将門塚以前の旧・神田明神時代は、円墳の上に築かれた社(やしろ)であり聖域だと思っていたのですが、すべて地表が露出してみると前方後円墳だったことに驚きました。大震災の混乱時に撮影してくれた、鳥居龍蔵に感謝ですね。
nagano
古墳マップというページにこの古墳を登録したいと思うのですが、この記事の引用とかURLの貼り付けとかしても問題ないでしょうか。
ChinchikoPapa
はい、まったく問題ありません。こちらこそ、引用していただきありがとうございます。よろしくお願いいたします。
nagano
ChinchikoPapa
こちらこそ、ごていねいに恐縮です。ありがとうございました。
聖帝 消毒隊員
かなり昔の40年前「将門と淵外蘇文(イリカスミ@日本書紀・続日本記・三国史記)2号(息子)と3号(孫)が「弱い百済が八洲(やしま)を盗れるなら、高麗の我等なら百済からの独立も易い」と、襄平の乱で捕虜になった蕨市出身の「三条宗近が話した調書」が残っているとか?
実際に将門の影武者7号をしていた高麗系の一族が久喜市に逃げ保存してきた太刀が、三日月宗近とデザインが非常に似ているとか?写真だけ見ましたが「素材は鬼丸國綱、形は三日月宗近」という不思議!
1100年保存できたのは御神体という面もあるものの「非鉄金属」も貢献したのでしょうか?(安綱や宗近は緑色からニッケル?正宗・鬼丸・菊一文字は解らず)
関東大震災直前の大手町のアンモニウム写真で確認しましたが、櫻の大木や台場クヌギが手付かずだったので、古墳群及び製鉄所(踏鞴場?)だったのではないかというのが個人的な直感です。
ChinchikoPapa
「三条宗近の調書」は知りませんが、粟田口國綱や三条宗近の成分分析には興味津々ですね。もっとも、前者は「御物」で後者は「国宝」ですから、茎の付け錆さえ削らせてはくれないでしょうが……。w
くだんの國綱や宗近が長期保存できたのは、付随する物語が早くから語られ、広く「有名」だったからではないかと思います。相州伝の鍛冶たち(たとえば新藤五國光・正宗・貞宗)は、室町後期あたりから人気が沸騰し、江戸期には大名間の稀少な贈答品にまでなっていますので、保護・保存性や継承性が高かったからでしょうね。
古墳群=大鍛冶場(タタラ場)なのかは不明ですが、確かに大量の鉄屎や神流し跡などの遺跡が見つかる近くには、大小の古墳が確認できます。もっとも、川沿いや海沿いの見晴らしのいい場所を選んで造営されている古墳が、たまたまタタラの神流しにはもってこいの地形や環境をしていたのかもしれませんが……。この記事の将門首塚にされていた古墳のある柴崎村も、江戸湾に面した見晴らしのいい岬の付け根ですね。
聖帝 消毒隊員
昭和末期にSONYと産業省主導で始まった?と思いますが、この技術革新により航空機事故が激減したことで予算が増え、更に三菱重工≒現航空宇宙産業や富士重工=現SUBARUからの支援・参加でやがて「反射の色で破壊だけでなく素材の種類も分析できるのでは?」と見学会に来た東北大学の安斎教授?が発案し、「破損無しで国宝業物を高精度で知る」ことが可能と噂されています。https://www.material.tohoku.ac.jp/dept/course/metal/anzai/
後は少々オカルト風味ですが「群書類従」で塙保己一が「斐伊川は樋河であり、青鋼が精錬されたことから翡斐色金となった」という伯耆守國綱・安綱の口承を書いています。確かに三日月宗近や童子切安綱の色は緑色で翡翠に似ています。そしてターボファンエンジン本体の色もあれ?同じ色??古文書やオカルトと最新技術が同じとは???https://www.honda.co.jp/news/2007/c070718g.html
ChinchikoPapa
硬軟の目白=鋼の折り返し鍛錬と焼き入れ(オーステナイト→マルテンサイト)で、複雑に溶け合い絡み合った組成分を分析するのは、非接触型の検査装置では難しそうです。しかも、南北朝以降の古刀や江戸初期の新刀、江戸後期の新々刀はすでに分析されていますが、2016年現在の室蘭工業大学の分析でさえフィジカルな手法です。
「斐伊川は樋河」は、そのとおりだと思いますね。「ひ」という音(特に地名音)に、母音の「い(伊)」が補われたのは主に室町以降の文献で、斐伊川は、氷川、簸川、樋川、斐川などの変形だと思います。紀伊国はもともと「紀国」であり、「伊」がはさまれるのは主に江戸期になってからですね。
聖帝 消毒隊員
http://www.cs.muroran-it.ac.jp/index.php?%B1%CA%CC%EE%B9%A8%BC%A3%2F%BF%AE%B9%E6%B2%F2%C0%CF%B9%A9%B3%D8
恐らく現阿部政権での「産官学複合体」の成果と思いますが、2016年で必要な試料破壊が現在は不要です.Differential scanning calorimetry=DSCは上記の通り1サファイア(Al₂Ti₃O₃)とルビー(Al₂Cr₃O₃)の入力補償処理をする光速昇温≒ 2レーザー光線に変換 3画像認証(ミンコフスキー変換)で非接触での非晶質や析出硬化までは「航空宇宙や原子力や新幹線と予算の憑く分野に」限られるが実用化されています。何処の誰からというのは伏せますが。(旧帝國大学に二人、航空宇宙と鐡道屋やDSCは家業や親族の関係で。)
祖父が偶然中野学校卒業生(卒業式の時被災w)で、少尉を辞め教官として出戻った時「戸塚古墳が何故無事に焼け残ったのか?」という帝都大戦のネタを真面目に調査し筆記した内容(コピーはGHQの前で焼いたが原本は無事?)を暗記させられたので、このブログの内容と全く同じで感謝している次第です。
中野学校出戻った時「大和志津兼氏と粟田口吉光は青鋼(あおはがね)で大江山のニッケル28玉鋼から叩出した。ならば艦載戦闘機の排気扇に転用可能か?」と提案し、堀越某と木村某(@風立ちぬ)の3人で2式改=彗星の図面を玉音放送まで牽いていましたw。
ChinchikoPapa
貴重な情報をありがとうございます。非破壊検査が分野は限られるとはいえ、金属の組成にまで及んでいたとは驚きました。いろいろ勉強になります。考古学や古代史学の分野で、物理的な測量や発掘をせずに、空中からレーザー光を当て画像解析を行なうだけで、均されてしまった地表の古墳発見(非破壊調査)はしばしば話題になりますが、金属分析のレベルでも「非破壊」が実用化されていたんですね。
拙サイトでは、戸山ヶ原の軍医学校裏にあった中野学校卒の工作員たちへさまざまな指令を出し、実質的に工作員の本部となっていました陸軍兵務局分室(通称「ヤマ」)についても、中野学校とともに何度か取りあげています。よろしければご笑覧ください。
聖帝 消毒隊員
ついでに三条宗近の出身地の蕨神社@鍛冶作や氷川神社や金沢文庫といった踏鞴場&古墳群の鉄屎や神流しを調べると「バナジウム23」が高濃度で見つかったものの、岡崎正宗や鬼丸安綱や福岡一文字といった「相州伝妖刀」は80年前から今も全く不明なのが現状です。
1樋川や氷川は阿比留文字≒神代文字や上つ文?で磐座に刻まれ、金沢文庫は日本書紀や続日本記に「韓川」と記載(群書類従にも記載) 2852~862年まで平朝臣業平が居住滞在(在原業平は弓馬の名人!)3将門の乱では墨田区と蕨市が坂東平氏の軍事基地として機能(当時陸路を将門を支援した児玉党が抑えた為、平貞盛は伊勢市鳥羽から海路での水軍を強制された@群書類従)
4前島荏田城≒皇居と千代田区@神田川は制圧されていた。一度神田川を北上して高台の前島荏田城から矢の雨や菜種油を浴び(赤壁のスケールダウン)損耗が出て荒川を北上か?
ChinchikoPapa
重複するコメントがありましたので、1本に絞らせていただきました。ご了承ください。
「放置しても錆びない」というのは、科学的にありえないかと思いますよ。確かに高度な技術を持った研師(質の良い砥石を数多く揃えた研師)に出すと、わたしの経験からも「錆びにくい」のは確かですが、手入れを怠れば赤錆はともかく、水錆(いわゆる刀剣用語でいう曇り)はほどなく浮かびあがります。また、大量に丁子油を塗布して白鞘に収めたまま放置すれば、ある一定期間は錆びにくいでしょうが、長期にわたる場合はやはりダメですね。
鉄鉱石から生成した鋼を用いている江戸期の胴田貫(新刀)や清麿(新々刀)はともかく、初代・長光や正宗は砂鉄から生成された目白(鋼)を用いていますので、素材の特性もあるのかもしれないです。特に文字通り「神奈川」(神流川)の砂鉄は良質で、鎌倉を中心とした相州伝の爆発的な発達をみました。ただし、書かれている長光も正宗も各時代を通じて、長期間手入れもされずに放置されることはありえないと思いますので、結果論的な観察による特性ではないでしょうか。
それから、ここはコメント欄ですので、ご自身の主張を掲載されるのでしたら、ご自身のブログあるいはSNSを利用いただければ幸いです。わたし自身、最新記事に対するコメントや「読んだ!」ボタンに対応しなければなりませんので、残念ながら書き込まれたご主張へていねいに対応している余裕のないのが現状です。よろしくお願いいたします。
聖帝 消毒隊員
まず錆の件ですが「赤錆び」でした。熱田神宮や伊勢神宮系列の神明神社では「勢洲村正を使用した据え物斬り」が春分の日に開催されます。
その据え物切りに使用される刀鍛冶と披露する尾張柳生新陰流の方々が「御神体として奉納演武する分には真打は型だけでいい。だが一応影打の方もISOというか品質保証をしないと」とのことで「据え物斬り」を開催されているそうです。
名古屋市は地価が安く、柳生新陰流の門下生も多いので「東京都程刀剣所持の規制」が厳しくないことから「新人でも巻き藁や破竹で練習という環境から水錆が起こるかい?」と笑顔で返答されました。稀に胴田貫正國や清麿を秘蔵して水錆はあるものの「乾燥した雨の少ない気候」も赤錆を起こさない理由と考えられます。
先日SNSで回ってきて驚いたのですが「行方不明刀剣」の一つに「鶴丸国長」という鬼丸景綱所属?の業物があるそうです。本阿弥の本や群書類従でも出てくるのですが「桑名江(くわなごう)」とあり、國綱の長男が「濃州直江で青金と衵から叩いた」とあります。
「伊勢神宮徴古館や神明神社の御神体の村正真打」中に「一瞬相州伝に見えるものの沸が雑」だったり「刃文が相州伝より低い」ものが複数あるので、もしかして?と思った次第。無銘ですが二振だけ「國長?」という噂を大田牛一や前田利益も書いているので、何かご存知でしたらご教授戴けたら幸いです。(教えて下さった日置さんも、口承のみでこれ以上は解らないとのことでした。)
ChinchikoPapa
五条國永が鍛えた「鶴丸國永」なら、宮内庁で保存されているかと思いますが、「鶴丸國長」という作品は知りません。「鬼丸國綱」なら、同様に宮内庁所管で保存されているはずですが、「鬼丸景綱」という作品も知らないですね。いま刀工全書を調べたところ、古刀の濃州住「國長」は4名いますが、いずれも美濃伝の鍛冶たちだと思われます。
>「東京都程刀剣所持の規制」が厳しくない
東京の刀剣所持が厳しいとは、初耳です。美術品として所持するだけなら、まったくなんの障害も煩雑な手続きもないですよ。剣術の道具として、ふだんから持ち歩いたり振りまわしたりするから、「厳しい」のではないでしょうか?
聖帝 消毒隊員
鶴丸國長は「刀剣乱舞」とかいう創作物で回ってきたので「濃州千住寺院國長」と混ざってしまった結果?のようです。また「國長真打を御神体に奉納」している伊勢神宮系列の神社を日置さんに調べてもらったところ「いずれも大和千住院より勧進した勧進帳」が檀家帳≒宗門人別改帳に残っているとのこと。ありがとうございました。
また信長公記と一夢庵風流記、また明智光秀といった祐筆≒プロの秘書か官僚が「上様鬼丸景綱御覧」と走り書きしていますが、後日「鬼丸影打國綱ヲ御覧」と書き直しているので(武田信玄上洛中や上杉謙信に手取川大敗壊滅等、危機的状況だった)、前線の責任者だった大田牛一や明智光秀も焦った結果?かもしれません。前田利益に至っては諜報の前線だったので無理もないかも。
尾張柳生や熱田神宮の奉納演武の控室で師範が使っている程なので、「500年前の筆記ミスが要らない保存」をされた結果のようです。自分も指摘されるまでは國綱=真打 景綱=影打と無意識に変換していました。名古屋ローカルの「武功夜話拾遺」が景綱を書き直していないので(大田や明智の漢文調と比べて非常に読み易い)それに毒されている可能性もあります(2012年にカラーダイヤCPUが稼働したことで、紙や墨の年代も誤差2週間まで短縮!)2008年にも「富士通の京」で鑑定したのと同じ結果でした。(この時も精度は3ヵ月だったとか@東京新聞・中日新聞・愛知県教育委員会)
ChinchikoPapa
「国永」というと、五条国永とともにもうひとり、大和出身で山城で小鍛冶になった「来国永」を思い浮かべます。「景綱」ですが、前記の『刀工全書』には2名しか採取されておらず、備前と紀州の古刀鍛冶ですね。つまり、地域から前者は備前伝(吉井)の、後者は紀州の古刀に多い大和伝だと想定します。
江戸期には、刀剣の偽物が大量につくられ、それらしいエピソードが付会されて、武家・町人を問わず市場や鑑定会へ大量に出回りましたので、ちょっとおかしなショルダーのついた刀工名や、講談めいた不自然なエピソード付きの作品は、かなり注意が必要だと思います。
ChinchikoPapa