西武線敷設に「新兵器」投入する鉄道連隊。(上)

津田沼鉄道第二連隊(東海道線横浜線復旧).jpg
 1925年(大正14)12月24日、陸軍は西武川越線(現・西武新宿線の一部)の所沢駅周辺で、大規模な「兵器、器材鉄道貨車搭載演習」を実施しようとしていた。全国的に行なわれる鉄道輸送演習の一環として、所沢周辺が選ばれているのは、もちろん陸軍の所沢飛行場Click!があったためだ。演習は、翌1926年(大正15)2月2日から24日にかけて、全国各地で実施されている。
 敵を観測したり、防空用に係留したりする気球やその器材類を、貨車(無蓋車)で運搬する訓練が所沢駅の周辺で行なわれた。また、飛行機を各部位に分解して個別に運搬し、輸送先で改めて組み立てる研究も検討されている。陸軍参謀本部が演習に先立ち、1925年(大正14)12月に配布した「兵器、器材鉄道貨車搭載演習施行要領」には、次のように演習の目的が規定されている。
  
 本演習ハ主トシテ内地鉄道十五噸無蓋貨車(或ハ其以上ノ大型貨車)ニ対シテ未タ正確ナル搭載ノ実験ヲ経サル兵器、器材ニ就キ其搭載量及方式ヲ研究シ 以テ戦時ニ於ケル鉄道輸送計画ノ基礎ヲ確立シ且其実施ヲ円滑ナラシムルヲ目的トス 又同一ノ目的ヲ以テ南満州鉄道無蓋貨車ノ模型ニ対スル演習ヲモ併セ施行ス
  
 当時の陸軍は、戦時ではないので予算が潤沢でなかったせいか、省線ないしは私鉄から演習のために貨車を借りるときは、レンタル料の高価な箱状の大型貨車ではなく、できるだけ安価な無蓋車にするようコト細かな指示までが出されている。
 この演習が行なわれる直前、1926年(大正15)1月25日に演習の統裁官だった陸軍少将・木原清から陸軍省あてに、「統裁部職員ニ対スル希望事項」という書類が提出されている。これは、演習が予定されている各鉄道会社から、演習を統括する陸軍省内に設けられた組織「統裁部」へと参加している、鉄道各社の職員も含めて配布された書類だと思われる。西武鉄道と陸軍省とが、密接に連携している様子をうかがわせる文章なので、文中の「三」を引用してみよう。
  
 三. 本演習ニ於テハ鉄道職員亦参加シ吾人ト共ニ研究ニ従事セラルルヲ以テ 此際両者密接ニ協同シ鉄道輸送ノ見地ヨリ兵器、器材並鉄道車両ノ制式如何ヲモ攻究シ得ルノ便益アリ 而シテ此カ攻究ノ結果カ将来制式改正ノ資料タルヲ得ハ更ニ幸甚ナリ 職ニ兵器、器材ノ設計、調査ニ任セラルル諸官ニ対シテ特ニ之カ研究ヲ嘱望ス
  
兵器、器材鉄道貨車搭載演習施行ノ件19250905.jpg 所沢停車場演習詳細192509.JPG
 陸軍省の統裁部と、西武鉄道が同部へ派遣した幹部社員とが「密接ニ協同シ」たことをうかがわせる要領事項だが、おそらく大規模な演習の計画時点(1925年内)から、西武鉄道の村山線を井荻以西の高田馬場駅Click!方面へ乗り入れる計画や、東村山駅に集積されていた厖大な建築資材Click!を、戸山ヶ原の陸軍施設まで運搬してくる計画などが、すでに両者の間で話し合われていたものと想定できる。そして、井荻から高田馬場(実際は下落合Click!)までの線路敷設工事を、陸軍の鉄道連隊が施工する下準備も進められていたように思われる。
 西武電鉄(現・西武新宿線)における井荻-高田馬場(実質は下落合)間の線路が、鉄道連隊の演習によって敷設されたという事実確認の“種本”=出典として、おそらくもっとも多く用いられているものの1冊に、1971年(昭和46)に出版されたお隣りの『中野区史-昭和編-』がある。専修大学の栗木安延助教授が執筆している、当該箇所から引用してみよう。
  
 中野区地域でも西武鉄道村山線(現在の新宿線)が、昭和ニ年(一九二七)四月十六日に開通した。国電高田馬場駅と東村山を結び、同時にそれまで東村山と所沢間の川越線も電化し、今日の西武新宿線の基礎をつくった。(中略) この西武村山線の敷設作業は、千葉県津田沼の鉄道第一連隊の演習として行なわれ、建設費は、いわば、ただ同様の少ない費用ですんだ。しかも、軍隊の演習だから、なによりも工事のスピードが重視される。そのためであろうか、昭和ニ年一月に着手して、四月には開通という短期間の工事だった。
  
中野区史昭和編1971.jpg 松戸線軽便鉄道線路敷設演習192605.JPG
 この記述には、事実関係に関連して明らかに4つの誤りがある。1927年(昭和2)4月16日に開通したのは、氷川明神前にあった西へ移設される前の初代・下落合駅(ないしは建て前では下落合15~16番地にあった高田馬場仮駅Click!)であり、「国電高田馬場駅」に乗り入れた同線駅でないことは、このブログの読者ならすぐに気づかれるだろう。
その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶していた。また、鉄道連隊の工事は東村山から田無の先の井荻付近まで8日間、井荻付近から下落合の山手線線路土手まで7日間の、のべ15日間の建設リードタイムだったことも判明している。
 それ以外に、まず鉄道第一連隊の本拠地についての記述だ。陸軍の鉄道第一連隊は千葉県千葉(市内)を拠点としていたのであり、千葉県津田沼に本部を置いていたのは鉄道第二連隊のほうだ。また、西武電鉄の井荻-下落合間(高田馬場駅は未設Click!)の演習工事を行なったのは、津田沼鉄道第二連隊とともに、朝鮮鉄道の鎮昌線で行なわれた線路敷設演習につづき、千葉鉄道第一連隊の部隊も同時に投入されている可能性が高い。
 さらに、線路敷設の演習工事は1927年(昭和2)1月に着手しているのではなく、同年1月13日には「新兵器」を投入した線路敷設の演習が、すでに終了している公算が高いことだ。それは、「新兵器」の成果を報告する書類「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」が、近衛師団長・津野一輔から陸軍大臣・宇垣一成あてに、1月13日付けで提出されている点に注目したい。演習が完全に結了しなければ、この種の報告書が現場から陸軍省の中枢へ上がることは考えにくい。
 そして、なによりも鉄道連隊による井荻-下落合間の線路敷設演習が、1月から4月までの3ヶ月以上もかかることなどありえない。『中野区史』がいう「短期間」などではなく、当時の鉄道連隊による実績を踏まえるなら、超「長期間」になってしまうのだ。そんなノンビリした鉄道敷設工事をしていては、兵員の増強や兵器の運搬、兵站などを必要とする前線では戦闘が終わってしまうだろう。
西武新宿線1.JPG 西武新宿線2.JPG
 鉄道第一・第二連隊の合同による前年の演習実績では、13哩(マイル)=約21kmにおよぶ線路敷設の演習をわずか2ヶ月弱で完了している。井荻-下落合間は、約8kmにわたる平坦な直線状の線路敷設にすぎず、困難な演習をこなしてきた鉄道連隊にしてみれば、2~3週間程度のほんの朝飯前の仕事だっただろう。では、これまで西武鉄道の敷設に関連し、出典の“種本”として多用されてきた「公式」記録、『中野区史』にみられる記述の誤りについて、ひとつひとつ検証していこう。
                                  <つづく>

◆写真上:1923年(大正12)の関東大震災で被害を受けた、東海道線と横浜線の復旧のため横浜の子安付近に出動した千葉県津田沼の鉄道第二連隊。
◆写真中上は、1925年(大正14)9月に計画された「兵器、器材鉄道貨車搭載演習」の施行資料。は、西武線の所沢停車場で行なわれた演習計画の実施内容資料。
◆写真中下は、1971年(昭和46)に出版された『中野区史-昭和編-』(中野区役所)。は、1926年(大正15)5月に行なわれた津田沼-松戸間の松戸線線路敷設演習の陸軍資料。
◆写真下:いずれも現在の西武新宿線で、旧・指田製綿工場前Click!(清水川橋筋)の踏切りから下落合駅方向の眺め()と、氷川明神前の旧・下落合駅あたりを通過する西武電車()。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    このアルバムも、おそらく一度も聴いたことがなかったかと思います。
    nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2011年05月26日 11:19
  • ChinchikoPapa

    「風の谷のアカサカ」とはよくいったもので、山あり谷ありの街で飽きませんね。コンクリートの住宅街の真ん中に、稲荷があったりするのも不思議な感覚です。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年05月26日 11:24
  • ChinchikoPapa

    八十八か所の巡礼は、かなりの体力が必要でしょうね。いまのわたしでは、歩き切れるかわかりません。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2011年05月26日 11:28
  • ChinchikoPapa

    南風が吹くと、潮の香がかなり遠くまで漂ってきますね。浜御殿は潮の香りに包まれていたのではないでしょうか。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2011年05月26日 13:11
  • ChinchikoPapa

    直径が10cmほどのガラスの球を、ペーパーウェイトがわりにデスク近くに置いているのですが、半分すりガラス状になってまして覗いてもあまり面白くありません。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2011年05月26日 13:17
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2011年05月26日 18:38
  • ChinchikoPapa

    ジュリアン・ブレーヌさんのメールアートは、ドキュメント風で異色ですね。
    nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2011年05月26日 18:41
  • ChinchikoPapa

    枝が伸びたから伐ってくれと頼まれ、家の樹木2本をちょっと手入れしたのだすが、もうそれだけでイヤになっちゃいました。熱心にガーデニングとかしている方を見かけると、無条件に尊敬してしまいます。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2011年05月26日 22:43
  • ChinchikoPapa

    1961年創立で、歴史あるスクールなのですね。
    nice!をありがとうございました。>麻里圭子さん
    2011年05月26日 23:24
  • ChinchikoPapa

    出張のお疲れは、少しとれたでしょうか。空模様がぐずついて、あまりスカッとしませんね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2011年05月26日 23:29
  • ChinchikoPapa

    『悪霊』は同じ江川訳で、学生時代に新潮社版を読んだ記憶があります。どちらかといいますと、ドストエフスキーよりはトルストイの著作が印象的でした。ただ、いま読むとまた違った感覚なのかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2011年05月27日 00:00
  • ChinchikoPapa

    聖路加タワーの展望台は、わたしも一度上ったことがあるのですが、閉鎖とは知りませんでした。昨年の夏、花火大会のときにでも混乱、あるいは室内の汚れがあったものでしょうか。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2011年05月27日 10:11
  • ChinchikoPapa

    わたしがマッチの炎をもてあそんでたころ、危うく湘南海岸の防砂・防風用クロマツ林を全焼させかねない「事件」があり、親からこっぴどく叱られやした。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
    2011年05月27日 14:40
  • ChinchikoPapa

    若いころは、いろいろなデジタル録音の『リング』を聴いていましたけれど、最近は古い演奏に魅力を感じます。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
    2011年05月27日 23:49
  • ChinchikoPapa

    トレーニングがしづらい、うっとうしい季節になりました。次のレースに備え、体調を維持するのはたいへんですね。nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2011年05月28日 00:03
  • 菅原 純

    こんにちは。
     映画「指導物語」は、国鉄千葉機関区に蒸気機関車運転の教習を受けに派遣された鉄道連隊兵とその指導教官となる国鉄老機関士(と彼の家族も)との交流を描いた映画ですね。千葉の鉄道連隊での線路敷設演習場面も盛り込まれておりますね。
     私、この映画も良く観て見ると監督・脚本家が巧妙に作った反戦映画と思えて仕方がありません。実に良く出来ていると思います。そして、房総の自然がまた美しいのです。
    http://www.youtube.com/watch?v=2pYeonedAVU
    2011年05月28日 10:22
  • ChinchikoPapa

    菅原純さん、貴重なコメントをお寄せいただきありがとうございます。
    映画『指導物語』の存在は、まったく知りませんでした。解説には、 鉄道第二連隊の演習シーンも出てくるとのことで、これはぜったいに見逃せませんね。明日にでも、ゆっくり観たいと思います。
    俳優が藤田進や原節子、北澤彪など、いかにも戦時下の東宝映画ですね。1941年(昭和16)現在の、房総の景色も楽しみです。日米開戦を目前にして、どのような表現で描かれ、どのような思想が通底しているものか、その点も含めてじっくり鑑賞したいです。
    記事中に取り上げました、大正末から昭和初期の「新兵器」=鉄道敷設器材は、すでに時代遅れで使われていないかもしれませんが、そのあたりも注目したいと思います。ありがとうございました、重ねてお礼申し上げます。
    2011年05月28日 21:02
  • ChinchikoPapa

    新宿御苑にあった以前の大温室は、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気がありましたけれど、次にできるのはどのような風景を見せてくれるものか、ちょっと楽しみにしています。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2011年05月28日 23:21
  • ChinchikoPapa

    わたしも、卵は水からゆでてました。妙なところを、慣習にとらわれているのがわかりますね。w 卵の半熟丼、生醤油をかけて食べるのがたまりません。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2011年05月28日 23:25
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2011年05月29日 12:48
  • ChinchikoPapa

    菅原純さん、さっそく『指導物語』を観ました、すごい映画でビックリです。
    今日的な視点から見るなら、明らかに「厭戦映画」、ひいては「反戦映画」のように受け取れてしまいます。帝大卒の学生兵士が取り寄せるドイツ語原書に、「学生戦没者の手記」があったり、社会情勢を語るかたわらで末娘が「春の唄」を唄いながら、「早く春がこないかな」などとつぶやかせてみたり、息子の出征を見送る母親の悲壮な顔が、画面いっぱいに拡がってホワイトアウトしたり、あげくの果ては最後に富士山が押し寄せる雲に隠れてしまったり・・・と、随所に当時としては「おかしな」表現が目につきますね。
    これでよく、陸軍省や同報道局の検閲をパスしたものだと、驚いてしまう表現内容です。巧妙な、というよりは半ばあからさまな「厭戦・反戦映画」のようにも受け取れてしまいます。どのようにして陸軍省を説得したものか、「人間の弱さも含めて普遍的な内容で時局を描く」・・・とかなんとか、文字どおりC58の煙に巻いて制作してしまったものでしょうか。機関車に設置されたカメラワークも斬新で、画面を観飽きませんね。
    鉄道連隊の兵営や訓練は、まちがいなく実写のようですね。以前、津田沼鉄道第二連隊の兵営をいくつかの写真で見たことがあるのですが、同じ意匠の兵舎でした。また、鉄道第二連隊の演習映像はきわめて貴重だと思います。この画面では、80ポンドと思われる軌条(レール)を10名ではなく6名の兵士が持っていますので、どこかに「軌条敷設器」が使われていると思うのですが、どれがその器材にあたるものか、動きの速い画面からはうかがい知れませんでした。もっとも、演習シーンはあえてカメラワークをせわしなくし、詳細が映し出されないようにしている・・・ともとれますね。
    藤田進が23歳の二等兵で、原節子が女学生姿で出てくるとは思いませんでしたがw、それにしても、ものすごい映画をご教示いただきました。ほんとうにありがとうございました。
    2011年05月29日 18:00
  • 森谷

    ChinchikoPapa 様


    突然のコメント失礼致します。

    私、テレビ番組を制作しております森谷と申します。
    今回番組内で目白通りを紹介致します、
    つきましては目白通りの過去の写真を探しおりまして、
    下記URL、御ブログの記事内の目白通りの写真をいくつか使用させていただければ、と考え連絡差し上げた次第です。

    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-11-22
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-05-18-1
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-03-25

    詳細はメールにてお送りできれば、と考えておりますので、
    一度、下記アドレスまでご連絡頂ければ幸いです。

    shotaray27@gmail.com

    何卒、ご検討の程、よろしくお願い申し上げます。


    森谷
    2011年05月29日 21:24
  • ChinchikoPapa

    森谷さん、コメントをありがとうございます。
    ピックアップされています写真は、わたし自身の所有物ではなく、昔からお住まいだった個人の方が撮影されたり、また地域資料に掲載されていたものを転載させていただいたものです。
    詳細は、明日にでもメールでご連絡いたします。
    取り急ぎ、お返事まで。
    2011年05月29日 23:38
  • 菅原 純

    こんにちは。早速鑑賞なさいましたか。そして長文のコメントご返信有難うございます。喜んで頂けた感じが伝わって参ります。

     ご指摘の通り、この映画は鉄道省後援は兎も角として陸軍省が後援する映画にしては、「余計な」メッセージ余りに多く隠されております。その一つとして登場する若い兵を敢えて大学出とする点は、監督の真実のメッセージの根幹であると思います。

     藤田進の演じる佐川新太郎は23歳の設定ですか・・・。その年で初年兵となれば、彼も卒業までの徴兵猶予特典を受けていた大学出の設定ですね。しかも母一人・子一人の家庭であったと思います。彼が帝大卒かどうかは不明ですが帝大進学率がたった数%の時代に女手一つで大学まで出した息子を戦場に送ることになるとは、監督も可也念入りな設定をしたものです。出征の列車を母が追いかけるシーンがありますが、彼女の苦悩(=監督のメッセージ)が同時代の観客には容易に理解出来たのでは無いでしょうか。藤田進もインテリ兵士のナイーブさを非常に良く演じていると思います。
     私の手元に旧制第一高等学校の当時の同窓会報がありますが、帝大卒業=入隊し戦死している方が多いです。大学卒という「価値の高さ」が、「反戦」と云う隠されたメッセージの鍵になって来ますね。申し訳ないのですが、農村・漁村出身の頑強な青年が主人公では、この映画は本当の国策映画になってしまう。大学(学生)の価値が圧倒的に下がった現在の感覚でこの映画を観ても、鍵は見つからないのではないかと思います。

     余談ですが、出征する息子を母親が追いかけるシーンで有名な木下恵介監督作品「陸軍」でも、帝大卒の息子を戦場に送った父親の苦悩が良く描かれておりますね。この映画も「指導物語」にも増して素晴らしい(時局が更に厳しくなっている時期に作られているだけに、逆に恐るべき)反戦映画であると思います。

    http://www.youtube.com/watch?v=ywcDZp1hI2U

     これら二つの映画に共通するのは、勇ましい当局の掛け声を前面に押し出していていながら設定や目線が完全に国民のものであることですよね。登場する人物も、国家の意向に沿った勇ましい物言いをしていながら実際は実に弱々しい。物語の形として、弱々しい彼らがその弱さを克服して行くという流れでそのギャップを非常に上手に繋げているために、軍部当局もペケをつけられなかったのではないかと推測するのですが、本当のメッセージは「解る人には解る」作品になっていると思います。
    2011年05月29日 23:51
  • ChinchikoPapa

    菅原純さん、重ねてコメントをありがとうございます。
    大学出の初年兵が、機関車の運転室で訓練中、友人たちと汽車に乗り楽しくスキーに出かけたシーンを、画面にオーバーラップさせて回想する場面がありますけれど、スキー場へと向かう女学生を含めた学生たちの楽しそうな様子が、まったく否定的に描かれておらず、むしろ若者たちの当然の「楽しみ」として肯定的に回想されている・・・という点に、陸軍当局の検閲官は気づかなかったものか、非常に不思議に感じますね。
    あんなに楽しい時間があったのに、いまはなぜこんなことをしなければならないのか?・・・という疑問がストレートに描かれてしまっているにもかかわらず、「時局に合わない」とも「軟弱だ」ともクレームをつけなかったとすれば、検閲官の思想や資質にも要因があるようにも思えます。
    以前にも、記事『「無法松」はどこへいった?』の中でも書きましたが、『無法松の一生』(1943年)の監督稲垣浩が証言しているように、「戦争未亡人」の描き方は軍部としては上映を容認できないが、「検閲保留」にするからこのまま試写会はずっとつづけたらいい・・・と検閲官が裁定し、実質は公開されてしまった事例もあります。この検閲官は、アッツ島での「玉砕」やキスカ島からの敗退がつづく状況下で、「戦争もそう長くはないだろうから」と明らかに敗戦を意識した言質も洩らしていますが、検閲官自身も芸術や表現には惹かれてやまない「学士」だった可能性がありますね。
    陸軍といっても1枚岩のような組織ではなく、検閲官というのはおそらく“閑職”でしょうから、同じ軍部でも“主流派”ではない人物が担当していた・・・というような見方もありえるかと思います。こちらでも何度か書いていますけれど、陸軍部内でのさまざまな派閥抗争が人事異動の隅々にまで及び、陸軍省の中央部とはかなり思想や姿勢が異なる軍人が、末端の対民間・対報道の折衝・交渉部局にはいたのかもしれません。
    木下恵介『陸軍』に描かれた、最後に田中絹代が行軍を追いかけるシーンはあまりにも有名ですね。このような作品が撮られており、また検閲官の思いや資質で意図的に許可したのか、あるいはボーッと観ていて気づかなかったのかは別にしても、それが上映されているところに、わずかながら「救い」を見いだすことができるのだと思います。
    2011年05月30日 11:36
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
    2011年05月30日 23:58
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2011年06月12日 21:27
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、ご丁寧にnice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
    2011年06月20日 23:03
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2014年03月11日 17:19

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Tracked: 2014-01-08 00:14

西武線にみる鉄道連隊の痕跡。
Excerpt: 以前、1926年(大正15・昭和元)の暮れに、西武電鉄(現・西武新宿線)Click!の敷設を数週間で結了したと思われる、千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊の工事をご紹介Click!した。国立公文書館..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-03-24 00:02

ヤギ牧場と家族は1トン爆弾で消えた。
Excerpt: 先日、寺崎マリ子の記事Click!でご紹介した、学習院生涯学習センターの猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』(蒼空社)の中に、井荻駅から西武電鉄Click!に乗って下落合駅で降り、5分ほど..
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Tracked: 2014-08-15 00:00

吉屋信子の下落合風景「牛」。
Excerpt: 吉屋信子Click!は、下落合を散歩するときに犬を連れ歩いていたが、ときには手に入れたカメラも携帯していたようだ。彼女が散歩Click!に持ち歩いていたカメラは、大正期の末に米国コダック社から発売され..
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Tracked: 2014-11-22 00:00

下落合の「松影道」と「八重垣道」。
Excerpt: のべ1,000万人の読者のみなさん、ご訪問をありがとうございます。 今週の13日(火)の早朝、当ブログへの訪問者(PV)が1,000万人を超えた。落合地域ひいては江戸東京地方の事蹟や物語に、たくさんの..
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Tracked: 2015-01-15 00:00

下落合を描いた画家たち・松本竣介。(2)
Excerpt: 1997年(平成9)に不忍画廊から出版された『松本竣介の素描』を、椎名町のギャラリーいがらしClick!からお借りして眺めていたら、落合風景の作品が何点か含まれているのを見つけた。これらの素描作品は、..
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Tracked: 2015-02-20 00:01

地下鉄「西武線」は1929年3月開通予定。
Excerpt: 1928年(昭和3)2月に東京市役所まとめた、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』という報告資料が残されている。その中で、西武鉄道と武蔵野鉄道などが紹介されているのだが、交通網の整備の視点..
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Tracked: 2015-12-23 00:00

質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。
Excerpt: 下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子Click!は、関東大震災Click!ののち1925年(大正14)から1927年(昭和2)にかけ、身体の具合がよくない役人の父親が静養できる..
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Tracked: 2016-01-22 00:01

大正期からの神高橋はなぜ斜め?
Excerpt: 学生時代から下落合方面への帰路Click!、あるいは仕事の帰り道Click!で帰宅するために、神田川Click!に架かるあちこちの橋をわたってきた。その中で、おそらくわたった回数が多くとても印象的だが..
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Tracked: 2016-02-27 00:01

焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。
Excerpt: 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは..
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Tracked: 2017-03-08 00:00

『新編武蔵風土記稿』にみる小名「中井」。
Excerpt: 相変わらず江戸期の資料を漁っているが、「中井」の呼称について書かれたものに、もうひとつ『新編武蔵風土記稿』がある。大田南畝Click!によって1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている『高田雲..
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Tracked: 2017-07-12 00:00