「カルピス中毒」の中村彝。

中村彝アトリエ2011.jpg
 鈴木三重吉Click!が主宰する「赤い鳥」Click!などに掲載されたカルピス広告Click!を、これまでいくつかご紹介Click!してきた。そんなカルピス広告シリーズで、武井武雄Click!がイラストを担当した1928年(昭和3)の媒体広告があるのでご紹介したい。「カルピス兵隊」とタイトルされた広告なのだが、「カルピス兵隊、一、二、三、足並そろへて、一、二、三・・・」と西條八十Click!によるコピーが添えられている。「コビン一ポン二十セン タップリコップニ三バイブン」と書かれているが、当時の清涼飲料としてはラムネやサイダー、ジュースなどに比べればかなり高価だ。
 滋養強壮によく、栄養補給(特にカルシウム摂取)には最適な飲料ということで、武井は「元気な兵隊」イラストを描いたと思われるのだが、見方によってはカルピスがないと生きてはいけない人たち・・・のようにも見える。事実、カルピスが病みつきになり、毎日飲むのをやめられなくなってしまった人たち、カルピス「依存症」の人たちが少なからずいたようだ。下落合のアトリエで闘病生活をつづける、中村彝Click!もそんな「カルピス中毒」Click!になったひとりだった。
 わたしが子どものころ、湘南海岸の浜辺ではカルピスを壜ごと、そのままラッパ飲みするのが、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちの間で流行っていた。もちろん、壜から直接のラッパ飲みなので、濃い原液のまま飲んでいたわけだが、流行りのカッコつけとはいえ彼らも少なからず「中毒」になっていたにちがいない。その情景は、桑田佳祐が制作した『稲村ジェーン』Click!(1990年)にも記録されている。当時は、フルーツカルピスというのが何種類か発売されていて、いろいろな風味を楽しめたわけだが、原液のままだからノドがヒリヒリするほど甘かっただろう。糖分の摂りすぎで、サーフィンや海水浴以上に身体が冷えたお兄ちゃんやお姉ちゃんがいたのかもしれない。
 カルピスは、水やお湯で割って飲むのが発売当初からの“お約束”で、水による希釈の方法まで解説した広告が出ている。初期の400ml壜を水で薄めて2升(3600ml)にすると書いてあるので、なんと9倍に希釈して飲むことが推奨されていたことになる。1922年(昭和11)に、容器がひとまわり大きくなり青い水玉の580ml壜が誕生するのだが、1960年代のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちと同様、つい1日1本を空けてしまう人たちもいたようだ。大正期の広告には、「一度飲んだらやめられぬ、カルピス」というキャッチフレーズの広告も多い。
カルピス広告(武井武雄・西條八十)1928.jpg
 中村彝がカルピスに病みつきになったのは、1920年(大正9)の4月ごろからだから、カルピスが新発売された1919年(大正8)の翌年、まだ間もない時期のことだった。きっかけは、「パン屋のオヤヂ」こと新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!が病中見舞いに、下落合のアトリエへとどけてきたのがはじまりだ。以下、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』所収の書簡、1920年(大正9)5月3日付け洲崎義郎(すのさきぎろう)あての手紙から引用してみよう。
  
 この頃は毎食後カルピスと云ふものを飲んで居ります。乳酸カルシュームに葡萄糖等を入れて、「口あたり」のいゝ飲料にしたものです。僕の病中に中村パン屋のオヤヂが見舞に呉れたのですが、これが又馬鹿に旨しくて迚(とて)も止めることが出来なくなりました。そしてたうとう一壜を平けて、今改めて三壜注文した位です。これは胎児を持つ母親、つはりの患者、乳児を有する母親(これ等の骨成分を補ふ)等に卓効があるさうですから、「政子さん」等にもきつといゝだらうと思ひます。それに味が猛烈にいゝから、飲料品としても素敵です。
  
 ・・・と、もうベタぼめだ。当初は、水で少し薄めて飲んでいたのかもしれないが、だんだんと摂取量が多くなり、毎日1壜空けるようになってしまったことが友人の記録にも残っている。
ごっくん原液カルピス1.jpg ごっくん原液カルピス2.jpg
 「パン屋のオヤヂ」としては、結核が少しでも快方に向かうようにと見舞いにとどけたのかもしれないが、結果的に彝は「カルピス中毒」となってしまい、結核がどんどん悪化していく晩年には糖分を大量摂取することになってしまった。当初、お見舞いにとどけられたカルピスは、最初期の紙箱に入れられた400ml壜だったのだろうが、580mlの青い水玉パッケージの徳用壜が発売されると、彝はさっそく大壜のほうを買うようになった。彝が描いた『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)の花瓶に敷かれた包み紙は、1922年(大正11)に発売された580ml徳用壜Click!のほうだ。これを毎日1本空けていたら、どんな健康な身体でも具合が悪くなりそうだ。
 そんな目で、改めて武井武雄と西條八十の広告を見ると、なんとなくカルピスが病みつきになってしまった人々が、カルピスを手放せずにいつも背負って歩いているようにも見えてくる。中村彝が存命中、1920年(大正9)当時のカルピス広告にはこんなコピーが載せられていた。
  
 婦人の保健 胎児の栄養 飲めば甘露の滋養料 一度飲んだらやめられぬ。
 カルピスはカルシウムとカルピス即ち甘露味との合成品で四千年来の経験と最新科学の生んだ甘味で滋養の飲料です 体調を整へ、妊婦は胎児を強壮にする特別の滋養分があります、又老人にも少年にも病者も壮者も人生の高貴なる悦楽に酔うべき甘露味であります 全国到る処、酒店、食料品店薬店にあり、品切のときは一壜でも届けます。 東京日本橋際 国分商店
 一壜を水又は湯に薄めますと二升になります (句読点ママ)
  
カルピス400ml1919.jpg カルピス580mL1922.jpg
カルピス広告1920.jpg
 わたしはカルピスが好きだけれど、たとえ水で希釈したとしても1日1壜は飲めない。湘南のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、その後、体調は大丈夫だったろうか。カルシウムを摂るつもりが、過度の飲みすぎで骨や歯がもろくなってしまったのではないか? 中村彝は、いまだ身体を動かすことができた時期、俥(じんりき)に乗って大塚の歯医者Click!へ頻繁に通いつづけていたようだが、カルピスの飲みすぎで歯がボロボロになっていたのではないだろうか?

◆写真上:下落合で保存の準備が進んでいる、中村彝(鈴木誠)アトリエの現状。
◆写真中上:武井武雄のイラストと西條八十のコピーによる、1928年(昭和3)のカルピス広告。
◆写真中下:桑田佳祐が1990年に制作した映画『稲村ジェーン』(1990年)に登場した、わたしには懐かしい記憶のカルピスをラッパ飲みするお兄ちゃんたち。
◆写真下は、1919年(大正8)に発売された初代カルピス()と、1922年(大正11)に発売された580ml入りの徳用壜カルピス()。は、1920年(大正11)のカルピス広告。

この記事へのコメント

  • hanamura

    こちらのブログで爆笑したのはぁ…、やっぱり初めてでした。
    2011年05月08日 11:47
  • opas10

    カルピスには「カルピスウォーター」を出す社会的責任があったんですね、昔から(笑)。
    2011年05月08日 13:01
  • ChinchikoPapa

    うちは2か所とも墓地は大丈夫でしたけれど、地域によって揺れ方に差があったものか、墓石がずいぶん倒れたようですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年05月08日 16:47
  • ChinchikoPapa

    相対的なものの見方ができなければ、身近な他者を「思いやる」気持ちを得ることも、ひいては問題意識の形成も社会観の獲得も難しいでしょうね。nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
    2011年05月08日 16:54
  • ChinchikoPapa

    「Spihumonesty」は学生時代に出たトライアングルジャケットが印象的で、パパパパパ・・・という音の記憶があります。確か、2曲目が静謐で気に入ってたでしょうか。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2011年05月08日 17:07
  • ChinchikoPapa

    イタリアンレストランのカフェテラスに置かれたイスとテーブルは、まるで1920年代のヨーロッパですね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2011年05月08日 17:12
  • ChinchikoPapa

    hanamuraさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    気に入っていただけたみたいで、なによりでした。^^ ときどき、自分で書いててニヤニヤしてしまう記事があるのですが、そういう記事を増やしたいですね。
    2011年05月08日 17:16
  • ChinchikoPapa

    opas10さん、コメントとnice!をありがとうございます。
    わたしの周囲では、そのまま原液で飲んでいる子たちがけっこういました。おそらく、「甘味」がなによりもご馳走だという感覚が、60年代はまだどこかに残ってたのかもしれませんね。当時のジュースもケーキも、いまからは考えられないぐらいに甘かったように思います。「甘さひかえめ」が求められるようになってきたのは、70年代末ぐらいからだったでしょうか。
    2011年05月08日 17:31
  • ChinchikoPapa

    北一輝と大杉栄というテーマは、特に北一輝晩年の思想に関しては大きなテーマですね。北は二二六による「蹶起」を、方法論的にはフェーズ1だと捉えていたと思われますので、フェーズ2の先をどのように想定していたものか、大杉栄との思想的なつながりはそのあたりにあるように思います。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2011年05月08日 17:42
  • ChinchikoPapa

    「車掌車」なつかしいですね。貨物列車の最後尾で、旗をふっている車掌さんの姿は子供のあこがれでした。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2011年05月08日 17:46
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>siroyagi2さん
    2011年05月08日 19:21
  • ChinchikoPapa

    あまり馴染みのない野菜類ですが、料理を見ると美味そうです。nice!をありがとうございました。>あすぱらさん
    2011年05月08日 22:49
  • SILENT

    カルピスの広告は日本のコカコーラのイメージでした
    その原液を一気飲み凄い時代がちょい前まであったんですね。
    稲村ジェーンのあのオート三輪が大好きです。
    カルピスの水玉とシンボルの人モダンでしたねー。
    2011年05月09日 12:58
  • ChinchikoPapa

    親父が連れていってはくれなかったせいか、戦後の「もんじゃ焼き」にはあまり縁がなく、月島でも「どんど焼き」(お好み焼き)のほうを選んでしまいます。下町の食べ物と一般化されがちですけれど、「もんじゃ焼き」が浸透しなかった下町エリアもけっこう多いですね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2011年05月09日 13:47
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    わたしはやったことありませんけれど、原液の一気飲みはノドが痛くなり、気持ちが悪くなったのではないかと思います。w 映画の中では、オート三輪(ミゼット)が懐かしいですね。あれに長いボードを載せて走ってますが、そういう情景を見た記憶がないところをみますと、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは自転車か手で、ヨイショヨイショと板を運んでいたように思います。
    2011年05月09日 14:01
  • ChinchikoPapa

    懐かしい曲ですね、久しぶりに聴きました。
    nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
    2011年05月09日 14:06
  • ChinchikoPapa

    先日、久しぶりに戸田レース場で行われた早慶レガッタを観ました。戦前は、隅田川の河口までレースが行われていたとかで、たくさんの物語が眠っているのですね。nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
    2011年05月09日 23:26
  • ChinchikoPapa

    ほんとうに、5月の風はその香りとともに緑色をしていそうですね。nice!をありがとうございました。>istさん
    2011年05月10日 01:01
  • ChinchikoPapa

    ゆで卵よりも、まず稲荷へと目がいってしまいました。昔ながらの、ほんとに美味そうな稲荷です。nice!をありがとうございました。>ばんさん
    2011年05月10日 11:30
  • ChinchikoPapa

    うちのペットは、真夜中にニャーーオ!と大音声を発したり、寝ている人間の顔へ冷たい鼻を押しつけたり、気に入らないと噛みついたり引っかいたりと、もう手のかかるやりたい放題のことをしてくれています。w nice!をありがとうございました。>コトキャンさん
    2011年05月10日 18:26
  • sig

    こんぱんは。
    懐かしい武井武雄の絵をありがとうございました。
    カルピスを原液のまま・・・とは驚きです。私は甘いものを知らずに育った子だと、よく母から言われていましたが、カルピスは高価な飲み物だったと思います。飲むならおそらく何倍にも薄めて「カルピス味、カルピス風味」としてたしなんだことでしょう。笑
    2011年05月10日 21:44
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    そういえば、子どものころカルピスは高価でした。わざわざ買ってくれることは少なく、家にとどいた贈答品かなにかでたまに飲んでいましたね。コップで飲むとすぐになくなってしまうので、よく水で薄めたものを製氷皿で凍らせて、アイス状にして少しずつ食べていた憶えがあります。
    大正期は、現在の感覚よりもはるかに高価な飲み物でしたから、おカネ持ちでない限り気軽に飲めなかったと思います。中村彝が晩年、しょっちゅう借金の依頼をあちこちにしていたのは、カルピスを毎日飲みたかったからかもしれません。w
    2011年05月10日 23:17
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
    2011年05月11日 13:50
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
    2011年05月12日 09:59
  • ぼんぼちぼちぼち

    甘いものは基本 好まないんでやすが カルピスは好きでやす(◎o◎)b
    特に お湯割りとソーダ割りが好きでやす♪

    幼少のころ、よく 中元歳暮にカルピスの詰め合わせが来やしたが
    フルーツカルピスはいらないなーと思ってやした。
    今またいろんなフルーツ系カルピスが出てやすが
    やはり あれらには興味ありやせん。

    あ、これからの季節は 氷カルピスでやすね(◎o◎)b
    こればかりは原液でないと駄目でやすね。
    2011年05月12日 19:06
  • ChinchikoPapa

    ぼんぼちぼちぼちさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    わたしは、甘いのも辛いのも両方好きですが、カルピスももちろん好きです。森永コーラスよりも、圧倒的にカルピスファンでした。w フルーツカルピスは、贈答品でとどいて飲んだことがあるはずですが、その風味の記憶がほとんどないところをみますと、あまり感動しなかったんでしょうね。
    そう、これからはカルピスの原液にかき氷が美味しいのです。^^ あるいは、あらかじめ薄めたカルピスを凍らせて、それをかき氷にして食べるというのも、またあっさり風味で美味いですね。
    いま、スーパーで買うカルピスは紙パックですが、贈答品用の詰め合わせは、相変わらず茶色い壜の製品でとてもなつかしいです。
    2011年05月12日 20:03
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2011年05月14日 00:36
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2011年05月25日 00:07
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、ごていねいにnice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2011年05月25日 00:08

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