佐伯祐三Click!の下落合をモチーフにした風景画には、タブローとしての油彩画だけでなく、淡い水彩をほどこした素描やスケッチがいくらか残されていることは、すでにここでも記事Click!に書いていた。その中には、遺族のもとで大切に保存されてきた40点ものスケッチも含まれている。昨年(2010年)開催された「佐伯祐三-下落合の風景-」展では、それらスケッチ類の多くが公開され、初見の作品も数多く含まれていた。
朝日晃は、これらスケッチの制作年のほとんどを1921年(大正10)ごろ、すなわち佐伯が下落合へやってきたばかりの借家Click!住まいのころから、下落合661番地Click!へ自宅+アトリエClick!を建てて引っ越したあたりの仕事だとしている。作品には、その仕様を記した整理ノートが付随しているが、おそらく朝日晃の規定を踏襲したものだと思われる。しかし、スケッチの筆運びやタッチなどをみると、もう少し制作年に幅がありそうにも思える。
これらのスケッチには、明らかに下落合の風景をとらえたと思われる画面やタイトルが何点か存在している。それほど昔ではない時期に作成されたと思われる整理ノートにしたがって、記録された整理順にピックアップしてみよう。まず、いかにも住宅の建設ラッシュだった、当時の下落合を髣髴とさせる作品に、『屋根の上と職人』(整理番号:No.22/以下同)がある。屋根職人が瓦を葺いている作業風景なのだが、1923年(大正12)の関東大震災以降、下落合に建てられる住宅の屋根はスレートかトタンが一般的となるため、大震災前の可能性が高い。
つづいて、『屋根と二本の木』(No.24)というスケッチ。明らかに丘上、あるいは崖線の中腹とみられる高所から眺めた、下落合らしい風景の作品だ。遠方に見えているのは、上戸塚(現・高田馬場4丁目)か上落合をはさみ、柏木(現・東中野)方面へつづく住宅街だろうか。銭湯または工場と思われる煙突からは、いく筋かの煙が立ちのぼっているのが見える。目白崖線沿いの、いずれかの高台からの眺めだとすると、これほど住宅が密集してくるのは制作年とされている1921年(大正10)ごろではなく、少なくとも1923年(大正12)9月の関東大震災以降のことだ。
『洋館の屋根と電柱』(No.25)は、いかにも下落合らしい風情を感じさせてくれる。周囲を樹木に囲まれた敷地に、2階建ての洋風住宅が建っている。大正期の「洋館」というよりも、さらに古い明治期後半の意匠を感じさせる和洋折衷の建築だ。見えている電柱は電燈線(電力線)Click!のものであり、電話線(電信柱)ではない。
つづいて、『野原と電柱』(No.27)も電信柱ではなく、電燈線柱が描かれている。タイトルでは「野原」となっているけれど、いずれかの新しい住宅造成地へ向けた電柱群なのかもしれない。大正中期から後期にかけての下落合では、人家がほとんど見られない場所に電柱だけが並んだ、このような風情がいまだあちこちで見られただろう。手前の小さな崖地と思われる下には道が通い、切通しのような地形を感じさせる。松下春雄Click!が写しとった「下落合風景」にも見られるように、このような切通し状の道筋が随所に存在していたと思われるが、その後の宅地開発では道路面と住宅敷地との段差を低くするために、土地の表面がずいぶん削られている。また、戦後には車庫や地下室のニーズが一般化したため、敷地を道路と水平にする建て替えが急増し、大正期のままの敷地をいじらずにいる邸宅Click!は、下落合でも少なくなりつつある。
次に、下落合の描画ポイントをすぐにも想定できそうな作品に、『野菜洗い』(No.36)がある。佐伯アトリエのすぐ南側に口を開けた、不動谷Click!あるいは西ノ谷とも呼ばれた第三文化村Click!の谷戸Click!がある。また、佐伯アトリエから東へ200mほど離れた、曾宮一念アトリエClick!の南側にも諏訪谷Click!と呼ばれた谷戸が存在している。それぞれの谷底には、湧水が流れこむ池が形成されており、双方とも「洗い場」と呼ばれていた。近くで収穫された野菜類を、出荷を前に農民たちが洗浄作業をする湧水池であり、不動谷(西ノ谷)の「洗い場」はのちに南へ移動して釣り堀Click!に、諏訪谷の「洗い場」は大正末にやはり南へ移動してのちにプールClick!となっている。素描『野菜洗い』は、佐伯アトリエに近いいずれかの「洗い場」の光景をスケッチしたものと思われる。
最後に、『家並』(No.38)という作品がある。同作も、新宿歴史博物館Click!での佐伯展で展示されたと思われるのだが、図録へ掲載されておらず、わたしの記憶にもないところをみると、下落合の風景には思えなかった画面だろうか? 画像を撮影しておかなかったのが惜しまれる作品だ。
佐伯祐三が、下落合661番地にアトリエを建てた1921年(大正10)の秋ごろClick!から、本格的に「下落合風景」シリーズClick!に取りかかる1926年(大正15)の間に、下落合の街並みは激変している。1923年(大正12)の秋、一度めのパリへ向かった佐伯は1926年(大正15)に帰国した際、もっとも驚いたのは大震災から復興をつづける東京市街の姿ではなく、下落合風景の変化だったのかもしれない。佐伯が2年半の滞仏中に、「落合村」が「落合町」へと変わり、以前は野原や住宅造成地だったところが、西洋館を中心とする住宅街へと変貌していたからだ。
◆写真上:鉛筆でスケッチされた、佐伯祐三『屋根と二本の木』(No.24)。1921年(大正10)ごろの作品とされているが、下落合から眺めた新宿方面だとすればもう少し時代が下ると思われる。
◆写真中上:佐伯の素描作品40点とともに、付随して保存されている作品整理ノート。作品名や制作年は、後年の朝日晃による規定だと思われる。
◆写真中下:上は、『屋根の上の職人』(No.22)。中は、『洋館の屋根と電柱』(No.25)。下は、現在でも見ることができる、大正期の下落合らしい崖線沿いの和館とスパニッシュ風の洋館風景。
◆写真下:上は、『野原と電柱』(No.27/部分)。下は、『鍬を持つ農夫』(No.18/左)および『畑に立つ農婦』(No.23/右)で、ともに作品の中央部分。
★この農夫シリーズは、「下落合風景ではなく大阪の「淀川風景」の可能性が高い。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
SILENT
津波には弱そうです。裏の王城山なら70メートル微妙です。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
1923年(大正12)の当時とはちがい、大磯海岸には堤防も水門もありますから、なにもない平塚海岸とは異なり、かなり勢いは削がれるのではないでしょうか。ただ、通常の波とはまったくちがいますので、関東大震災時の到達時間の速さも考慮しますと、すぐに高い場所への避難を考慮されたほうがよさそうですね。
当時は砂丘でなにもなかった茅ヶ崎海岸とか、防風林だけの平塚海岸は、海辺の近くにまで住宅街が押し寄せてますので、すぐ背後に山をひかえた、比較的高い土地のある大磯以上に危険だと思っています。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>opas10さん
sig
これらのスケッチでしょうか、デッサンでしょうか、こういうタッチは大好きです。やはりみごとなものですね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>コトキャンさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>istさん
ChinchikoPapa
ここではご紹介してませんが、ウシをつかって畑を耕す農夫など、どこかゴッホのタッチを想わせる表現です。第1次渡仏の際、佐伯はゴッホの墓やゆかりの描画ポイントを、かなりていねいに廻っているようですので、その表現に相当のめりこんでいたように感じますね。
ニセアカシアの花の天ぷら、食べてみたいです。w
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>タッチおじさん
ものたがひ
『屋根と二本の木』は生真面目な描き方なので、1921年頃という学生時代の作と朝日氏は推定されているかと思うのですが、佐伯の現存するスケッチは少ないこともあり、明確に比定することは難しいと言えましょう。
1927年3月であった場合、佐伯は、中央美術展や全関西洋画展覧会に出品しつつ、4月の紀伊国屋での個展の準備をしており、その個展には下落合風景も出していましたね。^^
『屋根と二本の木』を、佐伯の第1次と第2次のパリ行きの間の、「下落合風景」期の作と仮定すると、私は「制作メモ」の(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-12-29)『松の木のある風景』との繋がりを思ってしまいます。『屋根と二本の木』の左の木は、松のような枝振りに見えます。また、2本の木々は、佐伯の立つ位置より随分「下」から生えており、「制作メモ」の『松の木のある風景』の文字の右手には「したの細道」と書いてあるように読めます。「制作メモ」の『松の木のある風景』は、『遠望』『見下シ』という、下落合のバッケの上から南方を見下ろす作品の数日後に描かれています。無論、「制作メモ」の『松の木のある風景』は1926年10月に制作された15号の油彩画であり、この小さな鉛筆スケッチとは別物ですが、「下落合風景」期の佐伯が、気に入ったモチーフは繰返し描いている事を思い起こすと、あの松の木の場所に、またスケッチを描きにきたかも、と想像するくらいは許されるように思うのです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ものたがひさん
ChinchikoPapa
「屋根と二本の木」は、下落合西部(アビラ村)の斜面から眺めた風景と仮定した場合は、1921~23年(大正10~12)の大震災前ということは、家々の建ち並ぶ様子からほぼありえないと思います。ただし、下落合東部の山手線に近い目白崖線の斜面から上戸塚や百人町方面を眺めたとすると、ちょっとわからないですね。その場合、非常に目立つ当時は突出して高いビルだったであろう、東京電燈の目白変電所が視界に入っていないのが、とても気になります。あるいは、薬王院あたりの斜面から、上戸塚・百人町側を眺めた風景でしょうか? 1921~23年の夏ぐらいまでの風景としては、少々不自然に感じるゆえんです。
左側の樹木は、おっしゃるとおり松の木(クロマツ)のように見えますね。記事末に、制作メモの「松の木のある風景」の箇所を、改めて拡大掲載してみました。ご参照ください。あくまでも、『みづゑ』からの複写ですので、拡大するとドットがより大きく見えてしまいますが、掲載写真の原寸に400dpiでスキャニングを行ったものです。
そういえば、「したが細(道:しんにょうのみ)」とも読めそうですね。「松の木~」にいたる数日は、なんとなく崖線から南を描いたようなタイトルが並んでいるようですので、同じような風景をモチーフに、反復して描いている可能性もありそうです。これらの風景スケッチがすべてではなく、ほかにも失われてしまったものも多数ありそうですが、ひょっとすると以前にスケッチしていた場所を、帰国後に再び訪れてタブローにしているという可能性もありえますね。
ChinchikoPapa
ものたがひ
ChinchikoPapa
確かに、いまの下落合駅から落合下水処理場のあたりにかけて、早くから工場群が見えてるんですよね。ただ、家の密度が震災前にしては少し高すぎるかな・・・とも思うんです。
なにしろ、西武電車が通ったあともキツネが目撃されたり、目白崖線に並ぶキツネ火(山手では「キツネの嫁入り」と表現されていますが)が灯るような周囲の風情ですので、あまり人家や工場があると、タヌキは棲息できますが神経質なキツネは棲めないんじゃないかと。w
そのあたりが、ちょっとひっかかってはいるのですが・・・。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sonicさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
dendenmushi
ChinchikoPapa
わたしも知らないことばかりで勉強中ですので、「なんでも物知りの」は余計ですからトルツメしてください。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa