関東大震災について書きためた記事を整理。

東京駅前19230905.jpg
 これまで、関東大震災に関連した記事をさんざん書いてきた。それは、東京の大地震に関する「69年周期説」という見方が明確に否定され、関東大震災と安政大地震とはまったく別タイプの地震であることが明らかになってきた、1990年代以降の成果を踏まえて書きためてきたものだ。関東大震災は、相模湾沖のプレートのズレによって引き起こされた地震だが、安政大地震はいまだ解明されていない、江戸東京直下を走る活断層に起因するものと思われる。
 江戸東京直下の内陸地殻内地震(安政大地震)は、ポツンと単独で起きているのではなく、その前年である1854年(嘉永7・安政元年)11月4日未明の安政東海大地震(推定マグニチュード8.4)、およびその翌11月5日(32時間後)に起きた安政南海大地震(同マグニチュード8.4)、さらに翌11月6日に四国から九州沖で起きた豊予大地震(同マグニチュード7.4)が引き金になっており、それが翌年1855年(安政2)10月2日に起きた江戸直下型の安政大地震(同マグニチュード6.9)を誘発したとみられている。今回の東日本大震災と同様に、最初は海洋プレート型の巨大地震が起きたあと、内陸地殻内の活断層が次々と刺激され、茨城北部や長野北部、静岡東部などでも大きな内陸型の地震が起きたのと、ほぼ同じドミノ・プロセスを経ていると思われる。
 特に、東海大地震がいつ起きても不思議ではない「秒読み」段階に入った現在、ほとんど1日おきのきわめて短期間につづけて起きた南海大地震、および豊予大地震を前提とするなら、そろそろ安政大地震タイプの東京直下型地震を想定しても、あながちピント外れではないだろう。また、安政期の地震経過を踏まえるならば、活断層の上に位置する浜岡原発、ならびにプルサーマル計画ですでにプルトニウム燃料が装荷された四国・愛媛の伊方原発について、深刻な事態を想定してなんらかの手を打つのが、国家の初歩的な危機管理のあり方としては急務の課題だろう。
 では、まず関東大震災あるいは安政大地震についての概要を、過去記事を通じてまとめてみよう。
 ◆安政大地震
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-04-08
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29
 ◆関東大震災
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-08-19
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-08-24-1
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-04-13
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-10-16
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-12
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-06-07
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-06-10
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-03-13
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-08-31
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2016-01-25
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2016-09-30
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-06-24
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-07-30
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-09-01
 https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-30.html
 https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-02.html
 https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-31.html
 https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2023-08-31
 https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-10
 ◆「めずらしい関東大震災ピクトリアル」シリーズ
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2018-10-24
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2018-11-14
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2018-11-20
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-02-21
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-03-02
 https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2019-03-11
 いままで何度となく書いてきたことだけれど、今回の東日本大震災で事実として表面化したことがあった。それは、強い揺れと同時に高層ビルのエレベーターがほぼすべて止まり、中に人が閉じ込められたケースが都内で200件以上にものぼったことだ。今回は、東京が被害の中心ではなかったため、エレベーターを再起動するためのメンテナンス要員がサービス会社から駆けつけ、あるいはドアをこじ開けるために消防署からのレスキュー隊が、それほど時間もかからずに現場へ到着しているようだ。それでも「来るのが遅い!」と、サービス会社のメンテナンス要員に食ってかかった高層マンションの住民のことがニュースになった。
 でも、東京が被災地の中心であれば、当然のことながら交通路が満足に機能せず、サービス要員も緊急車両も現場へいつ到着できるかはまったくわからない。これは、エレベーターの問題に限らず、高層ビルで階下から火が出た場合の消火作業も同様の課題だろう。地付きの人間の言うことをいっさい無視し、東京に高層ビルを建てるということ、また高層ビルの上階で暮らすということは、こういうことを意味するのだということを、改めて確認しておきたい。
 東日本大震災でも、津波にまつわるフォークロアや伝承をきちんと尊重した町あるいは人々が、高台に住宅街を移して助かっているのを見れば、地元の歴史や伝承、地付きの人間の言葉がいかに大切かがわかるだろう。戦後、建設会社が意図的に流布している「流言飛語」なのか、東京湾に津波は来ないなどという“神話”があるようだ。江戸の河川が津波の伝路となり、上流域にまで甚大な被害を及ぼしたのは、わずか155年ほど前の出来事だ。ましてや、埋立地が多い“オシャレ”な湾岸沿いは、地盤の脆弱性とともにたいへん危険な0メートル地域だ。そこへ、データセンターなどの重要施設や高層ビルを建てるということが、どういうことなのかを考えてみてほしい。
 幸い火災が起きなくても、エレベーターを復旧させるために作業員が派遣されてくるのは、道路が復旧する震災から何日先か、あるいは何週間先になるかわからない。エレベーター事故が、わずか200ヶ所どころでないのももちろんだが、サービス会社や消防署・警察署との連絡網はもちろん、作業員や署員の生命さえ無事かどうかわからないのだ。東京が被災現場であれば、すぐに復旧することなどありえないだろう。その間、10階20階の住民は、いちいち水や食糧を階段で運び上げざるをえず、実質的には「高層マンション難民」とならざるをえない。いや、これは個人レベルでの居住の危険性に限らない、企業にとっても一義的なリスク管理の課題だろう。それは、阪神淡路大震災の高いビルやマンションで、すでに経験済みのことではなかったか?近衛師団司令部19230905.jpg

上野不忍池19230905.jpg
 ◆高層ビル・構造物やガラス張りビルの危険性
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2004-12-02-1
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-04-28
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-06-24
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-26-1
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-07-31
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-02
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-02-05
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-09-20
 また、落合地域の関東大震災に関するエピソードについても、ずいぶん記事中に書いてきている。1923年(大正12)9月1日、およびその後の経緯の中で、落合地域ではなにが起き、あの人はどのようにすごしていたのだろうか? あるいは、のちにどのような物語が生まれていたのだろうか?
 ◆関東大震災をめぐる落合地域の物語
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-03-15
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-09-01
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-03-03
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-02-24
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-07-10
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-31
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-10-10
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-10-22
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-12-25
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-26
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-04-12
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-04-22
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-31
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-26
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-08-08
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-08-18
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-11-26
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-18
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 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-11-07
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 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-04-16
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-05-04
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-09
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 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-17
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-20
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 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-09-28
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-02-16
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-06-04
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-08-30
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2016-10-03
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2017-09-01
 https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2023-11-08
神田猿楽町19230905.jpg

日本橋本石町19230905.jpg
 さらに、東京の(城)下町ではなにが起き、どのような物語が今日まで語り継がれたのだろうか?
 ◆関東大震災をめぐる江戸東京物語
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-02-10-1
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-02-24
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-06-01-1
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-11-04
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-12-16
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-05-09
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-11-27
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-07-16
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-09-12
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-10-26
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-05
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-12
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-10-03
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-14
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-04
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-28
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-03-13
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-04-25
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2013-10-07
 ◆その他の地震関連
 
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-05
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-17
京橋銀座19230905.jpg
 東京で暮らすということは、いやでも安政大地震と関東大震災を意識しなければならない、その高いリスクを引き受けなければならない・・・ということだ。それを忘れたのは、オリンピックを境に東京で高いビルや高速道路が建てられはじめ、震災復興計画で設置された避難公園や、防火帯あるいは火除け地として残された水路や広場など、防災用に設置された社会資本(防災インフラ)を次々と食いつぶしてきた、小林信彦が引用する言葉を借りれば「いけいけどんどん」の人たち、いざとなれば墓や実家のある故郷へ疎開すればいい(逃げ帰ればいい)と、「わが亡きあとに洪水よ来たれ」で東京生活を送っている江戸東京の恥はかき棄ての人々だ。
 疎開するところも、逃げ帰るところもない、被災地福島が故郷・地元の人たちの心情を、いま、少しでも想像し考えてみてはくれないだろうか? そして、江戸東京の街々で語られてきた伝承、それぞれの地域に伝わる地付きの人々の物語へ、もう少し謙虚に耳を傾けてみてはくれないだろうか?

◆写真上:陸軍飛行第五大隊が撮影した、1923年(大正12)9月5日の東京駅前。
◆写真中上は、同じく飛行第五大隊が9月5日に撮影した北の丸の近衛師団司令部。は、同日に飛行第五大隊が撮影した上野不忍池と壊滅した上野駅周辺の街並み。
◆写真中下は、同日に飛行第五大隊が撮影した神田猿楽町界隈。は、同じく日本橋本石町で画面左側に大破炎上した日本銀行と三越が写っている。
◆写真下:同日の飛行第五大隊の撮影による、全滅した京橋から銀座にかけての街並み。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    このアルバムは手元にないですね。いま聴くと、また新鮮にも聴こえるのでしょうか。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2011年04月29日 01:23
  • hanamura

    国民皆兵というと、スイスみたいでイメージ悪いけど…兵役は韓流俳優のおかげで、イメージ良いのかなぁ…。
     いきなり飛躍しすぎましたが、せめて消火訓練、水防訓練、サバイバル訓練、などを国民の義務にしないと!
     誰かに助けてもらうことしか考えない人たち…助け合うこと、人助けの手段を学んでいない人たち…困ったものです。
     …そして、というか、あげく…っていうのかしら?
     混乱するからボランティアを、被災地が受け入れられない…そりゃそうだ!だって何の訓練も受けていない烏合の衆なのだもの…国民を烏合の衆にしたのは…!?
     ボランティアに参加したい人が大勢居るのに、もったいない話です。
    2011年04月29日 09:09
  • ChinchikoPapa

    東京はどこへ行っても、新緑が美しく春の匂いがしますね。
    nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
    2011年04月29日 12:43
  • ChinchikoPapa

    江戸に視点を据えると、石川島は人足寄場と幕末の造船所ですが、わたしが子供のころはIHIの関連生産施設だったものか、古びた工場が立ち並ぶ鄙びた風景になっていました。そのイメージが佃島のほうまで拡がり、60年代の佃島は「灰色」の印象があります。石川島の排煙とポンポン蒸気の音、それが当時の界隈風情でした。nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
    2011年04月29日 12:53
  • ChinchikoPapa

    hanamuraさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    明治期日本の「国民皆兵」と、スイスの「全民武装」(あたかも国民に武力革命の権限さえ留保するような極端な民主主義的防衛思想)とは、思想的にも歴史経緯的にもまったく異質のものですが、防災訓練は実際に必要ですね。
    ただし、その昔政府自民党の中曽根政権時でしたか、防災施策にかこつけてあわよくば「報道・言論統制」、ひいては「非常時」の「思想統制」的な施策をふところにした、時代錯誤の「隣組」組織のようなものではなくw、きちんとした民主国家的な対策ないし具体的な施策が必要なんだと思います。
    今回の東日本大震災でも、東電と保安院との合同記者会見が決定されたとき、報道組織(マスメディア)や報道団体に所属していないジャーナリストを排除する動きがあからさまに見えましたけれど、「記者クラブ」オンリーの一種の報道規制は、官僚にとってはまことに都合の良い世論操作の状況づくりだと思いますね。なんとか、原発の「安心」できる材料ばかりを同記者会見で質問する大手新聞の記者たち(とてもジャーナリストとも思えず目に余ります)ばかりになってしまえば、どれだけ原発が危機的な状況を迎えているかさえ事実上報道されなくなってしまいます。結局は、多くのジャーナリストからの抗議で記者排除は撤回されましたが、おそらく旧・自民党政権ならそのまま強行されていたのではないかと想像します。
    ただ防災訓練や防災意識の向上以前に、やはり街中の危険性を具体的に減らしていく、防災都市としてのビジョンを提起するのが本来の筋道ではないかな・・・と思うんですよね。
    2011年04月29日 13:22
  • ChinchikoPapa

    「猫の街」と聞いて、青梅に出かけてみたくなりました。w
    nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2011年04月29日 13:27
  • ChinchikoPapa

    落合地域でも、妙正寺川や神田川へ注ぐ分水には、いくつかの水車が作られています。いまだに、水車橋という橋名が残っていたりしますね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年04月29日 13:34
  • ChinchikoPapa

    東京は、「静かなパニック」を起こしてましたね。ただ、この地域が被災地の中心になった場合は、関東大震災時のさまざまな史実が物語るように大きなパニックが起きる怖れがあります。nice!をありがとうございました。>MHPGさん
    2011年04月29日 13:48
  • ChinchikoPapa

    ネコ大好きな藤田嗣治の「猫」は、何度観ても観飽きないでいいですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2011年04月29日 23:27
  • 銀鏡反応

    こんばんは。

    東日本大震災が起こって4、5日経った頃、関東大震災のことをふと「復習」しようと思い、家にあった「週刊20世紀」(講談社刊)という写真グラフ本を持ち出し、勤め先で読みつつ、若し、今回のように大津波を伴う大震災が、東北でなく、この東京のど真ん中で起こっていたら…と思うと、心の底から恐怖を覚えずにはいられませんでした。

    パニックも、被害も、死者も行方不明者も、けた違いに大きくなるでしょうし、また、復興も今の東北・北関東以上の年数がかかり、活断層が刺激されて起こる「ドミノ余震」も、大きなものが頻繁に起こっていたかもしれません…。

    やはり、ゼネコンをはじめ都市開発関係各位は、その土地の、地付きの人の警告なりアドヴァイスを、東京湾岸に高層ビルを建てる前に聞いておけばよかったのではないかと…。
    2011年04月30日 00:10
  • sig

    こんにちは。
    震災についての記事、すでにこれだけお書きになっていたのですね。
    実際、東京直下型の大震災となるとその様子や被害状況は想像を絶するだろうとは思いますが、今回の記事を読ませていただいただけでもとても具体的で分かりやすいです。
    2011年04月30日 11:36
  • ChinchikoPapa

    銀鏡反応さん、コメントとnice!をありがとうございます。
    東京都が想定する巨大地震の被害や死傷者の数は、年々少なくなってきているそうですが、危険な建物や街がどんどん増えているにもかかわらず反比例して減っているのは、前年に比べて被害や犠牲者の数が拡大していると、対策を怠ったということで担当部局や役人が叱責されるのが原因だとか。
    だから、いまや関東大震災や安政大地震レベルの巨大地震が起きても、都内の犠牲者はきわめて少なく(ゼロが2つ違うと思うのですが)、少し前まで万単位だったものが、いまや数千単位にまで減少しています。案件の責任者や担当役人の異動とともに、犠牲者の数は年々限りなくゼロに近づいて、東京都による巨大地震の定義は、しまいには「きわめて安全」になってしまうんじゃないかと思われます。(爆!)
    この「お役所」仕事が非常にヤバイのは、被害が少なくなるほど防災対策の予算も組織も、「すでに被害を最小限にくいとめる施策が手厚く実施されている」ということで、当然ながら削減されていく・・・という、自ら墓穴を掘っていくスパイラル状態におこたっていることですね。東京都による震災の被害想定は、東電の福島第1原発による災害想定とまったく同様、いまや楽観論が前提のなんの根拠もない「大甘」想定となってしまっています。
    根拠や裏づけ、必然性がないのに、偶発的な幸運にめぐまれつづけるという楽観論に立脚し、「勝てる」と無責任な作戦を発動した、あたかも昔日の大本営のようなありさまです。きっと、都にとっては「想定外」のことが今回の東日本題震災以上に、この東京で起きるんじゃないかと思いますね。
    だからというべきか、都をまったくあてにできない、頼りにならないと「気がついている」自治体は、少ない予算を割いてはせっせと防災施策へ少しずつ投入しているような状況のように見えます。
    2011年04月30日 12:05
  • ChinchikoPapa

    「困ったときの吉永さん頼み」という言い方があるのですがw、どうしてもキャンペーンや販促を成功させなければならないとき、さてキャラクターを誰にしよう?・・・と考えると、もう吉永さんへすがるしかないという最終的な意思決定回路なのだそうです。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2011年04月30日 12:16
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>istさん
    2011年04月30日 12:40
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2011年04月30日 12:50
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    関東大震災は、さすがにわたしの親も経験していませんので、数少ない伝承しか書けていないのが残念です。祖父などから語られつづけているエピソードや、江戸東京における「危険のサイン」は空襲による被害以上にゴマンとあるはずなのですが、祖父や親からの断片的な情報しか吹き込まれてきていませんので、切れ切れの記事しかご紹介できていないですね。
    2011年04月30日 13:04
  • ChinchikoPapa

    わたしもバックアップを兼ねて、画像データは外付けHDへ逃がしているのですが、それでも足りなくなりそうです。nice!をありがとうございました。>モルディブTシャツさん
    2011年04月30日 13:06
  • ChinchikoPapa

    連休だというのに、なんとか歩いて帰れる距離の散歩計画しか立てていません。いまだ、どこかで非常ベルが鳴りつづけています。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
    2011年04月30日 17:27
  • ChinchikoPapa

    「不思議惑星キンザザ」は、ずいぶん昔に観た記憶がありますが、すっかり忘れていました。確か、チェルノブイリと同じ年の映画でしたね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
    2011年04月30日 22:40
  • ChinchikoPapa

    ふつうのコーラも「しずおかコーラ」も、天然カフェインが入っているという点では、飲んだあとスッキリする効果は同じかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2011年04月30日 22:45
  • fumiko

    2004年から今年3・11の翌日まで・・・凄い量の貴重なブログですね。
    今回のブログに書いてある事柄1つ1つに同意です。
    我慢の仕方も、「東北人だからできた」と感じることがたくさんありました。
    東京の地震だったら、とてもあのようにはいかない、と思っています。
    2011年04月30日 23:17
  • ChinchikoPapa

    fumikoさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    わたしの知り合いでも、東北の方々はほんとうに粘り強く、また地道にひとつひとつ丁寧に積み上げていくタイプの人が多いようです。まだ、大震災から間もないため、東北人のほんとうの力を発揮するのはこれから・・・というところでしょうか。最後まであきらめず、理想的なかたちでそれぞれの地域を復興していただきたいですね。
    2011年04月30日 23:34
  • アヨアン・イゴカー

    随分沢山の関東大震災に関連する記事を書いていらっしゃるのですね。
    つい、目先のことに追われているような気になって、放置してしまう傾向がありますが、真剣に考えておかねばならないことですね。
    後ほど、拝読いたします。
    2011年05月01日 11:35
  • ChinchikoPapa

    クライングジムは、ほんとに女子の人気が高いようですね。昔は、木登りは男子ばかりで女子はクールに見てましたけれど、いまや高いところに登るのは女の子のほうが得意のようです。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2011年05月01日 17:03
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>siroyagi2さん
    2011年05月01日 17:12
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、いつもコメントとnice!をありがとうございます。
    わたしも、高層ビルの展望台へ出かけると、つい見晴らしがいいなぁ~・・・と気持ちがよくなってしまうのですが、その次に、いまこの瞬間に大地震が来たらどうなるかを考えると、とたんに気持ちが悪くなってきます。
    東京のビルのほとんどは、関東大震災の大きな横揺れを想定した免震構造になっていますが、安政大地震タイプの強烈な縦揺れが起きた場合にはどうなるのか、まったくの未知数ですね。
    2011年05月01日 17:20
  • ChinchikoPapa

    近くに丘や山があれば、なんとか津波から逃げられますが、関東大震災のときは藤沢から平塚までの湘南海岸では、高台がすぐ近くにないため、どこまでも津波が追いかけてきたといいますね。nice!をありがとうございました。>弥生さん
    2011年05月01日 17:48
  • ChinchikoPapa

    食の美味さというのは、したじ(醤油=紫)の良し悪しで決まりますね。nice!をありがとうございました。>mayasophiaさん
    2011年05月01日 22:58
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2011年05月02日 15:56
  • ChinchikoPapa

    こちらへも、nice!をありがとうございました。>つなしさん
    2011年05月03日 20:32
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ばんさん
    2011年05月04日 22:41
  • ChinchikoPapa

    こちらにみ、nice!をありがとうございました。>mk1spさん
    2011年05月15日 20:41

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大震災復興絵葉書にわが家を見つけた。
Excerpt: 関東大震災Click!に関する資料、震災記念絵葉書あるいは震災復興記念絵葉書を調べていたら、意外なことに昭和初期に“復興”したばかりの、わが家の写真を見つけた。「わが家」といっても、わたしは一度も住ん..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-06-04 00:08

猛烈なスピードの大震災鉄道網の復旧。
Excerpt: 1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!で、南関東の鉄道網は壊滅的なダメージを受けた。大きな河川に架かる鉄橋は揺れで次々と崩落し、トンネルは土砂崩れで埋まり、線路や駅舎は揺れと津波とでズ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-06-07 01:22

国際聖母病院の創立物語。
Excerpt: 国際聖母病院Click!の建設計画は、あるひとりの女性の死によって始動している。フランスへ滞在していた医学博士・戸塚文郷(のち聖母病院の初代院長)が、フランシスコ会の会員だったローズという女性の死に際..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-07-04 00:07

裸で「オシャリ」を描く震災直前の中村彝。
Excerpt: 晩年の中村彝Click!の作品には、髑髏がたびたび登場する。彝は髑髏のことを「オシャリ」と呼んでいたことが、曾宮一念Click!などの証言からうかがい知ることができる。これらの頭蓋骨は、友人の多湖實輝..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-07-19 00:30

下落合を描いた画家たち・鬼頭鍋三郎。
Excerpt: 洋画家・鬼頭鍋三郎の名前は、すでに松下春雄Click!が参加していた名古屋の美術研究グループ「サンサシオン」がらみの記事Click!で、すでにここでも登場している。鬼頭は、松下春雄が下落合に住み「下落..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-07-23 00:21

中村彝アトリエ記念館の計画平面図。
Excerpt: 先日、中村彝Click!アトリエの記念館計画に関して、アトリエ保存・再築計画のほぼ最終案をお見せいただいた。計画は1926年(大正5)の最初期のアトリエClick!を復元するもので、わたしとしても非常..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-08-01 00:17

大震災をスケッチする佐伯祐三と河野通勢。
Excerpt: 1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が南関東を襲ったとき、佐伯祐三Click!は渡仏前の休養を兼ね一家で信州渋温泉に出かけていた。「帝都壊滅」のニュースは風聞で知ったが、9月7日消印..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-08-31 00:17

下落合で行き倒れた小出楢重。
Excerpt: 目白駅近くの「田舎道」を歩いていた小出楢重Click!が、貧血で倒れて動けなくなった話はあちこちに出てくる。目白駅から歩いて、自宅へ帰ろうとしていた途中で意識がもうろうとし、そのままうずくまって“行路..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-09-03 00:01

「柴崎古墳」=将門首塚の面影。
Excerpt: かなり前の記事で、鳥居龍蔵が関東大震災Click!の焼け跡を眺め、東京市街地の随所に築造された多数の古墳を観察・調査してまわったエピソードをご紹介Click!した。それら古墳の多くは、オフィス街や住宅..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-09-09 00:12

石をぶっつけられたお姉さん幽霊。
Excerpt: 落合地域には、古くから伝わる幽霊話や妖怪譚が少ない。せっかく化けて出ても、あたりが田畑だらけの江戸期には、オバケも生き甲斐(?)がなかったのだろう。このサイトでも少しずつご紹介はしているけれど、すぐに..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-09-21 16:39

ヒトダマやカネダマが飛んだ話。
Excerpt: わたしの母方の祖父は、ヒトダマ(人魂)を見たことがあるといって自慢していた。丸いお盆ぐらいの火の玉が、地上20mほどのところをフワフワ漂いながら、ヒマラヤスギのてっぺんに触れると小さな火の玉となって四..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2011-12-19 00:08

下落合に集まる「サンサシオン」会員たち。
Excerpt: 名古屋の洋画家グループである「サンサシオン」Click!の松下春雄Click!が下落合へとやってきたのは関東大震災Click!の混乱が収まりはじめた1924年(大正13)のことだった。震災前にも東京で..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-02-29 00:09

武蔵野鉄道もセメントを運びたい。
Excerpt: 1928年(昭和3)に、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の経営がかなり悪化している。1922年(大正11)に池袋-所沢間が電化された同線は、とうに客車運行をスタートしていたのだが、利用客が思っ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-03-24 00:01

津波被害が透けて見える東京大洪水。
Excerpt: 1910年(明治43)は、東京市民にとっては最悪の年だった。1894年(明治27)の明治東京大地震とともに、のちの1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!や、戦争による“人災”としての東京..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-04-29 00:02

佐伯アトリエの「布瓦」を考える。
Excerpt: 1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きてから、日本家屋の重たい屋根瓦の課題が大きくクローズアップされた。同震災の犠牲者13万人のうち、家屋が倒壊して圧死した人々は5,000人以上にのぼる..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-06-25 00:00

ふたりが初めて出逢った上屋敷。
Excerpt: 関東大震災Click!で一時的に名古屋へもどっていた松下春雄Click!は、1924年(大正13)から翌1925年(大正14)にかけて、西巣鴨町池袋大原1382番地の横井方に下宿していた。少し離れた銭..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-07-01 00:09

ライト設計の新築・帝国ホテルに泊まる。
Excerpt: 近くに自由学園明日館Click!があるせいか、下落合でもなにかと馴染みのあるF.L.ライトClick!だが、彼が設計した帝国ホテルの新館は、さまざまな建築資料や歴史本にも取り上げられ紹介されている。そ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-07-13 00:02

吉武東里邸から寄贈された大谷石を細見。
Excerpt: 建築家の吉武東里Click!が、1945年(昭和20)3月に疎開先のふるさと大分で死去したあと、上落合470番地Click!にあった吉武東里邸は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で炎上し..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-07-19 23:49

バラック装飾社と今和次郎の仕事。
Excerpt: 下落合のアトリエで画塾「どんたくの会」Click!を開いていた曾宮一念Click!と鶴田吾郎Click!は、関東大震災Click!の直後から塾生が集まらなくなり定期的な収入が途絶えた。ふたりは、震災の..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-08-12 00:02

上落合で継続された国会議事堂の設計。
Excerpt: 上落合470番地にあった1921年(大正10)築の吉武東里邸Click!は、ハーフティンバーが美しいチューダー様式の西洋館を中心とした、敷地面積330坪におよぶ大きな和洋折衷建築だった。1923年(大..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-08-30 00:04

松下春雄の大工仕事と鬼頭鍋三郎の「牛」。
Excerpt: 大正から昭和にかけて、画家たちはアルバイトとして本の装丁や挿画、新聞や雑誌の風刺画などの制作を手がけている。すでに名前の知られた画家でさえ、コンスタントに作品が売れつづける保証はどこにもないので、制作..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-09-08 00:39

上落合の吉武東里邸を拝見する。
Excerpt: 敷地面積330坪の上落合470番地へ、大きな吉武東里邸が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。(資料によっては1920年とするものもある) その詳細な設計平面図および側面図を、ご遺族の渡鹿島幸..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-09-11 00:07

使われなくなった昆虫自動販売機。
Excerpt: 子どものころ、夏休みの自由研究のテーマに困ると、よく昆虫採集でお茶をにごしたものだ。1960年代の神奈川県の海辺Click!は、ありとあらゆる虫たちの宝庫で、虫網をもって外出するとほんの1時間ほどで虫..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-12-02 00:54

早すぎる里見勝蔵の『下落合風景』。
Excerpt: 1920年(大正9)に里見勝蔵Click!が描いた『下落合風景』Click!の、正面に描かれた和風の住宅がどうしても気になっていた。緑が濃い森の中にポツンと建っている家屋なのだが、この時期の里見は東京..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-01-25 00:02

息子が創った「竹中英太郎伝説」。
Excerpt: 以前、下落合2191~2194番地あたりの「熊本村」(熊本人村)に住んでいた、画家の竹中英太郎Click!についてご紹介Click!したことがあった。この記事は、九州で警察署の給仕や鉄工所、炭鉱などで..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-04-19 00:00

三岸好太郎と家庭購買組合。
Excerpt: 東京へやってきた三岸好太郎Click!は、大正期に絵を勉強しながらさまざまな仕事についている。その中で、もっとも長くつづけた勤めは、1923年(大正12)からはじめた家庭購買組合の仕事だった。家庭購買..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-07-06 00:02

落合第四小学校の学童集団疎開。
Excerpt: このサイトでは、目白通り沿いClick!をはじめ、新宿(淀橋区)各地で行われた建物疎開Click!のテーマは何度か記事にしてきた。また、住民の自主的な地方疎開についても、ときおり別のテーマから取り上げ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-08-14 00:01

波乱万丈だった聖母坂のパン屋さん。
Excerpt: 1937年(昭和12)ごろ、下落合の聖母坂Click!を上りきったところに、「梅屋」という屋号のパン屋が開店した。経営していたのは、20年におよぶ欧米での海外生活を終えて帰国した、星野新吉とろく(緑)..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-09-04 00:04

街歩きで、ぜひお願したいこと。
Excerpt: 今年の5月から7月初旬ぐらいにかけて、下落合は街歩きがたいへん盛んだったようだ。平日・休日を問わず、あちこちで10~30人ほどで歩く団体を見かけた。数人で歩く人たちを加えたら、その数は膨大な人数となる..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-09-13 00:01

ハツタケと赤ワインは合うだろうか。
Excerpt: ずいぶん前になるが、下落合の御留山に生える、さまざまなキノコの写真Click!(撮影・松尾德三様)をご紹介したことがあった。昔から武蔵野の森に生える、典型的なキノコ類なのだろう。子どものころ、この季節..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-10-07 00:00

画家たちの第一歩を伝える『中央美術』。
Excerpt: 1923年(大正12)に発行された『中央美術』6月号には、洋画界へデビューしたふたりの画家の動向が伝えられている。ひとりは、下落合661番地へアトリエClick!を建てたばかりの佐伯祐三Click!で..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-10-16 00:11

下落合の同志会と目白文化村の同志会。
Excerpt: 以前、目白文化村Click!の第一文化村を中心に1932年(昭和7)に結成された、生活協同組合「同志会」Click!についてご紹介したことがあった。「同志会」は、下落合の東部にあった家庭購買組合Cli..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-11-09 00:06

宝珠と狐塚と稲荷社の関係。
Excerpt: 下戸塚地域(現・早稲田界隈)にあった古墳を、江戸期に耕地拡張のために崩した際、出土した副葬品(当時はめずらしかったおもに宝玉・宝石類)を近くの寺社へ奉納した伝承は、以前からこちらでもご紹介Click!..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-11-12 00:02

神田川(外濠)を下って大川(隅田川)へ。
Excerpt: 1993年(平成5)3月23日から翌年の5月にかけ、1年以上の連載がつづいた朝日新聞の特集「神田川」には、水道橋の下でアユの捕獲された記事が紹介されている。記事は、見つかったアユが生き残れるか・・・と..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-12-15 00:01

いざ生きめやもの宮柊二。
Excerpt: 下落合の西隣り、豊多摩郡野方町上高田82番地(現・中野区上高田1丁目)の岡田儀平方へ、1932年(昭和7)6月1日に歌人の宮柊二(しゅうじ)Click!が引っ越してきた。この家で、宮柊二の日記であり短..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-01-08 00:14

標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年。
Excerpt: 戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-01-26 00:09

古墳だらけの谷端川・小石川流域。
Excerpt: 文京区の教育委員会は、区内の社(やしろ)がなんらかの整備・改修工事に入ると、すかさず発掘調査に乗りだす積極的な姿勢をしているようだ。先日、小石川の指ヶ谷御殿町(現・白山)界隈を散歩しながら、大塚町まで..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-01-29 00:01

交叉する松下春雄と甲斐仁代の軌跡。
Excerpt: 関東大震災Click!の余燼がくすぶる1924年(大正13)8月、松下春雄Click!は再び名古屋から東京へとやってきて、巣鴨町池袋大原1382番地の横井方へ下宿している。のちに夫人となる、近くの渡辺..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-02-01 00:01

もはや建設理由がない補助73号線。
Excerpt: クルマの「交通量の増大」と「渋滞緩和」を理由に、1946年(昭和21)から計画されている補助73号線Click!について、その基盤となる“理由”がもはや21世紀の今日、どこにも存在していないことを改め..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-02-16 00:01

落合地域も得意先だった浅尾沸雲堂。
Excerpt: 画材店の竹見屋から独立した3代目・浅尾金四郎(丁策)Click!は、上野桜木町の東京美術学校の門前に浅尾沸雲堂を設立している。父親は、絵筆をつくる専門職人だったが、浅尾丁策(ていさく)の代で本格的な総..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-05-20 00:01

関東大震災と目白中学校の被害。
Excerpt: 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!のあと、下落合の目白中学校Click!は9月18日から授業を再開している。18日からの授業再開は、新聞の広告欄に掲載されたが、震災の混乱で新..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-06-04 00:02

考現学的アプローチの岡不崩(岡正壽)。
Excerpt: 落合地域には、洋画家ばかりでなく日本画家もたくさん住んでいたが、これまでほとんど紹介してきていない。曾宮一念アトリエClick!の北側に住んでいた、おそらく岡倉天心門下で洋画には反感を抱いていたらしい..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-06-10 00:01

「大磯学」と「落合学」・丸10年によせて。
Excerpt: 少し前に、「落合道人」サイトの訪問者がのべ900万人を超えました。いつもご覧いただき、ありがとうございます。あと少し、2014年11月で丸10年を迎えるわけですが、なにか総括的なことを書かなければと思..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-06-28 00:01

夏らしく人魂と雪女の怪談話など。
Excerpt: 最近、西武新宿線に乗っていると、緊急停車をすることが多いそうだ。わたしは山手線のどちらかの駅まで歩いてしまうので、西武線の情報には案外うとかったりするのだが、同線を利用する方によれば、線路に入りこんだ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-08-03 00:02

目白界隈における大震災発生時の記録。
Excerpt: 1923年(大正12)9月1日(土)の昼どき、自宅にいた目白中学校Click!の生徒が関東大震災Click!が起きた瞬間の様子を克明に記録している。翌9月2日は日曜日で、目白中学は3日の月曜日から新学..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-08-30 00:00

落合地域を転々とする片岡鉄兵。
Excerpt: 片岡鉄兵Click!の大正末から昭和初期に書かれた作品には、ときどき東京郊外の風景が描写されている。昭和期に入ってからの郊外風景は、落合地域をモデルにしている可能性が高い。たとえば、1928年(昭和3..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-09-17 00:01

先端マネキンガールたちのストライキ。
Excerpt: 落合地域とはあまり関係ないけれど、先に美術モデルを派遣していた宮崎モデル紹介所Click!をご紹介したので、sigさんClick!からのご要望もありデパートへいわゆる“ファッションモデル”を派遣してい..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-09-23 00:00

和宮の身代りと目白の新倉家。(下)
Excerpt: 学習院が1908年(明治41)9月、四谷区尾張町から高田村高田(現・目白)へ移転を終えて開校したとき、同院のキャンパス南東部には、いまだ江戸期からつづく旧・高田村の稲荷社(八兵衛稲荷)の境内跡がクッキ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-10-17 00:00

大の芝居好きな刑部人と金山平三。
Excerpt: 少し前、個性が強く性格が鮮烈で頑固な金山平三Click!は、なぜ刑部人Click!とは例外的に気が合ったのか?……という文章Click!を書いた。その反りが合うClick!要因として、刑部人のピュアな..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-10-29 00:00

1945年(昭和20)3月10日午前0時8分。
Excerpt: きょうは、東京の(城)下町Click!一帯を襲った東京大空襲Click!から70年めの節目にあたるので、これまで何度となく繰り返し記事Click!に取りあげてきたけれど、改めて米国防省などが公開した対..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-03-10 00:01

関東大震災の渋谷丘陵にみる震動。
Excerpt: 渋谷に生まれて育った大岡昇平Click!は、14歳のとき渋谷町松濤の自宅で関東大震災Click!に遭遇している。このとき、大岡一家は保養へ出かけていた逗子からもどった直後で、松濤の高台にある家の玄関を..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-03-13 00:00

目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)。(下)
Excerpt: 目白駅の橋上駅化の錯誤Click!は、おそらく尾崎翠Click!の旧居跡の誤規定Click!のケースとよく似ているのではないかと思われる。最初に、目白駅の橋上駅完成は「1919年(大正8)」と規定した..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-06-11 00:00

大震災まで賑わった両国広小路。
Excerpt: 久しぶりに、日本橋界隈のことについて書きたくなった。東日本橋に、いまだ江戸期と同様の日本橋米沢町や薬研堀町、若松町というような町名が残り、薬研堀不動Click!を中心に界隈が通称「薬研堀」Click!..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-06-17 00:00

逃げろや逃げろ上落合の吉川英治。
Excerpt: 吉川英治が『宮本武蔵』Click!で描いたのは、物語の前半と後半で武蔵がたどる「剣術」と「剣道」のちがいによって生じた、人としての思想や死生観にもとづく実存の相違なのだろう。「剣道」とは、もちろん今日..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-07-11 00:00

けしからぬ大正時代の事件いろいろ。
Excerpt: これまで、落合地域やその周辺域で発生した、いろいろな事件や事故をご紹介Click!してきた。その時代背景や社会状況を反映するかのように、殺人や強盗、泥棒、火災、自殺、列車事故……と、さまざまな事件や事..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-07-17 00:03

下落合を描いた画家たち・誰か。
Excerpt: 江﨑晴城様Click!より、またまた作品画像をお送りいただいた。板に描かれた4号サイズの作品で、裏面には『落合風景』というタイトルがふられているが、作者は不明だ。この作品は、静岡の曾宮一念Click!..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-08-19 00:01

炎が火焔放射器のようにやってくる。
Excerpt: 関東大震災Click!のとき、あるいは東京大空襲Click!のとき、大火災の炎が大川(隅田川)を水平に超えてやってきた……という伝承が、日本橋側や浅草側に残っている。うちの親父も話していたカタストロフ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-08-31 00:00

夏は潮風と火薬までが匂った。
Excerpt: 父親の仕事の関係で相模湾の中央、いわゆる「湘南」Click!の平塚に住んでいた子どものころ、庭が広かったのを憶えている。ただ、子どもの記憶なので、大人になってから改めて眺めたら決して広くはなく、きっと..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-09-06 00:01

鉄道を敷設しないなら免許取り消し。
Excerpt: 大正の末から昭和初期にかけて、鉄道省は鉄道免許の濫発を行なっている。東京を中心に首都圏はもちろん、地方のあちこちで鉄道敷設の話が持ちあがり、そのたびに地元の建設業者や土木会社、その他の企業などへ工事免..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-09-24 00:07

家内が修羅の中條百合子邸訪問。
Excerpt: 1921年(大正10)に住宅改良会Click!から発行された『住宅』1月号には、本郷区駒込千駄木林町21番地にあった中條百合子(のち宮本百合子)Click!の新婚家庭を見学する訪問記が掲載されている。..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-10-03 00:01

戸山ヶ原の小島善太郎『晩秋』。
Excerpt: 小島善太郎Click!が描いた初期作品のひとつに、1915年(大正4)制作の『晩秋』がある。戸塚町(現・高田馬場)をはさみ下落合の南東側に拡がる、冬が近い戸山ヶ原Click!の風景を描いたものだが、画..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-11-29 00:00

古いアルバムを眺めていると。
Excerpt: 昔のアルバムを眺めていると、どうしても気になる写真がある。うちに伝わるアルバムは、たった1冊しか現存していない。明治期から大正期の写真を収めたアルバムは、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Cl..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-12-05 00:01

落合村の帝国在郷軍人会分会1913年。
Excerpt: きょうは、長いわりに面白くない話なので、時間のない方はどんどん読み飛ばしていただきたい。わたしも、“地域の記録”としてのみ記述しているにすぎず、この記事が存在しないと今後の記事展開における説明がわずら..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-12-11 00:00

戦前のアルバムにみる日本橋の人々。
Excerpt: 昨年の秋に出版された『新宿区の100年』Click!(郷土出版)を含む写真集「目で見る100年」シリーズでは、2003年より順次東京の各区を出版しつづけ、現時点で東京21区までが完成している。残るは江..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-01-13 00:01

九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。
Excerpt: 九条武子の兄であり、真宗本願寺派Click!の僧侶だった光瑞の声音と、彼女の声とがそっくりだったのを短歌の師である佐々木信綱Click!がのちに証言している。目をつぶって声を聞けば、どちらがどちらだか..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-01-16 00:00

質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。
Excerpt: 下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子Click!は、関東大震災Click!ののち1925年(大正14)から1927年(昭和2)にかけ、身体の具合がよくない役人の父親が静養できる..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-01-22 00:01

九条武子の手紙(3)/関東大震災。
Excerpt: 築地本願寺で関東大震災Click!に遭遇した九条武子Click!は、兵庫県に住む知人あてに「もうあれから半月になりますのに、まだ都は、ものものしいつけ剣の兵隊がまもつてをります」ではじまる長い手紙を書..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-01-25 00:17

下落合で「狂い死に」した近藤芳男。
Excerpt: 落合地域には、すでに名を成した誰もが知る芸術家たちが数多くアトリエをかまえていたが、もちろん東京美術学校Click!を卒業して間もない画家の卵や、「さあ、これから!」というときに病気で夭折した画家たち..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-01-31 00:01

九条武子の手紙(4)/下落合への転居。
Excerpt: 1923年(大正12)の10月半ば、関東大震災Click!を逃れた九条武子Click!は、青山で東京郊外の仮住まい物件を探していた。そして、中野駅の近くにとりあえずの仮住まいが決まると、そこから本格的..
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Tracked: 2016-02-03 00:00

動物で男を分類する矢田津世子。
Excerpt: 下落合の一ノ坂上に住んだ矢田津世子Click!は、大正期の吉屋信子Click!と同じように近未来へ向けた不安を、より具体的な表現で口に(文章化)している。吉屋信子は、関東大震災Click!の直後に戒厳..
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Tracked: 2016-02-12 00:01

犬がうるさい「もぐら横丁」の尾崎一雄。
Excerpt: 尾崎一雄Click!が、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の通称「なめくぢ横丁」Click!の長屋Click!から、下落合4丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」に転居したのは、1..
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Tracked: 2016-02-24 00:01

生産過剰だった関西セメント事業の消費先。
Excerpt: 大正末から昭和初期にかけ、セメント業界Click!は減産してまで余剰在庫の解消に四苦八苦している。1927年(昭和2)4月の時点で、セメント業界の総在庫は約140万樽にもおよび、この在庫量は全国におけ..
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Tracked: 2016-03-25 00:01

上落合の子どもたちの下落合通い路。
Excerpt: 1921年(大正10)に、上落合470番地へ建設された建築家・吉武東里邸Click!については、これまで何度か記事Click!に取りあげてきた。特に関東大震災Click!の直後には、壊滅してしまった大..
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Tracked: 2016-06-02 00:00

落合の淡谷のり子と画家の亡霊。
Excerpt: 関東大震災Click!の直前、郊外の恵比寿(祐天寺とする説もある)に転居して被害をまぬがれた淡谷家は、大正末から昭和初期にかけ、下落合と上落合で暮らしている。青森からやってきた家族は、淡谷のり子と母・..
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Tracked: 2016-07-29 00:00

落合・東中野上空で転回するB29。
Excerpt: 1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!のとき、丘陵から強い北風が吹きぬける夜空を、落合と上高田の地域住民は見あげていた。トンボほどの大きさに見えるB29の大編隊が、(城)下町Clic..
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Tracked: 2016-08-10 00:00

海上に写る敗戦直後のモノたち。
Excerpt: これまで、さまざまな記事に1945年(昭和10)から1947年(昭和22)ぐらいにかけての、米軍が撮影した空襲直前・直後の偵察写真、または戦後になって爆撃効果測定用に撮影された空中写真を頻繁に参照して..
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Tracked: 2016-08-19 00:00

下落合の製本工場が支えた円本ブーム。
Excerpt: 大正末の出版界は、関東大震災Click!の深い痛手から立ち直れず、業界は不況にあえいでいた。本のもとである用紙のストックが大震災で大量に焼失し、印刷機や裁断機、製本機なども破壊された。用紙は値上がりし..
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Tracked: 2016-09-15 00:00

下落合と長崎を転々とする松居松翁。
Excerpt: 以前、長崎町荒井1801番地の草土社Click!仲間である河野通勢Click!を訪ねたが留守で、行き先として教えられた長崎バス通りClick!にある映画館「洛西館」Click!(のち目白松竹館Clic..
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Tracked: 2016-09-24 00:00

関東大震災直前の生き物たちの記録。
Excerpt: これまで、大江戸の安政大地震あるいは関東大震災についての多種多様な記録Click!や事件を、このサイトで書いてきているが、その直前の「前兆現象」とも呼ばれている出来事はあまり記事にしていない。落合地域..
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Tracked: 2016-09-30 00:01

江戸湾を眺望できた待乳山古墳。
Excerpt: 以前、東京地方には大型の前方後円墳の墳頂部を平らに削り、数多くの寺社が建設されているケースClick!をご紹介したことがあった。平地に改めて大量の盛り土をする必要がなく、最少の工程で寺社の境内を建設で..
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Tracked: 2016-10-27 00:01

戸山ヶ原の一本松を捜査する名探偵。
Excerpt: 昨年の正月、下落合にアトリエを建てて転居してくる直前の佐伯祐三Click!が、1920年(大正9)に描いた『戸山ヶ原風景』Click!の一本松をご紹介した。そのわずか4年後に、戸山ヶ原近くの大富豪令嬢..
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Tracked: 2017-01-10 00:02

ほとんど人が歩いていない鎌倉。
Excerpt: わたしが子どものころ、親に連れられてバスに乗りユーホー道路(遊歩道路)Click!=国道134号線をそのまま東へたどって鎌倉で降りると、ほとんど人に出会わなかったのを憶えている。もちろん、鶴ヶ岡八幡宮..
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Tracked: 2017-02-06 00:06

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2)
Excerpt: 今回は久七坂筋Click!に建っていたかもしれない、とても大正期が終わったばかりの昭和の最初期に造られたとは思えない住宅を、『朝日住宅図案集』Click!(東京朝日新聞社/1929年)の収録作品からご..
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Tracked: 2017-03-23 00:01

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(3)
Excerpt: 昭和初期、落合地域に建設された住宅の3軒めは、建築家・輪湖文一郎が設計した上落合470番地の邸だ。上落合470番地という住所で、すぐに思い出すのが1923年(大正12)の関東大震災Click!で大蔵省..
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Tracked: 2017-03-29 00:01

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(4)
Excerpt: 1929年(昭和4)に出版された『朝日住宅図案集』Click!は、東京朝日新聞社が実施した郊外中小住宅の設計コンペティション(同年2~4月)の入賞図案を85点収録したものだ。当初の稿でも書いたように、..
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Tracked: 2017-04-16 00:00

龍膽寺雄が暮らした「目白会館」を探せ。
Excerpt: 1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまで住み、『アパアトの女たちと僕と』(改造社/1930年)を書いた龍膽寺雄Click!(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)だが、彼が暮らしたとされる下..
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Tracked: 2017-04-25 00:00

目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。
Excerpt: 下落合437番地にあった目白中学校Click!には、篠崎雄斎という経理担当がいた。彼は下落合から1926年(大正15)に上練馬村2305番地へと移転Click!した目白中学校Click!へ勤めるかたわ..
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Tracked: 2017-05-04 00:00

「大和魂」で「聖戦」の佐藤化学研究所。
Excerpt: 下落合に化学研究所を開設し、科学とキリスト教の教義を強引に融合させようとした人物がいる。1924年(大正13)に大学の教授を辞職し、下落合482番地へ佐藤化学研究所を設立した工学博士・佐藤定吉だ。徳島..
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Tracked: 2017-05-25 00:00

郊外野菜を運ぶ大八車の中身。
Excerpt: これまでの記事の中で、落合地域に通う街道を往来する人々の姿として、東京郊外の野菜を大八車や牛馬車に満載して、市街地にある青果市場(やっちゃ場)へと運ぶ情景を何度かご紹介してきた。落合地域には、おもに東..
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Tracked: 2017-07-03 00:00

中村彝が見ていたカルピスのある風景。
Excerpt: 1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だっ..
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Tracked: 2017-07-27 00:00

街の情報収集としての“こころづけ”。
Excerpt: 今和次郎Click!は、よく「チツプ」あるいは「テイツプ」という言葉をつかう。昭和初期の当時は、チップという言葉が目新しく、流行語になっていたものだろうか。カフェやミルクホールの女給さんへ、サービスを..
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Tracked: 2017-08-02 00:00