池袋1021番地(一時期は1024番地で仮寓)に住んだ、童画家であり童話作家の武井武雄Click!は、太平洋戦争がはじまると『戦中気侭(きまま)画帳』(筑摩書房)という絵日記を残している。その中には、きわめて貴重な目撃情報が絵入りで記録されており、1944年(昭和19)秋から翌1945年(昭和20)の2月にかけ、米軍はB29からさまざまな発火兵器を投下して、東京の住宅街を効率的に焼き払う「燃焼実験」を、繰り返し行っていた事実がわかる。
武井は、少数機のB29がやってきて、密集した住宅街へ散発的に焼夷弾などを落としていく爆撃を「ゲリラ」空襲と表現している。当時は、上空の敵機を照らす探照灯(サーチライト)も多くが機能していて、夜空に照らされる銀色に輝くB29と、投下される焼夷弾を「花火のよう」で美しいと感じていたようだ。焼夷弾の雨が「仕掛花火」のようだったとは、東京大空襲Click!と山手空襲Click!の双方を経験した、わたしの親父の感想でもある。この時期に投下された発火兵器は、のちに下町を焼き払うM69ナパーム焼夷弾Click!とは異なっていたようだ。焼夷弾のひとつひとつが、かなり大きな火球となって落下しており、上空で非常に細かく分散してバラまかれるのちのナパーム焼夷弾とは、明らかに形状が異なっている。これらの焼夷弾は、投下数が少ないことにもよるのだろうが、着弾して火災が起きても比較的短時間で消しとめられている。
武井武雄は当時、児童文学や童画を描く仕事をしていた経緯から、疎開した学童たちの慰問をしに関東各地をまわっていた。でも、1944年(昭和19)も押し詰まってくると、サイパン島から飛来するB29による空襲Click!が本格化し、疎開児童の慰問にも出かけられなくなってしまった。そこで、男手が少なくなってしまった池袋町内の、隣組防空第32群の防空班長を引き受けることになった。防空役員の仕事は、空襲警報の発令とともに敵機の動きをラジオで把握しつつ、町民たちを防空壕へと退避させたり、敵機が投下した焼夷弾で町内に火災が起きれば消火活動を指揮したりと、空襲の間じゅう常に街の周囲を監視していなければならない。だからこそ、武井は空襲の様子を細かく観察でき、画帳へ記録することができたのだ。
余談だけれど、以前の記事に東日本橋の防空役員で、実際に空襲がはじまると同時に「退避~っ!」と、自分が真っ先に防空壕へ飛びこんでしまい、あとで町民たちからさんざん吊るし上げをくった人物の話Click!をご紹介したけれど、これでは防空役員の意味がないのだ。その点、武井は空襲の間じゅう防空壕へは退避せず、2階のベランダなどからB29の動きを細かく観察しつづけており、かなりマジメに防空役員をつとめていたことになる。
B29からは焼夷弾以外にも、発火した紙状のものを住宅地へビラのようにバラまく作戦や、大型の火炎放射器と思われる火柱状の「火の小便」(武井表現)を地上に向けて発射したり、上空からガソリンをまいて火をつけたりと、米軍は東京の街々を全滅させるために、さまざまな燃焼実験を繰り返していた様子がうかがえる。これら実験の集大成が、M69ナパーム焼夷弾とガソリン散布による、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!だった。
画帳の中には、興味深い記述もある。池袋上空で、日本の迎撃戦闘機がB29に体当たりをして、双方が墜落するシーンを目撃していることだ。1945年(昭和20)1月9日の白昼、午後1時30分すぎぐらいの戦闘でのこと。以前、このサイトでご紹介した「迎撃戦闘機が椎名町に墜ちてきた」Click!で、椎名町6丁目(現・南長崎)の「仲の湯」釜場へ墜落した戦闘機は、同年5月25日夜半の山手空襲ではなく、この空襲時のものだった可能性もある。
武井武雄の自宅兼アトリエは、建物疎開Click!計画にその一部がひっかかって建物の半分が壊されることになってしまった。池袋の同地域における建物疎開は、1945年(昭和20)の3月に具体化しているので、目白通り沿いの下落合や練馬街道沿いの建物疎開よりも数ヶ月ほど遅かったとみられる。同年4月2日、武井一家は上野駅から実家のある信州の岡谷へと疎開している。したがって、鉄道や河川沿いが目標となり、池袋駅とその周辺が焼き払われた4月13日の第1次山手空襲、長崎全域が絨毯爆撃された第2次山手空襲には、幸いにも遭わずに済んでいる。
1945年(昭和20)4月13日の池袋駅を中心とする空襲では、武井の自宅とともに大切にしていたピアノやギター、ヴァイオリン、アコーディオン、マンドリンなどの楽器が全焼している。戦後に描かれた『戦後気侭画帳』には、「玉砕楽器招魂之会」として紹介されているのだが、武井は1918年(大正7)から池袋1021番地にアトリエを建てて住んでいるので、これらの楽器を持ち寄り、里見勝蔵Click!や佐伯祐三Click!たちが催していた「池袋シンフォニー」Click!にも参加していたのではないか?
長野に疎開して、再びヒマになってしまった武井武雄は、県内に疎開してきた学童の慰問活動を、児童文学の仲間とともに再開している。そこで遭遇した、池袋第五小学校の児童たちが疎開した須坂の国民学校へ寄ったときのこと、沈着で冷静な武井にしては、めずらしく激昂している。
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午後ハ小山の国民学校 池袋第五の生徒との事にて我子に逢ふ様な気持で臨んだのに児童生色なく全く笑はず気味悪き程なり 須坂増屋に泊る 池五の学寮なり 蚊帳は軍に召上げられたとの事にて専ら蓬で部屋をいぶす 児童は穢い部屋に押し込め先生ハ離れの高殿に大名然とおさまる 生徒と食事を共にせざる先生の寮は他に類例なし、試みに女教師に訊ねてみたら席が狭いからしないがその内に寮母に一緒に食べさせるつもりだとの事 あきれたもの也 夜ハスイトンを出す、これも他に例なし その上我等の寝室の隣りにて夜おそくまで女教員等とワイワイ騒いでゐて眠れず避暑地気分全く唖然たり 生徒の生活と全く遊離してゐる (1945年7月22日)
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戦争末期には、教師たちも自暴自棄となっていたものか、子どもたちの面倒をあまりみなくなっていた様子が記録されている。教師たちの名前こそ記していないが、池袋第五小学校と明記しているので、学童疎開先を多く慰問してまわっていた武井には、よほど異様な光景に映ったのだろう。
武井武雄の『戦中気侭画帳』は、天皇によるポツダム宣言受諾のラジオ放送から5日後、1945年(昭和20)8月20日の日付けで終わっている。画帳最後のページには、これからの「日本を背負ふもの」として、女の子と思われる赤ん坊の寝顔が大きく描かれている。
◆写真上:1944年(昭和19)12月20日の空襲を描いた、武井武雄『戦中気侭画帳』。
◆写真中上:上左は、池袋1021番地の自宅でくつろぐ1924年(大正13)の武井一家。上右は、1926年(昭和元)に発行された「西巣鴨町事情明細図」にみる池袋1021番地の武井アトリエ。下左は、1944年(昭和19)12月30日の焼夷カードによるバラまき空襲実験。下右は、1945年(昭和20)1月1日の「火の小便」空襲で、おそらく空中からの火炎放射器実験だと思われる。
◆写真中下:上左は、1945年(昭和20)1月9日の迎撃戦闘機によるB29への体当たり。上右は、武井が描く墜落したB29の姿だが、いまだ同機の姿を正確に把握しておらずB17のように描いている。下は、同年3月9日夜半の東京大空襲で下町方面の大火炎を望む。
◆写真下:上左は、豊島区立仰高小学校の学童疎開の様子。同校では、教師が生徒といっしょに食事をしていたようだ。上右は、池袋駅近くの退避壕から遺体を掘り出す警防団で、おそらく1945年(昭和20)4月13日の空襲時だと思われる。下左は、同空襲で灰になってしまった武井武雄の楽器類。下右は、『戦中気侭画帳』の最終ページに描かれた赤ん坊。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
しいなまちお・K
実は昭和25年版の「豊島区商工名鑑」というものを入手しまして
浴場業の欄に、椎名町6-4137「仲の湯」の記載があり、
この時点ではまだ「久の湯」に名称変更されていない事実のみ判明。
トキワ荘のマンガ家が通ったことで有名な椎名町5丁目の「鶴の湯」は掲載さていないので、まだ存在していなかったのか?
椎名町で他に記載があったのは、「廣の湯」、「寶湯」、「稲荷湯」でした。
他の業種では、町内運動場の跡にできた第一マーケットがすでに存在していましたが、「目白映画」はまだ無く、「長崎映画」と呼んでいた五郎窪稲荷の隣の映画館が「長崎会館」という名称で出ていました。
「洛成館」にあたるものは既になかったようです。
組合に属していないと営業していても載っていないのでしょうが、
こんな資料だけでも色々なことが推察できるので面白いです。
ところで、余震も続いていますが「トキワ荘記念碑2周年イベント」を
4月29日(昭和の日)に行います(詳しくは下記ブログ)。http://blog.goo.ne.jp/tokiwasou-street
目白映画跡地の現「ぱぱす」の入っている「中銀マンション」2Fで
トキワ荘の先生方をお呼びしてトークイベント&チャリティー販売会を予定!(宣伝失礼)
sonic
下町の空襲の日よりも、住人としてはこちらを覚えておきたいです。
ChinchikoPapa
「商工地図」とか「商工名鑑」とかには、非常に重要な地域情報が記載されていることがありますので、要チェックですね。
映画館の名称変更は、おそらく昭和10年代から戦後にかけて行なわれているようです。それは、配給もとの映画会社による系列化が進んでいたと思われ、各地の館名が変更になるか、あるいは「日活」とか「大映」とかのあとに映画館の旧名がつづいたりしていますね。
洛西館は、おそらく1944年(昭和19)の暮れから行なわれた目白通り沿いの建物疎開で壊され、戦後は疎開場所へ復活できなかったんでしょうね。あるいは、同じ経営者が別の場所に、別名の映画館を再開した可能性もありそうです。
「トキワ荘記念碑2周年イベント」の情報をありがとうございます。仕事が入らなければ、おうかがいしてチューダー飲みます。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
4月13日と、もう一度念押しで5月25日の二度、爆撃を受けています。落合地域でいいますと、4月13日は川沿いと目白文化村(第一・第二)が爆撃されました。二度めは、徹底的な絨毯爆撃だったようですね。池袋駅周辺ばかりでなく、長崎(椎名町)地域や落合地域の住宅街は、5月25日のほうで一面が焼け野原となっています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>masakingさん
ChinchikoPapa
hanamura
戦争体験については、時々で受け取り方が変わってしまうので、
こうした資料を多く読むことが、大切だと思慮します。
ChinchikoPapa
戦時中に描いた『戦中気侭画帳』から、戦後に描かれた『戦後気侭画帳』にかけて、武井武雄も徐々にいろいろな想いにとらわれていきます。「戦争は絶対にイヤ」だけれど妙な「充実感」があったようで、そのあたりの気持ちを正直に書きとめていますね。
彼は戦後も、ズルズルと戦時中の思いを引きずりながら歩いていくのですが、敗戦を境にクルッと180度身をひるがえし、あたかも「民主主義」の体現者のような顔をし出した表現者に比べたら、かなり誠実な人だったんだろうなと・・・思います。
ChinchikoPapa
sig
武井武雄の絵は絵本で知っています。B29によるいろいろな燃焼実験の様子も、画家の目で見ていたのですね。
ChinchikoPapa
武井武雄は、画家の目を通してかなり細かいところまで観察しているようですね。戦時中に米軍が投入した新鋭の戦闘機なども、日本本土へ飛来するようになるころから、かなり正確に画帳へ描きとめています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
SONOKO
二又交番付近ということはわかっていますが、こちらに近いのでしょうか。
私も50を迎え 父が生活した昔の池袋を無性に知りたくなりました。
ただいま南長崎に息子も住んでおりますので とても興味津々です。
ChinchikoPapa
池袋1131番地といいますと、武井武雄のアトリエから南へ直線距離で200mほど下がったあたりの地番です。豊島師範学校の、すぐ西側あたりの区画ですね。二又交番のすぐ近くです。お父様が1945年(昭和20)の初夏ぐらいまで池袋にいらしたとすれば、おそらく4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲を経験されているかと思います。
このサイトは、落合地域がメインですが、隣接します池袋や長崎、高田(目白)、戸塚(高田馬場-早稲田)あたりのことも、落合とからめてご紹介してきています。キーワードに、「池袋」や「山手空襲」「長崎」「椎名町」などと入れられますと、たくさんの記事がご覧いただけるのではないかと思います。たとえば、お父様が経験されたかもしれない池袋空襲では上空でB29が撃墜され、迎撃した戦闘機が椎名町の銭湯へ墜落するというエピソードが起きたりしています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-11-09
南長崎は、わたしも学生時代に一時住んでいた街ですので、親しみが湧きます。長崎や池袋は、また画家たちのアトリエだらけの街でもありました。w
SONOKO
息子の住まいの近くに 岩崎邸があります。さまざまな方々の人生が積み重なっているんだな と 感激です。
ChinchikoPapa
1130番地といいますと、1931番地の10mほど北側ですから、武井武雄アトリエから190m前後です。(笑) 二又交番のある道路に面した一画ですので、より交番の印象が強く感じられたのでしないでしょうか。
のちほど記事末に、1926年(昭和元)12月に作成された「西巣鴨町西部事情明細図」の、池袋1130番地あたりを掲載しておきます。ご参照ください。
SONOKO
祖父母が婚姻したのが 昭和4年のようです。残念ながらまだ ここには名前がありませんでしたが、感激です。このような 地図があるのですね。古本屋さんなどにあるのでしょうか。。うれしいです。涙
ChinchikoPapa
前回のコメントでは、誤入力を失礼しました。「感じられたのでしないでしょうか」は、「感じられたのではないでしょうか」の誤りでした。<(_ _)>
「西巣鴨町事情明細図」などの古い地域地図は、豊島区立郷土資料館で販売されています。1988年に出版されていますので、在庫があればいまでも入手できるかと思います。
1929年(昭和4)に結婚されているとしますと、1938年(昭和13)の「火保図」(火災保険用に作成された地図)には、間違いなく記載がありそうですね。もし手に入りましたら、こちらの記事末へ再び掲載いたします。w
ChinchikoPapa
SONOKO
以前区役所にお電話して、やはり二又交番の辺りですと教えていただいたきりでした。こんなに その時代に近づけるなんて ほんとに感激しております。ありがとうございます。
父も生きていれば きっと毎日拝見すると思います,というより会いに行ってしまうかも(笑)
今度機会があったら、豊島区立郷土資料館にも行ってみようと思います。
ChinchikoPapa
ひょっとすると、「火保図」はくまなくエリアを記録しているはずですので、単なる収蔵漏れの可能性もありそうです。また、何かわかりましたらこちらでお知らせいたします。
また、ぜひ武井武雄の絵日記もお読みになってみてください。きっと、武井武雄とお父様とは、ほぼ同じような体験を池袋でされていると思われます。
わたしもお父様がご健在でいらしたら、ぜひ当時の様子をうかがいたかったです。
tama
ChinchikoPapa
以前に証言をいただいた目白(長崎)バス通り商店の方のご記憶ですと、「久ノ湯の缶場」というようにうかがったのですが、クルクルまわってゆっくり落ちてくる、片翼をもがれた戦闘機の様子までお話しされていました。また、翌日に現場へ見に行かれ、パイロットは脱出したのか不在だった・・・との具体的なお話でしたので、墜落現場は久ノ湯とばかり思っていました。
夜間空襲というと、やはり1945年(昭和20)5月25日夜半にまちがいなさそうですね。少し前、4月13日(鉄道駅と河川沿いの工場地域に対する空襲)にも夜間空襲をうけていますが、そのときは下落合側の目白文化村(第一・第二文化村)が炎上しましたけれど、長崎側にはほとんど被害がなかったかと思います。
そしてもうひとつ、先日おうかがいしました写真館のご主人にも、「久ノ湯の缶場」のお話を向けましたところ、そのまま訂正をされませんでしたので、てっきり裏付けがとれたものと思っていました。
先ほど、「住宅明細図」で久ノ湯周辺に松本邸を探したのですが見あたらず、どのあたりのお宅かおわかりになりますでしょうか? ひょっとすると、椎名町教会の初代牧師のご家族証言が正確で、「久ノ湯の缶場」のほうが誤記憶という可能性もありえます。当時は、非常に混乱していたでしょうから、さまざまな記憶や印象が入り混じって、錯綜しているいる可能性もありますね。
tama
ChinchikoPapa
下落合でも同じような記憶の齟齬がみられまして、御留山の大きな相馬子爵邸は空襲で焼けた・・・と「記憶」されている方がいらっしゃいます。ところが、相馬邸は戦前に解体され御留山では東邦生命による宅地造成がスタートしており、なにかが炎上したご記憶と相馬邸の“消滅”とを混同してしまっているというケースがありました。
なにか新しいことが判明しましたら、ご教示いただければ幸いです。
tama
やはり間違いなく飛行機が落ちたのは、「松本さん」というお宅で、場所は椎名町教会と練馬に行くバス通りの間の家で、当時大きな空き地があったそばと聞きました。当時の椎名町教会は今の場所より奥(久の湯の方)にあり、牧師宅は教会そば。当日の夜間空襲を縁側で見ていたそうです。牧師先生が「ここは絶対に焼けない」と自信を持っておっしゃったので、家族の方は疎開せずにこの地に留まっていたとのことでした。「縁側で見ていたら、凄く大きく飛行機が見えたのよ」と言っていました。
それと、空襲の日は4月13日のようです。その方は当時10歳で、3月の空襲の時は、下町で焼け出された方が教会に逃げてきたので覚えており、5月1日に椎名町小学校の学童疎開のために東京を離れたので5月ではないと言っていました。その方が、「教会の側に、当時から住んでいる方が何人かいるので確認しとくわね」とおっしゃってくださったので、また新しい事が判るかも知れません。またお姉様は写真館のご主人と同級生の方でした。
ChinchikoPapa
椎名町教会と練馬バス通りの間にあった家といいますと、飛行機ではなくて250キロ爆弾が落ちた直近のお宅ではないでしょうか? 目の前の空き地(防空壕が掘られていた空き地で御子柴邸の近くです)に落ちた爆弾で、一家5人が亡くなられてますね。この空き地と250キロ爆弾の証言は、長崎バス通りのテーラー双葉さん、ダット乗合自動車の上原アルバムとしてご紹介しています小川薫様、および富士美写真館のご主人からもお話をうかがっています。富士美写真館では、お父様(佐藤孝様)がたまたま近くにいらして、この爆風で吹き飛ばされています。
また、4月13日の空襲はおもに鉄道駅と河川沿いの工場地帯を狙った空襲ですので、豊島区では池袋駅周辺が焼けていますが、長崎地域はいまだ空襲を受けていなかったはずです。下落合では、神田川と妙正寺川沿いが爆撃されていますが、その余波で目白通り南側の下落合(現・中落合)の目白文化村(第一・第二文化村)が炎上しています。この情景は、富士美写真館のご主人も目撃されています。
長崎バス通りの周辺が本格的な空襲を受けたのは、5月25日夜半ではないでしょうか? あるいは、4月13日の空襲時にも、上空で迎撃していた戦闘機が落ちてきたという事実があるものでしょうか。なにかわかりましたら、またご教示いただければ幸いです。
ChinchikoPapa
確か、250キロ爆弾が落ちて亡くなった一家のお名前をうかがったはずなのですが、メモには残っておらず、また借家だったものか「住宅明細図」にも採取されていないようです。ちょっと気になりましたので、追記させていただきました。
tama
実は本日、椎名町教会の礼拝に出席したおり、その飛行機が墜落した家の隣に住んでいた方にお会いしました。前述した教会の初代牧師のお嬢様のご紹介です。
お話を聞くと、明快に答えてくれ、やはり落ちたのは「松本」という家の二階で、落ちたのはB29に体当たりした迎擊機の尾翼の部分だそうです。場所はやはり「空き地」の側の家で、その方(旧姓安倍様)が当時借家として貸していた、空き地の隣にあった5軒の家の一軒だそうです。またその時の状況をしっかり見ていて、詳しく教えてくださいました。
当時、14歳で勤労奉仕に女学校から行っており、空襲警報が出たので帰されて、目白駅についたらB29の編隊が西から飛んできて、駅の側で見ていたら迎擊機が体当たりしたという事です。でも体当たりした迎擊機の前半分は木っ端微塵になり、自分の家の方へ尾翼だけがくるくる回りながら落ちてビックリしたと。それで目白駅から急いで帰ったけれど、空襲警報が出ている最中なので警防団や憲兵に見つからないように、裏道を通って帰ったら隣の家の二階が壊れており、人が集まって騒いでいたとの事。ちょうど母が家に一人でいて話しを聞いたら、落ちる所を軍が見ており、直ぐに回りを立入禁止にして、残骸を集めて持って行ったとの事で、その素早さに驚いたと言ってました。正確には隣の家の二階に当たって、自分の家の縁側の側に落ちたと仰ってました。「だから父の盆栽が壊れたの」とも言ってました。日時は日記など付けていなかったので判らないが、午後だと言ってましたので、武井武雄氏が記録に残している時と考えて間違いなさそうです。250キロ爆弾の話しをしたら「断じて、長崎には爆弾は1発も落ちていませんと断言できます」とのことで、「もしそのような事があったら、目白通り沿いにあった給油所が焼夷弾に当たって爆発した時の事でしょう」と仰いました。それと借家人の松本様は建具職人だったそうです。その飛行機が落ちて屋根が壊れた保証として貰ったのが「屋根瓦3枚」だったとの事。それと「飛行機と一緒に肉片が一面に飛び散っていた」などという人がいたけど、「屋根に尾翼が落ちただけだもの。そんなものあるわけないわよ」と笑っていました。他に、体当たりされたB29についてもお聞きしたのですが、「オニヤンマに蚊がぶつかったようなもの。B29は平然と飛んでいた」と話されてました。
お話の内容は以上なのですが、初代牧師のお嬢様は「私の記憶はあいまいね」と苦笑されていましたが、あの大変な当時の状況では、記憶に残るものが強烈なものだけだったのかも知れません。自分自身の取材でも時に経験することです。
ChinchikoPapa
どうやら、状況が見えてきたような気がします。まず、初代牧師のお嬢様が証言されているのは、4月13日夜半の空襲でも5月25日夜半の空襲でもない・・・ということです。山手に対する大規模な絨毯爆撃は、二度とも真夜中にはじまっています。したがって、明るいうちに尾翼が落ちてきたのはそれ以前、あるいは両空襲の間にはさまって行われた、散発的な少数機による昼間空襲の可能性が高いように思います。これが1点目のポイントですね。
4月13日夜半には、長崎地域は絨毯爆撃を受けておらず、したがって爆弾も焼夷弾もほとんど落ちていないのではないかと思います。池袋駅界隈をはじめ山手線や中央線、西武線などの鉄道沿い、あるいは神田川などの河川沿いの工業地帯をねらった空襲でした。ただし、目白文化村の第一と第二文化村が、妙正寺川一帯の空襲の余波を受けて炎上しています。
そして、こちらに書いてきました、みなさんが証言されているのは、長崎地域が直接的に本格的な絨毯爆撃を受けた、5月25日真夜中の空襲のことなのです。焼夷弾はもちろん250キロ爆弾も落とされ、御子柴邸前の的屋の元締一家5人が全滅しています。また、長崎神社の頑丈な石組製の鳥居がバラバラに破壊されたのは、焼夷弾(強い爆風は発生しません)ではなく、明らかに250キロ爆弾による強烈な爆風だと思われます。これが2点目のポイントです。
このとき、おそらく池袋上空で迎撃した戦闘機により(体当たりかどうかの最終確認は取れていませんが)、B29の1機が学習院下の国産電機に墜落、またもう1機のB29が麹町へ墜落しています。(墜落する2機の光跡は、写真にも撮影されています)
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-08-08
つまり、「オニヤンマに蚊がぶつかったよう」などということはなく、5月25日夜半に行われた長崎地域上空の空中戦は、もし体当たりで(したとして)B29の機体に少なからぬ損傷を与えれば、まちがいなく墜落するほどのシリアスな戦闘だったでしょう。ちなみに、このときの空襲によるB29の損害率は、大規模な空襲の中ではもっとも高い数値を示しています。
そして、久の湯の罐場に落ちた迎撃戦闘機は、尾翼ではなく片翼をもがれた戦闘機の本体です。駆けつけた人々(防護団の方たちだと思います)により、操縦席にパイロットがいなかった(脱出したか放り出されたかしたのでしょう)ことまでが、いち早く確認されています。これが3点目です。
以上の3つのポイントを前提に考えますと、初代牧師のお嬢様が言われているのは長崎地域を襲った、大規模な空襲についてではないこと。そして、5月25日の真夜中に長崎地域にはいらっしゃらなかったのではないか?・・・ということです。
まさに、おっしゃるとおり、武井武雄が書いている1945年3月以前の、小規模な「実験的」空襲のひとつの情景ではないか・・・と想像します。
tama
ChinchikoPapa
また、お忙しいにもかかわらず、わざわざ取材をしていただいて貴重な当時の証言をご教示いただき、ほんとうにありがとうございました。
わたしも、武井武雄の1月9日の記述にみられる、昼間空襲で迎撃戦闘機が体当たりした様子と、牧師のお嬢様が証言されている尾翼が松本邸に落ちてきた様子とは、同一のエピソードのように思います。
5月25日夜半に久ノ湯の罐場へ墜落した機体は、翌日の午前中に子どもたちが見物に出かけても、まだそこに残っていたといいますから、きっと1月の段階に比べ軍部や警察の対応が遅くなっていた感じがします。
この日の空襲で、近隣にあった警察や軍の拠点も残らず被災していますから、戦闘機が墜落してもすぐに対応できる態勢が、もはや軍も警察もとれなくなっていたのと、市街地に墜落したB29への対応(パラシュートで脱出した米兵がいなかったかどうかの捜索)に忙殺されていたようにも思いますね。
野畑牧師がいらした椎名町教会は焼けませんでしたが、長崎バス通りをはさんで東側の住宅地がほとんど無事だったのに対して、建物疎開が行われた西側の住宅地には250キロ爆弾と焼夷弾が投下され、バス通り沿いをはじめ椎名町教会の20~30m手前まで、住宅街がほぼ全焼しています。富士美写真館さんは、北東の裏手に250キロ爆弾が落ちましたが、写真館のほぼ10mほど手前で延焼が止まっているのが、戦後の焼け跡写真から見てとれますね。
このとき、上原家の真裏の家に焼夷弾が落ち、住めなくなってしまったため、焼け残った長崎バス通り東側の住宅街へ、5月26日以降に転居してことは、先日の記事でもご紹介いたしました。
記事末に、1947年(昭和22)にB29によって撮影された空中写真を掲載しましたので、ご参照ください。