落合町の署名者を、少し詳しく見ていこう。まず、署名筆頭に記されている加藤公太郎(上落合524番地)は、地元旧家の出であり衆議院への「請願書」Click!当時は、上落合の町会役員および月見岡八幡社の氏子総代をつとめていたと思われる。以下、『落合町誌』Click!(1932年)から引用しよう。
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当家は草創の旧家で、町内に於ける徳望家として称へられて来た家柄である、氏は先考藤太郎氏の長男にして明治二十二年一月三十日を以て出生、酒類商武蔵屋を経営して家名に数段の色彩を添へつゝあり、一面町内協和会、八幡神社氏子総代等公共の事に熱心関与する処あつたが、町民の輿望益々加はり、昭和四年五月町会議員に推され、警備委員を兼ね以て現在に至る
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また、やはりのちの落合町会議員であり、大正末には自治活動へ積極的に尽力していたと思われる、高山治助(上落合577番地)の項目を引用してみよう。
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徳孤ならず、氏の在るところ必ず徳風起り良俗養はるゝと云ふても過言ではない、事ほど人格の高潔、稀に見る徳望の士である。而も徒らに売名を好まず深く蔵して顕さずといへども、生来の止むに止まれぬ犠牲的精神の発露は、夙(つと)に公共自治への尽力となり、現時第二小学校児童保護会副会長、八幡神社氏子総代、栗原親和会副会長、町会議員、衛生委員、家屋税調査委員、同二次委員等の職に就き、蹇々(けんけん)の至誠を努して、日も之足らざるの状である。
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もちろん、『落合町誌』へ氏名を掲載するには、「紳士録」へ名前を載せるのと同様に、発行主体である落合町誌刊行会へ出版協賛金を払っているのだろうから、その文面はおおよそ美辞麗句を書き連ね、必要以上に“ヨイショ”している可能性が高いと思われるのだが、「請願書」への署名者が地元の活動にことさら熱心だった人々であることはまちがいない。
また、文中に出てくる「協和会」あるいは「親和会」というのは、大正末にできた上落合の町会組織であり、その形成母体となっているのは1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の自警団Click!だった可能性が高い。江戸東京の(城)下町Click!では、江戸期からの町内仲間や町内連中が明治以降、町内会的な組織へそのまま移行しているケースが多いけれど、乃手の町会は関東大震災を契機に誕生しているものがほとんどだとみられる。ちなみに、上落合字伊勢宮下を中心に組織された、上落合協和会の様子を『落合町誌』から引用してみよう。
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本会は大正十四年十一月二十三日部落親睦と公共助成を目的として創立し、初代会長に故林宇之助、同副会長宇田川忠蔵、二代会長山本秀樹、同副会長高山万太郎諸氏を経て、現会長小林亨次郎氏就任、会員三百五十余名を算する団結厚き自治会である、
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また、上落合字栗原下を中心に組織された、栗原親和会の様子も引用しておこう。
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自治的精神の発達には、凡ての自覚を協力一致の力に俟たねばならぬのは論を要せないが、其の統一に於て内容に於て名声を馳する栗原親和会は大正十四年十一月の創立にかゝり、(中略) 現在会員六百五十人を擁し、着々自治齋美の実を挙げつゝあり、因に会長には秋元虎松氏野々村金五郎氏を経て現在磯田正朝氏其の任にあり、副会長は高山治助、近藤健蔵の両氏である。
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ここに登場してくる人物が、ほとんど「請願書」署名に参加している点に留意したい。いわば、大久保射撃場の「撤廃移転」は町ぐるみのテーマだったといえるだろう。
周辺の自治体が連合して、帝国議会へ直接きびしい内容の「請願書」を提出するにおよび、陸軍省はようやくシビアな危機感を抱いただろう。議会で同射撃場の「撤廃移転」決議でも出されてしまったら、現実に代替地を探して戸山ヶ原から出ていかなければならなくなる情勢だった。大正期から昭和初期にかけ、まがりなりにも議会制によるデモクラシーがいまだ機能していた時期では、すべてにおいて「軍の意向」がそのまま最優先され、まかり通るような状況ではなかったのだ。
また、陸軍省の側としても、頻繁に寄せられる住民からのクレーム処理Click!に辟易していたと思われ、抜本的な対策を講じる準備を進めていたのかもしれない。なぜなら、この請願を受けてからほどなく、小銃の射撃場全体をコンクリートのドーム(射撃隧道)Click!で覆ってしまうという計画が、それほど間をおかずに提起されているからだ。おそらく、陸軍省内部では早い時期から、そのような施設の建設計画が審案として存在しており、1925年(大正14)2月の議会への「請願書」が直接的なきっかけとなって、具体的な実施の運びとなったようにも思われる。
落合町では、陸軍軍人が直接署名している事実こそないが、その父親あるいは兄弟と思われる人物が“代理”で署名しているケースがまま見られる。たとえば、上落合512番地に住んでいた橋本群という人物は、『落合町誌』が出版された1932年(昭和7)には陸軍砲兵大佐であり野砲第一連隊長をつとめている。ところが、同じ敷地内に住む父親ないしは兄だろうか、橋本幾次郎という人物が「請願書」に署名していたりするのだ。
また、上落合には戸山ヶ原が近いせいか、陸軍関係者が数多く住んでいた。ちょっとピックアップしただけでも、陸軍歩兵少佐・足羽善行(930番地)、同科学研究所技師・宇田川春太郎(189番地)、同砲兵中佐・川上寿(515番地)、同歩兵少佐・川上明(511番地)、同歩兵少佐・城戸常規(931番地)、同歩兵中佐・黒田重徳(736番地)、同砲兵大佐・林狷之助(番地不明)・・・と佐官クラスがずいぶん住んでいる。これら上落合に家庭を持つ軍人たちも、できることなら「請願書」へ署名したかったのかもしれないのだが・・・。それほど、いつ流れ弾が自宅にまで飛んできて両親や妻、子供たち家族を殺傷しても、決しておかしくはない状況だったのだ。
おそらく陸軍省内や近衛師団の内部でも、大久保射撃場の根本的な設備改善と安全性の確立を求める声が、大正期の後半あたりから少なからず大きくなっていたにちがいない。周辺の頻繁に起きた流弾被害については、近々改めて「落合地域の事件簿」Click!で取り上げてみたい。
◆写真上:lot49sndさんClick!よりご教示いただいた、1937年(昭和12)制作の小泉癸巳男による「昭和大東京百図絵」(版画完制判)の第93景にみる『陸軍射撃場』。
◆写真中上:上左は、1925年(大正14)2月20日に衆議院へ提出された衆議院請願第624号「請願書」。上右は、陸軍次官が内閣書記官長から正式に受け取った受領第1318号書。下左は、戸山ヶ原と上落合が部分的に接する小滝橋。下右は、上落合の住宅街の現状。
◆写真中下:「戸山ヶ原陸軍射的場移転ノ件請願書」に付随する、上落合地域の署名簿。
◆写真下:おそらく、地元に住んでいた在郷軍人会のメンバーも含まれているのだろう、「請願書」へ積極的に署名をした上落合の人々。上左から高山治助、福室郷次、中村金四郎、福室鏻太郎。下左から秋元虎松、荒川角次郎、加藤喜崇、磯田正朝。
この記事へのコメント
lot49snd
これだけ住民が反対しているということは、小泉は移転促進の援護射撃のためにこの作品を発表したのかもしれません。
あるいは、当時、それだけ皆が「百図絵」にふさわしい話題性があったということなのでしょう。
リンクまでしていただきありがとうございます。
ChinchikoPapa
コンクリートの大規模な「射撃隧道」が完成したのは1928年(昭和3)ですが、それ以前の射撃訓練は、なんの覆いもない露天で行なわれていました。周囲に土手をめぐらしているとはいえ、その土手を超えて弾丸が流れたり、あるいはなにかに跳ね返った弾がとんでもない方角へ飛んでいったりしたのでしょうね。
周囲の自治体連合による大久保射撃場の「撤廃移転」運動は、射撃場が露天時代のものです。おそらく、射撃場全体をコンクリートのトンネル状にしたため、流弾の被害や騒音の心配がなくなった1928年(昭和3)の時点で、運動自体は沈静化しているのではないかと思います。先にも書きましたけれど、陸軍省も射撃場施設を積極的に公開して、「安全」キャンペーンを繰り広げた可能性がありますね。
ただ、請願書に書かれている経済上の不便(特に交通関連)は解消されていないわけですから、住民たちの不満はくすぶりつづけたのではないかと思います。そこで、戸山ヶ原を南北に突っ切る環状5号線(明治通り)の工事を、急がせたようにも見えますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
hanamura
文字、単語での検索の逆に、映像から作者や題名…
グラビアから女優の名前を検索できたらなぁ~っと思います。
ChinchikoPapa
昨日までのアイコンは、ちょっと長く使いすぎましたので、ちょっと気分転換を。^^ まさに、わたしも同じ願望を抱いてまして、パターン検索あるいはグラフィック検索とでもいうのでしょうか、キーワードや人名が見当もつかない場合、写真や人物像から逆にテキストを検索できたら・・・と思うことがありますね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>mayasophiaさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
dendenmushi
ありがとうございました。
ChinchikoPapa
安藤対馬守が、摂津の佃・大和田各村と佃島の「担当窓口」だったというのは、まさに言いえて妙でわたしもそう思います。下落合に隣接した目白通りの北側、鼠山と呼ばれた地域に、寛政年間には安藤対馬守の下屋敷が建ってました。面白いですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
katox29(加藤 徹)
紹介ありがとうございます。
最近、叔父叔母から聞いたことで祖父が大震災以降の朝鮮人排除運動に対して公楽キネマ(祖父が作った)に100人単位の韓国人を匿ったことを知り、情報を集めています。
どなたかお分かりの方がいらしたらお知らせください。
ChinchikoPapa
お祖父様は、衆議院請願第624号「請願書」の筆頭に署名をされていますので、きっと一連の運動の中核におられたものと想像しておりました。ごていねいに、ありがとうございます。
公楽キネマにつきましては、上落合に住んでいた作家や美術家たちを追跡・研究されていますナカムラさんが、彼らがよく映画を観にかよった映画館として写真を探してらしたので、わたしも長崎側の「洛西館」とともに、にわかに興味をおぼえていました。
でも、関東大震災の際、警察や自警団などに迫害された朝鮮人たちを大勢かくまったというお話は、初めてうかがいました。事実だとしますと、落合地域ではとても貴重なエピソードのひとつだと思いますので、わたしも詳細を知りたいです。このサイトをお読みで、詳細をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄へ情報をお寄せいただければ幸いです。わたしからも、よろしくお願い申し上げます。
まごすず
ChinchikoPapa
中村金四郎さんの中村家は、江戸期から代々つづく上落合村の旧家で、戸塚村とは関係がないかと思います。奥さんは、下練馬にあった旧家の出身です。
まごすず
落合の家の周りには陸軍の士官学校があったとか、震災時は塩瀬さんが軒先で店を出していたとか。当時は柿の木がたくさんあり、浅草方面から買い付けにくる店もあったとか。
そんな話、聞いた事ありませんか??
ChinchikoPapa
落合地域に「中村さん」はたくさんおられますが、『落合町誌』に収録されている「中村さん」は、先の金四郎さんを含めて9家です。そのうち、詳しい解説が添えられているのは中村金四郎と中村庸の2人で、後者はカネボウの取締役です。
残りの7家は名前のみで、詳細な解説はありません。地付きの「中村さん」は、そのうちの5家ですが、そのうちの4家までが上落合の地主で、残りの1家が下落合の地主です。上落合には、中村銀太郎、中村吉兵衛、中村鍬次郎、中村半三郎、下落合には中村竹蔵の名前が収録されています。この中に、お心当たりの名前はあるでしょうか? 下落合か上落合かで、もう少し絞り込めるとおもうのですが…。
ご承知のように、陸軍の士官学校は市ヶ谷駅前にあり、落合周辺では陸軍幼年学校と陸軍戸山学校が、(下)戸塚村の南側にありました。明治から大正にかけ、落合地域から上高田(野方村)にかけては「落合柿」の名産地で、あちこちの農家で柿の木を栽培しています。おそらく、上記の農業を営んでいたらしい地主の中村家では、すべての家が柿を育てていたのではないかと思います。
まごすず
実は曽祖父の曾孫にあたる方の名前も住居も存じておりますが、なにしろ訳ありの断絶状態でして…
いなげや近くの天理教や中野の葬祭場も曽祖父の土地だった、と聞いています。昔は目白駅から他人の土地を踏むことなく家に帰れた、と。菩提寺へ出向いても個人情報ですので…。
曽祖父から続く男子は皆、郎の字がついているようです。あとは高山の親戚に世話になった、と。あ、これもだいぶ個人情報ですね。祖母は亡くなるまで曽祖父の話をしていたので、和解したかったのかな、と私の余計なお世話ですね。
ChinchikoPapa
おっしゃるとおり、『落合町誌』レベルの情報は公開されているものですので、別に問題はないかと思いますが、それ以上のことはプライベートな領域ですので書きにくいですね。
小滝橋の稲毛屋近くの土地、あるいは落合斎場の周辺の土地といいますと、やはり上落合におられた心証が強いです。先の中村金四郎の父・中村金左衛門(上落合209番地)は上落合の開発に尽くした人のようで、おそらく江戸から明治の話だと思います。
ただし、江戸期から明治期にかけての名主は、上落合でもっとも大きな地主だった福室家が代々つとめていて、中村家は登場していません。また、下落合村も江戸期より戸長時代までは、大地主だった鈴木家が名主をつとめていますね。ついでに西落合(葛ヶ谷村)は、名倉家が名主を代々つとめていました。
「落合村」という行政区分は1889年(明治22)以降のことで、それまでは江戸期を通じて上落合村、下落合村、葛ヶ谷村の3村でした。
まごすず
叔母も母も高齢となり、従兄弟達との和解や墓参り、仏前に線香でも…と叶えてあげたくて曽祖父の情報が少しでも分かれば、と考えていました。村長だった、という事が間違いないのか確認したくて、こちらのブログに辿り着いた次第です。村史、一度拝見してみたくなりました。
またお邪魔させて頂きます。本当にありございました。
ChinchikoPapa
落合村の歴代村長は、鈴木→名倉→鈴木→福室→川村(以下、落合町時代)と、川村家を除き旧・名主=戸長の家がつとめています。この過程で、中村家が登場してくるのは、1904年9月~1908年9月(明治37~41)までの川村村長時代の4年間、助役として先に記しました上落合の中村金左衛門が就任しています。
このあたりの詳細は、1932年(昭和7)に出版されました『落合町誌』に掲載されています。ご参照ください。
スズキ
落合の中村家は知りませんが中村家は戸塚柏木東大久保百人町と広範囲にありどれも旧家です。東大久保と戸塚の中村は同族ともいわれているそうなので関係はあるかもしれません。しかし戸塚の中村は畠山重忠の遺臣を名乗っていますから高山家とは関係がありません。上落合に高山右近直系の子孫という高山家がありますからそちらの方でしょうか。高山家や中村家については新宿区文化財総合調査報告書4等にありますからそちらを御一読されては。
ちなみに戸塚や東大久保の中村家は家紋が四つ目結いです。
ChinchikoPapa
「同族」だったといわれる、戸塚と東大久保の中村家は存じませんでした。ごていねいに解説いただき、ありがとうございました。
まごすずさんが読まれて、ご教示いただいた資料等をご覧になれば、なにかの手がかりが得られるか、または具体的なことがわかるかもしれませんね。重ねて、お礼申し上げます。
まごすず
ChinchikoPapa
>「初めて富士山に登った女人も先祖に居ると聞きました。」
このあたりから、なにか資料でたどれそうな気もします。ご承知のとおり、富士山の祭神は女神「コノハナサクヤヒメ」ですので、「山ノ神」が嫉妬して事故を起こす、あるいは遭難するといわれ、女性の登山は江戸期には基本的にできなかったはずです。
落合地域は、江戸期から戦前にかけてまで、富士講が盛んな土地がらですが、もし富士山初登頂の女性がいたとすれば、どこかに記録や伝承が残っている可能性が高いですね。ちょっと、気をつけてみます。
まごすず
ハルさんの休日、拝見しました。ご出演なさったのですね、驚きました。
下落合、やっぱり良いところですね。私は夫の転勤で北海道から山口へ参りました。先日、帰省した際に祖母の遺したアルバムをみて、久しぶりに曽祖父の金四郎と昔の屋敷を目にしました。私たちが落合へ帰るのはまだまだ先ですが、益々のご活躍をお祈り申し上げます。
ChinchikoPapa
ドラマは、恥ずかしい限りですね。(汗) ご覧になったアルバムは、いまとなっては周辺の風景や当時の風情を含め、たいへん貴重な地域史料だと思います。ぜひ、大切に保管されてください。落合地域へもどられる日を、お待ちしています。
わざわざ、ありがとうございました。
まごすず
以前の私の質問にコメントくださったスズキさんにあるように、上落合の高山家が高山右近の直系子孫とありますが、その高山家は上記写真の高山治助氏と関係があるかご存知ですか??
調べようにも方法もわからず、山口から帰省も出来ず、挙げ句の果てに高齢の母もあてにならず。
ご迷惑をおかけすることを承知でお尋ねします。心苦しくありますが、宜しくお願い申し上げます。
ChinchikoPapa
わたしの手もとには、残念ながら「新宿区文化財総合調査報告書4」の資料がありませんので確認できないのですが、地主の高山治助(上落合577番地)については1932年出版の『落合町誌』に、「抑々当家は本町草創の旧家にして」と書かれているだけで、特に「高山右近」との関連など先祖については触れられていません。
上落合の高山家は、あと3家ほど確認できるのですが、いずれも『落合町誌』に一覧形式で掲載されており、詳細は記述されていません。残り3家のうち、地主である高山彦太郎と高山松之助は上落合559番地の同地番ですので、おそらく姻戚関係だとみられますが、当時は荒物商を営んでいた高山萬太郎は、上落合164番地で少し離れたところに居住しています。
以上が、上落合で確認できる高山家の4家ですが、「高山右近」との関連は不明です。お役に立てなくてすみません。
まごすず
亡くなった祖母が高山治助氏を「高山のおじさん」と呼んでいたことを思い出して質問させて頂きました。段々自身のルーツが分かるようになって面白くもあり、知らない事の多さに残念でもあり。
早く東京に戻って色々調べてみたいです。
ありがとうございました。
ChinchikoPapa
前回のコメントに記した高山家は、1932年の時点では住所が3ヶ所に分かれていますが、特に地主の3家はもともと同一の家系なのかもしれません。落合地域の旧家には、「小野田」「宇田川」「福室」「鈴木」など同一の姓がみられますが、たいがい鎌倉期から江戸期にかけて分岐した家々で、「遠い祖先はいっしょの家系だった」というお話を、古老からよくうかがっています。
上落合には、鎌倉時代に建立された最勝寺がありますので、高山家に関してもなにか手がかりがあるかもしれないですね。ただ、上落合は落合地域でもっとも空襲被害が激しかったエリアですので、貴重な江戸期の資料が失われている可能性が高いのですが……。
まごすず
治助さんが親戚だという認識はあるのですが、遠方で不便ばかりです‥‥
日本史好きなので色々調べる事は楽しいのですが、落合のことは落合で調べないと、ですね。
いつもアドバイスをありがとうございます!
ChinchikoPapa
最勝寺は空襲で焼け、また住職も代替わりで他所から派遣されてきている可能性もありますので、昔のことはご存じないかもしれません。わたしも、落合地域とその周辺にある寺院をずいぶん訪ねましたが、住職が戦後に就任したところが多く、戦前のことさえご存じないところが多かったですね。
最勝寺に関しては面白い歴史があるようで、沼袋村にある実相院との間で、ときどき住職の“トレード”が江戸期に行われていたそうです。寺の規模から、最勝寺の住職に任命されると“栄転”だったらしいのですが、最勝寺だけでなく横のつながりのある寺々に、なにか資料が残されていないかどうかも興味を惹かれますね。沼袋と上落合の間で、檀家の交流や入れ替えも記録されているようです。沼袋の実相院は、あまり戦災にも遭っていないので、江戸期の上落合村との交流記録が残ったケースです。
最勝寺に限らず、この地域の寺院について、そこまでもたどりたい気持ちは山々なのですが、わたしは落合地域と故郷の街の調査だけで手いっぱい、とても手が回りません。^^;
まごすず
高山の家とは母や叔母もやり取りがあるようなので、中村家の事も聞いてみます。
故郷の歴史を知るってワクワクしますよね。お手伝いしたいくらいです。ネット社会で便利ではありますが、やはり紙をめくって調べ物をしたい性分です。
どうもありがとうございました。
ChinchikoPapa
うまくご先祖の資料が発見できるといいですね。わたしも、機会がありましたら「新宿区文化財総合調査報告書4」を参照してみようと思います。こちらこそ、貴重な情報をありがとうございます。
ChinchikoPapa
コメントをいただいてから、江戸期のものと思われる「高山文書」の詳細を入手いたしました。本日、資料がとどきましたので、いずれ記事にしてみたいと思います。上落合村(落合村)は、すでに鎌倉期の資料に記載が見えるようで、かなり開村が古いようです。自性院の記録にもありますが、平安期末から和田氏の館(哲学堂公園=和田山のことです)があったことから、さらに時代をさかのぼるのかもしれません。
この歴史の流れの中で、どのような経緯で近世の高山右近が登場するのか、あるいは記事中の高山治助との関わりはどうなのか、ちょっと調べてみたいと思います。
まごすず
素晴らしい資料が手に入ったのですね、私も拝見したいくらいです。
ここでは書けない親戚付き合いもありますので、連絡方法があったらご教示いただけると幸いです。決して怪しい者ではありませんので、よろしくご査収下さい。
ChinchikoPapa
「高山文書」は、新宿区教育委員会が分析しているのですが、江戸期の初めに高山家が上落合村の創立に関わったという経緯は否定されています。落合村自体は、前回のコメントにも書きましたが、室町期以前から存在しており、上下に分かれる前の落合村は、自性院の文書にあるとおり平安期末までたどれそうだからです。また、最勝寺にあるとされる「高山右近」の墓も、同教育委員会では高山家の先祖代々の墓と規定していますね。
このような調査資料でもよろしければ、コピーしてお送りいたします。メルアドは「tomohiro.kita@gmail.com」です。
大澤裕紀
ChinchikoPapa
つい最近も、名産だった「落合柿」のことを記事にしたばかりだったりします。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2023-02-11
また、ご先祖が代々住まわれていた、八幡通り沿いの古写真やエピソードなどもご紹介しておりますので、「月見岡八幡社」(旧境内)や「八幡通り」「公楽キネマ」「前田地区」「大塚」などのネームで検索されますと、多種多様な記事が見つかるかと思います。
記事末に、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」の八幡耕地界隈の地図を掲載しました。落合町上落合(字)八幡耕地240番地でしょうか、ご参照ください。
大澤裕紀
ChinchikoPapa
『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)を参照したのですが、上落合村にも下落合村にも登場していませんね。1932年(昭和7)の『落合町誌』の「人物事業編」にも、残念ながら収録されておらず詳細はわかりません。戦時中の防護団「落合第二分団名簿」には、「大澤」姓のお名前が2名掲載されています。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2012-10-02
わたしの祖先も、信州から一時期上州(群馬)に立ち寄ったあと、1630年前後(寛永年間)に江戸へ移転してきていますので、なんとなくルートが似ていますね。
大澤裕紀
ChinchikoPapa
あまりお役に立てなくてすみません。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。