佐伯米子の実家向かい江木写真館。

江木写真館跡.JPG
 土橋の南詰め、新橋駅もほど近い双葉町4番地にあった、佐伯米子Click!の実家である池田象牙店Click!の向かいには、明治期の銀座レンガ通りをほうふつとさせる江木写真館が店開きしていた。関東大震災Click!の前には、とても写真館とは思えないようなシャレたレンガの尖塔がそびえ、おそらく京屋時計店Click!服部時計店Click!の時計台のように、遠くからでも視認できただろう。江木写真館の北側へ、震災の直前に逓信省の電信電話局分局ビルが建設されるまで、数寄屋橋方面からも東海道線のガードや外濠沿いに、この写真館の尖塔は見えたかもしれない。
 池田家に残されたアルバムには、この写真館を利用して撮影した記念写真が、何枚か貼られていただろう。また、1920年(大正9)の秋以降は、米子の実家をちょくちょく訪問していたと思われる佐伯祐三Click!も、夫婦で(結婚式は同年の11月)、あるいは彌智子Click!が生れてからは家族3人で、そろって撮影しているのかもしれない。佐伯祐三や家族、親族が写る記念写真で、明らかに写真館で撮影されたと思われる背景(道具立てやホリゾント)のもの、またプロのカメラマンによると思われる出来のものは、江木写真館製の可能性がありそうだ。
 わたしの親の世代まで、なにかの記念に家族写真を撮影する行きつけの写真館、昔から依頼している写真師(カメラマン)というのが決まっていた。家のすぐ近くに新しい写真館がオープンしても、なぜか少し離れた“行きつけ”の写真館へわざわざ出かけて、記念写真やポートレートを撮影してもらっている。医者の主治医の概念と同じように、「主写師」とでもいうべき習慣があったのだろう。うちも西両国(現・東日本橋)に実家があったにもかかわらず、写真撮影にはわざわざ日本橋人形町の写真館まで通っていた。(もともと東日本橋のすずらん通り界隈Click!から移転した写真館なのかもしれない) 行きつけの喫茶店も、散歩がてらに出かけるのは祖父母の代から、人形町の“全席喫煙”看板^^;のある「快生軒」Click!だったので、この街に惹かれる面白いなにかがあったのだろう。当時は、さまざまな店への用事には、“行きつけ”という考え方を大切にしていた時代だった。
土橋脇から数寄屋橋を望む1919.jpg 佐伯祐三「銀座風景」1926.jpg
 佐伯祐三が米子と結婚した翌年、いまだ下落合の借家Click!で暮らしていた1921年(大正10)の春、米子の実家・池田家の向かいにある丸屋町3番地の江木写真館へ、わざわざ湘南から記念写真を撮りにきた家族がいる。すぐに青筋を立てる、カンシャク持ちの男は妻と娘を連れていた。1921年(大正10)4月10日(日)、この日は娘の8歳の誕生日で、わざわざこの日のためにあつらえたかわいい洋服Click!を着せ、新橋駅まで湘南電車(東海道線)でやってきたのだ。
 レンガ造りのオシャレな写真館に、めずらしく洋服を着せてもらったClick!は大喜びではしゃいでいただろう。藤沢の鵠沼(くげぬま)からやってきた家族とは、岸田劉生Click!蓁(しげる)Click!麗子Click!の3人だ。1979年(昭和54)に出版された『岸田劉生全集』第6巻(岩波書店)より、1921年(大正10)4月10日(麗日=晴れ)の日記から、少し長いが全文を引用してみよう。
  
 今日は第八回目の麗子の誕生日であり又入学最初の日曜日であり、又我家の記念日である。余等夫婦のための記念の日である。それで今日、麗子肖像を仕上げて、それから御祝ひに上京する事にし、麗子の肖像を仕上げる。この画も丁度卅一日かゝつた。出かける前丸山一寸来る。椿へ一寸寄り、十二時二十分の汽車で上京、すぐ江木写真館に行き、麗子のを一枚と余等三人のを一枚うつす。それから市街自動車にて上野へ行く。花は八分の咲きにて、人が大へん沢山出てゐた。丁度風もなく日はうらゝかで、誠によい春である。花の下を大人少人男女が楽しさうに往来してゐる様は本当にこの世は楽しい処といふ感じがする。かういふ花見に来たのは、もう何年ぶりになるか分らぬ。大へん面白く思つたので、手帳にニ三スケツ(ママ)を止める。いつか観桜麗日といふ絵でも作らうと思ふ。博文館(ママ)に入る。こゝも大へんな人だ。いつもながら舞楽、能楽の面にはうたれる。錦画にも感心した。呼びものゝ表慶かんの信実の三十六歌仙はつまらなかつた。麗子のために動物のハク製など見て、そこを出て、せい養軒に入て夕食する。大へんうまかつた。それから市街自動車で銀座に出て、ニ三買ひものして新橋ステイシヨンから七時四十分の汽車で帰宅。銀座でビールの小便が出たくてよわつたが不図思ひついてカフエーライオンに入つて用をすました。窮すれば通ずだと思つた。今日は日がいゝさうで江木でもせい養軒でも御よめさんがゐた。
  
土橋(明治中期).jpg
江木写真館(昭和初期).jpg
 おそらく、銀座生れの劉生にとって、あるいは同地で開店していた岸田家Click!にとっては、江木写真館が“行きつけ”で馴染みのスタジオだったのだろう。当日は麗子の誕生日というばかりでなく、岸田夫妻が出逢い結ばれた記念日でもあった。劉生はこの日、めずらしく腹を立てていない。江木写真館で記念撮影したあと、岸田一家は上野の山で遊び、不忍池Click!端の上野精養軒Click!で食事をしている。そのあと、実家のあった銀座へともどり新橋へと向かうのだが、おしっこが漏れそうになった劉生は大急ぎでライオンへ駈けこんでいるようだ。
 当日は、江木写真館でも上野精養軒でも花嫁を見かけたと書いているので、きっと大安吉日の結婚式日和だったのだろう。前年の11月、築地本願寺で行なわれた佐伯祐三と池田米子の結婚式の記念写真も、ひょっとすると江木写真館のカメラマンが築地まで出張して撮影しているのかもしれない。また、佐伯夫妻や個々の肖像写真で、プロの手による撮影と思われるものは、江木写真館で撮影されていやしないだろうか?
日記挿画19210410.jpg
岸田劉生19210410.jpg 佐伯米子.jpg
 江木写真館のネガ類は、おそらく1923年(大正12)の関東大震災あるいは1945年(昭和20)の戦災で焼失している思われるのだが、もし万々が一残っているとすれば、同じ時期のネガ類には岸田家の家族と佐伯家の家族の肖像とが、近接したタイムスタンプで保存されている可能性が高い。同写真館は明治期に、おそらく貴族院あるいは「地震取調局」の設置を政府へ要請した華族からの依頼で、1891年(明治24)10月28日に起きた「濃尾大地震」の被災地へカメラマンを派遣し、現地の様子を詳しく記録しているのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:現在の江木写真館跡地には、静岡新聞と静岡放送の塔があるビルが建っている。
◆写真中上は、震災直前に作成された絵葉書にみる土橋の江木写真館。は、1926年(大正15)に米子の実家2階から描かれた佐伯祐三『銀座風景』(部分)にみる同写真館。
◆写真中下は、明治中期ごろの土橋(丸屋町/双葉町)界隈。は、1930年(昭和5)ごろの同界隈で、丸屋町は銀座西8丁目へと町名変更がされている。
◆写真下は、岸田劉生が1921年(大正10)4月10日の日記に添えた挿画で、上野山の花見(右)と精養軒での夕食(左)。下左は、同日の午後早い時間に江木写真館で撮影された岸田一家。下右は、向かいの江木写真館で撮影された可能性がある女学校時代の池田米子。

この記事へのコメント

  • ナカムラ

    ご存知なら・・・尾形明子先生から外山五郎さんの実家の一部に佐伯祐三アトリエが建ったとお聞きしました。ところが、卯三郎さんは新目白通りのところ。何かご存知ですか?
    2011年03月21日 11:35
  • sig

    絵画と同時にこのような記述が残されていると、興味は倍増しますね。
    2011年03月21日 15:37
  • ChinchikoPapa

    龍泉洞のエメラルドグリーンの水面は、忘れられない美しさです。
    nice!をありがとうございました。>こさぴーさん
    2011年03月21日 23:08
  • ChinchikoPapa

    きょうアルバムを整理していたら、1974年に歩いた「ハケの道」写真がたくさん出てきました。機会があれば、ご紹介したいと思います。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年03月21日 23:11
  • ChinchikoPapa

    お仕事で工具が使いにくいのは、不便ですね。
    nice!とトラックバックをありがとうございました。>ものたがひさん
    2011年03月21日 23:17
  • ChinchikoPapa

    明治建築の匂いが、プンプンする建物ですね。
    nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2011年03月21日 23:21
  • ChinchikoPapa

    ナカムラさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    実際にあった事実や記憶が、どこかで習合している可能性がありそうですね。「外山卯三郎の実家、外山秋作邸の敷地に卯三郎アトリエが建ち、そこへ1928年の秋、佐伯祐三の第2次渡仏作品のすべてが巴里から送られてきて保管された」・・・という事実関係が、どこかで変形してしまったものでしょうか。
    2011年03月21日 23:27
  • ChinchikoPapa

    きょうは子どもを抱いて腰を痛めたあと^^;、久しぶりに「杏奴」でゆっくり原稿を書いてきました。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2011年03月21日 23:30
  • ChinchikoPapa

    プラモデルは、特に船のモデルがいまでも作りたくなりますね。
    nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2011年03月21日 23:32
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    岸田劉生の日記は、多くの部分が「絵日記」となって残っているところです。その場の雰囲気や、人々の話し声までが聞こえてきそうで、日記の内容がよりリアルに浮かび上がりますね。
    2011年03月21日 23:37
  • ChinchikoPapa

    義援金の振込みができないでいる方が多そうな、みずほ銀行のオンラインシステム(国内最大の金融インフラ)が気になります。ダウンから4日もたって復旧できないということは、障害箇所の切り分けができていない可能性が高いですね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2011年03月21日 23:43
  • ChinchikoPapa

    いつもごていねいに、nice!をありがとうございます。>今造ROWINGTEAMさん
    2011年03月21日 23:44
  • ChinchikoPapa

    人に会ってお話していると、ストレスがたまって「パニック」を起こしそうな方が何人かいらっしゃいます。異様に躁状態だったり、ヒステリー寸前だったりするのですが、「日常」が崩れることがどれだけ人を不安にさせるかを、改めて深く考えさせられますね。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2011年03月21日 23:51
  • ChinchikoPapa

    厚い雨雲があって、残念ながら月が見えません。
    nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
    2011年03月21日 23:53
  • ChinchikoPapa

    大阪の環状線は、山手線に比べてかなり円形が狭いのですが、階段を上ってくるお年寄りの女性を車掌がジッと見ていて、乗るまで待っているのは山手線にはない光景でした。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2011年03月21日 23:59
  • ChinchikoPapa

    トップのヘッダーデザインが、別の美しい歌い手に変わりましたね。
    nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
    2011年03月22日 00:12
  • ChinchikoPapa

    大仏の光背が、めずらしい形状をしていますね。西方浄土からやってくる、「ジェット気流」を図案化したものでしょうか。nice!をありがとうございました。>ねじまき鳥さん
    2011年03月22日 01:50
  • ナカムラ

    明快な推理おそれいります。その通りでしょうね。尾形先生お伝えします。20日に中井散歩をしたのです。芙美子のお墓参りもかねて。
    2011年03月22日 19:56
  • ponpocopon

    岸田麗子さんは「麗子像」の素朴なイメージと異なり、洋装の写真ではとても近代的なお嬢様だったようですね。
    2011年03月22日 20:34
  • ChinchikoPapa

    記事に登場している岸田劉生は、帝国美術院や文部省の情実・派閥的な腐敗鑑査に、生涯「No」を言いつづけた画家ですが、宋画や唐画、あるいは肉筆浮世絵に関してはずいぶんフェイクをつかまされていたんじゃないかと思います。nice!をありがとうございました。>Simpleさん
    2011年03月23日 00:10
  • ChinchikoPapa

    ナカムラさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    おそらく、外山-佐伯-アトリエと繋がると、そのような経緯ではなかったのかなと想像しました。ちがっていたら、申しわけないのですが・・・。
    話は変わりますが、先週、ビックリするような写真を手に入れました。次の記事でご紹介しますが、中井や上落合界隈も大いに関係のあるテーマです。w
    2011年03月23日 00:15
  • ChinchikoPapa

    ponpocoponさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    「麗子像」に描かれた一連のスタイルは、劉生がわざわざ「デロデロ」や「デヤデヤ」の赤いコスチュームを選んで着せたり、あえて野暮ったくグロテスクにデフォルメして描いていますので、麗子ちゃん自身は闊達でおちゃめで、ちょっと乱暴で元気な女の子だったようですね。日記に登場する彼女を見てますと、大正生まれのハイカラお嬢さんという感じがします。
    江木写真館跡に建っている静岡新聞の塔状ビル、確かに重心が高そうで地震のときは怖そうな建物です。
    2011年03月23日 00:22
  • ChinchikoPapa

    「鏡獅子」を一流どこでやると、10万円/分というのは凄まじい世界ですね。義姉がため息をつくわけです。nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
    2011年03月23日 10:41
  • ChinchikoPapa

    昨夜から今朝にかけて3度の余震がありましたけれど、慣れというのは怖ろしいですね。いずれの揺れも気づかず、グッスリ寝ていました。nice!をありがとうございました。>PENGUINGさん
    2011年03月23日 22:44
  • SILENT

    静岡新聞と静岡放送の塔があるビルは東海道線から東京駅に向うと
    町並みが軍艦の舳先のようにみえていつも見ていました。佐伯米子の実家があったのですか。先日は曾宮さんの富士宮の消息の件、菊池様にお伝えしたら大変喜ばれていました。ありがとうございます。
    2011年03月25日 11:38
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    確かに塔の部分も、戦艦の前楼のような姿に見えますね。佐伯米子の実家は、もともとは銀座4丁目の服部時計店のまん前ですが、土橋南詰めの双葉町は最初の引っ越し先に当たります。
    いえいえ、曾宮夕見様の消息は、わたしではなく江崎様からのすばやい情報のおかげです。
    2011年03月25日 20:42
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2011年03月26日 00:03
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2011年04月03日 11:38
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、重ねてnice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年05月07日 14:53

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