1927年(昭和2)3月に起工し、翌1928年(昭和3)7月に竣工する、当時は「東洋一」とうたわれていた大久保射撃場Click!の設計図面を入手した。西武線の奥に蓄積された建築資材、すなわち河川敷の砂利やセメントが下落合駅Click!から軍需貨物として運びこまれ、もっとも多く活用されたのではないかとわたしがにらんでいる巨大な建造物だ。
高田馬場駅から約400mほど南へ下ると、1874年(明治7)6月に陸軍用地となり、1882年(明治15)11月から近衛連隊射撃場として使用されはじめた、戸山ヶ原の中央部に位置する大久保射撃場の敷地に入る。この敷地は、全体を練兵場あるいは射撃場として陸軍が使用していたようだが、明治末から大正期にかけて、流れ弾や騒音などのクレームClick!が陸軍省へ数多く寄せられるようになり、射撃場施設をすべて分厚いコンクリートで覆ってしまうという案が決定された。それらのクレームは、大久保町をはじめ戸塚町、落合町、中野町と射撃場周辺の全地域におよび、1925年(大正14)2月には各町の有力者や町会が中心となって、大久保射撃場の全廃運動へと発展していく。まもなく議会で予算が通り、建設費は204万528円で1926年(大正15)と翌年の2回に分けて予算を付けることが、1926年(大正15)11月10日に近衛師団経理部長案として決裁されている。おそらく、この時期あたりから西武鉄道による建築資材の輸送がスタートしていると思われる。
また、大久保射撃場から山手線をはさんだ西側の丘を被弾地と指定し、銃砲弾を撃ちこむ演習も行なわれていたのだが、砲弾が飛ぶ下をダイヤの密な山手線が走っていて危険きわまりないため、昭和初期にはおおよそ中止されているようだ。また、被弾地の南には陸軍科学研究所の施設が建ち並んでおり、時代とともに同研究所の施設建物が拡大して北側の被弾地へ迫ってきていたという事情もあるのだろう。事実、国立公文書館の陸軍資料を調べてみると、科学研究所の設備拡充とともに、被弾地の面積が削られていく記録が残っている。
カマボコ型のコンクリート射撃隧道が建設される前の様子を、大久保近辺に在住していた随筆家で英文学者の戸川秋骨が、『そのまゝの記』(籾山書店/1913年)に記録している。
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その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものがある。凡そ今日の勢、苟も余地あれば其処に建築を起こす。然らずともこれに耒耜(らいし)を加ふるに躊躇しない。然るに如何にして大久保の辺に、かゝる殆んど自然のそのまゝの原野が残つて居るのであるか。不思議な事には、此れが実に俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部は戸山学校の射的場で、一部は練兵場として用ゐられて居る。併しその大部分は殆ど不要の地であるかの如く、市民若くは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が、大久保柏木の小路を隊をなして馳せ廻はるのは、甚だ五月蝿いものである。否五月蝿ではない癪にさはる。
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戸川秋骨は、射撃場を陸軍戸山学校のものだと思っていたようだが、実際に設置したのは近衛連隊(師団)であり、戸山学校や砲工学校の生徒たちも演習授業に使用したものだろう。
新たに建設された大久保射撃場の設計図は、上から見た平面図と、カマボコ型の射撃隧道(トンネル)を横(南側)から見た側面図および断面図が残っている。射撃場の敷地は、東西に400m(諏訪通りに面した北側は約410m、南側は約385m)ほどあるが、コンクリートで覆ってしまった東西の幅は300mもあった。この300mという数値は、当時の小銃の弾がほぼまっすぐに飛ぶ距離をめやすにしているのだろう。300mもあるカマボコ型の射撃隧道が、中間叉路を1本はさんで、南北に7本も建ち並ぶことになった。コンクリートの厚さは、おそらく50cmほどだったと思われ、1945年(昭和20)のB29や戦闘爆撃機による激しい空襲にさらされても、最後まで破壊されることはなかった。設計は近衛師団経理部で、施工は橋本工業合資会社が担当しているのだが、この橋本工業の設立へ西武鉄道が出資していやしないだろうか?
竣工の直後、おそらく1928年(昭和3)に低空飛行で斜めフカンから撮影された空中写真には、敷地内の様子が鮮明にとらえられている。(下写真) 左側の兵舎のような、カマボコ型のコンクリート構造物が射撃隧道で、その右側に拡がる空地は砲撃演習場、あるいは練兵場だ。演習の流れ弾が敷地外へ飛ばないよう、非常に高い土手が築かれていたのがわかる。山手線は写真上を走っているが、近隣の住宅を含め流れ弾による事故が絶えず死者まで出ている。
また、写真の右枠外には、いまだ細道の諏訪通りが通っているのだが、その南側で地面へかなり広範にわたって手を入れ、なにやら工事が行なわれているらしい点に留意していただきたい。トロッコの軌道と思われる線路が、何本も敷設されているのが見てとれる。このあたりの敷地は、先に書いた地下鉄「西武線」Click!の敷設ルートに近接し、現在では幅広の諏訪通り(補助72号線)の下になっているエリアだ。1928年(昭和3)現在、陸軍省工兵課や騎兵課などの全面協力のもとで西武鉄道が地下鉄工事を進めていたとすれば、その“現場”がとらえられた貴重な写真の可能性がある。
巨大なコンクリート製カマボコ型射撃隧道の様子を、同じく西大久保に住んでいた歌人・前田夕暮Click!が書きとめている。『素描―自叙伝短歌選釈―』(八雲書林/1940年)から引用してみよう。
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私が明治末から住んでゐた大久保の地、隣接戸山ヶ原射場も、時代の推移に伴ひ、新しい白亜の累々たる円屋根の工作物が出来た。それは露天射撃が近郊にいろいろ危険を与へるので、絶えず問題化した果てに、その危険を防備するために、海狸の巣のやうなコンクリートの円屋根の工作物が、何個も原つぱに建てられた。これは全く新しい近代的な風景であつた。
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射撃隧道を「海狸(ビーバー)の巣」と表現しているけれど、言いえて妙だ。1940年(昭和15)に発表された作品なので、国家総動員体制と軍国主義化が極端に進む中、戸川秋骨とは異なりどこか陸軍へおもねっているような文章であるのは否めないが・・・。
戦時中、戸山ヶ原にはあちこちに高射砲陣地と、敵の爆撃機を照らす探照燈(大型のサーチライト)が設置されたが、1945年(昭和20)の4月からB29による徹底的な絨毯爆撃、および戦闘爆撃機によるピンポイント爆撃が繰り返し行なわれ、ほとんどの陸軍施設および周辺にあった病院は壊滅した。でも、頑丈なコンクリート建造物である大久保射撃場だけは、繰り返し直撃弾や至近弾を受けながらも、崩落することはなかった。戦後は占領軍に接収され、そのまま射撃演習場として利用されたが、警察予備隊(自衛隊)も訓練所として使っていた。
1958年(昭和33)に米軍から返還されると、射撃場跡地の利用に手を挙げたのは、住宅不足を解消するため宅地開発を行なっていた住宅公団、公務員住宅が不足していた大蔵省、交通公園を企画していた東京都、小学校建設と公園を計画していた地元の新宿区、そして医学部設置を予定していた早稲田大学だ。跡地利用は競合入札ではなく、各団体や法人と折衝のすえ分割して払い下げられた。1965年(昭和40)に、早稲田大学の理工学部キャンパスClick!の建設がスタートすると、最後に残されていたカマボコ型の射撃隧道は、すべて姿を消すことになった。
大久保射撃場が完成した翌年、1929年(昭和4)にさっそく施設への落書きが発見され大問題となっている。「不穏落書」とされた事件は、近衛師団司令部まで報告書が上がり陸軍を震撼させた。のちに起きる事件を予感させる、とてもラディカルな落書きなのだが、それはまた、次の物語。
◆写真上:1957年(昭和32)に撮影された、米軍から返還直前の大久保射撃場。
◆写真中上:射撃隧道の全体平面図(上)と、側面図および断面図など(下)。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)の竣工直後に撮影された大久保射撃場全景。山手線の際、左上に見えている工場は東京製菓工場(現・ロッテ工場)※だ。下左は、射撃隧道の途中にあった中間叉路で、人物と比較するといかに巨大な建造物だったかがわかる。下右は、射撃隧道の内部。
※東京製菓とロッテ製菓の工場は同一敷地ではなく、ロッテ工場が南へ50mほど下がった位置にあることがm.h.さんのご教示で判明した。(コメント欄参照) 戦後のロッテ工場となる敷地は、戦前には高級住宅街だったようだ。ご指摘ありがとうございました。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる大久保射撃場。中左は、射撃場跡地の戸山公園。中右は、1979年(昭和54)に拡幅された諏訪通りで、昭和初期は北側車線よりもさらに狭い道路だった。下は、1926年(大正15)11月10日決裁の「大久保及戸山小銃射撃場改築工事実施ノ件」の審案書。1926年(大正15)に110万7千842円、翌1927年(昭和2)には93万2千686円の予算が付き、合計すると204万528円で射撃隧道が建設されていることになる。
この記事へのコメント
NO14Ruggerman
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/976421bede59a80cdf4f7b7fe8aa8ad0
「軍都 戸山ヶ原逍遙」とも記されています。
kurakichi
はたして何が出てくるか興味が湧きます。
ChinchikoPapa
サイトのご紹介、ありがとうございました。やはり多くの方が、「軍都・新宿」の姿を解明されようとしているようですね。
記事末に、1960年代の交通公園を撮影した写真を掲載しました。きっと、懐かしい思い出がある方が、たくさんいらっしゃるのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
想像以上に、全的で大規模な発掘調査ですね。下の地層(埋蔵文化財)を傷つけないよう、最新の注意を払って作業を進めるとのことですので、わたしとしても歓迎です。この際、厚生省の次に新宿区も、その下の地層(旧石器~江戸期)を同時に調査してくれるともっと嬉しいのですが。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>綾小路曽根斗麿さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
NO14Ruggerman
掲載ありがとうございました。
自分の記憶の中では曖昧模糊としていますが、(勝手に)リンク
させていただいたブログコメントにはミニSL走行との記載が
ありますね。
駅員3
SILENT
夕暮れと云う名も 西行の「こゝろなき」の歌からとったようにも
思えるのですが。鴫立庵東に「夕暮れ橋」という橋の名が見かけました。300メートル厚さ50センチの戦争遺産壮観ですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしは交通公園で遊んだ記憶がないのですが、きっと親がここまで連れ歩いてはくれなかったんでしょうね。
ゴーカートが走ってたり、なんだかとても楽しそうです。写真には線路が見えてますので、ミニSLも走っていたのでしょうね。子どものころ、一度遊んだ経験がおありの方なら、きっと強烈な印象を残したのではないでしょうか。w
ChinchikoPapa
設計図を見ますと、いまさらながらその巨大さにびっくりしますね。
一度、実物を見てみたかったです。
ChinchikoPapa
大磯の医院に滞在していたのは、自殺をはかったあとの静養中のことだとしますと、付近を散策した彼が鴫立庵に寄って、西行の歌に触れた可能性が高いですね。伊豆・箱根の山々へ沈む夕陽を眺めながら、「夕暮」という歌号に決めたものでしょうか。この号は、かなり若いときから用いていたようですので、その可能性が高そうです。
sig
写真、図面とも大変貴重なものですね。
ChinchikoPapa
そうなんです、戸山ヶ「原」とはいえ戦前は住宅地に囲まれていたわけですから、山手線に乗っているとコンクリートの巨大な射撃隧道が、目前に次々と姿を現わす様は異様な景観だったでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
lot49snd
戦前に活躍した版画家 小泉癸巳男(1893年~1945年)の『昭和大東京百図絵』という版画集に「第93景 大久保・陸軍射撃場(旧戸山ヶ原) 昭和12年6月作」があります。(参照 TOKYO DIGITAL MUSEUM URL:http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0195202922&sr=%90%7D%8A%47)
これがどういうものなのかイメージが湧かなくて悩んでいましたが、この記事を見て納得しました。山ノ手線のすぐ脇にすざまじい施設があったことに驚きました。
時々、拝見していますが、情報収集力に圧倒されます。これからも蔵出しの情報を楽しみにしております。
ChinchikoPapa
また、貴重な作品の情報をありがとうございました。小泉癸巳男が描く『陸軍射撃場』は、ちょうど「中間叉路」と呼ばれた隧道と隧道の間に通う道路右手の情景のように見えますから、北側から数えて4本目の隧道で訓練をする陸軍兵士を描いたものでしょうか。1937年(昭和12)の情景ですから、射撃場の竣工からおよそ9年後の姿で、スズカケでしょうか画面左手の街路樹がかなり成長していて興味深いですね。
文中にもチラリと書きましたが、大正期には周囲の住宅地から流れ弾や騒音の苦情が激しくなり、射撃場の全廃・移転運動が起きているのですが、それが当時の落合町民とも深くかかわってまして、ほとんど「談判状」に近い文書を陸軍省へ突きつけていくことになります。資料調べがまとまりましたら、また記事に書きたいと思っています。
ChinchikoPapa
lot49snd
それにしても不思議なのは、何故、小泉癸巳男が演習中の兵士の姿をスケッチすることができたのか、ということです。一般市民に演習を公開するような機会があったのでしょうか?音は隠しようがないにしても、内部を気前良く公開したとは思えないのですが・・・。
また、予約した会員に頒布会形式で販売した版画集で、百図絵を初めから終わりまで会員として援助したのは僅かに4人だったとはいえ、1942年に「昭和大東京百景版画展」を東京、大阪、横浜で開催したそうなので、『陸軍射撃場』の版画がある程度の人数の目に触れたと考えられます。すると、陸軍は演習の様子は軍事機密とは考えていなかった、と思わざるを得ないのです。
ところで、『百図絵』では花、水辺、雪景色といった長閑な自然の風景やお祭り、行楽地、夜景等を描いた作品が多いのですが、この『陸軍射撃場』は他の作品と比較すると明らかに異質です。当時、千住にあったガスタンクを描いた作品が「左翼的な画面で評判を得た」と注釈されていることから、小泉癸巳男は心情的には反体制であったのかもしれません。
長々とコメントして済みません。続編を楽しみにしています。
ChinchikoPapa
昭和初期に完成して、大々的にマスコミへ「安心安全」を宣伝した射撃場ですので、1937年(昭和12)現在ですと特に機密性は高くなかったと思われます。非常時となった1941年(昭和16)の市販地図にも、戸山ヶ原東部の軍医学校周辺や、西部の陸軍科学研究所などは一部「白地図」化がみられますが、大久保射撃場はそのまま描きこまれています。
流弾の被害を受けつづけ、大正期から陸軍省や議会へクレームを寄せつづけた周辺住民(大久保町・中野町・戸塚町・落合町の隣接住民)へは、積極的に広報・公開活動を行っているようですので、特に見られてはマズイ場所ではなく、むしろクレームを提出していた町会や町民には、ぜひ見学して安全性を確認して欲しい・・・というようなニュアンスを感じます。
1937年(昭和12)というのは、時期的に微妙な時期ではありますけれど、おそらく見学したいと申請すれば見せてくれたのではないかと思います。江戸川乱歩の小説にも、怪人二十面相の隠れ家に絡め、射撃場の場所と名称がそのまま登場していますが、特に陸軍からクレームをつけられたという形跡は見られませんね。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-09
東京の「新名所」として、「東洋一」の射撃場を宣伝していた陸軍としては、むしろ同施設を通じて評判が悪かった戸山地域とその周辺域に向け、陸軍のイメージアップ作戦を展開したのではないかと思います。小泉癸巳男への写生許可も、「百景」という名所扱いが気に入ったものか、そのような施策の一環として出されているような気もしますね。
ChinchikoPapa
わっさん
ChinchikoPapa
記事末に、1947年(昭和22)現在の空中写真で、射撃場および三角山あたりを掲載しました。ご参照ください。
三角山は、もともと射撃の目標物としての着弾地土手として、すでに小高かった丘へさらに人工的に土砂を盛って造成されたようですが、かまぼこ型の射撃場が完成すると、着弾地の役割がなくなって、周辺の子どもたちの格好の遊び場になっていたようですね。
陸軍士官学校が演習で作成した地図にも、射撃場の西側、山手線の線路際に等高線が張りだした、土手のような「丘」のあったことが確認できます。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-01-24
また、戦前に撮影され、新聞に掲載された三角山あたりで遊ぶ子どもたちの写真も掲載しています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-05
わっさん
ChinchikoPapa
また、貴重なご教示をありがとうございます。着弾地=三角山という資料が多々あるものですから、それがどの時代の規定なのかが、ちょっと気になってきました。大正末から昭和初期は、線路をまたいで着弾地とされていたのは、山手線の西側(大神宮の東側一帯です)で、そこの線路際に「三角山」があった・・・とする本を読んだ記憶があります。
ただし、拳銃や小銃など小火器の着弾地(土塁)は、上記事に掲載した写真にも写っていますように山手線の東側にもあるわけで、これが戦後も残って「三角山」と呼ばれたとすれば、着弾地に築かれた付近の土塁(土手)を、山手線をはさみ両方で「三角山」と呼称したものでしょうか。
わっさん
ChinchikoPapa
明治期から、戸山ヶ原の西部全体が「着弾地」にされていたとしますと、戸山練兵場から外への流弾を防ぐ目的で造られた土塁は、線路際だけではなかったような気もしますね。
諏訪社から、明治天皇が陸軍の軍事演習を参観した時代や、山手線が敷かれた前後の様子など、またちょっといろいろ調べてみたくなりました。線路をはさんだ東西で、流弾除けの土塁や土砂を運んで増築した丘を「三角山」と呼んで、射撃演習のない日には子どもたちの遊び場になっていた時期があったものでしょうか。
m.h.
ChinchikoPapa
書かれています3本の土手は、明治から大正にかけて参謀本部陸軍部測量局が作成した、1/5,000あるいは1/10,000の地形図にも採取されていますね。貴重な情報を、ありがとうございます。
南北にのびた3本の土手のうち、もっとも長い南端が西大久保3丁目まで接したいちばん南側(東寄り)の土手が、カマボコ射撃場の建設で全的に消滅し、つづいて真ん中(いちばん山手線寄り)の土手が建物の建設で南側から徐々に崩されて短くなり・・・という経緯が、地図を年代順に見ていくとわかります。そうすると、いちばん北側(東西でいうと真ん中)の土手が「三角山」と呼ばれていたのですね。
ところが、時代によってはいちばん線路寄りの、保全高校北側に接して残ったライオン山のことを「三角山」と呼んでいた時期があり、また、これは証言者の記憶ちがいか、単純な誤りなのかもしれませんが、射撃場が見渡せる山手線西側の高台を、「三角山」と呼んでいた子どもたちも百人町側にいたかもしれない・・・ということになるでしょうか。
この土手上には、明治末から大正初期にかけ、洋画家・小島善太郎が何度かイーゼルをすえて戸山ヶ原風景を制作していますので、近々ご紹介する予定でいました。きっと、いくつかある射撃場のポールに、演習中の旗がない日を選んで出かけたのではないかと思いますが、それでも射撃の音があちこちでしていた様子が記録されています。
m.h.
昭和31年ころ西大久保の子供達は最後に残ったライオン山の北端を三角山と呼んでいました。しかし戸塚(新宿の)に古くから住んでいた高校の同級生は正確にライオン山と言っていました。
m.h.
ChinchikoPapa
> 三本の土手はすべて山手線の内側です。したがって、旧三角山
> だけでなく新三角山つまりライオン山も山手線の内側になります。
はい、すべて承知しています。実は、このページのほかに、戸山ヶ原の射撃場につきましては、拙サイトで繰り返し記事にしていますので、射撃場による流弾被害や、近衛連隊への申し入れ、周辺町村が帝国議会へ働きかけた移転(追い出し)運動、大正期の土塁増強に関する予算請願運動など、けっこう詳細に記事化してきました。
その上で、線路の東側ではなく西側の高台(銃器類の進歩により大正期から「着弾地」とされている山手線の西側エリアです)も、百人町出身の方の証言でしょうか、「三角山」とするキャプションの写真を目にしたことがありましたので、その点についてこだわっていたしだいです。
> これらの土手は弾丸が山手線以西に落ちないように弾よけ(一番
> 東側は標的)として築かれたと思われます。
山手線東側の3本の土手が、実際に銃弾の遮蔽土手として確実に機能していたのは明治期だと思われ、大正期に入ると銃器類の性能向上のためか、周辺の町村では流弾による死傷者が急増していきます。
これは、大久保射撃場に限らず、各地の陸軍射撃場が当時抱えていた課題で、そのために陸軍は土塁補強、あるいは土塁の高度かさ上げの予算を毎年のように計上・確保しています。
それでも被害が出つづけていた大久保射撃場では、地元の自治体が近衛連隊の追い出し運動をはじめ、議会でも追及されて問題が大きくなったため、陸軍は射撃場全体のコンクリート遮蔽化を約束します。でも、いつまでもグズグズ着工を伸ばしていたため、ついに周辺の自治体有志が連隊丸ごと「出ていけ勧告」をするまでに、問題がこじれていますね。
> ライオン山が三角山と呼ばれるようになりました。
時代によって、その場所の名称が移ろうのは、あちこちで見られる現象ですね。下落合でも、「バッケが原」という草原名が、住宅地が東から西へと伸びてくるにしたがい、同名称も時代とともに徐々に西へと移っていき、下落合から昭和期になると西隣りの上高田へと「移動」しています。証言をする年代の方によって、微妙にその位置が変わっていきますね。
> 写真の左上の東京製菓は現在海城学園の敷地となっています。
> その南側の建物が戸山小学校で、現在ロッテがある場所は当時は
> 高級住宅地でした。
ご教示、ありがとうございました。先ごろ廃止されたロッテ工場と、東京製菓の工場跡は50mほど南北にズレていますね。さっそく、文中に修正を加えておきます。重ねて、ありがとうございました。
なお、二重でアップされていました同一のコメントのひとつを、削除させていただきました。ご了承ください。
m.h.
ChinchikoPapa
早大のサイトに掲載されています写真は、1935年(昭和10)に東京市土木局・都市美協会から出版された『建築の東京』(大東京建築祭記念出版)掲載の写真をトリミングしているのではないかと思います。
拙記事に掲載している写真も、各種の設計図面が付属した同書から引用したものだったと記憶しています。また、図書館でご覧になった『建築の東京』は、原典ではなく橋爪紳也・監修による復刻版(不二出版)ではなかったでしょうか? コピーのメモとして、上記の書名がありますので、間違いはないと思うのですが……。
1935年刊の『建築の東京』の実物は、国立国会図書館または東京都立中央図書館に収蔵されているかと思います。なお、写真に写ります土塁部分の拡大写真を、記事末に掲載しましたのでご参照ください。
m.h.
ChinchikoPapa
1935年刊の『建築の東京』は、上記の2図書館のほかに石川武美記念図書館(旧・お茶の水図書館)にも収蔵されているようです。電話で一度、確認されてから出かけられると間違いがないと思います。ご参考まで。
m.h.
なお、前便の建築の東京ですが、昭和10年の初版本も復刻版と同じく右の方は写っていませんでした。
ChinchikoPapa
冒頭の写真は、おっしゃるとおり新宿歴博の写真集から引用させていただいたものです。わたしもその後、「三角山」状の流弾除け土塁が気になって、時間があるときに少しずつ調べていたのですが、かなり後世までその痕跡が残っていた山手線沿いの南北3本の土塁のほか、戸山ヶ原にはほかにもいくつかの同様の土塁が、山手線を挟んで東西のエリアに造られていたことがわかってきました。それが時代によって、新たに設置されたり消滅したりしているようです。
山手線の西側に東西方向の土塁が築かれたのは、おそらく陸軍科学研究所・技術研究所の施設拡大(1930年以降か)と無関係ではなく、兵器の試射用の土塁ではないかと考えています。また、箱根山の北側にも、南北あるいは東西の土塁が築かれています。
わたしは、先のコメントで小島善太郎が土塁の上にのぼり、風景をスケッチしたのは山手線沿いの、いわゆる「三角山」と呼ばれた土塁だと推定していましたが、画面を精査したところ山手線近くの土塁では風景の角度が合わず、箱根山の北北西に存在した、おそらく陸軍戸山学校の射撃場土塁の可能性が高いことがわかりました。
なお、『建築の東京』の件、お手数をおかけしたようですみません。<(_ _)> わたしのコピーには同書のメモが記されているのですが、同写真の掲載書として書かれていた資料名をメモした可能性がありますね。ちょっと、改めて出典を思い出してみます。なにかわかりましたら、改めてお知らせいたします。
ChinchikoPapa
上記、大久保射撃場の空中写真は、『建築の東京』(1935年)ではなく、建築学会・編の『東京横浜復興建築図集1923-1930』(丸善/1931年)であることがわかりました。
なにかの手違いで、『建築の東京』というメモを同コピー資料に付けてしまったものと思われます。なお、『東京横浜復興建築図集1923-1930』は現在、日本建築学会のサイトで閲覧することができます。やや重たいPDFファイルですが、下記ページの「115」番にトリミングのない大久保射撃場の空中写真が掲載されています。 http://www.aij.or.jp/da1/zumenshasin/pdf/shinkou_04_02.pdf
ご参照ください。
m.h.
に載せました。
一つは戸山小学校の同窓会誌に掲載された戦前の三角山の写真二枚です。いずれも山手線の西側から線路越しに撮影したものと思われます。
次は新宿歴史博物館発行の写真集にあるやはり戦前の三角山で、西側から山手線の電車を二眼レフカメラで撮影している学生のうしろから写したもので、電車の背景に三角山が見えます。線路沿いの側道が左方向に下り坂になっていますので、諏訪通りに近い地点だと思います。
最後は前記新宿歴史博物館写真集にある明治通り側からの写真の一部をトリミングしたもので、射撃場のカマボコドームの向こうに三角山の上部が見えています。昭和32年の写真であり、私が西大久保四丁目に住んでいたときの三角山の姿です。「わっさん」が登られたのもこの三角山だと思います。保善高校のグラウンドの北側の塀に接して三角山が始まりました。
m.h.
ChinchikoPapa
参考資料までご教示いただき、たいへん恐縮です。最近、戸山ヶ原の記事を集中して書いており、お読みいただいていれば幸いなのですが、戸塚のインダストリアルデザイナーで画家もされていた濱田煕氏の『記憶画・戸山ヶ原』を入手しまして、1938年(昭和13)前後の土塁(三角山)の様子が、かなり詳細にわかってきました。
まず、山手線の線路際(東側)にあった3本の土塁のうち、いちばん南側にあった土塁(三角山)の一部が、現在も高度を減らして残っていますね。コンクリートドーム化された大久保射撃場の、西側に接していた部分に三角形のまま基部が残されており、石材で擁壁が築かれて補強され、いまに伝えられています。
また、陸軍戸山学校の射撃場に設置されていた2本の土塁のひとつ、おそらく山手線の線路際にあった土塁とほぼおなじ規模と高さの三角山に登り、『晩秋』という作品を描いた小島善太郎作品も、当該の三角山の様子とともにご紹介しています。このほかにも、軍医学校の北側に陸軍兵務局分室(のちの陸軍中野学校)が設置されると、近衛第一騎兵連隊の馬場との間へ、おもに視界遮蔽を目的としたかなり高い土塁が築かれており、その残滓がいまでも残っていることもわかりました。
また、山手線の西側にも、陸軍科学研究所や陸軍技術本部が設置されますと、敷地の周囲に視界遮断や試射・実験目的のために、長大な土塁が築かれていました。また、科学研究所内の火薬や焼夷薬物を扱う実験棟の四囲にも四角い土塁が築かれ、その痕跡が現在でもそのまま残っていることも先日確認してきました。
これらの事実から、時代が下るにつれ敗戦前後の「三角山」といいますと、諏訪通りガード近くの1ヵ所に集約されていきますが、明治末から大正期までを含めますと、「三角山」と呼ばれていた土塁は、誰でも散歩でき入りこめた戸山学校のある通り(現在の明治通り筋)に接した東側に2本、山手線の線路東側にあった3本、さらに山手線の線路西側の陸軍科学研究所の北側および東側の長大な土塁をも含め、周辺の住民から通称「三角山」と呼ばれていた可能性がありそうです。
山手線西側の土塁につきましては、佐伯祐三の作品などとからめ来年につづけて掲載を予定しています。
以下のURLが、戸山ヶ原の随所に設置・展開していた土塁(三角山)について書きはじめる、端緒となった記事です。この記事の後日、夏目漱石も訪れている戸山学校の土塁(三角山)について書いた、小島善太郎の『晩秋』へとつづきます。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14
m.h.
ChinchikoPapa
また、貴重な写真を拝見させていただき、ありがとうございました。すでに流弾の防護土手として使われなくなっていたせいか、草木が繁っていてたいへんめずらしい光景ですね。手前の戸山ヶ原(西側)には住宅が建設されていませんので、おっしゃるとおり戦後すぐのころの姿だと思います。
記事の最末尾に、写真の時期に近い1948年(昭和23)の米軍による空中写真を掲載しました。ご参照ください。
革洋同
「骨まで大洋ファン」というブログを書いております。
西武新宿線の新宿駅乗り入れの関係で参考にさせていただきました。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-98776e.html
西武の社内報に「西武新宿線を戦後西武新宿まで乗り入れる際に戸山射撃場の土手の土を盛土に使った」旨の記事が載っていますのでご参考まで。
ChinchikoPapa
戦後は子どもたちの遊び場になっていた、「三角山」(防弾土塁)をせっせと崩して、線路土手に利活用したのかもしれませんね。その三角山から諏訪のガードや、のちに西武新宿線が延長される予定地を含めて描いた、濱田煕による戦前の貴重な記憶画が残っています。よろしければ、ご参照ください。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2015-11-14
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2017-10-31
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2015-12-26