岸田劉生が洛西館へやってきた。

洛西館.jpg
 新年、あけましておめでとうございます。いつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。本年も江戸東京地方に、あるいは目白・落合地域にちなんだ、めずらしい話、意外な話、怖い話、美しい話、懐かしい話、面白い話、つい笑ってしまう話などとっておきの物語をたくさん書いていきたいと思いますので、Chinchiko Papalogをよろしくお願いいたします。年頭の第1回めの記事は、目白通りを俥(じんりき)で走りぬけ、ダット乗合自動車のバス停「文化村」Click!=目白文化村Click!近くのバス通りに開業していた、長崎の映画館「洛西館」へとやってきた岸田劉生の物語から・・・。
  
 1924年(大正13)の夏、岸田劉生Click!は関東大震災のあと藤沢Click!より転居していた京都から、東京へこの年二度めの帰省をしている。このサイトでもご紹介した、 「ばけもののはなし」Click!をちょうど執筆中のころで、『改造』への掲載と原稿料の前借り、慶應大学での「美術講習会・教育実際家及び美術研究者の為に」の講演、草土社仲間と展覧会などの打ち合わせ(=飲み会)などが、帰省のおもな目的だった。同年8月3日の午後8時45分に京都を発ち、翌日の午前9時には東京駅へと着いている。劉生としては、馴れない酷暑の京都を抜け出し、知り合いへの借金がてら、少しはマシな東京ですごしたかったのだろう。
 ちなみに、劉生の日記を読んでいると、下町(銀座)生れの彼には京都の水も人情も風俗も習慣も、まったく合わなかったことがうかがわれる。大震災でやむをえず引っ越した彼だが、京都に住みながら「京都人とは付き合うのをよそう」などと書いているのが、おかしくて笑ってしまう。
 さまざまな用事をこなしながら、劉生は8月15日に目白へとやってきた。目白通り沿いには、雑誌「白樺」Click!時代からの知り合い、あるいは草土社Click!の画家仲間が住んでいたからだ。代々木在住のころから、劉生はちょくちょく目白を訪れていると思われ、犬猿の仲であるアトリエを建てて間もない中村彝Click!を訪ねた可能性があることも、以前記事Click!にしている。また、目白通り沿いのお宅に、「麗子像」が眠っていたこともご紹介Click!した。
 8月15日は、劉生にとってまったくついていない1日だった。早朝の3時から、大きめの地震によって眠りを妨げられている。まだ関東大震災から1年もたっていないころのことで、ことさら敏感になっていたのだろう。おカネがなかなか思うように入ってこないので、友人たちから借金をしようとするがままならず、改造社へ原稿料の前借りを頼みに行くのだが、この日はあいにく社員全員が印刷所へ校正に出向していて留守だった。そして思い立ったのが、長崎村荒井1801番地に住んでいた仲間の河野通勢Click!を訪問することだった。ちなみに長崎1801番地は、1925年(大正14)1月16日現在で確認できる河野の住所であり、1924年(大正13)の夏はいまだ長崎村荒井1876番地、すなわち目白通り北側の下落合に接した、現在の「目白の森」公園あたりに住んでいたのかもしれない。
河野通勢宅跡.JPG 洛西館跡.JPG
 劉生の日記で、なにか困ったことや心配事が発生すると、そのつどまるで口癖のように「神よ御守り下さいまし」と繰り返し記しているのが、とても興味深い。気が強くケンカっ早(ぱや)くて、すぐに人を殴る傲岸な性格Click!だと思われがちな劉生なのだが、日記をていねいに読んでいくと、彼の別の側面(下町人としての人情や機微)が垣間見えて面白い。もちろん、あちこちで麗子もまじえて雲虎Click!(kumotora)の臭い話を、うれしそうにしているのは相変わらずなのだが・・・。では、山手線・目白駅を降りた劉生が、目白通りを西へ俥(じんりき)で飛ばしてやってきた、1924年(大正13)8月15日(金)の様子を、『岸田劉生全集・日記』(岩波書店/1979年)から引用してみよう。
  
 改造へ行つたら社長其他皆、牛込の秀英社へ校正に行つてゐる由、がつかりする。それから河野通勢を訪問する事にし山手線にて目白迄 俥にて一寸わからぬ道をやうやく探しあてたら留守 隣りの子に聞いたら近くの洛西館といふ活動へ行つたといふので俥で行つて探したが此処にも居ず、又河野へ帰つたがまだ帰つてゐず、今日は実に運のわるい日也。すつかりいやな気持になり、電車にて、東京駅迄、食堂にて食事をし俥にて原田に帰つたら・・・
  
 このとき、目白駅前はどのような様子になっていただろうか? 「公式」記録では、同駅は1919年(大正8)に橋上駅化されたことになっているが、1920年代になっても目白通りを北に見上げる金久保沢の改札Click!を利用していた、下落合の画家たちをはじめ目白駅を利用した人々の記録や証言があちこちに残っている。橋上駅舎がハッキリと確認できるのは、1925年(大正14)2月発行の「商工地図」Click!に掲載された、完成して間もないと思われる目白駅の姿が最初だ。
その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
河野通勢.jpg 岸田劉生「自画像」1914.jpg
 俥に乗った劉生は、おそらく目白通りを走りながら、中村彝アトリエClick!のほうをニラんでいたかもしれない。でも、目白中学校Click!一吉元結工場Click!目白福音教会Click!などが建っていて、濃いオレンジ色の屋根は見えなかっただろう。この日、非常に機嫌が悪かった劉生は、「草土社展をボロクソにいいやがって、バッカ野郎!」とかなんとか、俥に揺られながらつぶやいただろうか? 目白通りを西進する劉生は、当然、すでに建っていたのちに知り合いとなる曾宮一念Click!アトリエや、渡仏中で留守の佐伯祐三Click!アトリエをかすめていたことになる。
 そして、わかりにくい道に迷いながら、長崎1801番地の河野通勢宅を訪ねてみると留守だった。目白バス通りClick!沿いの映画館「洛西館」Click!へ出かけているのを聞いた劉生は、再び俥をひろって向かうが、そこにも河野はいなかった。この時点で、たぶん劉生はカンシャクを起こして、こめかみに青筋を立てただろう。洛西館の前で、ダット乗合自動車Click!が立てるホコリをかぶりながら、ステッキを振りまわして怒っているオジサンを見かけたご記憶のある方は・・・、たぶんもうおられないだろう。w 劉生を乗せた車夫は、かなりおっかなかったのではないかと思われる。このあと、腹を立てた劉生は東京駅までもどってレストランで食事をし、滞在先の原田家へともどるが、家人が誰もおらずに締め出しを食らってしまう。隣家の2階の窓から、ようやっと原田家の2階へと侵入するのだけれど、もうそのころには、劉生は完全にキレていただろう。
 翌8月16日(土)は、劉生のカンシャクをなだめるためにか、友人たちは「うなぎ」をご馳走したり、「ときわ座」へ女団七の芝居を観にいこう・・・などと誘っている。夕方になって木村荘八Click!の家へ寄り、清宮彬とともに再び山手線に乗って、気を取りなおした劉生は目白駅へとやってくる。
  
 木村へ帰り余は河野の家に行く。省電にのる。河野へは清宮も同伴也。目白にておりて少し歩いたら尾高に会ふ。尾高は今日日光より帰り、木村へ行つたら余が河野へ行つたからとて来た由、よく会へてよかつたと思ふ。河野の中(うち)は井戸が枯れて水きゝんにて近の親類にてもらひ水の由。河野は家のカギをとりにそつちへ行つたがぢき帰つて来た。妻君は家で知らずに寝てゐた。木村 村田もあとから来、いろいろ画など出してみたり話す。河野の近作石版画中々よろし。
  
 少し機嫌がよくなったらしい劉生は、この夜、長崎の河野通勢宅へ泊まっている。
目白通り往路.JPG
目白通り復路.JPG
 最後に正月らしく、1924年(大正13)1月1日(火)の劉生日記から引用してみよう。
  
 今日は元旦、大正十三年、千九百廿四年の春を迎へる。年頭に当つてこの年の幸運とよき生活を祈るものだ。余等一家、兄弟姉妹たち妻の一家友の一家凡ての人々の上に長寿と健康と平安と幸福と無事とをひたすらに祈る。神よ守り給へ。床の中にて少しばかり来た年賀状や新聞をみる。麗子の元気な声が聞えるので床の中に呼び入れ長うたなどうたはせる。可愛き奴也。余は卅四歳家内は卅三、照子が廿九歳麗子は十一歳・・・
  
 麗子Click!が恥をかかないよう、長唄Click!のひとつも習わせていたのが、いかにも下町・銀座Click!の劉生らしい。布団の中で、麗子の唄声を聴いている劉生は、幸せいっぱいの正月を迎えていた。

◆写真上:長崎4102番地にあった映画館「洛西館」で、昭和初期の正月の記念撮影とみられる。洛西館の向かって右隣りには、昭和10年代に入ると長崎市場Click!の西洋館が建設されている。
◆写真中上は、長崎村荒井1876番地にあった自宅の次に河野通勢が住んだ長崎村荒井1801番地で、いまの銭湯「五色湯」のあたり。は、バス通りに面した洛西館跡の現状。
◆写真中下は、長崎村を転々としていた河野通勢。は、岸田劉生『自画像』(1914年)。
◆写真下:目白駅から洛西館まで、目白通りを俥で走る岸田劉生の往路()と復路()。ww

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    新年早々、夜遅くにnice!をありがとうございました。
    本年も、よろしくお願いいたします。>Webプレス社さん
    2011年01月02日 01:02
  • kurakichi

    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いいたします。
    2011年01月02日 01:46
  • アヨアン・イゴカー

    明けましておめでとうございます。
    本年も宜しくお願いします。
    青空文庫で劉生の『ばけものばなし』読んでみましたが、面白い文章でした。劉生の父親はジャーナリストだったのですね。
    2011年01月02日 11:41
  • ChinchikoPapa

    kurakichiさん、あけましておめでとうございます。
    こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
    2011年01月02日 11:51
  • ChinchikoPapa

    安藤広重が色校に立ち合った初刷りとしても、11,500,000円は高すぎますね。現在は、1千万を超える価格は稀です。nice!をありがとうございました。本年も、よろしくお願いいたします。>110さん
    2011年01月02日 12:01
  • ChinchikoPapa

    昨夜、古いドイツ旅行の写真を見ていたのですが、ご紹介のポツダムの公園周辺もそうですけれど、東京と違って高いビルの頭が見えない景観にホッとさせられます。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2011年01月02日 14:22
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、あけましておめでとうございます。早々にコメントを、ありがとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
    劉生の父親は、このサイトでも何度か東亜同文書院がらみで登場していますが、いろいろなことに関わりを持った人です。ローマ字で有名なヘボンから、目薬の製法を習って銀座で薬局を開業したり、日中貿易を興して東亜同文書院の設立に尽力したりと、肩書きが1つや2つでは収まらない人物ですね。
    2011年01月02日 14:28
  • ChinchikoPapa

    あけまして、おめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。早々に、nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2011年01月02日 14:32
  • ChinchikoPapa

    わたしは、例年とあまり変わらず料理三昧をしています。ww
    nice!をありがとうございました。>thisisajinさん
    2011年01月02日 14:34
  • sig

    明けまして、おめでとうございます。
    お正月第一弾からして内容の濃いお話ですね。
    今年もどうぞよろしくお願いいたします。
    2011年01月02日 15:51
  • ChinchikoPapa

    sigさん、あけましておめでとうございます。
    早々にコメントを、ありがとうございました。
    本年も、どうぞよろしくお願いいたします。。
    2011年01月02日 16:27
  • NO14Ruggerman

    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願い致します。

    「目白の森」も「野鳥の森」と同じような
    経緯でできた公園なのでしょうか。
    2011年01月02日 19:19
  • ChinchikoPapa

    NO14Ruggermanさん、あけましておめでとうございます。こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
    目白の森公園は、確かいまだ私有地だったときにマンション建設計画が持ち上がり、緑地保存の観点から建設が始まる前、豊島区が公園としてすかさず買い上げたのではなかったかと思います。“タヌキの森”にみる新宿区の姿や対応とは、ずいぶん違いますね。
    野鳥の森公園は、ずっと無人の古屋が残されていた森を、そのまま新宿区が緑地保存のために買い取ったのが経緯だったと思います。
    2011年01月02日 19:38
  • ChinchikoPapa

    あけまして、おめでとうございます。早々に、nice!をありがとうございました。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。>takagakiさん
    2011年01月02日 23:30
  • ChinchikoPapa

    パイやタルトには、昔から目がありません。nice!をありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。>da-kuraさん
    2011年01月02日 23:32
  • Simple

    あけまして、おめでとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。
    「佐伯なんて知らん! 誰!!」って最高ですね。(笑)
    2011年01月03日 09:19
  • まーちん

    あけましておめでとうございます。
    今年もどうぞよろしくお願いします。m(_ _)m
    2011年01月03日 10:50
  • ChinchikoPapa

    あけまして、おめでとうございます。「津鉄」のハッピがいいですね。
    nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2011年01月03日 11:19
  • ChinchikoPapa

    ごていねいに年賀状をありがとうございました。部員がひとり増えて、今年もますます楽しみですね。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2011年01月03日 11:22
  • ChinchikoPapa

    カーラ・ブレイの『DinnerMusic』は、いろいろあった1年の最後に聴きたくなるようなアルバムです。あけまして、おめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2011年01月03日 11:29
  • ChinchikoPapa

    あけましておめでとうございます。初日の出は見損なってしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。早々にnice!をありがとうございました。>Chronusさん
    2011年01月03日 11:33
  • ChinchikoPapa

    Simpleさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    あけましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。
    ご紹介の落合氏の本、未読ですので機会があったら読んでみます。
    2011年01月03日 11:41
  • ChinchikoPapa

    まーちんさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    あけましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
    暮れから正月にかけては、いつもと違う生活のリズムになるためか、あるいは1年が終わって精神的にも弛緩するせいか、体調を崩しやすく風邪も引きやすくなりますね。39度のとはたいへんです。温かくすごされて、くれぐれもおだいじに!
    2011年01月03日 11:47
  • ももなーお

    あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。体調を崩してご無沙汰しております。生地自体は読んでおります。又何かありましたらコメントしますのでよろしくお願いします。
    2011年01月03日 16:39
  • ChinchikoPapa

    ももなーおさん、あけましておめでとうございます。また、早々にコメントをありがとうございました。
    わたしの家も、昨年はいろいろと年末までつづきました。無事、退院されたようで、くれぐれもおだいじに。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
    2011年01月03日 17:45
  • ChinchikoPapa

    今年の正月は、日本酒とワインを用意していたのですが、実際には日本酒しか飲みませんでした。ワインは、誕生日にでもとっておきます。本年も、よろしくお願いいたします。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
    2011年01月03日 19:26
  • しいなまちお・K

    おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
    新年早々に「洛西館」の話題は嬉しいですね!
    その跡地の東京信金のATMコーナー前には「トキワ荘の窓」と称して赤塚先生が当時に撮られた商店街の写真などを展示してありますのでどうぞ皆さまご覧ください。(もう上の写真のような外壁工事も終わっています。)

    ところで洛西館の場所には戦後まもなくまで映画館があったのは地元の先輩方の証言からも間違いないようです。強制疎開で建物が同じだったかはさだかではないのですが・・・。
    2011年01月03日 20:47
  • ChinchikoPapa

    しいなまちお・Kさん、あけましておめでとうございます。
    こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。
    ちょうど撮影に出かけたときが工事中で、信金の建物が撮れませんでした。今度出かけたら、さっそく「写真展」をのぞいてみます。
    戦後の映画館は、なんという名称だったんでしょうね。戦後は、名画座や独自性の強い映画館以外は、たいがい系列映画会社の名前が館名に付いていたようですから、「△△東宝」とか「◇◇大映館」というような名称だったものでしょうか。ちょっと気になりますね。w
    2011年01月03日 21:25
  • ChinchikoPapa

    知り合いの社長は、誰もいない土曜日に出勤したとき営業電話がかかってくると、とたんに「雇われたばかりのアルバイト」に変身しますね。w nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
    2011年01月04日 11:15
  • まるまる

    新年あけましておめでとうございます。
    今年も宜しくお願い致します。
    2011年01月04日 11:18
  • ChinchikoPapa

    まるまるさん、あけましておめでとうございます。
    また、コメントとnice!をありがとうございました。
    熱海の写真、濃いブルーと暁のオレンジが鮮烈ですね。
    熱海は、東京よりもかなり暖かかったのではないでしょうか。
    こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。
    2011年01月04日 11:29
  • ChinchikoPapa

    あけまして、おめでとうございます。
    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>ぺるり提督さん
    2011年01月04日 11:56
  • ChinchikoPapa

    お正月の相模湾は、ほんとうに穏やかな波です。今年ももうすぐ、どんど焼きの時節ですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2011年01月04日 14:41
  • ChinchikoPapa

    あけましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。
    nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2011年01月04日 14:44
  • とらさん

    明けましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いします。
    2011年01月04日 16:33
  • ChinchikoPapa

    とらさん、あけましておめでとうございます。
    こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。
    また、楽しいジオラマの世界を拝見させてください。
    2011年01月04日 17:03
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
    2011年01月05日 15:36
  • ChinchikoPapa

    ごていねいに、こちらにもnice!をありがとうございました。>まーさん
    2011年01月05日 15:37
  • sig

    手元資料によると、1924年は裕仁皇太子ご成婚。キネ旬が洋画の優秀映画ベストテンを設けた年なんですね。邦画のベストテンは1925年からでしたが、日活、松竹をはじめ帝キネ、東亜キネマなどがしのぎを削り、俳優ではバンツマの最盛期ですね。「洛西館」ではどんな活動写真を上映していたのでしょうね。絵描きさんは女優さんにはあまり興味を示さなかったのでしょうか。
    2011年01月05日 21:28
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントをありがとうございます。
    岸田劉生が、洛西館の客席で河野通勢を探していたとき、暗闇の銀幕にはなにがかかっていたのでしょうね。この年から、「キネマ旬報」の映画ベストテンがスタートしているとは驚きです。
    冒頭に掲載した昭和初期の写真では、のぼりに「白井」とありますので、1928年(昭和3)に封切られた松竹キネマの、はたして『白井権八』(山崎藤江監督)のことでしょうか。けっこう写真を拡大して隅々まで眺めてみたのですが、上映中の作品名がどうしても読み取れませんでした。
    画家の中には、女優ばかりをモデルにしている人もいますので、きっと人によりけりだったんでしょうね。劉生は、きっと見向きもしなかったのではないかと。w
    2011年01月05日 22:10
  • ChinchikoPapa

    わたしも、記事にはさまざまなテーマが錯綜することが多いので、「地域」でいいのかどうかときどき疑問に思います。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2011年01月06日 12:55
  • ChinchikoPapa

    sigさん、その後もう一度写真を拡大して、看板文字を読み取ったところ、洛西館の正面右手には、「市川歌太右衛門プロダクション」のショルダーとともに、『上用無呂』と読める作品名(いずれも右から左読み)が確認できますね。
    2011年01月06日 19:37
  • sig

    『上用無呂』というタイトルは手元資料に見当たらないのですが、歌太右衛門がマキノプロから去ったのが1927(s2)で、市川右太衛門プロダクションはその翌年、松竹と提携して作品を作ったようですから、この写真は昭和3年以降のものかも知れませんね。
    2011年01月08日 22:40
  • ChinchikoPapa

    sigさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    『上用無呂』ではなく、『土用無呂』かもしれません。「雄呂血(おろち)」とか「恐苦呂(どくろ)」とか、タイトルに「呂」を入れる映画が流行っていたころの作品のようですね。「土用無呂」と書いて、「うなぎむろ」とでも読むのでしょうか? ちょっと、歌舞伎がかった題名ですね。
    なんとなく、ストーリーが世話物っぽいイメージを感じます。きっと、1928年以降の洛西館の姿なのでしょう。
    2011年01月08日 23:20
  • sig

    1927年、右太衛門プロ発足に際し、似顔絵付きで「第一回超特作品の3題名をご正解の方にブロマイド進呈」という、タイトル当てポスターを出しています。そのうちの1本が時代劇「浄魂」です。「土用無呂」は他の2本のうちかも知れません。なお右太プロは1928年には13本を製作とありますが、題名は不明です。
    2011年01月08日 23:44
  • ChinchikoPapa

    sigさん、ご教示ありがとうございます。
    年間に13本の映画制作というのは、すさまじい大量生産の時代ですねえ。1本の制作に、1ヶ月かからない・・・ということですね! きっと「呂」が付いている作品が、ゴマンとあるような気がします。w
    それだけ、誰もがみんな映画館へ押しかけたから、事業として成り立っていたんでしょうね。冒頭のお正月写真も、きっと開館前の早い時間に写されたもので、このあとたくさんの人たちが正月映画を観に、同館へやってきたんじゃないでしょうか。そういう時代背景を知ると、1枚の写真を見る目がぐっと深まりますね。^^
    2011年01月09日 00:55
  • hanamura

    岸田劉生おもしろい人だったのですね。麗子像…小学生のころオカッパの女の子をイジメル詞だったような…二人の娘の父親になった今は、大好きな絵の一つになりました。
    2011年01月30日 15:05
  • ChinchikoPapa

    hanamuraさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    いま、岸田劉生の日記を通読しているのですが、もうここに書いてある以上に「おもしろい人」です。すぐに怒る短気な性格で、夫人や麗子をすぐにひっぱたいたりするDV亭主の反面、蓁夫人にケンカを吹っかけられて参ってる様子をみますと、単なる粗暴さとはちがう独特な性格ですね。
    2011年01月30日 21:40
  • 古田

    昭和30年代まで目白通り北側に「目白映画」という小屋がありました。洛西館と同じ場所だったかもです。空襲で焼けたはずですから。
    私が初めて入った映画館で、観たのは『戦国群盗伝』。長十郎・翫右衞門以下前進座勢が出演、高原を疾走する沢山の馬が印象に残ってます。
    小中学校のころ何度も行きました。
    2014年02月25日 08:21
  • ChinchikoPapa

    古田さん、いつもコメントをありがとうございます。
    実は、「目白映画」については少し前から調べているのですが、なかなか写真や資料が見つからず、記事にできないでいます。洛西館は、いまの南長崎にある二又交番の先にあった映画館で、また1944年(昭和18)の暮れに実施された建物疎開で解体されていると思いますので、「目白映画」とは別だと思います。
    落合や長崎地域の街の様子を写した、こちらでもときどき引用させていただいている貴重な上原様のアルバムですが、寄席の「目白亭」は撮影されていましたが、「目白映画」らしき建物はいまだ発見できていません。
    2014年02月25日 15:50

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Tracked: 2016-04-30 00:02

下落合と長崎を転々とする松居松翁。
Excerpt: 以前、長崎町荒井1801番地の草土社Click!仲間である河野通勢Click!を訪ねたが留守で、行き先として教えられた長崎バス通りClick!にある映画館「洛西館」Click!(のち目白松竹館Clic..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-09-24 00:00

ときに日本画を描く洋画家たち。
Excerpt: 洋画家たちの中には、油絵ばかりでなく岩絵の具や墨を使って、日本画を描いた画家たちがいる。逆に、日本画家が油絵や水彩などの洋画を描き、その自由な表現の魅力にはまって抜けられず、洋画へ転向した画家たちも少..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2017-01-04 00:01