目白の徳川義親Click!の孫(養子)であり、徳川美術館の館長で美術史家、徳川黎明会会長でもあった徳川義宣(よしのぶ)が先だて、2005年11月に亡くなった。美術史を勉強していると必ず行きあう名前だが、彼の専門は日本美術で西洋美術ではない。それでも、その著作に強く惹かれつい読んでしまうのは、そのきちんとした学究姿勢やマジメな研究態度からだろうか。
徳川義宣は、文化庁の“文化官僚”や美術界の“権威”たちが、やたら安易に「お墨付き」や「折り紙付き」Click!を、論理的な考証や科学的な検証を踏まえず乱発することに、根本的な疑いをもっている。1988年(昭和63)に出版された、徳川義宣『迷惑仕り候』(淡交社)から引用してみよう。
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戦前でも戦後でも、作品は冷静な分析や検討の結果、“素晴しい”と論証されるものではなく、常に至高にして疑ふべからざる“藝術”であることが自明の理とされてゐた。論証されるべき結論が、論証以前に、しかも無意識のうちに前提とされ、結論を導いて行くための傍証になると思はれる資料は、結論によって派生した結果として説明されてゐた。逆立ちしてゐると批判されるのは、ヘーゲルの弁証法だけではなかった様だ。/先生方は冷静な科学者であるよりも耽美主義者であり、すべての作品の製作動機は唯一つ“美の創造”にあり“藝術精神”にのみ求められると考へてをられる様だった。そして美術史とは、ただひたすら書画や茶碗を眺め、いかに吾人一人、その藝術より霊感を受け啓示を得て陶酔し得たるや、それを語るにいかに俗に堕さざる様に美辞麗句を連ね難文奇語を綴り得るや、その陶酔度と難解度を競ひ合ってゐる世界の様だった。
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ヘーゲル弁証法を「逆立ちしている」と批判したのは、より社会科学的な眼差しを獲得していたマルクスだけれど、美術史学界の「逆立ち」状況Click!は、金山じいちゃんClick!の言葉をある側面で、そのまま現代へ当てはめても通用するほど、かなり深刻なようだ。
できのいい草花の軸画を、画商から見せられた高名な美術史家が、「光琳に間違いなし」と規定し「お墨付き」を与えたあと、この美術史家にくっついて学んでいた徳川義宣は、その作品に根本的な疑義を抱く。画面に、姫紫苑(ヒメジオン)が描かれていたからだ。ヒメジオンは、北米大陸から明治以降にもたらされた帰化植物であり、もちろん尾形光琳が活躍していた江戸の元禄期には、国内に存在すらしていない。同様に描かれたタンポポClick!を仔細に観察すると、どう見てもセイヨウタンポポでありニホンタンポポではなかった。そのことを師である高名な美術史家へ指摘すると、「ちょっと伏せておいて下さい」ということになった。
その後、軸画は「光琳作」ということで著名なコレクターに買われ、徳川義宣はのち、米国の美術愛好家の屋敷で10年ぶりの“再会”をすることになる。もうじき米国の美術館へ、日本の著名な画家「光琳作」としてセイヨウタンポポの軸画が入るのかもしれない。同じような例として、刀剣美術の世界にも「正宗の脇指」というのがある。坂東武者による騎馬戦が主体の鎌倉時代、脇指などこの世に存在していない。脇指は、大規模な徒歩戦(歩兵戦)が増えていく室町期以降の武器だ。だから、「正宗の脇指」という言い方は、「前島密Click!のSMTP/POPサーバ」というぐらいにおかしな表現なのだ。「正宗の脇指」として究められていた生茎(うぶなかご)の作品は、いまでは「正宗」Click!のかなり長めな寸延び短刀(爆!)などと言われかねない状況となっている。・・・もちろん、ありえない。
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熊さんと長屋の御隠居の落語ぢゃない。現代でも、こと美術に関しては、先生は“黙って座ればピタリと当る”神通力の持主と思はれてゐるし、先生や儂を「文化庁」と読み替へてもそのまま当てはまる。要するに、王様でもないのに王様になったつもりである先生、それも絢爛豪華な服に勲章を下げてるつもりの先生はたくさんゐるけれど、“王様は裸だ”と考へる人は今でも少ないのである。私もとかく近頃では“先生”と呼ばれることの多い身、“用心用心”と云ひきかせなくては。
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徳川義宣が、このようにきちんとした論証的な研究姿勢、少なくとも科学的な研究視座を獲得できたのは、学習院Click!の中学時代から入っていた考古学クラブにおいてのようだ。彼は、目白崖線に建っている学習院キャンパスのあちこちを掘り返し、縄文時代の遺跡や遺物を発掘・研究していた。もちろん、戦前から戦後すぐのころはニニギの「天孫降臨」や「天皇神武の東征」からはじまる史観が、疑うべからざる“事実”として規定されていたため、1万年前からつづく縄文時代の研究は“冷飯食らい”の領域で、手がける研究者も非常に少なかった。だからというべきか、彼は学習院キャンパスでさまざまな新発見をしているようだ。そう、学習院キャンパスは下落合4丁目(現・中井2丁目)の目白学園キャンパスと並んで、各時代の遺跡が眠る宝庫なのだ。いや、目白崖線の住宅街のほとんどすべてが、なんらかの遺跡や古墳の上Click!に建っているといっても過言ではないだろう。
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私は中学の終り頃から高校、大学にかけて、クラブ活動として縄文遺跡ばかり掘り廻ってゐた。当時の縄文考古学は、今から憶へばまだまだ黎明期で、掘るたびに何かしら新発見、その代り旧石器の存在はまだ認められてゐず、うっかり口にしようものなら変人扱ひされかねない時代だった。/考古学は発掘だけが勝負である。まさに一期一会で機会はただの一回、何千年と伝へられてきた生な蓄積を、この手で破壊してしまふわけだから、常にその責任は極めて重大、運動部の試合なら、賭けてもせいぜい母校の名誉ぐらゐだが、発掘は日本の歴史の新しい一頁をめくる真剣勝負と、部員一同互ひに誡め合ひ、気負ってゐたものだった。
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このような厳密でシビアな姿勢が、のちの美術史研究にも活かされているのだろう。ちなみに、一昨年の2008年に学習院キャンパスからも、ついに旧石器Click!が発見され、数万年前から目白崖線には人が住みつづけていたことが改めて確認されている。いや、彼はすでに旧石器を発掘していたけれど、「変人扱ひ」=頭がおかしいと思われるので黙っていただけかもしれないのだが・・・。
有名な話なのでご存じの方も多いと思うが、東京国立博物館に展示されている毛松(12世紀の中国・南宋時代の画家)が描いたとされる『猿図』がある。落成款識がないから、いまだに「毛松伝」とされている作品だ。文化庁により、国の重要文化財に指定されていて、ご覧になった方も多いだろう。徳川義宣の友人のひとりであるAは、このよくできた南宋画に首をかしげる。
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ところがこの「猿図」を見せられたAは、これは日本猿だと指摘したのである。某先生は返答に窮し、宿題として持ち帰って動物学者に意見を求められたが、答は同じ、中国には棲息してゐない日本猿。美術史学の権威が寄って相談の挙句、毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はってゐたので、日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった作品、といふ解釈に統一して、某先生はAへの回答とされたさうだ。
「・・・といふ説明を貰ったんだけどね。考へられるかね。徳川はどう思ふね」
「うーん、そんな例はほかにないね。素直に考へれば室町時代、阿彌派や狩野派、雪舟近辺の作として見る方が妥当だと思ふね」
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友人Aとは、もちろん生物学者でもある現・天皇のことだ。世情が不安定で戦乱つづきの平安末期、中国の毛松にニホンザルをどうしても描いて欲しいと(当時、毛松の存在が日本で知られていたというウラ取りすらない)、わざわざ1匹捕獲して南宋の画家のもとへ船便で送りとどけ、「待たせちゃったねえ、できたよ~」と作品を再び送り返してもらって保存することなど、国際宅配便のある今日ならまだしも、学術とは無縁な不マジメきわまりない、ありえない想定だ。万歩ゆずって、そのような事実が想定できるとすれば、なにを「裏づけ」=根拠として提起しえるというのだろう?
科学的な眼をもつ現・天皇や、論証的な美術史家の意見はいっさい無視され(なかったことにされ)、相変わらず同作は「毛松作と伝えられる猿図」として重文展示されている。(最近、ようやく解説の表現が変わってきているようだが・・・) もし同作を、「日本画家がニホンザルを描いた、室町期のよくできた南宋画の模倣作品」としてしまうと、これまで同作を「毛松作」と断定し、重要文化財に指定してきた歴代の“権威”たち、あるいは文化庁の眼がフシ穴だったことになってしまうからだ。そこには、論理的な眼差しも、科学的な検証眼も、時代考証的な視座も存在せず、ただただ“権威”同士の「いたわり合い」と、文化官僚たちの保身のみが存在している。
別に、これは美術史学のみの分野に限らない。△△史学と名のつく分野では、戦前からエンエンとつづいてきた“旧弊”のひとつだろう。“権威”である恩師と異なる学説を唱えれば、たちどころに大学にはいづらくなり学界からは事実上放逐される。自身の説や規定に都合が悪い事実や報告は握りつぶし、科学的な物証の出現には眼をつぶり、ときには年代特定さえ歴然としているのに、いっさいを「見なかったこと」「なかったこと」として無視し、明治期からあまり変わりばえのしない相変わらずの「日本史」へと収斂していく、どこかの史学界にも相通じる本質的な課題だろう。
「あれは間違いなくニホンザルであり、どう考えても室町期の日本産模倣画だ」と認識しているであろう、現・天皇の自然科学的な視点を想定すると、わたしは北朝鮮の「将軍様」史観の洗脳教育を笑えない。日本の史学界は、どの分野も重症で病んでいる思う。「公式」の記録や規定から疑い、ご都合主義やウソがないかどうか、「ウラ取り」からはじめなければならないとしたら、これほど不幸でウンザリする作業はないだろう。事実、徳川義宣も何度かウンザリさせられたのではなかろうか。
◆写真上:徳川義宣の祖父・義親が建てた、目白の徳川邸Click!の内部(現・八ヶ岳高原ヒュッテ)。
◆写真中上:俵屋宗達の「風神雷神図」を模写した、尾形光琳の『風神雷神図』屏風。近々、関東と近畿圏とではまったくとらえ方が異なる、「雷神」伝承について書いてみたい。
◆写真中下:左は、上野の東京国立博物館。右は、「毛松」伝とされたままの重要文化財『猿図』。明らかなウソであり、室町期の「国内無名画家のよくできた作品」が正しい見方だろう。
◆写真下:左は、1968年(昭和43)に八ヶ岳山麓へ移築された徳川邸。(小道さんClick!撮影) 右は、死去の翌年に出版された笑いがとまらない徳川義宣『徳川さん宅(ち)の常識』。ちなみに、わたしもときどきつかうが、誰かの家を「△△さんち」というのは東京弁Click!の(城)下町言葉だ。
この記事へのコメント
NO14Ruggerman
魚に造詣が深いことを知りましたが
生物学全般に博学なのですね。
驚くべきエピソードだと思います。
ChinchikoPapa
専門は「魚類」なのでしょうが、生物学全般を基礎教養として勉強しているからこそ、すぐにモチーフのおかしさに気づいたのでしょうね。現・天皇ばかりでなく、美術史家(少なくとも、きちんと学術的かつ論証的な思考をする方々w)も同様の見方をしているのですが、文化庁や文部省はそんな指摘など聞えないかのように、相変わらずシカトをつづけています。
これも、「稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣」と同じケースなのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
みなせ
長い間所在が不明であった幻の日本画が発見される。だが、源頼朝の蛭ヶ小島配流を題材にしたその絵には、当時の日本にあるはずもない西洋タンポポが描かれていた。
ここから謎の解明に入り、これは画家の単なるミスなのか、もしくは何か特別な意味がこめられているか、を推理していきます。
作中で描かれているのは、奇々怪々な美術コレクターの世界。真贋というものがいかにあやふやな基準でなされているかがわかります。この作家は、職業として風刺漫画家だった時期もあり、寡作ながら知的なミステリーを発表し続けていましたが、ブレイクしないまま終わってしまいました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
また、いつも面白そうな本のご紹介をありがとうございます。『真贋の構図』は未読でしたので、さっそく注文してしまいました。w
絵画でも刀剣美術でも同じような話を聞きますが、真贋の「あやふや」なすき間に入りこんで、詐欺あるいは偽造の話はあちこちで絶えないですね。一時は実入りの多いビッグネームばかり狙っていたものの、最近ではすぐにバレてしまうため、少し地味めな作家やあまり知られていない作家を選び、そこそこの「薄利多売」詐欺に変わってきているようで、よほどの鑑識者でないと真贋の区別がつかない巧妙な手口になっているようです。
画家や作者ごとに、偽造の専門チームが存在しているといいますが、古い文献を読みますと、江戸期からすでに美術品の「闇の仕事人」はいますね。江戸期とは比べものにならないほど技術が発達している今日ですので、偽造のしかたもより巧妙かつ詳細になっているのではないかと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>コトキャンさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sigさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ものたがひさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
江戸時代の襖絵などを画集で見ていると、伝統に従って作りこまれた様式美がありますが、それは植物なり動物なりの特徴を捉えているのですが、特徴とされているものに囚われてしまって、現実を見ていないようにも思われます。
偏見、先入観、権威からの独立、自立、常に心していなければなりません。
ChinchikoPapa
絵画の場合、描かれているものを検証する際には、「写実」がどこまで正確なのか?・・・というテーマが付きまといますね。『猿図』の場合、描かれている画布や絵具の種類が、毛松が中国で当時使用していたものと一致するのかどうか・・・という別の切り口から分析すれば、すぐにも判明することだと思うのですが、そのような検証が行なわれた事実はありませんし、また文化庁が科学的分析を許可するとも思えません。
美術史の分野によっては、このような科学的あるいは多角的なアプローチがかなり尊重されている分野もありますね。たとえば、仏教彫刻や刀剣美術の世界では、見た目の美しさや時代ごとの“お約束”にもとづく規定・鑑賞眼をベースに、使用されている木材の質や年代、鋼(砂鉄)の由来や精錬法、地域性などを、最新の分析技術を用いて裏づけていく・・・というのが、すでに行なわれはじめて久しいです。
多角的に検証せず、ある一定の価値観にもとづいて単眼的に規定し価値を決めつけていくというのは、もはや学術ではなく「信仰」だと思います。史学の分野では、1945年に一度崩壊したはずなのですが、残念ながらいまだにその残滓がつづいている分野がありますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
hanamura
ChinchikoPapa
わたしが興味をおぼえた範囲内で、いい加減に書き散らしてる記事ですので、適当にどうぞ読み飛ばしてください。^^;