入れ歯を忘れていった中村彝。

西小磯キャベツ畑.JPG
 中村彝Click!の友人のひとりだった洋画家・亀岡崇は、避寒先の大磯町西小磯728番地に建てたばかりの別荘「鳥の巣山荘」で、1924年(大正13)12月25日の朝刊を開いて彝の死を知った。彝が死去した12月24日、大磯で知り合いになった女流作家が来訪し、ちょうど彝の作品を話題にしていたばかりなので、亀岡は衝撃とともに、はからずも不思議な因縁をおぼえただろう。彼は新宿中村屋裏のアトリエClick!で、『友の像』(1912年)のモデルにもなっていたので、その後、行方不明となった同作の所在ともども気になっていたにちがいない。
 1925年(大正15)1月に発行された『木星』(第二巻第二号/木星社Click!)には、彝に関する面白い思い出が亀岡によって綴られている。白馬会の赤坂溜池研究所の時代だから、彝も20歳をすぎて少したったころのエピソードだろう。ある日、父親が軍医総監をしていて裕福な亀岡が、彜を屋敷へ食事に招待したところ、食堂にある窓のカーテンの陰に忘れものをしていった。それが義歯(入れ歯)だったことから、亀岡はにわかに年若い彝の忘れものだとは気づかず、そのまま食堂の窓際へうっちゃっといた。ところが翌朝、さっそく彝が再訪して「忘れちやつた」・・・といたずらっぽく言ったらしく、ふたりで大笑いをしたという思い出だ。
 そう、中村彝は20歳をすぎるころから入れ歯をするほど、歯がかなり悪かったようなのだ。『木星』の同号に掲載された、亀岡崇の「彝君の憶ひで」から証言を引用してみよう。
  
 自分が君を知つたのは未だ溜池の研究所の頃だつたと憶ふ。或る日自分の家で共に食事をし乍ら快談に耽つた折、君の帰つた(ママ)行つた後に食堂の窓のカーテンの蔭に義歯がのつてゐたが、よもや彝君のとは気付かずに其儘にして居たら、其翌朝訪ねて来て昨夕は余り愉快だつたので食事後に義歯を入れるのも忘れちやつたと言つて大笑ひをしたこともあつた。
  
友の像1912.jpg 新宿中村屋裏.JPG
 彝の歯が悪かった事実は、のちに鈴木良三Click!も証言している。下落合のアトリエでは、カルピスを飲みすぎたせいかどうかはわからないが、歯科医へよく出かけては治療を受けていたようだ。1977年(昭和52)に、中央公論美術出版から出された鈴木良三『中村彝の周辺』には、「落合に住むようになってからも時々大塚あたりの歯科医へ人力車で治療に通っていた」とあるので、彝が行きつけの歯医者は大塚にあったことがわかる。残念ながら医院名までは書かれていないが、彝のカルテは戦災で焼けたか、とうに処分されてしまっているのだろう。
 亀岡崇は東京の自宅で暮らしていても、また1年の半分を避寒避暑で大磯の「鳥の巣山荘」ですごしていても、自身がモデルになった絵のゆくえがずっと気になっていただろう。それは、彝の希望から新宿中村屋裏のアトリエへ出向いてモデルになり、窮屈なポーズをとりつづけた印象深い作品だったせいでもある。その様子を、『木星』の同号から少し長いが引用してみよう。
  
 (前略) 話が不図モデルの話になつて彝君は素人の誰かをとのことで、若し君がなつて呉れたらどんなに愉快に描けるだらうと言ふので其の翌日から君の画架の前にポーズをすることゝなつた。翌日二時頃君を訪ねると(其頃君は新宿の終点の中村屋のアトリエに居た)君ももう新しい画布を張つて仕事着を着て待つて居た。やがて自分は勝手のポーズをして呉れ給へと言ふまゝに椅子に寄つて靴の紐を結ぶ姿勢をすると先づ正面から暫らくジツト眺めて居たが、次には右から後へと周囲からスツカリ研究的に眺め、尚近くよつて関節などの其処此処を究めた上、一二度憩むではポーズをして其日は終へた。其翌日、自分は学校に居ても帰途彝君の画室に行くのが楽しみで、時間が来ると飛ぶやうにして君を訪ねた。愈其日から素描に掛かるので炭木を手にして居た。やがて画架の前に立つた君はしばらくジット自分を眺めて居たが、顔に段々興奮の色が美しく頬を彩つて来ると、スーツと画布に一筆を走らせて、又旧位置に戻つては自分を眺め、走つては一筆を塗つて段々に描いて行く内、夕刻になつて四辺が暗くなるに従ひ、画布の上には自分乍ら恐ろしくなる迄活々した自分の顔が浮かむで来たのであつた。其の日も終ると君は疲れきつた体をソフアーに投げて静かに珈琲を喫るのであつた。
  
新宿駅前通り1901.jpg 新宿中村屋.JPG
 モデルを前にした彝の仕事ぶりは、小島善太郎Click!が観察したデッサンをするときの彝の様子Click!と重なってくる。亀岡をモデルにした肖像画は、50号のキャンバスに描かれたのだが、5日間ほど仕事をつづけたあと、完成する前にふたりとも体力と気力が尽きてしまった。翌年の春から仕事を再開しようと、ふたりにとっては一時中断のつもりだったのだが、その後、彝の転地療養などが重なり、『友の像』へ再び筆が入れられることはなかった。
 中村彝が1915年(大正4)に新宿中村屋のアトリエを出ると、未完の『友の像』は行方不明となってしまう。同作が発見されたのは、1925年(大正14)に日本歯科医専の敷地にある画廊九段で開かれた「中村彝遺作展」のときだった。おそらく、相馬黒光Click!が中村屋じゅうを探したのだろう、物置から見つかって同展へ出品されている。ところが戦後、『友の像』は再び長い間行方不明となり、ようやく陽の目を見たのは1975年(昭和50)になってからのことだった。
 亀岡崇は、東京美術学校を出たにもかかわらず、作品をあまり残してはいない。家が非常に裕福だったせいで、それほど表現衝動にかられなかったものだろうか。今日では、むしろ亀岡は梅原龍三郎の妻の兄としてのほうが“有名”になってしまった。大磯に建てた別荘「鳥の巣山荘」は、戦後になると評論家・坂西志保が購入して暮らしている。
中村彝スーツ.jpg
 余談だけれど、下落合の第二文化村Click!には、当時の義歯研究では最先端をいく歯科医師が住んでいた。現在、文化村の邸跡が「延寿東流公園」Click!となっている島峯徹(島峰徹)Click!博士だ。おそらく、島峯が下落合へ邸を建てて引っ越してきたころには、彝は結核の末期症状で歯の治療どころではなくなっていたか、あるいはすでに死去していたのかもしれないのだが・・・。中村彜を落合火葬場Click!へと見送る際、入れ歯は外されずにそのまま荼毘にふされたようだ。

◆写真上:大磯町西小磯728番地にあった、亀岡崇の「鳥の巣山荘」南部に拡がるキャベツ畑。
◆写真中上は、1912年(大正元)秋に描かれた中村彝『友の像』。は、新宿中村屋裏の現状。1933年(昭和8)に店裏へビルが建てられているので、アトリエはその際解体されたようだ。
◆写真中下は、1901年(明治34)年に撮影された新宿東口の駅前通り。中村屋が新宿に開店したちょうど同年の写真で、左手の子守りがいる店先が高野商店(現・高野フルーツパーラー)、右手の土蔵のある敷地が現在のスタジオアルタ。は、新宿中村屋の現状。
◆写真下:アトリエに残された、中村彝が愛用していた背広上下。(茨城県近代美術館蔵)

この記事へのコメント

  • SILENT

    鳥の巣山荘のあたりは今作家の石川達三さんの御子息が住んでおられるようです。
    2010年12月21日 13:54
  • ChinchikoPapa

    今年は、というか今年「も」ですが、松茸ご飯を食べられませんでした。
    nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
    2010年12月21日 14:58
  • ChinchikoPapa

    映画があまりに有名すぎて、そういえばショーの原作『ピグマリオン』は読んだことがないです。この戯曲のパターン、日本の映画やドラマにもときどき登場しますね。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2010年12月21日 15:08
  • ChinchikoPapa

    このヘイデンのアルバムも、CDラックのどこかに入っていますが、最近サボッて聴いてませんでした。どうやらラテン系のモードに弱いわたしは、つい惹かれてCDを購入し、そのまま仕舞いこんでしまうクセがあるようです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2010年12月21日 15:15
  • ChinchikoPapa

    わたしはどうやら「漬け物」作りには向かないようで、すぐに忘れるモズみたいな性格をしています。塩漬けも糠漬けも、味噌漬けも粕漬けも、かなりたってから「・・・そういえば!」と気づきますので、しょっぱすぎたり酸っぱくなっていたりで、たいがい失敗するのです。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年12月21日 15:22
  • ChinchikoPapa

    その昔、うちにも漬け物樽があったのですが、いつの間にか大きめなホウロウ容器と、プラスチックやガラスの容器に変わっていました。nice!をありがとうございました。>飛騨の忍者 ぼぼ影さん
    2010年12月21日 15:25
  • ChinchikoPapa

    元興寺は子どものころ、親たちとともに訪れているはずですが、印象が薄いお寺です。子どもに面白い、あるいは印象深いものがなかったせいでしょうか。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2010年12月21日 15:33
  • ChinchikoPapa

    「グリーン ガーデン」の花名がついた部屋は、どれも広くてすごしやすそうですね。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2010年12月21日 15:36
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    先日、つい寄りそこないましたので、南側に拡がる畑の写真でお茶をにごしてるのですが、やっぱりちょっと覗いてくればよかったと思います。「鳥の巣山荘」は、さすがに取壊されてしまったようですが・・・。西小磯には、石川達三の仕事場でもあったのでしょうか。
    大磯から真鶴までのクルージング、ぜひ乗ってみたいですね。真鶴は子どものころ、相模湾を海岸に沿ってどこまでも泳ぐ・・・という無謀な計画を立て、溺れかかった海岸でもありますので、あまり近づかないできたのですが。ww
    2010年12月21日 15:47
  • SILENT

    坂西志保さんの最初に大磯にいらっしゃった場所が西小磯728番地でした。その後、東小磯に引っ越され、其所がのちに石川達三さんが住まわれたようです。伊藤博文も此処には妾宅を構えていたようで画家の平野敬さんも近くに住んでいました。別荘族も何度も居住場所を変える方が多いのであしからず御報告まで。以下に顛末詳しく書かれていました。http://www.yamatolpg.co.jp/koyurugi_folder/awatara/2/aw2_63.html
    2010年12月21日 16:01
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    別荘地でも、あちこち転居する例が多いのですね。情報をありがとうございました。ご紹介のサイトを読んでいて、ビックリすることがありました。
    この中に、「宮代」さんという人が登場していて、戦後は平塚の旭座(とうになくなりましたが平塚旭大映館のことかと思います)の近くで、古書店を開いていた・・・と出ていますが、おそらくこの宮代さんのお孫さんに、わたしは小学校時代、個人的に「社会科」を習っています。
    当時、宮代さんの息子さんは、非常に学校の勉強がよくできた評判の秀才で、まったく勉強をせず遊ぶことしか考えていないわたしに業を煮やしたのか、母親が親しい友人だった宮代さんの奥さんに頼んで、「お兄ちゃんに、ちょっとうちのバカ息子の勉強みてもらえない?」ということになったようです。当時、宮代のお兄ちゃんは高校生で、わたしより6~7歳も上だったかと思います。特に地理の教え方がうまく、いまだに地中海の「ジブラルタル」という地名は、宮代のお兄ちゃんの声とともに忘れません。w
    なぜ、このエピソードが強く印象に残っているのかといいますと、わたしは旭大映館へ「ガメラ」シリーズや「妖怪大戦争」を観にいっていたのですが(相変わらず勉強もせずに)、「昔、うちは大映館の近くで本屋をやっていた」・・・と、いつか宮代の奥さんが話しているのを聞き、「ああ、ガメラの近くか」と思って記憶に刻まれたんでしょうね。当時、宮代さんはすでに桃浜町ないしは松風町に住んでいたように記憶しています。
    この宮代さんの家から、北へしばらく行ったところの八重咲町に、わたしが小学生時代に通っていた画塾があり、その先生が中村彝の孫弟子に当たる方でした。妙なところで、妙な具合につながるものですね。w
    2010年12月21日 18:13
  • ChinchikoPapa

    ジャス・フェルターさんの切手は、実際にありそうでリアルな作品が多いですね。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2010年12月21日 19:11
  • sig

    明治34年の新宿東口の駅前通り、今からは想像もつきませんね。
    道路は幹線道路らしく、きれいに整備されているようですね。
    2010年12月21日 21:22
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    おそらく、品川・赤羽線(のちの山手線)の新宿駅を、内藤新宿の繁華街からは大きく西へ離して、ほとんど原っぱの中に造ったのも、よけいに周囲が鄙びて見える要因だったのでしょうね。鉄道の停車場を近くに設置することに、当時賑やかだった宿場町はどこも猛烈に反対したようです。
    レンガ倉庫のクリスマス、めちゃくちゃ楽しそうですね。
    2010年12月21日 23:21
  • ChinchikoPapa

    難しい問いですが、“たぶん”ひとつふたつは残るんじゃないかと思います。
    nice!をありがとうございました。>Chronusさん
    2010年12月21日 23:23
  • ChinchikoPapa

    急坂を駆け下りて腰を痛めてから、毎朝エクササイズをやっているのですが、なんとか腰痛の再発はしていないようです。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2010年12月22日 18:00
  • ChinchikoPapa

    お父様、早く元気になられて退院できるといいですね。
    nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
    2010年12月22日 23:08
  • ChinchikoPapa

    足裏マッサージは経験ないのですが、痛気持ちよさそうですね。
    nice!をありがとうございました。>こさぴーさん
    2010年12月23日 14:26
  • ChinchikoPapa

    学生時代によく思ったものですが、冷蔵庫と洗濯機などの大物家電が積めるだけでいい、小さな荷台のある小型トラックで5千円ほどの引越し業者・・・というのはないのですかねえ。nice!をありがとうございました。>zeroさん
    2010年12月23日 14:31
  • ChinchikoPapa

    街頭で配られているのはティッシュがほとんどで、ひじきや入浴剤にはお目にかかったことがありません。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2010年12月23日 23:02
  • ChinchikoPapa

    10ヶ月でビジターの13万オーバー、おめでとうございます。
    nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2010年12月23日 23:04
  • ChinchikoPapa

    わたしもクリスマスというと、知らないうちに「オーベルビリエのノエル」を口ずさんでいます。w nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
    2010年12月24日 14:03
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2010年12月24日 14:42
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
    2010年12月24日 23:04
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
    2010年12月25日 11:40
  • ChinchikoPapa

    ボンネットが突き出た昔のバス、かすかに憶えています。懐かしいですね。
    nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2010年12月26日 21:13
  • ChinchikoPapa

    最近、寝起きでうちのネコを見たことがありません。さっさと窓辺の陽だまりへ移動して、睡眠のつづきをしています。nice!をありがとうございました。>コトキャンさん
    2010年12月30日 00:43
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2011年01月31日 22:39

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渡仏前の最後に描かれた「下落合風景」。(中)
Excerpt: 日動画廊の応接室には、佐伯祐三『下落合風景』のほかにも、部屋をグルリと取り囲むように10点ほどの作品が架けられていたのだが、わたしはまったく目に入らず、お邪魔している最中はずっと佐伯の絵に集中していた..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-11-08 00:02