いま、表ではタヌキにテリトリーを荒されて怒った野良ネコが、すごい声で鳴いている。でも、タヌキのほうがよほど図体が大きいので、ネコはニャオニャオわめくだけで手出しができない。タヌキは立ち止まってネコを見やるけれど、そのまま知らん顔で熟してジャム状になった柿の実が落ちる庭先へと急いでいる。牡ネコは、いちおうそれが勤めなので、縄張りからタヌキが出ていくのを、かなりおびえながら見送っている。ちょうど、午後10時をまわったところだ。
タヌキは、甘いジャムも喜んでなめる。どちらかといえば、酸味の強いママレードよりも、イチゴジャムのほうが好きだろうか? わたしは、ジャムの中ではママレードClick!がいちばん好きなのだが、1960年代に「ママレードは都会の味」という詩か、あるいはコピーを書いたのはいったい誰だったのか、いまだに見つけることができない。ジャムが日本に輸入されたのは、室町末期の宣教師たちによってということになっているが、資料的な裏づけは見つからないようだ。江戸期には、確実に輸入されていたと思うのだが、国産のジャムが誕生するのは1877年(明治10)、新宿にあった内務省勧農局工場においてイチゴジャムが製造されたときだ。
同じく新宿(牛込)の早稲田に住んだ夏目漱石Click!は、イチゴジャムが大好きだったようで、日記にも随所にジャムをなめた記述が登場する。作品にも登場するので、ちょっと引用してみよう。
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「近頃はどうです、少しは胃の加減が能いんですか」「能いか悪いか頓と分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞めては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻の不平を暗に迷亭に洩らす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか云って大根卸しを無暗に甞めますので・・・」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸の中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を償おうと云う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君の訴を聞いて大に愉快な気色である。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして・・・」「ジャムをですか」「いいえ大根卸を・・・あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前には中の娘を抱いて箪笥の上へあげましてね・・・」 (夏目漱石『吾輩は猫である』より)
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漱石Click!がなめていたのは、新宿の勧農局工場で作られたイチゴジャムか、あるいは1881年(明治14)から生産がはじまる、長野県産のイチゴジャム缶詰だったのかもしれない。明治期には、いまとちがってパン食は限られた裕福な家庭のメニューであり、ジャムもかなり高価だったのではないかと思われる。1916年(大正5)になると、ヨーロッパの視察旅行から帰国した中島董一が、愛媛の朝家万太郎とともにオレンジママレードの開発に取り組んでいる。
このような、ジャム史とでもいうべき製品開発の歴史を見てくると、年譜に必ず登場するのが下落合の相馬正胤Click!による「アマリリスジャム(相馬ジャム)」★の製造だ。昭和の初期、イギリス留学から帰国した相馬正胤は、1932年(昭和7)ごろに西落合511番地へ相馬果実缶詰研究所を設立している。それまでのジャム造りは、当時の日本人の嗜好に合わせてかなり甘味の強い(砂糖を大量に使用した)製品が多かったのだが、相馬正胤は甘みを抑えたイギリス式のジャムやママレードを開発し、「アマリリスジャム」という商品名で販売を開始した。
★相馬家が「アマリリス」とネーミングしたのは、同家が昭和初期に「丸弁大輪アマリリス」Click!の品種改良で広く知られていたことに由来している。
のちに、相馬果実缶詰研究所は相馬果実製菓所という名称に変わって、やがて(株)相馬ジャム食品として法人化され、戦争をはさんで戦後まで「アマリリスジャム」を生産しつづけた。1936年(昭和11)の空中写真を確認すると、すでに工場の建屋がとらえられているので、この時期は相馬果実製菓所の時代だろうか。1938年(昭和13)に作成された「火保図」にも、相馬果実製菓所という名称が採取されている。敗戦間近な1944年(昭和19)および戦後すぐに撮られた1947年(昭和22)の空中写真では、敷地内の建屋も増えているようで、「アマリリスジャム」の売れいきがよく太平洋戦争がはじまる以前から、製造ラインの規模拡大が行なわれていたのかもしれない。
下落合の西部から西落合にかけては、ほとんど空襲らしい空襲を受けておらず、相馬ジャム工場は戦後もそのままの施設で生産をつづけられたのだろう。『おちあいよろず写真館』(おちあいあれこれ/2003年)には、戦後に撮影された相馬ジャム工場の貴重な写真が収録されている。同工場は、1980年代まで二幸の落合工場として使われていたが、その後すべての建屋が解体され、しばらく空き地状態がつづいたあと、現在は完成したばかりのマンションが建っている。
1972年(昭和47)に、相馬ジャム食品はサンタ缶詰(現・二幸)に吸収され、「アマリリスジャム」は永久に市場から姿を消した。パンにつけて食べると、ノドがひりひりするほど甘ったるいジャムが苦手なわたしは、甘さを抑えたイギリス式の「アマリリスジャム」を、ぜひ味わってみたかったのに残念でならない。目白・落合地域には神田精養軒Click!に目白坂の関口パンと、日本におけるパン工房の元祖が顔をそろえていたわけだから、ジャムの需用もきっと多かったにちがいない。神田精養軒の小麦にこだわったイギリス式食パンと、関口パンの焼きたて元祖フランスパンへ、「アマリリスジャム」を塗って食べるのが、戦前からのこの地域におけるデファクトスタンダードだったものだろうか。
◆写真上:西落合511番地(現・西落合1丁目21番地)に建っていた相馬ジャム工場跡の現状。
◆写真中上:わたしも好きなイギリス(スコットランド)のジャムいろいろ。
◆写真中下:上左は、西落合511番地へ相馬果実缶詰研究所を設立した相馬正胤。1913年(大正2)の学生時代に撮影されたもので、相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵の『相馬家邸宅写真帖』より。上右は、戦後に撮影された相馬ジャム食品の製造工場。(『おちあいよろず写真館』より) 下は、1936年(昭和11)の相馬果実缶詰研究所(左)と1947年(昭和22)の相馬ジャム食品工場(右)。
◆写真下:左は、1974年(昭和49)に撮影された元・相馬ジャム工場。(当時は二幸落合工場) 右は、1985年(昭和60)の地図にみる同工場。(相馬彰様Click!提供)
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
sig
ベーコンとレタスとトマトをのせたトースト・・・いいですねえ。
フランスパンにイチゴジャムも定番ですが、いいですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
フランスパンに、ジャムやバターをつけて美味しい美味しいと食べてますと、知らないうちに1本丸ごと食べてしまってますね。w ベーコンとスライスしたタマネギに、からしとケチャップでかぶりつくのもたまりません。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
ChinchikoPapa
はい、相馬ジャムはふつうの果実ジャムで、商標が「アマリリス」だったようですね。相馬ジャムが広く受け入れられたのは、おそらく他で造っていたジャム類がめちゃくちゃ甘くて、果実の風味を活かした甘すぎないジャムのニーズが、やはり当時から高まっていたのではないかと想像しています。きっと、イギリス式のジャムが既存の製品に比べて、消費者へ新鮮に映ったせいもあるのでしょうね。
ChinchikoPapa
みなせ
ひまわり
ChinchikoPapa
この記事を書くとき、実は『漱石、ジャムを舐める』も参考にさせていただきました。いまの視点から見ますと、当時の食生活は“偏食”に近いですね。
白米や白餅を食べつづけると脚気になって命を落すので、ときに玄米(餅)や雑穀米(餅)を食べるようにする・・・というようなケースは、江戸期からの長い経験則として知っていたのでしょうが、明治以降の新しい食品については、まだまったくわからなかったんでしょうね。
戦時中に砂糖の統制で甘いものに飢えていた、とても頭をつかう仕事をしていた誰かさんは、100回も画家のアトリエに通って洋菓子のオヤツを楽しみにしていた・・・という話を、近々書きたいと思っています。ww この誰かさんは、夏目漱石ともつながりが濃いです。
ChinchikoPapa
このマンションですが、建って間もないのか、あるいはこういう時期ですのでなかなか販売が進まないものか、入居者募集の看板がありました。目白学園そばの、けっこう目立つマンションです。
今回の「10月後半分」の読書日記、本の内容まで紹介されている下4冊が、わたし好みの青春小説オーラを感じます。w 見かけたら、買って読んでみますね。
みなせ
ChinchikoPapa
紅葉の時代ではなく、戦時中の「砂糖統制」と「下落合」がキーワードです。画家は、下落合1丁目404番地にアトリエを建てて住んでまして、二科の超有名画家です。では、来年早々に記事に書きますね。^^;
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>コトキャンさん
ChinchikoPapa
hanamura
ChinchikoPapa
いま、レモンママレードに凝っているのですが、皮が入ってると確かに苦いです。でも、大人にはあの苦みが、なんともいえずやみつきになる風味なんですよね。w
kennes Sight-O
ChinchikoPapa
アマリリスジャムは、袋詰めのものもあったのですね。瓶詰めのお話はうかがっていたのですが、初めて知りました。袋詰めのアマリリスジャムを、食卓に置かれた家族お気に入りの透明なジャム瓶に移し、朝日が差しこむ朝、あるいは黄色い陽射しがまぶしい休日のお昼に開けてパンに塗る・・・というのは、とても幸福感にあふれた情景です。わたしも、一度食べてみたかったです。^^
アップルジャムがあったということは、おそらくいろいろなフルーツジャムを、「アマリリス」シリーズとして製造し販売していたんでしょうね。貴重な情報を、ありがとうございました。
いがらし ろみ
ChinchikoPapa
ほんとうに、なにかに導かれているような経緯で、すごいご体験をされていますね。相馬氏(元・千葉一族)は、鎌倉幕府の時代以前から関東に根をおろしていた武家集団ですので、鎌倉にもさまざまな事跡が残っています。幕府の重臣・相馬師常が建立した、相馬天王社(八坂神社)もそのひとつですね。同社の主柱(江戸期以前の元神)であるスサノオは、ジャムの神様でもあったのですね。^^
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19
わたしは、ここが地元ではありませんので、アマリリスジャムのことは上記のこと以外はほとんど知りません。(食べたかったのですがw) むしろ、(株)二幸さんの広報部あたりのほうが、いろいろと過去の資料をお持ちなのではないかと思うのですが……。
いがらし ろみ
ChinchikoPapa
わたしは、子どものころから頻繁に鎌倉を訪れていますので、アルバムには古い時代の鎌倉写真がたくさん貼ってあります。また、相馬天王社にも立ち寄りたいですね。そういえば、扇ヶ谷の北端にある足利尊氏の墓所も、ずいぶんご無沙汰しています。