1938年(昭和13)現在の、高田馬場駅Click!から小滝橋までつづく商店街を1992年(平成4)にイラストで再現された、戸塚町(現・高田馬場)にお住まいの濱田煕氏という方がいらっしゃる。戸塚第三小学校で発行された、『周辺の歴史-付 昔の町並み』(1995年)というパンフレットに収録されているのだが、わたしはその緻密な作図と記憶力には舌を巻いてしまった。
イラスト「昔の高田馬場 西側商店街の町並み」には、通りの北側、つまり下落合側の目白崖線へ向いた、通り沿いの商店や邸宅もすべて記録されている。それを見ると、高い建物がなかったせいか、早稲田通りを小滝橋へ向かって歩くと、右手に下る坂道や路地をすかして目白崖線が連続的に見えていた様子がわかる。特に、大きな西洋館の岩波邸をすぎたころ、ちょうど現在の東京ガス営業所からスーパー西友の先の一画は、通り沿いの商店街が途切れて北側へ急に落ち込む険しい崖地となっていた。だから、そこから目白変電所や旧・神田上水(現・神田川)、その両岸に建てられていた工場群を見わたすことができたのだ。
そして、その先には目白崖線の濃い緑がつづく下落合の丘が連なり、正面の高台には落合第四小学校Click!の屋根が見えている。イラストに添えられた、濱田氏の文章を引用してみよう。
▼
昭和13年(1938)前後の頃の駅から小滝橋迄の両側商店街の様子
このイラストは少年時代の記憶を基に再現した街のたたずまいです。淡い記憶ですから、漠然としたものや全く思い出せない所もあります。従って制作に当たり、古老の方や当時を覚えている戸三の諸先輩、後輩の方々の助言も十分取り入れて構成しました。基本は飽くまでも私の記憶が柱ですから、多分に独善的な面があるかと思います。改めてご協力に感謝する次第です。/かなりでっちあげ的に創作した所もあり、未だに思い違いを発見したりしています。(後略)
▲
子供時代の鮮明なご記憶だから、これほど緻密なイラストで当時の早稲田通りを再現することがおできになったのだろう。山手線の貨物線と西部電車のガードの間には、空襲を受ける前の高田馬場駅が描かれ、駅前の通りをかわいいダット乗合自動車Click!が走っている。また、山手線ガード西側の、ちょうど現在の地下鉄東西線への下り口があるところには、ダット乗合自動車の車庫と営業所とを兼ねた建物が見え、ターンテーブルClick!が設置されている様子までが描かれている。反対側を向くと、現在の栄通りの入口には駅前交番があり(現在はBIGBOX下に移転)、隣接して清水川稲荷がいまも当時も変わらずに鎮座している。
この栄通りあたりから小滝橋方向へ歩いていくと、すぐに戸塚東宝映画劇場(旧・日活戸塚キネマ)の大きなビルが目についただろう。さらに西へ進むと、2階建ての和館・藤田医院があり、その先を右へ折れると三井合名会社の役員だった大島邸が建っていた。早稲田通りをさらに進むと、右手に「腰折れ地蔵」の小さな堂が建っていた。もともと、栄通りの入口あたりに建立されていたのが、早稲田通りが拓かれるとともにこの位置へ移転したのだそうだ。空襲で堂が破壊された腰折れ地蔵堂は、現在、近くの鈴木邸の敷地内に安置されている。
腰折れ地蔵堂の隣りには、現在も変わらずに建っている東京ガスの営業所があり、その西側にはオシャレな西洋館の岩波邸(現・西友ストア)が木立に囲まれて見えてくる。ここから先は、旧・神田上水(現・神田川)へ向けて急激に落ちこむ崖線地帯だ。1936年(昭和11)の空中写真を確認すると、この崖地沿いには商店がいまだ少なく、神田川から目白崖線を広く展望できたにちがいない。このイラストに描かれている1938年(昭和13)現在には、それでも通り沿いには商店が並んでいたようだが、いまだ急峻なバッケで店舗が建築できない箇所も残されていた。濱田氏は、その崖地から北を向いた情景として落四小学校を描きとめている。
この先、小滝橋までにいたる早稲田通りの右手(北側)には、濱田氏が表現する「落合の高台」がずっと見えていたと思われ、少し低くなった小滝橋交差点からは、高い建物が皆無だった当時、目白崖線がことさら高くそびえるように目に映りこんでいたのではないだろうか。それは、徐々に「落合の高台」が大きく描かれるようになる、濱田氏のイラスト表現からもうかがえるのだ。
現在、早稲田通りを歩くと、北側へと急激に下る坂道からも、下落合の丘はまったく見えなくなっている。わたしの学生時代には、高田馬場から小滝橋までの間のあちこちから、下落合の崖線が望めていた。少し北側へと入れば、富士短期大学(現・東京富士大学)の時計台Click!が、たいがいどこからでも見つけられていたのだが、いまや時計塔を眺めるには間近まで行かなければならない。地形や目印が見えなくなると、いま自分がどこにいるのかもわかりにくくなる。そう、わたしは学生時代から歩きなれているはずの上戸塚(現・高田馬場)で、先日、実は道に迷ったのだ。
◆写真上:早稲田通りの急坂から北を眺めるが、現在は高い建物に阻まれ下落合の丘が見えない。1938年(昭和13)のイラスト崖地から、西へ100mほどいった急坂にて。
◆写真中上:上は、濱田煕氏による「昔の高田馬場 西側商店街の町並み」イラストで、早稲田通りの崖地から下落合の落四小学校を眺めたところ。下は、1936年(昭和11)の空中写真。
◆写真中下:上は、現在の高田馬場駅(左)と1938年(昭和13)の高田馬場駅(右)で、早稲田通りをダット乗合自動車が走っている。下左は、高田馬場駅前交番と清水川稲荷がある栄通り入口。下右は、ダット乗合自動車の営業所で建物の前にはターンテーブルが設置されている。
◆写真下:上は、現在も同じ場所にある東京ガスの営業所(左)で、その西隣りにはシャレた西洋館の岩波邸(右)が建っていた。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる早稲田通りの崖地と落四小学校の位置関係。下右は、いまでも栄通りの入口に鎮座する清水川稲荷。
この記事へのコメント
NO14Ruggerman
真下の正面の壁に激突して亡くなった方がいる、と
昔ですが聞いたことがあります。 合掌
ChinchikoPapa
わたしはクルマが急坂でスピードがつきすぎて、ハンドルを切りそこなった事故は聞いたことがありますが、自転車事故というのは初めて知りました。すごい傾斜角ですので、路面のイボイボもあまり役に立たないみたいですね。
最近は、その昔「高田馬場パール座」があったところがライブハウスとなっていますので、あの急坂のところに女の子たちがよく行列しています。出演するバンドがパンク系だったりすると、すごい恰好の女の子たちが大勢いたりしますので、日が暮れたあと歩くとギョッとします。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
komekiti
しかしながら新旧の空撮を見比べてみると神社仏閣や学校の位置などは驚くほどそのまま残っていますよね。街は変わり続けるものですが、多少は変わらないものがあって欲しいものです。
そういえば私も千葉の実家付近で区画整理があったため迷子になりそうになった事があります。
ノンキー
私は子供のころ目白に住んでいました。
最近このブログを発見し、ワクワクしながら読んでいます。
あまり厖大な記録なので、まだ全貌が見えませんが…。
子ども時代通ったびわのみ文庫が、解体されることになったそうです。
先日、おじさん、おばさんになった子供会のメンバーでお別れ会をしました。
ChinchikoPapa
「びわのみ文庫」の坪田邸解体、とても残念です。自由学園方面へ散歩がてら、何度か前を通って撮影をさせていただきました。またひとつ、いまにつづく地元の記憶が失われるようで、ちょっと切ないですね。
だらだら書いてます拙ブログですが、どちらかといいますと落合地域の記事が多く、現住所としての「目白」地域をテーマにした記事はそれに比べて少ないかと思います。ただ、人の交流やその物語に行政区画はまったく関係ありませんので、これからも隣接している目白や長崎(椎名町)、戸塚(高田馬場)地域の記事は、書いていきたいと思います。^^
ChinchikoPapa
ひまわり
うようよしていますね。
あの急坂は今でも慣れません。
ChinchikoPapa
なんだか、So-netブログはコメントの表示もおかしいですね。 ノンキーさんにリプライを差し上げたとき、komekitiさんのコメントは、表示されていませんでした。(汗) この不具合、いつもまでつづくのでしょう。
空中写真を年代ごとに追って観察してますと、地図と同様にすぐ1日が終わってしまいますね。ww わたしも、これまでずいぶんそんな1日をすごしてきたわけですが^^;、写真が面白いのは違いが一目瞭然のため、「なぜ、ここがこんなに変わったのか? なぜ、この地点にこんな建物が建てられたのか?」と、疑問がわくのが面白いのだと気づきました。そこから、「なぜなぜ?」といろいろ調べてみたくなるようです。
空中写真や地図を眺めることは、わたしが記事を書くうえでのモチベーションのような役割を果たしているようでして、最近は眺めないと落ち着かない、やや「中毒」症状になっているようです。^^;
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
はい、昼間でもすごいメイクで、ギョッとすることがしばしばです。w
あの崖線は、直線道路にするにはちょっと傾斜がきつすぎますね。昔の空中写真を見ますと、斜めに道が通っていたようですので、傾斜は今ほどひどくはなかったんだと思います。どこかで、無理やり直線にしてしまったんでしょうね。雪が降ったら、まず通れないですね。あ、スキーを楽しめるでしょうか。ww
sig
ChinchikoPapa
ほんとうに貴重ですね。この早稲田通り商店街のイラストが存在するだけで、さまざまなテーマや記録の見当らない史的な課題が、容易に検討・確認できることになります。しかも、ほとんどの店舗や邸を記憶されていますので、この界隈に暮らした画家や作家などの日記と照合できて、空中写真とは別に「その現場」をリアルに観察することができます。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
さいれんと
ChinchikoPapa
なるほど、もともとは社の杜だったのですね。樹木が繁っていた時代があったとすれば、松林だったものでしょうか。以前、坂田山(八郎山)の心中事件の記事で、ふたりが死んでいたのは「松林」という記述を見た憶えがあります。現在は、坂田山も岩崎山も雑木林ですけれど、昔はクロマツが広く繁殖していたのかもしれませんね。
駅前の岩崎山から眺める月は、いまでも相模灘に影を落として名月のような気がします。わざわざ、ありがとうございました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
krefeld
今は上落合の方に住んでいるのでめったに通ることが無いのですが、先日、何年かぶりに裏通りを歩き、小学生当時とは少し場所の移動した「腰折れ地蔵」前を通ったら・・・お地蔵さんがいらっしゃらいのです!空っぽの祠だけ。
何か情報はないかと検索しまくりましたが、ネットにも関連しそうな記述も見つからず。
たまたまなのか、何か事情があるのか・・・。
機会を見つけて、また様子を見に行ってみようと思っております。
ChinchikoPapa
「腰折れ地蔵」は昨年の暮れ、西へ200mとちょっと移動したみたいですね。なんらかの事情で、従来の管理されていたお宅(新宿区高田馬場3-13-5 )で管理できなくなり、別の管理できる方のところへ移動したものでしょうか? いまだ、元の地蔵祠がそのままになっているようです。
すぐそばですので、確認されてみてください。地蔵尊の所在地は、新宿区高田馬場3-25-6 です。新しい祠が建っているか、あるいはそうでなければ個人宅預かりで、庭かどこかに安置されているものでしょうか。
http://www.city.shinjuku.lg.jp/kanko/file03_00008.html
このお地蔵さんが、集団登校の際の目印だったんですね。w
krefeld
おかげさまで、今日、お地蔵様の新しい安置先を確認できました。
壁際の限られたスペースで祠はありませんでしたが、新鮮なお花が飾られておりました。
以前管理していたお宅と同じ苗字の表札が出ていましたので、親族の方のお宅なのでしょうね。
毎日の通学を見守ってくれていた地蔵様の無事が確認できてほっとしました。
ChinchikoPapa
「腰折れ地蔵」の“健在”、なによりでした。^^
わたしの知っている限りですが、以前の祠のあったお宅で管理されていたのは、かなりお歳を召したおばあちゃんだったと思いますので、世代が変わり管理がゆきとどく近くのご親族の家へ、改めて奉りなおされたのかもしれませんね。ご報告、ありがとうございました。
pedal
記事を参考にしてレポートを書きたいのですが、よろしいでしょうか?
レポートは公的なものではないです。
ChinchikoPapa
はい、ご自由にお使いください。ただ、記事の一部を引用をされる場合は註釈でけっこうですので、出典を入れていただければ幸いです。お願いいたします。
pedal
ChinchikoPapa
レポート、がんばってください。
Ken'ch
ChinchikoPapa
子どもには、スリルたっぷりだったでしょうね。w こちらでも、急坂では同じような遊びをやっていたみたいで、雪が降るとソリのゲレンデに早変わりしたようです。