日本の敗色が濃くなり、下落合のアトリエから山形県の大石田へ疎開した金山平三Click!が、近くへ疎開してきていた同地出身の斎藤茂吉Click!と知り合ったことは有名だ。金山平三の年譜などを読むと、芸術家同士が出会い、お互いが心の繊細な機微を解して交流したかのような印象を受けるのだが、このふたり、実は性格がまったく正反対の凸凹コンビだった。だからというべきか、ふたりは案外気が合って大きな衝突をしなかったのかもしれない。
一時は画家をめざしていたらしい斎藤茂吉の性格を、息子の精神科医である斎藤茂太の証言から聞いてみよう。1969年(昭和44)に発行された『三彩』7月号(金山平三追悼号)からの引用だ。
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まこと、私の知る父の性格は、執念深く、物事に凝り易く、几帳面でだらしのないことを嫌い、我まん強いがある程度を越すと噴火山のように猛烈に爆発し、固く、きゅうくつで馬鹿正直、神経質で敏感であり、内気で人なかに出るのを好まず、まじめで冗談をあまり云わない等々の要素があると考える。即ち性格学でいうところの、粘着性・内閉性・神経質性格ということができる。
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これでは豪放で洒脱、些細なことにはいっさいこだわらない踊る金山じいちゃんClick!と相性がいいわけがない・・・と思いきや、金山は茂吉のことを案外気に入っていたらしく、疎開先では何度も茂吉のもとを訪れている。ちなみに、大石田でも金山エピソードClick!はあちこちに残っているようで、たまたま通りがかりの家で風呂を沸かしていると、金山じいちゃんは「風呂に入りたい」と言って突然上がりこみ、他人の家の湯船に平然と浸かってたりするのだ。金山平三の性格を、斎藤茂太は上記の文章「金山画伯と父」の中で、次のように分析している。
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画伯はこれに対して全く正反対の格格(ママ:性格)の持主であったのではあるまいか。父の画伯評にあるように「省略すべきものはドンドン省略」し、不必要なものには一切こだわらない、という思いきりのよさ。(中略) 少年時代から、ずばぬけて腕白、運動神経の異常な発達、器用、志賀山流の舞踊の名人で大石田の名流夫人連を沢山集めて踊りをみせたりけい古したりしたこと、昭和二十年八月茂吉と横山村で初対面のさい忽ちにして仲良くなったこと(双方共内閉型であったらこうはいかない)、大和田在住中、画伯が十六回も茂吉を訪問しているのに、茂吉から訪ねて行ったのは僅かに二回だけ(飛松氏の調べ)ということ、(中略) まあこのへんでやめておくが要するにこういう要素は、画伯の持ち前である外向性格から出たものと思う。この性格は、交際ずきでよく人の世話をし、あけっ放しで陽気、過去にとらわれず現実的で、環境に順応し易く、こだわりも緊張も内閉型よりずっと少い、という特長を持つからである。
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妙にウマが合ったようなふたりなのだが、金山平三が写生に気を集中させているとき、茂吉はつい背後から「ちよちよっと、ここんとこを」などとチャチャを入れたことがあったらしい。キャンバスを前にした金山の仕事に、かなりしつこく注文をつけたらしく、しまいには金山じいちゃんClick!がキレてしまった。「うるさいじじいだ、余計な世話はやかず、そこらの岩陰で歌でも作って来なさい!」と、茂吉は怒鳴られてしまった。ビックリした茂吉は、すごすごと逃げていったようなのだが、金山は1883年(明治16)生まれで、斎藤茂吉は前年の1882年(明治15)生まれ。ふたりは、わずか1歳しかちがわないのに、金山じいちゃんの「茂吉じじい」呼ばわりはちょっと酷なのだ。
気力を集中している仕事を邪魔されたので、よほど腹に据えかねたにちがいない。絵描きは、おそらく何時間あるいは何日か先の色の載せ方、絵筆の運び方などを想定し、さらには完成表現を刻々と瞳の裏に映しながら仕事をしているはずで、その想念を周囲から乱され、集中力が削がれるのをことさらイヤがったのだろう。文章書きにも似たようなところがあって、刻々と変化する想いの断片を少しずつ整理しながら、10行先・20行先、さらには文末までを想定して書いていくことが多い。それが、周囲からよけいなチャチャを入れられると、浮かんでいた構成も文脈も文章表現も、いっぺんに瓦解・霧散してしまうことがある。気の集中を乱されたのだから、いくら軽妙洒脱の金山じいちゃんClick!といえども、ガマンができなかったのだろう。
さて、このエピソードを金山平三自身はどのように記憶していたのだろうか。1953年(昭和28)に発行された『アララギ』10月号(斎藤茂吉追悼号)の、金山平三「私の斎藤さん」から引用してみよう。
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その堅苔澤で斎藤さんは、私の絵を描く所を見せてくれと言つて入つて来られた。暫く見てゐる中に、背後から『先生、そこんとこァ少し・・・』と指図のやうな事を言はれたので、私は手を振つて、『あんた、あつちへ行つて歌でも作りなさい』と追払ふやうにしたら、すごすご出て行かれました。
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「うるさいじじい」ではなく、金山は茂吉のことをいちおう「あんた」と呼んだことになっている。でも、わたしは絶対に「じじい」と言ったにちがいないと思うのだ。だからこそ、斎藤茂吉はその言葉がことさら印象深く残り(少なからず傷ついて)、あとから息子の茂太にグチをこぼしているのだろう。
四ッ谷駅の近く、新宿区大京町に住んでいた「うるさいじじい」の斎藤茂吉は、1953年(昭和28)2月に亡くなるが、遺族が分骨のために故郷の山形へ向かうと、さっそく金山平三が先にきて待っていた。このとき、斎藤茂太は初めて金山じいちゃんClick!と対面するのだが、そのときの様子を先の「金山画伯と父」の中で、次のように記している。「金山画伯という方はよく目が動く方だと思った。声は甲高い感じがしたが、不愉快な甲高さではなくて、やさしさを持った声であった」。その後、金山平三は何度も斎藤茂太の家を訪問している。きっと、風呂にも入っていったのだろう。
◆写真上:1942年(昭和17)に撮影された、宮城県と山形県の境にある笹谷峠を越す斎藤茂吉。
◆写真中上:山形県の大石田時代に描かれた作品で、斎藤茂吉の『りんごと胡桃』。
◆写真中下:左は、同じく大石田へ疎開中に制作された斎藤茂吉『マタタビの実』(部分)。右は、大石田を流れる最上川の河原に腰をおろす斎藤茂吉。
◆写真下:左は、写生姿の金山平三。右は、1950年代後半に描かれた金山平三『雪の大石田』。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>ぷりん&りくさん
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nice!をありがとうございました。>moriさん
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ChinchikoPapa
komekiti
平安「西」→鎌倉「東」→室町「西」→安土桃山「西」→江戸「東」→「明治以降」西だけど東に遷都。
政治機構と政治基盤の変遷(律令制から荘園等への変化等々)の流などの考察を書かれているブログがあるようでしたら教えて下さい。
変な質問で申し訳ないです。
ChinchikoPapa
1980年代以降、文献史学ばかりでなく多彩な考古学的な成果、あるいは90年代以降はコンピュータテクノロジーの急激な発達による解析技術、さらに自然科学(形質人類学/遺伝子/ウィルス/血液などの分野)からのアプローチなどによる「日本人」観の見直しなどにより、明治期からお馴染みの「日本史」の枠組みが、大きくブレてきているのは間違いないと思います。
ただ、学問の世界(特に文系の歴史学)は縦割りと「師弟」関係の最たるもののようですから、それらの成果を統合かつ横断的に見直していく動きは、とても「ゆっくり」のようです。恩師が、稲荷山古墳から出土した鉄剣の文字を「ワカタケル」と読み、なぜか場ちがいで遠い地域の「雄略天皇」と結びつけたとしたら、弟子筋の学者たちは「鉄剣は稲荷山古墳から出土しているのではなく、地質学者が指摘するように砂礫層の陪墳から見つかっているのであり、稲荷山古墳(主墳)の陪臣(家臣)のものと考えるのが当然だ。だから、鉄剣の“大王”とは主墳に埋葬された人物を指すと考えた方が自然であり、象嵌文字もワカタケルとはどう見ても読めない」・・・などとは、学問生命を絶たれてしまうので金輪際主張できないわけですね。w ただ、異なる学問分野から、多彩な指摘やアプローチが出はじめているのも確かです。
わたしも、書籍では「日本史をみなおす」というような、これまでの成果や研究を横断的にとらえたアプローチのものは見かけますが、そのようなテーマを扱ったブログやサイトを知りません。上記の理由から、史学の専門的なものはおそらく存在しないのではないかと思います。また、それほど発見や成果が急激に進んでおり、それらを落ち着いて総合的に眺めてみる・・・という余裕がないのかもしれませんね。
また、「西」か「東」かでは単純に分けられないテーマもありますね。「東」は、より「西」側の出雲と密接な連携、あるいは出雲王朝が「クニ譲り」させられたあとは、「亡命者」の受け入れによる原日本の枠組みの「東」における再編、朝鮮半島の戦乱にともなう「ナラ(奈良/平安)」には入れない、対立亡命者たちの「東」への受け入れ・・・などなど、東西だけでは割り切れないテーマも数多く付随しています。
各時代において、東西を含む各地域に住む人間が総入れ替え的に移動しているとは考えられなくなったいま(主に自然科学の分野からの成果ですが)、弥生時代末あたりに想定できる近畿圏への朝鮮半島からの「侵入」(古い時代は「帰化」、いまの表現では「渡来」と表現されていますが、文化人類学レベルの相違をともなう「殖民」地化であるのは明らかです)を除いて、古墳期から現代にいたるまで断絶した時代は他の地域では考えにくい状況のようです。つまり、古墳期から鎌倉期以降へとつづく「東」の勢力は、実は同一線上にあると考えた方が自然だと、わたしの目には映っています。
その最初の契機となったのは、1960年代からつづいている形質人類学(東大病院による研究が端緒だったと思います)からのアプローチ、「日本人」の骨格のとらえなおしによる分布図の衝撃でした。手元にある書籍では、1990年代とちょっと古いですが『新編・日本史をみなおす/1地域と文化』(青木書店)にも収められていますけれど(90年代以降に飛躍的な進歩がありますので古い書籍の部類になってしまいます)、われわれ「日本人」はいったい「どこ」の「誰」の歴史を学んできているのか?・・・という、本質的な疑義と課題の提出ですね。関東の神社の奉納舞で、明治以降「ヤマトタケルの東征」を演じる「自虐」的な現象が同書でも指摘されていますけれど、わたしたち「日本人」、すくなくともわたしのような近畿圏から「原野」に住む「蛮族」である「坂東夷」などとデッチ上げられている関東人には(日本列島でもっとも豊かで、黄金と鉄=「日本刀」の故郷だった東北の人々も同じ思いでしょうが)、到底受け入れられない「日本史」を見直す作業は、身動きがとれない従来の歴史学の「旧弊史観」からではなく、科学的な成果や事実にもとづき新たな分野からのアプローチにより、今後とも急速に進展していくのではないかと考えています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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komekiti
場違いな質問に丁寧にお答えいただきましてありがとうございます。
拝読させていただきました。
なるほど調べれば調べるほど技術が進めば進んだだけより複雑であったであろう古代の様子が明らかになっている状態なのですね。
大変参考になりました。重ねてお礼申し上げます。
ChinchikoPapa
いまから100年後、改めて21世紀初めの歴史研究の状況を顧みたとしたら、いまの各学会によって語られている多種多様な成果や仮説(あるいは事実としての認識)の噴出は、ひょっとするとこの国の歴史をとらえなおす激動期・・・と位置づけられるのかもしれません。
この100年間、「常識」だった史観が1945年を境に一度崩れ、いままた解析技術の急速な進歩や考古学の分野におけるダイナミックな新発見で、戦後に定着していた(教科書化されていた)史観が、再び大きく揺さぶられている「第二次揺籃期」とでもいうべき時代にいるのかもしれませんね。
わたしは、歴史の専門家でもなんでもないですが(でも、一応卒論は政治史的なテーマでしたが^^;)、できるだけ最新の成果や歴史的(科学的)事実は、ここの記事にも活かしていきたいと考えています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa