下落合を描いた画家たち・鶴田吾郎。(3)

鶴田吾郎「初夏郊外」不詳.jpg
 下落合645番地、つづいて下落合804番地にアトリエClick!を建てて住んだ鶴田吾郎Click!の作品に、制作年が不詳の『初夏郊外』がある。キャンバスではなく、板に描かれた油彩の小品で、木目が透けて見えるほどの薄塗りの仕上げとなっている。どこか習作っぽくも感じるのだが、左下にサインを入れているところをみると完成形なのだろう。
 今年(2010年)の7月から8月にかけ、常念岳のふもと信州・安曇野の碌山美術館Click!で開かれた、「新宿中村屋サロンの美術家たち」展にも出品されている、個人蔵のめずらしい風景画だ。手前には原っぱが拡がり、その先はガクンと下へ落ちこんだ谷状の地形となっている。谷へ下りる斜面、あるいは谷底と思われる平地には、かなり多くの家々が密集して建てこんでいる。いかにも、郊外の拓かれつつある住宅街といった風情の画面だ。手前の草原には、大八車のようなものになにかを載せて引いている人物が描かれているが、載せている大きな荷物は肥え桶だろうか? 太陽光は、ほぼ真上から射しているようで、描かれた画面の方位がイマイチわかりづらい。画面の奧、遠景には濃い森か、あるいは小規模な崖線がつづいているようだ。
下落合645番地1936.JPG 下落合804番地1947.JPG
 このような風景は、大正期から昭和初期にかけての東京市郊外、特に山手線の西側半分に位置する停車場の周辺では、あちこちで見られていただろう。しかし、鶴田吾郎は大正期を通じて下落合で暮らしており、中村彝が名づけ親となった長男・徹一を疫痢によって亡くし、さらに中村彝にも先立たれたあと、薬王院も近い下落合804番地のアトリエから、隣り町である長崎町字地蔵堂971番地へと引っ越したのは、1926年(大正15)になってからのことだ。この作品は、下落合と長崎のいずれかの風景作品である可能性が高いと思われる。
 鶴田吾郎は当初、目白通りの近くである下落合645番地の借家Click!に住み、他に小さなアトリエを借りていたようだが、関東大震災Click!で借家が傾いたため、自身のアトリエ+母屋を下落合804番地に建設して転居している。ここでの暮らしで不幸がつづいたせいか、イヤな思い出の残る下落合から、傷心のうちに長崎町へと引っ越していると思われるのだ。中村彝Click!との交流はあまりにも有名だが、近所の下落合623番地に住んでいた曾宮一念Click!とも親交を深め、ともに画塾「(第1次)どんたくの会」Click!を主宰して、地域の生徒へ教えていたのもこの時期に当たる。このころ、曾宮一念の肖像画やアトリエClick!、下落合界隈の風景を曾宮ともども数多く描いていると思われる。
鶴田吾郎「窓辺」不詳.jpg 鶴田吾郎「朝日連峰」1951-54.jpg
 『初夏郊外』に描かれた、地形や住宅の密集度を考慮すれば、昭和初期に入ってもいまだ田畑や空き地が随所に目立つ長崎地域ではなく、下落合の風景である気配が強くするのだ。正面に見えている2階家は、大正期から昭和初期にかけて建設された和風住宅の典型的な意匠をしているが、佐伯祐三Click!が諏訪谷シリーズの作品「曾宮さんの前」Click!で描いた景色にも、同様の2階家を見いだすことができる。外壁は幅広の板張りで、おそらく表面には腐食防止のクレオソートが塗布されており、屋根はおそらく軽いスレートないしはトタン、あるいは布瓦と呼ばれた建築資材だろうか。他に描かれた家々も、スレートかトタンのような質感、あるいは光線の反射で描かれているように見え、屋根瓦が載っているようには見えない。
 そうなのだ、関東大震災が起きた直後の被害では、重たい屋根瓦を載せた家屋の倒壊による、あるいは瓦の落下による死傷者が多かったため、震災の直後からクギ止めのできる軽量瓦以外は東京府が条例によって禁止し、スレート葺きかトタン葺きによる屋根づくりが奨励された時期があった。つまり、この作品に描かれた家々は、関東大震災後に郊外へ展開した住宅街を写生している公算が高いことになる。制作年でいうと、1924年(大正13)以降の可能性が高く、また、ちょうどそのころから大正末にかけ鶴田は下落合804番地に住み、曾宮一念とともに付近の風景画を多く手がけている。曾宮の作品が、二科で樗牛賞Click!を受けたのもこのころのことだ。
 『初夏郊外』に描かれた風景が、はたして当時の落合地域のどのあたりなのか、残念ながら目標物が少なすぎて判然としない。手前の草っぱを、画面奥へと下る傾斜面の一部だと解釈すれば、このような風景は落合地域のあちこちで想定することができるからだ。
草原人物.jpg 鶴田吾郎.jpg
 方角が不明なのだが、草原をいく肥え桶らしいものを載せて大八車を引く人物(おそらく付近の住宅街から屎尿を集めたのだろう)が、目白通り(練馬街道)の方角をめざしているとすれば、そこには肥え桶をいくつか積載した、もっと大きな牛車が待っているのかもしれない。

◆写真上:制作年が不詳だが、大正末ごろに描かれたと思われる鶴田吾郎『初夏郊外』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合645番地界隈。は、1947年(昭和22)の下落合804番地界隈。いずれも鶴田がすでに長崎地域へ転居後の街並みだが、下落合804番地は空襲から焼け残っているので、1947年(昭和22)の時点で築20年ほどしか建っていない元・鶴田邸が残っていたとすれば、北側2軒のいずれかだろうか?
◆写真中下は、やはり制作年不詳のパステル画『窓辺』。柱の塗装から、曾宮一念アトリエの一画かもしれない。は、1951~54年(昭和26~29)ごろに描かれた鶴田吾郎『朝日連峰』。
◆写真下は、手前の草原を横切る人物のアップ。は、大正期に撮影された鶴田吾郎。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    平塚沖の潮流観測所は、わたしが子供のころにできたものですが、虹ヶ浜にある同観測研究所は塩工場の廃墟をつぶして建てられました。その廃墟の原っぱで、よくトノサマバッタを捕まえてましたね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2010年11月06日 00:13
  • SILENT

    平塚沖の潮流観測所は、陸から見ると巨大なブイに見えますね
    今は使われていないようにも聞きましたが、湘南の海には馴染んだ光景ですね。大磯の横穴墓古墳群で好きなのは石切り場古墳です。
    2010年11月06日 00:29
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントをありがとうございます。
    黒潮の流れと、その影響で相模湾へ入りこむ潮流を調べていたといいますが、現在は使われていないのですか。子供のころ、家の2階の鎧戸を開けると、まずこの観測所が目に飛びこんできました。観測所には、ブルーやピンクの雷もよく落ちていました。
    石切場古墳は、垂直に近い傾斜の崖面に掘られた、いまとなっては美しい古墳群ですね。鎌倉の衣張山にも「石切場」があるのですが、そこにある横穴は「やぐら」なのか古墳なのか微妙ですね。わたしは、やはりいちばん訪問回数の多い楊谷寺谷戸古墳群でしょうか。
    2010年11月06日 10:43
  • ChinchikoPapa

    日本橋三井タワービルの最上階近くにはレストランがあって、高い吹き抜けの天井とともにラウンジから日本橋界隈を一望することができます。新宿方面まできれいに見えますので、いまの季節は浮世絵のとおりに富士山が美しいと思います。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年11月06日 10:49
  • ChinchikoPapa

    その昔、東京では「長崎ちゃんぽん」と書いた看板をよく見かけた憶えがあるのですが、最近はめったに見ないです。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2010年11月06日 10:54
  • ChinchikoPapa

    ルーブルやエルミタージュ規模の美術館になりますと、テーマを決めて観る作品を極少に絞ってから出かけないと、グッタリ疲れ果ててしまいますね。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2010年11月06日 10:59
  • ChinchikoPapa

    千葉の観福寺は、確か将門や伊能忠敬に縁のあるお寺でしたね。nice!をありがとうございました。>漢さん
    2010年11月06日 11:03
  • ChinchikoPapa

    きりたんぽの大ファンのわたしとしては、「だまこ鍋」は一度味わわなければいけない料理です! nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2010年11月06日 11:08
  • ChinchikoPapa

    焼き鳥は江戸期の下谷(上野)にあった、坊主相手の岡場所近くの料理屋が発祥だといわれますが、わたしもご他聞に漏れず甘辛したじだれの焼き鳥には目がありません。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
    2010年11月06日 13:31
  • ChinchikoPapa

    エリック・ドルフィーの名盤中の名盤ですね。ジャケットデザインを変えて、わたしは3枚ほど持っていたでしょうか。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2010年11月06日 13:34
  • ChinchikoPapa

    確かに、家にいるよりは外へ出たほうがビックリする出会いがあります。きょうも、少し前にご紹介した映画『スープオペラ』がらみで、ビックリすることがありました。nice!をありがとうございました。>thisisajinさん
    2010年11月06日 15:31
  • ChinchikoPapa

    「シャンゼリゼを歩むフロレンス」を聴くと、なぜか70年代新宿の深夜の匂いを感じます。nice!をありがとうございました。>galapagosさん
    2010年11月06日 19:01
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>-micky-さん
    2010年11月06日 23:12
  • ChinchikoPapa

    最近、複合型の映画館へ2回出かけたのですが、日本映画にけっこう人が来てます。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2010年11月07日 10:06
  • ChinchikoPapa

    7kmを漕ぎ切るのはたいへんそうですね。体調に気をつけて、がんばってください。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2010年11月07日 10:11
  • ChinchikoPapa

    「人間喜劇」という言葉がありますが、見る角度をちょっと変えると悲劇にも喜劇にもなってしまうのが人の生なのかもしれません。nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
    2010年11月07日 20:10
  • ChinchikoPapa

    64mのかっぱ巻き、わさびを強めにきかせて味わってみたいです。
    nice!をありがとうございました。>dorobouhigeさん
    2010年11月07日 20:15
  • ChinchikoPapa

    後半は、子どものころ観た宮沢賢治の童話アニメを思い出してしまいました。「大根踊り」のリズムが、電柱の行進を連想させたのかもしれません。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2010年11月08日 00:09
  • ChinchikoPapa

    こちらにもnice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2010年11月09日 10:40
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
    2010年11月09日 11:20
  • ChinchikoPapa

    「サンタクロースみたいなアルゲリッチとマイスキー」には、思わず噴き出してしまいました。バリバリ弾いているふたりのイメージが強いせいか、大人しいとどこか拍子抜けしますね。nice!をありがとうございました。>Mineosaurusさん
    2010年11月09日 11:29
  • ChinchikoPapa

    歯医者さん選びは、けっこう難しいですね。わたしは虫歯はないのですが、定期メンテで通っています。こちらにも、nice!をありがとうございました。>cocomotokyoさん
    2010年11月10日 10:41
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2010年11月10日 16:01
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ぷりん&りくさん
    2010年11月12日 12:39

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Excerpt: 1932年(昭和7)に豊島区が成立する直前、高田町最後の町長となった海老澤了之介Click!は、1902年(明治35)に水戸中学を卒業すると、早稲田大学を受験するために東京へやってきている。下宿先は、..
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