ずいぶん以前の記事Click!になるが、下落合1340番地(現・中落合3丁目)に建っていた箱根土地本社の社屋が、赤茶色いレンガ造りの建物Click!だったにもかかわらず、時代によっては絵画や写真Click!で白っぽいコンクリート造りのような質感に見えることについて触れたことがあった。おそらく、大正末にレンガの外壁がベージュかクリームのペンキで塗装されたのではないか?・・・と書いてきたのだが、どうやらその“化粧直し”の時期が絞られてきた。
わたしは、そのタイミングを箱根土地が本社機能を下落合から国立へと移転し、第一文化村Click!に接した本社ビルを中央生命保険へ売却したのと同時期なのではないか?・・・と想定したのだけれど、それを契機に塗りなおされたものに、おそらく間違いないだろう。それは、板橋区立美術館に保存されている1926年(大正15)に林武が制作した『文化村風景』のカラー画像が、ようやく手に入ったからだ。画面に描かれた同建物(当時は中央生命保険倶楽部になっていた)を見ると、すでに赤茶色いレンガ色をしていない。よく晴れた日なのだろう、黄色い光を浴びた壁面はクリーム色に近いイエローで彩られており、影になる軒下はオレンジがかった黄土色に塗られている。林武が作品を描いたとき、すでに外壁カラーはベージュないしはクリームに塗りなおされていたのだ。
ところが前年の1925年(大正14)、同一の建物のほぼ同じ西側部分の壁面を描いた作品に、松下春雄Click!の『下落合文化村入口』Click!がある。この作品では、壁面が明らかにレンガ色をしており、またレンガ積みの質感の様子までが描きこまれている。以前にも書いたが、ほぼ中央に描かれた文化村入口交番に勤務する警官の服装が夏服ではなく、この作品が帝展出品のため秋ごろに描かれたものだと想定すると、1925年(大正14)の秋ぐらいまで箱根土地の本社ビルはレンガ仕様のままの状態だったのであり、クリームかベージュへのペンキ塗装が行なわれるのは、天候が安定して晴れの日が長期間つづく、同年の暮れから翌1926年(大正15)の早い時期、つまり冬の間の公算が高いように思われる。もちろん、単にレンガ積みの表面へペンキを塗っただけでなく、その上からさらに入念な防水加工が施されているのだろう。
先日、ものたがひさんが調べてくださった新橋のガードClick!を、わたしも改めて訪問したとき、佐伯が描いた明治の香りがする『新橋ガード』(1926年)のレンガ積みが、まさにベージュのペンキで分厚く塗られたあと、その上から透明なラッカーかニスのような質感の防水加工が施されているのを見てきたばかりだ。(あるいは、現在では防水保護材にあらかじめ着色されていて、何色かカラーを選べるのだろう) おそらく、中央生命保険倶楽部になった旧・箱根土地本社ビルも、このような処理が施されて赤茶色の重厚なレンガ色から、モノクロで撮影された写真で確認すると白っぽく見える、明るいクリームかベージュの外壁へと塗りかえられたのだろう。
そして、このような工法で露出した外壁を加工するには、雨天が多い季節は避けなければならない。したがって、東京で晴天がつづく確率が高い季節、また空気が乾燥していて塗装が短期間で乾きやすい季節=冬季を選んで、塗装工事が行なわれたのではないかと思われるのだ。つまり、旧・箱根土地本社のビルが赤茶色からベージュまたはクリームに変わったのは、1925年(大正14)から1926年(大正15)にかけての冬の間ではないだろうか。
前年の秋に、箱根土地の本社ビルを描いたと思われる松下春雄は、不動園の庭先から見える建物の外壁を赤茶色で塗り、レンガ積みの質感を描きこんだけれど、翌年のおそらく春以降に、林武は旧・箱根土地本社敷地の南側、第一文化村のおそらく空き地から同一のビルを描いているにもかかわらず、建物の外壁をクリームに近い薄いイエローのような絵具を選んで塗っている。この間のどこかで、建物の外壁リニューアルが行なわれたにちがいない。
1926年(大正15)の初秋から、佐伯祐三Click!は『下落合風景』シリーズClick!の制作に取りかかるのだが、旧・下落合の西部を中心に写生をしてまわった佐伯は、旧・箱根土地本社の建物の前も、当然しょっちゅう通りかかっていたはずだ。そして、一度めのパリへ旅立つ前に見たビルが、まるで東京駅のウィングのように重厚なレンガ造りだったのに対し、パリからもどってみると明るいクリームかベージュの、まるで別の建物のような風情に変貌していたのにすぐにも気づいたはずだ。でも、松下春雄や林武のように、佐伯がこのモダンなビルをモチーフに選ぶことはついぞなかった。
◆写真上:1926年(大正15)に、第一文化村の敷地から描かれたとみられる林武『文化村風景』。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に制作された松下春雄『下落合文化村入口』。下左は林武『文化村風景』の、下右は松下春雄『下落合文化村入口』のビル部分のクローズアップ。
◆写真中下:左は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」にみる両作品の描画ポイント。右は、佐伯祐三『新橋ガード』の日陰橋ガードにみるレンガのベージュ塗装。
◆写真下:左は、1924年(大正13)に撮影されたレンガ造りの箱根土地本社。右は、1927年(昭和2)に撮影された塗装後の中央生命保険倶楽部の建物東端部。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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ナカムラ
10月15日より日本海新聞が「第七官界彷徨」を復刻連載します。むろん、著作権者の承認に基づいてのもので、山陰の美術作家のKEiKO・萬桂が毎回素敵なさし絵をつけます。
発表から80年近く経った著名な作品が、新聞連載のかたちで復刻されるのは、たぶん日本の近代文学の歴史にも前例のないことと思います。
県外の方もこの連載に限って購読することが可能です。連載期間は1月下旬まで毎日、購読料は新聞料金2000円+郵送料2000円の約4000円です。
上記ご案内まで。お問合せ先・申込み先は以下です。
〒680-8688 鳥取市富安2丁目137番地
新日本海新聞社
学芸デスク 石井義則
TEL 0857-21-2882
FAX 0857-37-0037
E-mail gakugei@nnn.co.jp
ChinchikoPapa
尾崎翠フォーラムの方々も、きっと沸きかえっておられるでしょうね。こうなってきますと、尾崎翠の主要作品が生まれた上落合に、「尾崎翠記念館」がどうしても欲しくなってしまいます。
あっ、中央図書館の跡地に建てる施設の1フロアという手もあるでしょうか。でも、どうせなら彼女が暮らした上落合三輪界隈のほうが、「場」の雰囲気も感じられてふさわしいと思うのですが・・・。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
生命保険の選び方
また遊びにきます。
ありがとうございます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>イタリア職人の手作りタイルさん
ひまわり
またBLOGを再開いたしました。
これからもよろしくお願いいたします。
ChinchikoPapa
ひとつ前のコメントにも書きましたが、ゆっくりと少しずつ・・・。^^ こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。
siina machiko
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>galapagosさん
ChinchikoPapa
しいなまちお・Kさんも、お会いしてからずいぶん喜んでらっしゃいました。資料がまとまってきたところで、ほんとうに椎名町写真展(資料展)のような企画が実現すれば、素晴らしいですね。それに、同展のような催しをしますと、散逸してすでに失われてしまったと思われていた資料や写真類、あるいは当時の貴重な証言類が、改めて集まるきっかけづくりにもなって、忘れられがちな街の歴史や貴重な記憶が、クッキリと浮かび上がるプラットフォームづくりにもなると思います。
お祖父様のご両親は、それでは生っ粋の落合っ子で地付きの方でいらしたんですね。富士講の「月三落合惣元講」に参加されていたので、薬王院にお墓があったのでしょう。ひょっとすると、三平忠兵衛の墓の近くだったのかもしれません。江戸末期から明治の中期ぐらいまで、名所紹介的な記事や風景は記録されているものの、下落合は人の物語がなかなか見つかりません。上落合は、幕末の「書上(かきあげ)」(役所へ提出する地域レポート)が残っていますので、人々の暮らしや出来事などを垣間見られるのですが、下落合の様子はぼんやりしています。叔父様から、なにか面白いエピソードが「発掘」できるといいですね。
巡査がサーベル振り回して追いかけてくるには、つい笑ってしまいました。白い夏服の巡査が、片手で制帽を押えながらサーベルを抜き、汗だくで追いかけてくる姿が浮かびます。いくら追いかけても、ドラム缶の中身は当時の日本人にしてみれば「夢」がいっぱい詰まっていたのでしょうから、いくら禁止されても止めなかったのでしょうね。
ささやかな「夢」まで根こそぎ奪った大日本帝国の果て、軍国主義政府に対して1945年(昭和20)夏の下町では、そろそろ人々がキレかけてきていて、巡査も「行方不明」(権力機構の末端として身の危険を感じたのかもしれません)でほとんど姿を見せなかったようです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>麻里圭子さん
しいなまちお・K
ChinchikoPapa
江戸東京の街々が、場所によってはなんら地域色も人々の物語も感じられない、無国籍ならぬ「無地域」化していくのがもったいない・・・とつくづく感じます。かけがえのない史的な資産(それが負の遺産であっても)を消し去り、まるでなかったことのように塗りつぶしてしまうことが、「新しい」と勘違いをしている人々がたくさんいますね。「過去が現在(いま)を照射する」とは、よく言われるフレーズですが、現在を位置づけるには過去を知らなければ、なにが「新しい」のかさえ見えてこない・・・と思います。
第一文化村のほうへ流れたドラム缶のパラシュートは、落合第一小学校の建物を「孤児院」と誤認して投下したものでしょうね。もし、なにかご記憶であれば貴重な証言だと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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