大正末から昭和初期まで、東京市外だった下落合では、ドロボー事件が頻発していた。おカネ持ちが住んでいた目白文化村Click!や近衛町Click!、あるいは華族の屋敷群が格好の標的になったようだ。しかも、目白文化村の連続ドロボー事件は、犯人が元・箱根土地社員で文化村の家々には精通していたと思われることから、問題がさらに大きくなった。
箱根土地Click!の社員であれば、目白文化村に建つ家々の情報や、個々の間取りまで知っていたとしてもおかしくないからだ。元社員は、会社をクビになったので生活に困り、腹いせに同社の象徴である目白文化村をねらったように供述しているが、被害は下落合のみにとどまらず、当時の山手線西部の内外に広がるモダンな住宅街、大正期に形成されたいわゆる「新山手」を連続的にねらっていることから、箱根土地がなんらかのかたちで開発や分譲にかかわったエリアで、この元社員にもある程度の土地勘のあるエリアばかりが、軒並みターゲットになったのではないかとみられる。1930年(昭和5)11月3日に発行された、読売新聞(夕刊)から引用してみよう。
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文化村ばかり五十八軒あらす/七人も女を持つ失業会社員
最近市外落合町の目白文化住宅が頻々空巣の盗難にかゝるので戸塚署で犯人厳探中市外滝野川町谷津一一八〇自称箱根土地会社重役竹内伊之吉(三七)に目星をつけ二日午後五時同署江村刑事が寝込を襲うて引致取調中だが同人は元箱根土地会社員で昨年十二月解雇されるや生活に困つて予て同会社が建設した目白文化住宅の様子を知つてゐるところから其不在中殆ど軒並みに荒し廻つたもので古くは去る三月十六日上戸塚町三五七会社員大崎正雄方でも床下から台所に抜け出で貴金属三十八点(価格六百八十円)を窃取逃走した外、中野、高円寺、世田ヶ谷、大崎、淀橋、落合等のモダン住宅ばかり五十八ヶ所で金品三万五千円の大空巣を働き市外王子町一、一六〇小野まつ(三二)外六名の情婦を持ち贓品は彼女等の手で悉く金に替へてゐたもので係官も贓品始末の巧妙さに驚いてゐる
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箱根土地では、同社建築部Click!が住宅建設まで請け負った邸宅は設計図面まで所有しており、また1925年(大正14)に作成された「目白文化村分譲地地割図」Click!には、敷地を購入した所有者名ばかりでなく、その勤務先や役職などの個人情報までが採取・公表されているので、犯人は金品のありそうな家や、軍人などの留守がちな家などをあらかじめ物色できたはずなのだ。
文化村ドロボー事件の犯人が捕まってから10日ほどたったころ、今度は御留山Click!の相馬孟胤邸Click!がねらわれている。この窃盗事件は、50円ほどの高価な花瓶が盗られただけで済んだのか、それとも相馬邸は未遂の下見であり、どこか別の邸から花瓶を“失敬”してきてしまったのかは不明だ。1930年(昭和5)11月12日発行の、読売新聞の記事から引用してみよう。
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子爵邸を窺ふ怪しき男
十一日午後一時半頃市外下落合三六五相馬子爵邸の裏口から邸内をうかがつてゐる怪漢を戸塚署刑事が怪しみ逮捕すると価格五十円位の花瓶と煙草入れを所持してゐるので益々怪しみ本署へ同行取調べると右は広島県生れ住所不定前科七犯菅延弘(四一)といふ者で同人は孤児で曲馬団に売られたが八歳の時逃げ出し放浪しながら窃盗を働いてゐた者で「金持から物を取る事は当り前だ」と豪語し頑として自白せぬので同署では厳重取調中
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幼児のときに曲馬団(サーカス)に売られ、8歳で逃げ出してドロボーを重ねてきたと供述しているが、当時としては確かに「いうことをきかないと、サーカスに売っちゃうよ!」と言われると、泣く子も黙る時代だった。でも、どこまでがホントで、どこまでが同情をかうための口から出まかせなのかは、紙面からだけではうかがい知れない。もし、「価格五十円位の花瓶」が相馬邸などから盗んだものだとしたら、前科7犯ということなので花瓶ひとつでも実刑はまぬがれなかっただろう。
以上の事件は、住民へ危害を加えないコソ泥のたぐいなのでまだマシだが、強盗事件というとそうはいかない。陸軍特務曹長の家に強盗が入り、奥さんが脅されて1円50銭を強奪されるという事件が、現在は新目白通りのほぼ下になってしまった下落合263番地で発生している。ところが、この強盗はちょっと変わっていて、刃物で脅したのではなく左官が壁塗りに使う鏝(こて)をふりかざして侵入しているのだ。1927年(大正15)8月15日発行の、同紙夕刊から引用してみよう。
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特務曹長の妻を脅す/鏝を持つた賊 府下下落合二六三陸軍特務曹長富谷藤二郎方に十四日午前一時頃便所の硝子窓を破つて賊押入り就寝中の妻たま子(二六)を鏝をもつて脅迫し現金一円五十銭を強奪した上暴行を加へんとしたのでまた子(ママ)は必死に抵抗して救ひを求めたので賊はそのまゝ逃げた、戸塚署で犯人厳探中である
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奥さんはおカネを盗られただけで、なんとか無事だったようだ。ちなみに、第1次渡仏から帰国して下落合にいた佐伯夫妻Click!は、近所で起きたこの事件を知っていただろう。
強盗を捕えてみれば隣人だった・・・という、まさかの事件も発生している。しかも、この青年強盗は脅迫に使ったナイフを奥さんに奪われ、逆襲されて重傷を負いながら隣家へ逃げ帰ったところを逮捕されている。1925年(大正14)5月26日発行の、読売新聞(夕刊)から引用してみよう。
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資産家の忰隣家で強盗/細君に凶器を奪われアベコベに斬らる
二十五日午前十一時半府下下落合四八一元成千歳方へ二十歳位覆面の強盗が針仕事をしてゐる妻女さま(二〇)の前に現れ海軍ナイフで金を出せと脅迫したが応じないので今度は首を絞めにかゝつた処さまは必死となり賊の海軍ナイフをもぎ取り反対に手顔面等に斬りつけたので賊は痛さに堪へかねて逃走したが戸塚分署から係官出張出調べると此の男は隣家資産家藤川高春の次男貞次(二〇)と判つた
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当時、堤康次郎Click!は自宅の斜向かいで起きたこの事件を、強く印象に残していただろう。
こうして見てくると、いまでこそ新宿区の落合地域は“都心”ということになっているけれど、80~90年ほど前は日が暮れると急に人通りがなくなる東京市近郊の住宅街で、かなり寂しくて物騒だったのがわかる。また、これらの事件とともに、読売新聞は三面(社会面)記事の「充実」ぶりがすさまじい。当時の細々とした世相やゴシップ、センセーショナルな事件を知るには、東京朝日新聞ではダメで読売新聞の三面がいまのスポーツ紙のように、虚実ともども格好の資料となりそうだ。これらの事件を、東京朝日新聞で探そうとすると掲載されていないケースも多い。
◆写真上:1932年(昭和7)に撮影された、寂しそうな下落合総鎮守・氷川明神社の境内。写っているクシナダヒメの旧・拝殿本殿は、1945年(昭和20)の空襲で焼失している。
◆写真中上:1930年(昭和5)11月3日に発行された、読売新聞(夕刊)の三面記事から。
◆写真中下:左は、1933年(昭和8)に撮影された現在の目白通りと山手通りの交差点付近にあった商店街の様子。通りの左側には東京電気のマツダ電球Click!看板や古書店、右側には畳屋や氷屋が見えている。右は、軍人宅へ押し入った強盗が「凶器」に使った左官鏝(ごて)。
◆写真下:1911年(明治44)に撮影された、上落合607番地あたりに建っていた浅間社境内の落合富士=大塚古墳(円墳)。のちに、改正道路(山手通り)の工事で大塚古墳は壊され、山頂部分の熔岩のみが現在の月見岡八幡社境内に移設されている。大正期には、いまだこのような寂しい風情のところが落合地域のあちこちに残っていただろう。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございます。>Jerryさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>cocomotokyoさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>飛騨の忍者ぼぼ影さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
文化村荒らしは、盗品のさばき先まで確立させていた立派な組織犯罪ですね。
ChinchikoPapa
7人の女ということは、毎日盗んだ品物を週1回ごとに違う愛人宅へ運んで処理していたと思われますので、月子、火子、水子、木子・・・と芋づる式に逮捕されたのではないかと思います。なんだか、明治期の木村荘平による「いろは」牛鍋店を想像してしまいました。w
ChinchikoPapa
銀鏡反応
貴記事を読んだところ、当時の文化村にも、資産家宅を狙った物騒な空き巣事件が後を絶たなかったのですね。
ドロボーたちにとっては、「お金持ち」は、当然乍らまさに格好のターゲットですね…。
おまけにその、資産家の次男まで強盗に手を染めていたとは。
今も昔も、「家の戸締りはしっかりと。ドロボーにはくれぐれも要注意」ということですね…!
アヨアン・イゴカー
ChinchikoPapa
文化村のドロボーを捕らえてみれば、当のディベロッパーの元社員では、当時の住民のみなさんは笑うに笑えなかったでしょうね。当時は、今日のようなプライバシーポリシーなどもちろんなく、かなりの住民たちの個人情報が、外部へ流出していたのではないかと思います。
被害者である奥さんにナイフを奪われ、逆に「襲われ」て逃げ帰った資産家の息子は、おそらく小遣いに不自由していてちょっと思いついた「凶行」、ならぬ自業自得の「災難」ではないかったかと想像してしまいます。
また、近々同じ「事件簿」シリーズに登場しますが、当時のできたばかりの文化村などでは、生け垣がいまだ大きく育っておらず、垣根も未完成のものが多かったため、通行人が庭を近道代わりに横切ったりする「住居不法侵入」が問題化しています。住宅街としての落ち着きが出てきたころから、ドロボーは減少しているようですので、できたばかりのころはスキが多いとみられていたのかもしれませんね。
ChinchikoPapa
洋館好きの怪人二十面相には、戸山ヶ原も魅力的に映ったのかもしれませんが、落合地域もピッタリですね。ただし、請願交番も含めて戸塚警察署の交番がけっこう多い地域ですので、「ピス平は出るし、ドロボーも警官多いし、まったく気が休まらんのだよ、明智くん。ははは」とか言いそうです。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa