「標準語」は東京弁じゃないってば。

子母澤寛.jpg 味覚極楽1927.jpg
 江戸東京方言(およそ町ごとに異なる多彩な東京弁)と、「標準語」とが同じものだと思っている人が多いのに、改めて愕然としてしまう。少し前、「OPALな日々」のOPALさんClick!も書かれていたので、さっそくコメントを書かせていただいたのだけれど、東京方言と「標準語」とは、用語やアクセント、イントネーションなどもろもろの特徴を含めて、まったく異なる別モノだ。「標準語」を“母語”とする地域などこの世に存在しないし、江戸東京地方には当然のことながら江戸東京方言が代々、生活言語として存在している。数多くの先達や、山手と下町とを問わず現在でも多くの地付きの人々が証言しているように、わたしも“母語”感覚Click!や育ちからいえば、「標準語」は正体不明のおかしなしゃべり言葉で、随所で「訛って」いるように聞こえてしまうのだ。
 「標準語」は当初、薩長の明治政府肝煎りで、江戸東京方言でも旧山手の言葉(士族言葉)をベースに人工的に作られたものだから、それと同一だと思われている方もいたりする。わたしが山手言葉について書くのも妙だけれど、両者はまったくちがう。代々生っ粋の乃手人に訊けば、すぐに激しくクビを横にふられるだろう。その“ちがい”さ加減は、時代劇に登場する下町Click!の町人たちが、そろいもそろって職人言葉(しかもたいがい品のない)を話しているのにも似て、事実とフィクションとでは大ちがい・・・なほどの“ちがい”なのだ。どこか無骨な感覚が宿る乃手弁に比べ、商業ベースで発達し洗練された下町弁のほうが、音韻もやさしく美しいとさえ感じることがある。
 「標準語」に比べれば、山手言葉も下町言葉もおよそ美しくてやさしい。もっとも、これは東京地方のみの感覚なので、外側から見たらここの方言はキツイと感じる地方の方もいらっしゃるかもしれない。ブツブツと、まるで打ちの足りない蕎麦を食っているような「標準語」は、たとえばTVやラジオのアナウンサーがしゃべるのを長く聞いていると、耳がグッタリと疲れてくる。江戸東京の各地で代々話されている生活言語と「標準語」とは、もう一度繰り返すがまったく異質だ。明治以来、今日まで近代国家の統一をめざして学校で教えられ(戦前に学校で東京弁をしゃべり、教師に怒られて訂正された経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃる)、戦後はおもに放送局のアナウンサーがしゃべる人工語が「標準語」であって、江戸東京方言とは似て非なるものだ。
 もっとも、乃手にしろ下町にしろ、家庭内で東京弁をしゃべる人の数が徐々に少なくなり、あるいは近所づきあいで地付きの人々との交流が徐々に減り、代わってマスメディアから「標準語」がたれ流されているがゆえに、戦前からの東京地方以外で生まれ育った人々の大量流入と相まって、この地方の方言が衰退していることは間違いなさそうだ。ここでも何度か取り上げているけれど、東京ではアイヌ語講座Click!が盛んだが、ほどなくその隣りに江戸東京方言講座(旧山手コース/新山手コース/神田コース/下谷コース/深川コース/日本橋コース/本所・向島コース・・・)などというのが、どこかの市民大学講座か文化センターで開講するやもしれない。w
 だから、東京地方以外のみなさん、よく「東京弁が地方の方言文化を侵食し、破壊している」・・・なんて人聞きの悪いおかしげな話を聞くけれど、それは根本的な錯誤であり認識不足なのだ。地域の特色ある生活言語を侵食しているのは、東京方言ではなく明治政府に根のある「標準語」なのであって、まちがいなく東京方言の山手言葉および下町言葉もその侵食の“被害者”だ。文句があるのなら、薩長の明治政府とその施策を止めようとしない文科省、あるいは放送局に言っとくれ。
小笠原長幹家族.jpg 小笠原長幹邸.jpg
 OPAL管理人さんと、どうしたら江戸東京方言の妙味をわかりやすく伝えられるのだろうか?・・・とお話してたら、ちょっと面白い本を見つけたのでご紹介したい。子母澤寛という作家がいたが、昭和初期に新聞記者をしていた時代、東京各地や近郊に住むさまざまな階層の人たちへインタビューした、聞き書き集『味覚極楽』(1927年/解題1957年)という作品を残している。華族から役者、料理人、駅長、医者、僧侶など登場する人たちも多彩で、彼らが当時しゃべっていた言葉を、できるだけすくい取って記しているのが面白い。華族といっても、みな乃手言葉を話しているかというと、中には下町言葉で話したのだろうと思われる聞き書きもある。そういえば明治以降、勝安芳もさかんに下町言葉をしゃべっていたのが記録されている。もちろん、録音データ起こしなどない時代だから、当人がしゃべった正確な記録ではないのだが、子母澤はできるだけニュアンスをつかみ取って文章化していると思われる。たとえば、役者の尾上松助のインタビューはこんな具合いだ。
  
 ちっとばかり辛いかナと思う位に醤油を入れて、こわ目に茶飯を炊いてよく食べる、一日おき位にはやるんでげすよ。これへ大鯛の生きのいいのを、ぶつ切りの刺身にして、薬味を入れないおしたじ、亀甲萬Click!がいい。別にいい茶の熱いのを汲んで、これをつまりお椀代わりにしていただくんです。それあうまい。この刺身が鮪となると、ちょっとまた調子が変わって来て、べとりと舌へ残るあぶらあじと、茶めし(ママ)の味とが、どうもぴたりッと来ない。矢張り、茶めしには鯛、これがなかったらまず平目でげしょうかな。 (「大鯛のぶつ切り」尾上松助氏の話より)
  
 役者はちゃんと下町言葉ベースの「芸人言葉」(江戸後期に花柳界で流行した幇間言葉に近い)をしゃべり、牛込区河田町の伯爵・小笠原長幹はいかにも旧山手の無骨な言葉にちょっと崩した下町弁の混じった様子で、“うまいもん”をあーでもないこーでもないと楽しそうにしゃべっている。下落合と東日本橋のミツワ石鹸Click!三輪善兵衛Click!は、日本橋言葉とも山手言葉ともつかない微妙な言いまわし(実際、子母澤にはそう聞こえたのかもしれないが)で天ぷらを語り、根っからの地付きである高村光雲は美しい下町言葉(光雲は下谷弁だろう)を話し、同じく根っからの東京舌の大倉久美子は、美しい山手弁で東京の食べ物を絶賛する。これらのインタビューが、音声として残されていないのがいかにも残念だ。音声で聞きさえすれば、東京方言と「標準語」とが発音、アクセント、イントネーション等々、すべての面においていかに異なるかが一聴瞭然だったろう。
 ちなみに、いまわたしが興味をおぼえているのは、外出から帰った家族を出迎える言葉として、「おかいんなさい」あるいは「おかいり」という地域と、「おかえりなさい」「おかえり」という地域が、旧市街のどのあたりの境界で変化していくのかな?・・・というテーマだ。もちろん、前者がおもに(城)下町言葉で後者がおもに山手言葉なのだが、案外クッキリと残っているのではないかと想像している。そして、「標準語」では山手言葉である後者が採用されているようだ。
大倉久美子(華桂).jpg 権兵衛山(大倉山).JPG
 おしなべて、子母澤寛は山手弁の表現があまり得意ではなかったらしく、下町言葉になると俄然、文章が活きいきとしてくる。北海道生れの子母澤だが、先祖代々が江戸生まれで、戊辰戦争の際には薩長軍と戦うために江戸から北海道へ向かった家柄なのだから、家庭内で話されていたのはまちがいなく江戸方言、それも祖父の言葉づかいから判断するといずれかの下町弁だったと思われる。ついでに、宮内省厨司長の秋山徳蔵が面白い話をしているので、ご紹介しておきたい。
  
 東京は器物をそこへおいたまま箸で食物をつまみ上げてたべる。関西は器物を手にもって、すぐ口のそばまで運んできて食べる。従って関西はおつゆがたっぷりついて舌の上へ来るし、東京はつゆは置き去りにして物だけが来る。/関西はこんなことから古来おつゆにしっかり味がついていて、ふくみ併せたべて、本当の味が出るようになっており、東京はつゆはいわばおまけで、「物」へしっかりと味がついている。東京の人が関西のをたべて、よく「少し塩味が足りない」というが、これは食べ方を知らないのである。関西の人もまた東京のをたべて、つゆをたっぷり含ませてやるから、「少し塩が強い」という、これも間違っている。東京人は関西のものの、味の半分だけしか舌へのせず、関西人は江戸っ子料理の、添え物まで舌へ持って来ているのである。
                                 (「料理人不平話」秋山徳蔵氏の話より)
  
 上記の文章の「東京」を、「関東」と言い直してもほぼ間違いないだろう。なるほど・・・と、思い当たることがままある。わが家の食習慣だが、食事中いちいちおかずの小皿や小鉢を手にとって、口もとへなど運ばない。むしろ、そんなことをすれば親から「お行儀が悪い! 品のないことするんじゃありません。ちゃんと器を置いて、お箸でつまんでお食べなさい。お箸はなんのためにあるんです?」と、すぐさま叱られてしまうだろう。秋山が書く「食べ方を知らない」からではなく、行儀が悪くて食事の作法としてはマズイからだ。手に持つのは、飯茶碗と汁椀ぐらいのもので、おかずの皿や鉢の上を箸がタテヨコへと滑っていく・・・というような動作。食文化による味覚の本質的なちがいももちろんあるのだろうが、食習慣や作法が異なるために味わい方のちがいも、またかなり大きそうだ。
長谷川時雨192709.jpg 日本橋街並完成予想図.jpg
 地方分権の流れとともに、地域色をより強めるためにか各地の自治体が方言の復活へ取り組んだり、授業へ方言教育を積極的に取り入れるところが増えている。地域専用の日本語IMEが開発され、方言変換が容易になったというニュースも聞く。東京弁がちゃんと変換されないIMEに、しょっちゅうイライラさせられているので、もちろん大賛成だ。わたしも東京弁ばかりでなく、島根弁や大阪弁、熊本弁が大好きで、ここでもずいぶん記事の中へいい加減だが書いてきた。気味(きび)の悪い「標準語」ではなく、きれいな江戸東京方言の復活のために、東京でも小学校で方言教育をしたらどうだろう。(英語よりよほど重要だと思うのだが) そうすれば、「マジ」Click!というような若者の新造語は聞き苦しい・・・などといっている、地域文化に鈍感で疎いヒョーロン家も少しは減るやもしれない。地方の言葉や文化を尊重したいと考えてる日本各地のみなさん、得体の知れない「標準語」から方言文化を守る運動があれば、東京地方からも協力しますよ。わたしも、地域の方言を大切にして話していきたいし、残していきたいから。だからこそ、「標準語」=東京弁だと思っているらしい大まちがいの意識から、まず徹底的に変革してほしい。この錯誤自体が、江戸東京方言をないがしろにする明治政府以来の「標準語」の存在と、まったく同質の意識だからだ。
 もっとも、江戸東京は地域的にも広大で、幕末には2,000町をゆうに超えていたわけだから、乃手と下町のちがいばかりでなく、おそらく旧35区いずれの地域でも生活言語が少しずつ異なっていたはずだ。広いモシリ(大地)のアイヌ語に、道南からカラプト(樺太)にいたるまで、さまざまな方言が存在するのと同様だ。それには、まずはちゃんとした地域ごとに特色のある東京方言を、きれいにしゃべれる先生の確保からスタートしなければならない・・・のかな?^^;

◆写真上は、エテ公が大好きな子母澤寛。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者をしていた際、著名人から聞き書きをしてまとめた『味覚極楽』(中央公論社)。
◆写真中上は、本書にも登場している牛込・河田町(現・新宿区)に住んだ小笠原長幹伯爵の子どもたち。後列左が小笠原松子、右が忠幸、前列右から左へ順番に、忠統、忠如、福子、元彦。は、同写真が撮られた若松河田に現存する小笠原伯爵邸の庭先。
◆写真中下は、本書に登場する男爵・大倉喜七郎の夫人・大倉久美子(華桂)で、伯爵・溝口家で育った生っ粋の旧乃手人。結婚式の招待客にお酌をしてまわった彼女は、明治期の「お嬢様」としては考えられない“革命的”な行為でマスコミにも取り上げられた。は、下落合の別名・大倉山の名前が残る権兵衛山の坂道(権兵衛坂)。大倉財閥の所有地だったことから「大倉山」とも呼ばれ、明治の早い時期には伊藤博文の下落合別荘が建っていたという伝承が残る。
◆写真下は、1927年(昭和2)の夏に撮影された長谷川時雨一家で、左手に座るのが押しかけ亭主の三上於菟吉。時雨の口から、すぐにもキレのいい日本橋弁Click!が聞こえそうだ。は、頭上の高速道路を取っぱらったあとの日本橋川Click!に架かる橋々の景観予想計画図。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!をありがとうございました。>ヒロさん
    2010年07月29日 10:12
  • ChinchikoPapa

    妃弥呼さんという歌手がいて、「私は卑弥呼」という歌を唄っているとは初めて知りました。しかも、琉球地方のご出身とは・・・。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
    2010年07月29日 13:23
  • ChinchikoPapa

    うまそうですね、甘辛団子には目がないわたしです。
    nice!をありがとうございました。>ほりけんさん
    2010年07月29日 13:56
  • ChinchikoPapa

    以前にご紹介されてた、「焼き豚卵飯」もうまそうです。新橋駅前のレストラン「かおりひめ」さんで、洋食特集をしていただけると必ず食べにうかがいます。w nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
    2010年07月29日 16:13
  • sig

    こんばんは。
    私は標準語とは東京言葉と思っていた口でした。だからはじめて多摩に住んだ時、土地の人たちの「…だんべえ」会話を聞いて、「えっ、これが東京?」とビックリしたものでした。これは極端な例でしょうが、考えてみれば東京は広いし、歴史も風俗も一つではないわけで、ところによって言い回しが違うことはうなづけました。とても面白い記事でした。
    2010年07月29日 21:00
  • ChinchikoPapa

    水源地のヒヤッとする水に、1日30分でいいから脚を浸けたい毎日です。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2010年07月29日 23:12
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    記事には、学校では標準語を教えていると書きましたが例外もあるようで、おそらく歴史の先生ではないかと思うのですが、江戸期の“打ち壊し”騒動について、「ウチこわし」と読んだ生徒に対して、「この地域では、ブチこわしと読むんだ。何もかもがウチこわし・・・じゃおかしいだろ。ブチこわしだ」と、江戸東京弁で教えている方もいるみたいですね。
    わたしも、育った神奈川県の海っぺりへ行くと、「べえ」言葉が自然にでます。「そうじゃねえべえよー」というような言葉遣いをすると、母親から「もう、なんて言葉?」と注意された経験があったりします。w
    2010年07月29日 23:21
  • ChinchikoPapa

    「もう、入ったよ」が「もう、かいったよ」になると、話がどこまでもややこしくなりそうですね。w nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
    2010年07月29日 23:26
  • ChinchikoPapa

    またしても、「丸山」というワードが出てきましたね。
    nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年07月29日 23:29
  • アヨアン・イゴカー

    方言はどの地方の物でもしっかりと受継いでいって欲しいと思います。
    言葉は文化を反映していますから、標準語のような蒸留水のような言葉はやはり飽くまでも「共通語」として存在していて欲しいと思います。母語そのものとして存在することは文化の画一化の進行の証になってしまいます。
    2010年07月30日 00:50
  • SILENT

    大変面白く読ませていただきました。
    いいじゃん。よかったベー。と須賀弁(横須賀弁)が思わずでました。湘南地方の方言も多彩だったようですね。
    当地の鴫立庵は地元の下町では「しげたつ」、高麗山は「こうれいじさん」と読まれていたようです。
    2010年07月30日 09:11
  • ChinchikoPapa

    長野の「あっさり焼きそば」、美味しそうですね。
    nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2010年07月30日 11:27
  • ChinchikoPapa

    文化村の北側、目白通りに近い「洛西館」とともに、公楽キネマは要注意ですね。なにか、いろいろな物語が眠っていそうです。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2010年07月30日 11:32
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    “母語”としての言葉(生活言語)は、非常にたいせつですね。ときに、人そのものの精神世界や思想までをも大きく左右しますし、アイデンティティの形成には不可欠なものだと思います。地域文化の屋台骨=基盤といっても、言い過ぎではないかもしれません。
    2010年07月30日 11:43
  • ChinchikoPapa

    昔から、ソーダアイスにソーダの素、クリームソーダ・・・とソーダ系に弱いわたしです。プリンのソーダバージョン、見かけないですね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2010年07月30日 11:48
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    幼い子供時代をすごしただけなのに、いまでも神奈川県の南部方言はどこか身体に染みついています。だから地元へ出かけると、言語のスイッチがとたんに切り替わるのかもしれません。w
    ♪江ノ島が見えてきた~(べえ) オレの家も近い~(じゃんよ~)と、サザンの歌を楽しく歌いながら^^;、遊びに行きたいですね。でも、大磯と鎌倉は東京でいうと「乃手」ですから、よほど地元に深く入りこまないと、いまやなかなか方言には出会えないですね。
    2010年07月30日 11:59
  • ChinchikoPapa

    この夏は、さすがに強烈な陽射しなので帽子がほしくなりました。キャップもいいですが、定番のむぎわら帽か流行のカンカン帽もいいですね。nice!をありがとうございました。>cocomotokyoさん
    2010年07月30日 12:03
  • ChinchikoPapa

    先日、1960年6月のニュース映画を見たのですが、早大キャンパスから膨大な学生たちが国会前へと向かうシーンとともに、全学ストライキ中の東京芸大で誰もいなくなってしまった石膏室(当時の旧デッサン室)が映っていたのが印象的でした。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2010年07月30日 12:09
  • かあちゃん

    こんにちは^^
    今日NHK WORLDのある番組で江戸売り声の宮田章司さん
    http://www013.upp.so-net.ne.jp/urigoe-miyata/#top
    の特集を見ました。一口に東京弁といっても、いくつか種類があるのですね。あの方の言葉は下町言葉でしょうか、私はなんだか聞いていると気持ちがスカッとしてきました♪
    毎日、世界各国の言葉に囲まれて暮らしているので、言葉とは本当に不思議で面白いものだなーと感じております。

    面白いもので、移民によりこちらで30年以上暮らしている日本人の方々の
    故郷の方言はしっかりと残っています。
    私の経験上、広島や九州地方の方が圧倒的に多いですが
    津軽弁を聞いた時にはさすがに、目がテンになりました^^;;

    長くなりましたが、10年以上経った今、全国的に人気の出てしまった札幌の地方番組「水曜どうでしょう」のような、札幌弁丸出しの肩の凝らないテレビ番組を東京弁で放送したら面白いんじゃないかなーと、思いました。
    以上だらだらと失礼しました~
    2010年07月31日 05:45
  • ChinchikoPapa

    「くきのうみ」の花火大会、きれいですね。東京は、ちょうどいまが大川(隅田川)の花火大会の真っ最中です。nice!をありがとうございました。>ツナさん
    2010年07月31日 20:43
  • ChinchikoPapa

    かあちゃんさん、コメントをありがとうございます。
    宮田さんは、千住から浅草あたりで生まれ育った方のようですので、おそらく「浅草弁」とでも集約されるべき、しゃべり言葉ではないでしょうか。神田とも日本橋とも、京橋ともまたちがう、江戸期からおもに多彩な職人たちが作りあげてった街ですので、宮田さんのしゃべり言葉を実際に聞いたことがないのでわかりませんが、比較的かたっ苦しくなくラフで飾らない下町言葉のひとつではないかと想像します。
    面白いのは、浅草のすぐ西隣りである下谷・御徒町界隈(現・「上野」地域)は、幕府の旗本や御家人たちがひしめき合って、数多く住んでいた地域ですので、同じ下町言葉といってもかなり異なるニュアンスを感じますね。上の記事中にも登場している、下谷出身の高村光雲のしゃべり言葉は、東京地域以外の方が聞かれても、宮田さんの言葉とはかなり違って聞こえるんじゃないかと思います。
    昨日のニュースで、中国における「標準語」の押しつけに反発した、広東地域の人々が繰り広げている反対運動の様子が報道されていましたが、自身の生活空間で話されていた言葉(生活言語)が否定され、異なるしゃべり言葉を押しつけられるのは、単に生活上の不自由や苦痛を感じるばかりでなく、その地域の文化を根底・基盤から否定している・・・と感じてしまいかねない、非常に危うい施策だと思いますね。
    学校などで、江戸東京弁があからさまに否定され、しゃべると教師に叱られる、あるいはいちいち訂正されるというような状況は、「標準語」に対する違和感や不可解さ、ときに“恨み”をことさら醸成するだけで、あまり教育効果があったとも思えません。
    江戸東京弁丸出しのTV番組、面白そうですね。^^ 「標準語」をしゃべってる(はずの)アナウンサーが、「わたしはいま、東京銀座のド真ん中に来ています」などというのを聞くと、「なんの真ん中だって? 銀座の真んまん中だろ! “ド”なんて接頭語、東京はおろか関東地方にはないぜ」と、突っこみを入れたくなるわたしとしては、欠かさず見そうです。ww
    2010年07月31日 21:35
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!をありがとうございました。>fxjidoubaibaiさん
    2010年08月01日 01:17
  • opal

    以前の記事を取り上げて下さって有難うございます。
    忘れていたことやら言葉やら懐かしく読みました。そう、東京人は鮪のトロはしつこいと言ってましたね。赤身をちょっと醤油に漬けたものを好んでいたように記憶しておりますが我が家だけだったのでしょうか?
    「はなっからおせえておくれ」とか「外へいってあすんどいで」とか下谷あたりの言葉は荒っぽかったかもしれませんが温かかったと思います。
    私は総体に方言が大好きで、所ジョージさんの番組の中の「第一村人発見」の普通の人の面白さ、方言の語り口をいつも楽しんでおります。
    もっとその土地の味わいは大切にされればいいのに。
    言葉だけでなく「なんでもみんな一緒」の風潮は残念と思いますが。
    2010年08月02日 00:12
  • ChinchikoPapa

    opalさん、コメントをありがとうございます。
    マグロは、江戸期には「下魚」扱いで、中でも脂身(トロ)は「下の下」として嫌われていたようですが、わたしの子供のころまでこの食習慣が残っていて、魚屋さんにマグロの刺身を頼むと大皿に赤身の盛り合わせをつくってくれました。脂身が混じってたりすると、仕入のよくない魚屋などと言われかねない環境だったのではないかと思います。脂身は、魚屋で大樽に放りこまれて棄てられるか、ネコのエサになっていましたね。
    東京ばかりでなく神奈川県の南部、湘南地方の魚屋でもまったく同様の仕事をしていましたので、1960年代ぐらいまでこのスタイルがあちこちの生き残っていたように思います。いまでも、脂身はしつこいしくどいのでわが家では食べません。でも、さすがにカツオへ辛子をつけて食べるのは祖父の世代までで、親の世代は生姜おろしをつけて食べてました。
    言葉ばかりでなく、こういう地域の味覚文化・食文化、生活の特色が画一化されてしまうのはさびしい限りです。違いがあるから、さまざまな地域の特徴や歴史、自身の足元に横たわる基盤に気づかされるわけで、「標準」化された「のっぺらぼう」からはなにも見えないし、生れないと思うんですよね。
    2010年08月02日 11:31
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>吉田さん
    2010年08月14日 12:26
  • 通りすがりです。

    http://blogs.yahoo.co.jp/china_beijing_op/33833232.html
    を見て、「標準語」は「東京弁」とは同じではないはずと思い、
    調べていて、こちらにたどり着きました。

    大変勉強になりました。ありがとうございます。
    2010年08月17日 20:28
  • ChinchikoPapa

    「通りすがりです。」さん、コメントをありがとうございます。
    わたしが経験した範囲内でのことですが、「標準語」=東京弁だと主張して、東京地方以外の地方方言を笑っている、または排斥しようとしている「東京人」に限って、先祖代々の墓がこの地域にない・・・という哀しい事例が多いようです。根っからの地元の人間なら、「標準語」のおかしさは親やその前からの世代を通じて、よくわかっているはずだと思うんですよね。おそらく、家庭内や親戚間、学校、地域などで本当の江戸東京弁に接する機会がなかったんじゃないかと思います。
    また、相手が「標準語」で話しているとこちらも構えて、つとめて東京方言を出さないようにする(これはどの地方の方でも経験がおありかと思いますが)、あるいはいかにも地元人らしくふるまうのを野暮(イヤミ)に感じて相手の言葉遣いに合わせる・・・というところもありますね。
    ところが、東京方言で話しかけられると、とたんにスイッチが入って昔の学校では怒られそうな東京弁が、なめらかに出てくるから不思議なのです。w
    2010年08月17日 22:28
  • MTR

    突然失礼いたします。
    子供のころからずっと気になっていたことがあり、たどり着きました。
    亡くなった祖母や母が昔の東京近辺の言葉で話すのですが、それをきいて育った宮城県育ちの私は、学校では宮城弁、家では祖母や母の言葉、と使い分けていました。
    友達にイントネーションの事で突っ込まれることがあり嫌だった為です。
    なので、何が正しいのかわからなくなってしまいモヤモヤしています。
    一番気になるのは①『お醤油』②『お醤油が』③『お醤油取って』のアクセントです。
    私は祖母の方がしっくりくるのですが。
    ①お/しょうゆ②お/しょうゆ\が③お/しょうゆ`とって\
    ③の`は微妙に下がるという意味です。

    正しい日本語を教えて下さい。
    お願いします。
    2011年07月28日 00:08
  • ChinchikoPapa

    MTRさん、コメントをありがとうございます。
    まず、「お醤油」というのは東京弁の女性言葉に多く遣われ、わたしはあまり遣いません。ふだんは、「したじとって(醤油をとって)」が多いです。東京弁の山手言葉と下町言葉では、それぞれイントネーションも異なる場合がありますけれど、上記の①②③は、おそらく共通しているんじゃないかと想像します。
    まず①は、東京弁に近い発音ですね。②は東京弁とは異なり、「お/醤油→が」と助詞が下がらないと思います。→印は、同じ音程という意味です。③は、東京弁も同じだと思います。東京地方の方言に照らしますと、②のイントネーションが違うでしょうか。でも、宮城県の地元(宮城弁)では、おそらく②の発音が正しいのだと思います。
    「正しい日本語」=標準語??では、おそらく東京弁と同じイントネーションではないかと思います。
    2011年07月28日 01:18
  • MTR

    早速お答えいただきありがとうございます。

    ②は祖母のイントネーションで、宮城では『が→』が普通だと思います。
    (ちなみに祖母は神戸生まれ、育ちは横浜・東京で、祖母の母は神戸の人です。)

    いったいどこの訛りなのでしょう?

    それと③の、`微妙に下がるところ、おかしいですか?

    本当に微妙に下がるんですが、②の『お醤油』の後ろが下がる感覚と似てるので、やはりおかしいのかな…と思いました。

    質問ばかりで申し訳ありません。
    2011年07月28日 08:21
  • ChinchikoPapa

    MTRさん、重ねてコメントありがとうございます。
    ②の宮城言葉が、「お/醤油→が」だとしますと東京弁と同じイントネーションになりますね。そうすると、「お/醤油\が」は関西方面のイントネーションでしょうか。実際に聞いてみないと、文字だけではなんとも判断がつきませんが・・・。
    ③「お/醤油とって\」の「\」は、東京弁(というか関東全域の言葉)では微妙に下がるのではなく、大きく降下します。書かれている「\」が、微妙に半音階ほど下がる発音だとしますと、関西言葉に近いイントネーションになりますね。
    お役にたつでしょうか。
    2011年07月28日 10:48
  • ChinchikoPapa

    昔の記事へ、nice!をありがとうございました。>ぺん獣さん
    2011年07月28日 10:49
  • MTR

    ありがとうございます。③は『お/しょうゆ`とっ\て』と語尾は大きくさがります。助詞の部分が微妙に下がるという感じです。聞いた感じは東京近辺っぽい感じなんですが、微妙にちがいます。解りにくくて申し訳ありません。祖母の言葉は西寄りということで解釈することにします。ありがとうございました。
    2011年07月28日 12:48
  • ChinchikoPapa

    MTRさん、コメントをありがとうございます。
    助詞の上がり下がりや言葉の抑揚は、実際に耳にしないとなんとも判断がつかない場合が多々ありますね。同じ東京内でも、イントネーションが異なる単語なども少なからずあり、「東京では」「大阪では」といちがいに言えない側面もあったりします。
    2011年08月05日 10:59
  • 方言素浪人

    大変為になる記事をありがとうございます。「首都圏方言=標準語」と勘違いしている全ての人に読んでほしいと思います。

    …って、人情味のかけらもない硬い「標準語」ですね。
    私は現在ギリギリ20代で、福岡・東京のハーフ埼玉ニュータウン育ちです。使用言語は、標準語を基礎に各地の方言がごった煮になった首都圏方言です。故郷や地元と呼べる場所がない寂しさと地域性の無い土地で育った虚しさから日本一周の旅に出ましたが、その際に各地で方言を耳にして日本語の多様性に魅せられました。と同時に自分の遣っている言葉の味気なさ、冷たさも嫌というほど感じました。
    ばってん(博多弁です)、何処に行っても20代以下の殆どの人はまともな方言を遣っていないのが残念でした(沖縄の離島部ですら)。特に語彙は壊滅的だと思います(近畿ですら)。テレビの影響が相当大きいのでしょうね。近頃は核家族化や地場産業の衰退、更にインターネットの普及がそれに輪をかけている様な気がします。

    長々とすいませんでした。他の記事も徐々に拝読します。
    2013年02月25日 13:38
  • ChinchikoPapa

    方言素浪人さん、コメントをありがとうございます。
    方言は、とても楽しいですね。わたしは、その面白さから記事にも書きましたように、あちこちの方言を知り合いに習ったり、辞書や用例辞典を買っては練習したりしています。w
    言葉とか食べ物というのは、その地域の文化を形成する重要なファクターだと思いますので、それが衰退していくのはとても寂しく感じます。日本じゅうが「標準語」になってしまったら、それこそ地域性が失われたノッポラボーのように味気ないですね。ちがいがあるから、その差を意識しつつ多彩な“文化”が相対的に育つわけで、均一化したものからは特色あるオリジナルなものは創り出せないとさえ思います。
    聞いていてホッとするのは、東京弁を模したような妙ちくりんな「標準語」ではなく、同じ東京弁の下町言葉や乃手言葉をしゃべる方のみならず、まったく異なる地域の方言だったりするところが、非常に面白い感覚だと思います。
    2013年02月25日 18:00
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぺん獣さん
    2019年12月09日 19:41

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