1922年(大正11)の4月、山手線が走る下落合東部の「近衛町」開発Click!がスタートしたのを追いかけて、東京土地住宅は同年6月、下落合の西部一帯で「アビラ村(芸術村)」Click!の開発事業を発表している。翌1923年(大正12)の夏ごろには、下落合のあちこちで住宅街整備の槌音や、普請の音が響いていたと思われる。落合府営住宅Click!は、もともと箱根土地の堤康次郎Click!が東京府へ寄付した土地の上に建設されているが、住民が急増すると必然的に商店街が形成され、さらに生活が便利になっていく。生活インフラが厚みを増せば、より同地へ住みたくなる住民が増えてくる・・・。このスパイラル現象を、落合村ではジッと待ちつづけていたのだ。
1923年(大正12)7月12日発行の読売新聞、「市を取巻く町と村(12)」から引用してみよう。
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落合村も近頃は見違へるやうになつた、明治四十四年には戸数僅に六百八十二、人口三千二百九十五人より無かつたのが大正七年には戸数は千二百となり(、)それからは毎年めきめきと殖ゑて(大正八年人口七千七百三十六名) 今ではもう戸数三千余、人口一万二千に及び目白から長崎村への旧街道は少しゴミゴミしてゐるけれど(、)一寸横へ入ると青々した樹木に包まれた実に気の利いた住宅が立並んで(ママ)ゐる。明治初年武家領だつた時に同村の稲の収穫金五十二円といふ時代と比して古い人などに見せたら全く別天地といふであらう。村に一つの小学校は開校当時(明治廿五年)には僅かに二十一名の生徒だつたが今では一万二千の余(ママ)になり増築又増築をやつてゐる有様だ。
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人口が、爆発的に増加する様子が記録されている。落合村の人口が1万2千人で、小学校の生徒数が1万2千人ということは、村民全員が小学生だったことになるのだが(爆!)、センセーショナリズム追求の読売新聞ではままある記述ミスだ。確かに小学校の不足は深刻で、落合小学校Click!(現・落合第一小学校)の明治期に造られた校舎ではまったく間に合わず、早々に新校舎Click!の建設へ着手するとともに、村のあちこちへ臨時校舎Click!を設けて授業をすることになった。税収の増加もすさまじく、1918年(大正7)度の村の税収額は6,565円、翌年度には13,697円、この記事が書かれた前年度にはなんと74,875円という、ほぼ倍々の増収をみせている。
「文化住宅」街の開発は、落合村の西部にまで拡がり、東京土地住宅の企画で満谷国四郎Click!が「村長」をつとめるアビラ村(芸術村)でも、島津源吉邸Click!の大きな西洋館をはじめ、モダンな住宅群がポツポツ建ちはじめていた。しかし、東京土地住宅の三宅専務が特に力を入れているにもかかわらず、1923年(大正12)夏の時点で事業は思ったほど進んでいない。
1923年(大正12)7月15日発行の同紙に掲載された、「市を取巻く町と村(14)」から引用しよう。
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文化村の西寄りの南傾斜地を利用して東京土地会社が「アビラ村」といふ七千坪の文士美術家村を経営しようとして南薫造氏などが加はり盛んに宣伝をやつたが五千七百坪程売れたことは売れたが余り遠いのでまだ家も建たず工事も思はしく進捗しないのでどうも結果は面白くない、これは坪三十五円で分譲した、しかし同会社経営の『近衛町』はいま相当に出来上りつゝある(。)
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東京土地住宅の開発が進捗しないのは、もはや近衛町の開発で手いっぱいとなり余力がなかったからだと思われる。余力というのは、もちろん事業の資金繰りだ。同社では、金融機関からの無理な借り入れがつづいていたため、おそらくまとまった事業資金の融資を銀行から受けにくくなっていたのだろう。同社の急激な経営悪化は、翌年になると顕在化し、翌々1925年(大正14)には破たんClick!してしまう。残された事業のいくつか、特に近衛町に関わる案件は箱根土地が継承したけれど、アビラ村(芸術村)の事業はほとんど頓挫して立ち消えになってしまった。
しかし、昭和期に入り、別のかたちでそれが実現できたのは、早くから同地に邸をかまえ東京土地住宅の計画に協賛していたと思われる、島津家の三ノ坂から四ノ坂一帯にかけての宅地開発Click!と、アビラ村(芸術村)の象徴的な存在として1925年(大正14)からアトリエをかまえていた金山平三Click!の存在、そして近くにバンガロー型洋館Click!を建設した人気作家の吉屋信子Click!の居住だったと思われる。東京土地住宅の構想から、ほぼ10年ほどが経過し、佐伯祐三Click!が「アビラ村の道」Click!を描いたあと、そのタイトルの村名さえ早くも忘れられかけていたころ、アビラ村(芸術村)には文字どおり、数多くの画家や作家が、期せずして参集することになった。
目白文化村Click!やアビラ村(芸術村)が、山手線の目白駅からはかなり離れているので、当時の落合村では目白駅発で練馬車庫行きのダット乗合自動車Click!だけでなく、長崎村とも連携して少しでも交通の便をよくしようと、ともに市電の誘致活動を盛んに行なっている。同年7月15日発行の同紙、「市を取巻く町と村(14)」から引用してみよう。
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目下の処では目白駅から少し遠いので東京都の往復の繁しい人には不便だが長崎村へ市内電車が延長する予定(大正十八年)になつてゐるからこの線さへ本当に予定通りに竣工したらこの辺一帯は大したものにならう、川村村長などは死んだ奥田市長の時代から市電の延長を度々運動したが奥田さんは大反対、後藤市長になつて漸く予定にだけは入つたのである(。)
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しかし、目白通りに市電が敷かれることはついになかった。その代わりに、大正末に近づくころから西武電気鉄道の計画が、急速に具体性をおびてくることになる。目白文化村の特に第二文化村や、その西側に拡がるアビラ村(芸術村)Click!は、西武電鉄の中井駅に近い住宅街として、先にご紹介した勝巳商店の「第五文化村」Click!とともに、さらに人気が高まっていくことになった。
◆写真上:アビラ村(芸術村)を北側から眺めた、1940年(昭和15)撮影の写真。手前に横切っているのが「アビラ村の道」で、家々は左(東)から右(西)へ榎本邸(手前空き地)、陸路邸、菱本邸(手前)、間野邸(奧)、不明(下落合2100番地)邸×2棟、波多野邸(奧)の順に並んでいる。
◆写真中上:1923年(大正12)7月12日発行の読売新聞「市を取巻く町と村(12)」。
◆写真中下:左は、1908年(明治41)に撮影された落合小学校の卒業写真。右は、1927年(昭和2)ごろに落成間近な2代目新校舎を描いた松下春雄Click!『下落合文化村』。
◆写真下:左は、旧・松本竣介アトリエ。右は、アビラ村の名づけ親らしい元・金山平三アトリエ。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ツナさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>瓶太郎さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ほりけんさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>no_nicknameさん
SILENT
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「団地」のテーマやしくみを深く追究していくと、非常に興味深い事実に気づかされますね。いつもコメントをお寄せくださる水無瀬さんも指摘されてますが、「団地」は一種のコミューンとしての機能を、戦後に難なく実現している“共同体”の、象徴的な存在といえるのかもしれません。
近々、落合地域から少し南へ下ったところ、GHQの「指導」で陸軍敷地だった旧・戸山ヶ原に建設された、戦後型「団地」の原型である戸山ハイツについて、近くに住んだ佐多稲子の文章とともにご紹介したいと思っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
ナカムラ
ChinchikoPapa
ちょうど、東京土地住宅(株)が経営破たんする年に、金山平三アトリエは完成したことになりますね。その東隣り(二ノ坂寄り)は、満谷国四郎のアトリエ予定地として契約されていたようですが、下落合753番地へ邸+アトリエを建てて間もない時期ですので、土地の代金までが支払われていたかどうかは、いまいちハッキリとはしません。
高群逸枝は、五ノ坂上の古屋邸近くに立って、東中野駅から上落合を歩いて帰ってくる夫を待っている情景を描いた一文を残していますが、彼女が住んでいたころには、五ノ坂方面までの「このあたり」が「芸術村」と呼ばれていたという証言がみえます。おそらく、東京土地住宅と島津家によるアビラ村(芸術村)のコラボ開発事業は、1925年(大正14)の時点では島津家に残る平面図のとおり、六ノ坂までを含む広大な住宅地開発構想にまで発展していたんじゃないかと思いますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>麻里圭子さん
NO14Ruggerman
短気は損気 火事と喧嘩は江戸の華 の口ですよね。
さて蓬莱軒では3時間行列に並びっなしということではないのです。
受付を済ませて2時間半は愛知芸術文化センターで時間を潰しました。
それでも30分店内で待った上での会食でした。
ChinchikoPapa
ちゃんとお店には受付があるのですね、安心しました。この暑さで、3時間はかなりキツイかなあと・・・。w
それから、次の記事でもチラリと触れていますが、「てやんでえ」というような口をきいたら、おそらく家では「汚らしい口をきくんじゃない!」と、怒られたと思います。^^; 「べらんめえ」口調というのは、今日でいいますと品のない風体に肩で風を切って歩いている兄ちゃん言葉で、江戸期のおもにイキがってた(若い)職人が、“定向進化”させた話し言葉ですね。
ただ、時の経過とともに若い子がつかっていた言葉あるいは流行言葉が、少しずつオトナの世界にも浸透してくるのはいつの時代でも同じで、明治以降は職人言葉“風”の表現をする人たちもいたようです。
でも、わたしはこれみよがしの「てやんでえ」「べらんめい」調の言葉を、かつて下町で聞いたことがありません。もっとも、昔は同じ職業の連中が集まって、町々を形成することが多かったと思いますので、違う地域や街にはそのような言葉を話す人たちがいるのかもしれませんが・・・。