1945年(昭和20)の、おそらく春先に撮影された子供たち77人の記念写真がある。小川薫様Click!からお借りした写真の中の1枚だ。子供たちの半数ぐらいが、筒状に丸められてリボンでとめられた紙を手に持っているので、おそらく卒園式か、あるいは終業式の記念写真ではないかと思われる。興味深いのは、写真の裏面に記載されている「昭和弐拾年」というキャプションだ。同年はもちろん敗戦の年であり、おそらく東京大空襲Click!があった3月10日前後ではないか?・・・という時代背景を想像させる。それを踏まえて写真を見ると、改めていろいろなことが見えてくる。
まず、子供たちの背後に見える黒幕と白い布だ。おそらく壁に架けられているのだろう、大きめな十字架と思われる立体状の陰影が、うっすら浮き上がって見えている。つまり、十字架を白い布で隠しているのだ。黒幕の拡がりからみると、十字架の周囲には宗教画でも描かれていたものか。戦時中、キリスト教は「敵性宗教」ということで、地域により程度の差こそあれ軍部や警察によってあちこちで弾圧された。キリストやマリアの像、十字架、イコンなどの象徴は、撤去あるいは隠すように命じられた教会も多い。でも、この記念写真では隠された十字架に代わり、聖母マリアがしっかり露出している。画面の上に架けられた「白百合」の静物画は、まさに聖母マリアそのものの象徴であり、憲兵隊や警察ではそれを知らずに見すごしたか、あるいは知ってて見ぬふりをしたものだろう。
子供たちのうしろにいる大人の女性たち、右側に写るふたりの女性の胸の下に見えている紐を、最初は着物の帯揚げかとも思ったのだが、それにしては帯留めが見えない。おそらく袴の半巾帯の一部かモンペの留め紐だろう。このふたりの女性は、おそらく保母さんのような存在だと思われるが、左端の女性は右腕に腕章をしてショルダーバッグのようなものを肩から掛けているので、ほぼ間違いなく戦時下の看護婦、ないしはそれに近い衛生婦ではないかと思われる。中央に立つ背広姿の男性が、園長先生ないしは院長先生だろうか。いずれにしても、キリスト教カトリック系(聖母マリア)の保育園、または幼稚園の卒園記念写真のような雰囲気だ。
下落合界隈には、当時から幼稚園はあちこちにあったけれど、この風情は自ずと限られてくる。先にご紹介した「嘆きの白衣の天使たち」Click!でも触れたが、どうしても「マリアの宣教者フランシスコ修道会」=聖母病院内の可能性が高いように思うのだ。聖母病院内にあった施設は幼稚園でも保育園でもなく、戦後の大磯Click!に開設されたエリザベスサンダースホームClick!と同様に「孤児院」Click!だった。目白福音教会Click!のメーヤー夫妻Click!が、1942年(昭和17)に聖母病院内へ強制収容されたとき、プロテスタントの牧師であるメーヤーはこの施設のことを病院ともカトリック教会とも表現せず、一貫して「孤児院」と米当局へ証言している。実際、夫妻が収容されていたのはフィンデル本館ではなく、南側に離れて建っていたと思われる孤児院の建物だったのではないだろうか。
同じく、小川様からお借りした写真の中に、なんとも不思議な情景のものが2枚混じっている。明らかにどなたかの葬儀、あるいは告別式の情景のようなのだが、式が行なわれている建物にご注目いただきたい。正面には深く凹状で奥ゆきのある、ほとんど段差のない「舞台」があり、壇上には遺影と思われる写真と花束が置かれている。建物の窓はタテにかなり細長く、上部はアーチ状にデザインされており、一部にはステンドグラスのように菱形の色ガラスが嵌めこまれているのが確認できる。椅子はヨコ長の木製で簡素なものが並び、その前に立っている会葬者たちは手に手に紙を持ちながら、なにかを歌っているように見える。
この建物は、どう見ても教会施設(礼拝堂)なのだけれど、なぜか正面の凹状に引っこんだ位置に十字架の祭壇が見えない。まるでガランとしたやぐらClick!のような、無意味な空間が拡がるばかりだ。2枚の写真には撮影年月の記載はないのだが、祭壇が撤去されたあとのどこかのチャペルではないだろうか? つまり、この2葉の写真も戦時中に撮影されたものではなかろうか? しかし、当時の下落合の聖母病院敷地には、このようなモダンなデザインの礼拝堂はいまだ建築されておらず、1934年(昭和9)にフィンデル本館の西側へ建設された木造新聖堂Click!がそのまま建っていたはずだ。それがリニューアルされるのは、1960年代に入ってからのことだ。
でも、この礼拝堂と思われる建物の内部の様子は、幅がかなり広く奥ゆきがやや足りないものの、1963年(昭和38)に建設されることになる聖母病院のチャペルに、窓のデザインや背後の2階席の様子などがどこか似通っている。葬儀が行なわれているのは、「マリアの修道者フランシスコ修道会」に関連の深い、どこか近くの礼拝堂か教会施設なのだろうか?
◆写真上:1945年(昭和20)の春先に撮影されたとみられる、子供たちの記念写真。
◆写真中上:上左は、聖母マリアの象徴である壁に架けられた「白百合」の静物画。上右は、まるで従軍看護婦のようなスタイルの女性。下は、場所が不明な礼拝堂と思われる建物。祭壇があったと思われる正面に置かれた机上には、遺影と花が飾られている。
◆写真中下:礼拝堂仕様のイスから立ち上がった会葬者は、賛美歌を歌っているように見える。
◆写真下:上は、やはり大きめに引き伸ばされて上原とし様Click!の古いアルバムに保存されていた、大勢の看護婦たちが嘆き悲しむ様子を写した1枚の写真。これら一連の写真には、通底する物語の関連性や連続性が必ずありそうな気がするのだが・・・。下は、1963年(昭和38)に建設された聖母病院のチャペル(大聖堂)だが、昨年解体されて現存していない。
この記事へのコメント
tamanossimo
水無瀬
言い換えればそういった特別の庇護がなければキリスト教教育はさまざまな困難に直面せざるをえない時代だったということでしょう。昭和二〇年三月の卒業式でも、敵国の歌ということで当時は禁止されていた「蛍の光」(イングランドの民謡ですね)を唄ったといいます。当局が大目に見てくれたこその「快挙」でしょう。
ChinchikoPapa
1945年(昭和20)の子どもたちですので、この中の多くの方がご存命のはずです。どのような深い物語が、眠っているんでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
ChinchikoPapa
キリスト教系の学校は、ただそれだけの理由で「欧米風」というレッテルを貼られて、ずいぶんひどい弾圧を受けたのでしょうね。地元の警察と軍の憲兵隊とでは、また対応がかなり違ったこともあったのではないかと想像しています。落合地域は、特にキリスト教会が多かったせいか、警察ではなく憲兵隊が登場しており、また東京在住の「敵国人」を強制収用したゲットーとして聖母病院が使われたせいか、監視や警備がことさら他の地域に比べて厳重だったように感じます。
キリスト教系以外でも、こちらでは自由学園や城西学園など、軍部の意向に逆らいつづけた教育機関のエピソードが、あちらこちらに残っているのを耳にします。大正デモクラシーのまっただ中で拓けた街という地域性もあるのでしょうか、軍人たちも多く住んだ反面、思想や宗教、言論の圧殺に対しては積極的にあるいは消極的に抗しつづけた物語を聞きますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
銀鏡反応
ChinchikoPapa
キリスト教もそうですが、明治政府以来の「国家神道」(伊勢神道)にそぐわない、あらゆる日本の神々の宗派が弾圧されてます。特に目立つのが、出雲の神々を信仰する宗教は、まるで江戸時代の隠れキリシタン狩りのごとく、片っぱしから摘発されて検挙されています。
神道というと、まるでひとつのまとまりのある宗教のようなイメージが形成されたのも、おもに明治以降のことで新しいですね。日本の神々は、それほど単純でもなければ、ご都合主義的な位列や格式があるはずもなく、もっと奥深くて高遠で複雑なはずです。国家権力とある特定の宗教とが結びつくと、どのように愚劣な状況を招来するものか、戦前・戦中の日本は格好の“教材”を提供してくれています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
siina machiko
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
檀上の遺影の一段下にあるのは、間違いなく白布に包まれた遺骨ですね。告別式の写真は、わたしも戦後の撮影で礼拝堂ではなく、どこかの講堂ではないかとも考えたのですが、建物の仕様や内部の様子が一般的な講堂のものではなく、どう見てもキリスト教系の施設のように見えます。
子供たちの写真は、裏に撮影年が記載されてるとおり、1945年(昭和20)8月15日以前のものですね。写真に写る人々の服装からして、冬から春ごろ撮影されたと考えるのが自然のように思います。もし、8月15日以降の撮影でしたら、間違いなく十字架を覆う白布が取り去られ、象徴としての「白百合」絵画などではなく、どこかへ仕舞われたかもしれない聖母マリアそのものの像が、前面に露出していたのではないかと思います。
それにしても、これらの写真が物語るのは、どのような出来事だったのでしょう? 写真をご覧になった方から、あるいは写真に写る方から、なにか解明の糸口になるようなコメントが寄せられればいいのですが・・・。
ChinchikoPapa
水無瀬
このあたりのことは、講談社学術文庫『出雲という思想』(原武史)という本に詳しく考察されています。本の副題は「近代日本の抹殺された神々」とあります。
近代日本は出雲の主神を勝手にオホクニヌシに一本化してしまいますが、それ以前はスサノオなのかオホクニヌシなのかはっきりしなかったらしく、日本の神さまを恣意的に整理してしまったのが明治政府であったことが説明されています。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ユーフォさん
ChinchikoPapa
原武史氏の著作は好きで、けっこう読んでいます。日本の神の中でも、関東をはじめ全国的にいきわたり信仰者も多いことから、他の大小の神々への信仰はさておいても、まっ先に叩かなければならないものと、明治政府に認識されていたものでしょうね。この姿勢は戦前まで貫かれ、スケープゴード的に検挙された「大本教事件」が象徴的です。
最近、大正期から戦前までの新聞記事を順に追跡して見る機会が多いのですが、「大本教事件」のような大規模な宗教組織の弾圧は見せしめ的に報道されても、いろいろな地域で信仰を集めていた神々への干渉や弾圧の記事は、いっさい伏せられて報道されていないことに気づきます。キリスト教への取り締まりについても、報道はきわめて少ないですね。
また、あからさまな弾圧や干渉などしなくても、「国家神道」にまつろわない神々の社(やしろ)は、経済的にどんどん孤立させられるわけですから、よほど地元や地域で支えられた神々でない限り、衰退し消えてしまった信仰も多いと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ばんさん
ChinchikoPapa
sig
素朴な疑問ですが、上の三葉とも、これほど完璧な大伸ばしの写真の場所が不明とは、どういうことなのでしょうね。当時の関係者にとっては誰でも知っている場所と出来事だったからでしょうね。聖母病院のチャペル、解体とは残念ですね。
このたび予定通りブログを終了しましたが、いつもご声援ありがとうございました。とても励みになりました。私にとってのブログは自分史をまとめるための手段だったわけですが、腱鞘炎悪化がなければ別のテーマを立てて継続していたはずです。映画史は昔作った映画史ビデオで完結、ということにさせてください(笑)。ブログで映画史をあれ以降続けると、すぐに著作権、肖像権侵害になってしまいますので。
時々遊びに来ます。これからもどうぞよろしく。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも、これだけクッキリと写し撮られた画像なのに、撮影場所がハッキリしないというのは不思議に思います。でも、わたしの世代ぐらいまでは、「戦後」の世相の中で育ってきた・・・という意識や感覚がありますけれど(いまだ白衣の傷痍軍人を見かけました)、いまの大半の方たちは「戦後」という感覚さえない時代に成長してきた人たちばかりですから、そこで記憶や伝承がプッツリと途切れてしまっていて、画面に自身の親や親戚(の若い姿)、あるいはごく親しい方々が写っていても案外気づかれていない・・・ということもあるんじゃないかと思っています。
それから、腱鞘炎くれぐれもおだいじに。2年余にわたり、ほんとうに楽しい記事をありがとうございました。ビデオからだけでは知りえない、より詳細な映画史の面白さを堪能させていただきました。確かにおっしゃるとおり、映画の全盛期になりますと、より作品の著作権や肖像権がシビアになるのでしょうが、そこはAmazonやbk1のアフェリエイトを活用されて、ジャケット写真をふんだんに使ってしまう・・・という手法もありそうです。^^; 1GBの容量がいっぱいになったとのお話ですから、次は<時計仕掛けの「昭和館」2>の別ドメインで・・・ということで、クビを長くしてお待ちしています。それには、しばらく手を休められて腱鞘炎の治療をおつづけください。
はい、いつでもお立ち寄りください。ただ、コメントは腱鞘炎が悪化しない程度に、お待ちしています。^^
美々子
近隣の教会です。必要でしたら送ります。
ChinchikoPapa
この記事は9年前に書いたもので、当時から落合地域とその周辺域のキリスト教関連施設を注意して見てきたのですが、この写真にピッタリな施設を見つけられないままでいます。もし、画像データをお持ちでしたら、下記のメルアドへお送りいただければ幸いです。
tomohiro.kita@gmail.com
通りすがりのおばば
戦時中といえども東京の教会から祭壇がきれいサッパリ撤去された話を聞いたことがないし(地方では接収により事実上閉鎖された教会があるとか)、祭壇”跡”だとしても全体的な形態が教会建築としてはなんだか妙だし、礼拝堂の壁に肖像画?が架けられているのも不自然かな。それに、東京のこれほど大きな教会ならば、当時でもオルガンが設置されていたはずです。またカトリック教会だとすれば会衆席に跪き台が必ずあったはず。窓や照明は、教会に特有のものという訳でもないですね。
件の撮影場所は、教会ではなく、学校の大講堂などである可能性のほうが大きいのでは?自信はありませんけど・・・いかがでしょう?
ChinchikoPapa
残念ながら、当アルバムの所有者の方を含めて、撮影場所はいまだわかっていません。戦時の陸軍憲兵隊や陸軍将校、国粋主義者らによる、キリスト教会の祭壇破壊は日本各地で記録されていますが、落合地域の近くでは立教大学における軍事教練の配属将校による十字架および祭壇の破壊事件が有名です。同大のチャペルでは、抵抗の意思表示としてただちに再建したようですが……。
確かに講堂のような雰囲気もしますね。あるいは、文中ではプライバシーに関わることなので詳しくは触れていませんが、清瀬にあった結核療養施設の中の、講堂に準じるような施設なのかもしれません。
通りすがりのおばば
わたくし、日本の古い教会建築について以前から関心があり、立教チャペルの件も存じておりました。でも、この写真の場所は、もともとこういう素っ気ないしつらえだったようですね。
それにしても、この時代の資料を紐解いていると、いつもやり切れない思いを抱きます。日本が今もって長い停滞から抜け出せずにいるのは、スパイ防止法のような当然必要とされる法案に対してさえ国民が疑念を払拭できない状態を政府自ら作り出してきたからであり、幕末から敗戦に至る歴史を総括せずに目を背け続けてきたことが根本的原因だと思います。
ChinchikoPapa
おっしゃるとおりですね。「明治維新」(どこが「新」だかわかりませんが)以来、1945年にその国家が滅亡し「亡国」状況を招来するまでの史的総括・批判が、政治思想的にも社会思想的にも、まったくもって不十分だと感じます。