昭和に入ると、落合地域に次いで長崎地域Click!にも、次々と住宅街が形成されていく。武蔵野鉄道線Click!(現・西武池袋線)による電車のダイヤ増や、長崎を経由して高田町から練馬を結ぶダット乗合自動車(のち東京環状乗合自動車)の増発などにより、池袋駅や目白駅Click!への交通の便がよくなったせいもある。当時の長崎町では、畑地をつぶして住宅地を造成する動きが顕著だった。長崎アトリエ村Click!の多くも、この時期に出現している。
そこに建てられた家々は、和とも洋とも境界がはっきりしないサラリーマン用のコンパクトな木造家屋が多く、大正時代の家づくりとはやや意匠が変化し、昭和初期型の日本住宅とでも表現すべきデザインとなっている。小川薫様Click!からお借りした上掲の写真も、南長崎付近で撮影された新築と思われる、庭もいまだ造られていない住宅の1軒だ。まだまだ関東大震災Click!の記憶が生々しかった当時では、重たい瓦を屋根上に載せる家づくりは忌避され、軽いスレートやトタン、あるいは銅や鉄などのごく薄い金属板などが屋根葺きに用いられた。この写真に見られる住宅の屋根も、従来の瓦仕様ではなく、軽量素材が使用されているようだ。
佐伯祐三Click!のアトリエClick!には、はっきりした時期は不明だけれど、「布瓦」と呼ばれる屋根上の素材が用いられていたことがある。「布瓦」と聞いて、当初は法隆寺の若草伽藍跡などで出土する「布目瓦」を想像してしまったのだが、どうやら通常の焼き瓦に比べてかなり軽量化した、特殊な瓦の可能性が高い。もちろん、公園化される前後の佐伯アトリエに葺かれていた、グリーンの通常瓦とは別ものだと思われる。「布瓦」は、屋根に葺くとダイヤモンド型の模様になったらしいので、この写真に写る特異な屋根瓦が、木造家屋へ負荷をかけない軽い「布瓦」かもしれない。
小川様の写真には、ダット乗合自動車の“オルタネイト画像”も含まれている。東京環状乗合自動車へ改称前の、ダット乗合自動車の乗降口に立つ小川薫様の母・上原とし様の写真が面白い。(①) 手札判の写真が“花模様”にプリントされていて、撮った写真をお気に入りの女の子などへプレゼントするにはうってつけのデザインだ。事実、この写真は暑中見舞いに使われたらしく、写真の裏には「暑中御見舞申上ます」の文字などが書かれている。昭和初期の写真館のサービスには、このような特殊デザインのプリントも存在していたらしい。
また、東環バスの終点・練馬車庫のめずらしい画像も残されている。1枚は、おそらくバスの外周を目視点検しているバスガールの写真。(②) もう1枚は、車庫内の地面を整備しているらしいドライバーの姿が写っている。(③) 当時は、コンクリートやアスファルトによる舗装などされておらず、車庫内でも土の地面がむき出しの状態だったので、雨が降ったあとなどに地面の凸凹を整備をする必要があったのだろう。練馬車庫Click!の一画か、あるいは豊島園の風景だろうか、広場のようなスペースが拡がる写真も残っている。(④) 門柱のようなものが2本見え、そこになにか白い文字が書かれているようなのだが、ピントがやや甘いので読み取れない。
労働争議Click!の拠点となった、営業所らしい風景も2点ほど確認できる。1枚は、3~4階建てのビルが見えており、目白通りClick!沿いである可能性が高い。(⑤) 紙焼きの質感から昭和初期の撮影と思われ、ダット乗合自動車時代の営業所兼車庫の風景ではないか。男性の上に見えている、通り沿いの電柱から引かれたと思われる、電燈線Click!用の大きな碍子がめずらしい。
また、もう1枚も営業所のようだが、南長崎のバス通り(ニコニコ商店街の通り)に面して設置されていた、東環乗合自動車の営業所兼車庫の写真だ。(⑥) ドライバーの「横井」さんとバスガールの「花子」さんが写っており、背後に停まっているバスの車体後尾には、以前にも登場した地元の岩崎家が経営していたと思われる、「豊嶋農園」の看板広告が見える。前回の写真では、「岩崎種苗店」は看板の左手に見えていたが、「豊嶋農園」はその反対側の右手に書かれた文字だと思われる。遠景に写る建物は、営業所のオフィスだろうか、大きな瓦葺きの建物が2棟見えている。
おもに大正期に宅地化が進んだ落合につづいて、昭和に入ると長崎地域の開発が急速に進み、東京市街から移転してくる住民や商店が急増する。それにともない、ターミナル駅へと向かうバスや私鉄のダイヤが増発され、山手線の池袋駅や目白駅、高田馬場駅などの乗降客も、大正期とは比べものにならないほど増えていくことになる。
■写真上:目白通りに近い南長崎界隈に建てられた、昭和初期の一般的なサラリーマン住宅。
■写真中上:左は、“花模様”の特殊なプリントで写っているのは小川様のお母様。右は、東京環状乗合自動車の終点に近い練馬車庫で、バスの周囲を点検するバスガール。
■写真中下:左は、同じく練馬車庫で地面を整備するドライバー。右は、場所が不明な広場。
■写真下:左は、昭和初期に設置された目白通り沿いのダット乗合自動車の営業所兼車庫と思われる。右は、現在の二又交番のあるバス通り(練馬街道)を少し入ったところに設置されていた、東京環状乗合自動車の営業所兼車庫の風景。
この記事へのコメント
しいなまちお・K
一番上の民家の写真はもしかして・・・
後でこっそりお願いします。それにしても「上原とし様アルバム」今後も期待しております。
sig
上の家屋の写真、どこか懐かしさを覚えます。
縁側が付いているところがそうなのかも。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
みなせ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
こちらこそ、ほんの少し御無沙汰です。トキワ荘がらみのテーマでは、いろいろとご活躍ですね。マンガのテーマでは、こちらでちょっと面白いことがわかりました。1930年協会でも活躍した外山卯三郎ですが、その邸敷地(下落合1147番地)の一部に、赤塚不二夫が家を建ててるようですね。外山邸のアトリエは、第2次渡仏中の佐伯祐三の全遺作が、パリから日本へ届いたときに集められた場所です。不二夫プロへうかがって、「赤塚先生のお話ではなく外山さんについてうかがいたい」と言ったら、怒られるでしょうか。^^;
小川様のお店へは、あのあともうかがいまして、「とり鍋」を食べながら、いろいろとお話をうかがいました。ちなみに、冒頭の写真は新婚だったお母様のご自宅ではなく、ご近所のようですね。わたしは、例の泣いている看護婦たちの写真が、ちょっと気になっています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
家の仕様から、おそらく昭和最初期の撮影ではないかと思われるのですが、昭和10年前後になりますと、このような住宅のおもに南側へ洋間の「応接室」あるいは「書斎」の付いたコンパクトな家々が、数多く建てられていますね。そこには、白いカバーをかけたソファが置かれ、ラジオや電蓄が備えられるようになって、東京市街へ通勤するサラリーマン住宅の基本形になったようです。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ロボライターさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
小津映画では、当時の風景や街並みの様子を観察するのも、大きな楽しみのひとつですね。東京や鎌倉、湘南などが特になつかしいです。登場人物のの設定によって、さまざまな意匠の住宅が登場するのも嬉しいです。
戦前に撮られた「ホームドラマ」の映画作品に、ずいぶん目白・落合界隈が登場してるのではないかと思うのですが、なかなか観る機会がないですね。いちいちフィルムセンターでチェックするのも、気が遠くなる作業ですし、デジタル映像DB化されてストリーミング配信される時代が早く来ないものでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
siina machiko
ChinchikoPapa
またまた、貴重な情報をありがとうございます。くだんの写真は、椎名町にあった看護婦養成所の所内風景か、あるいは巣立った看護婦たちの勤務先、東京市内外の病院で撮影された可能性がありますね。チャペルで撮られた写真もあるとのことですが、その看護婦養成所はキリスト教系のものだったのでしょうか? あるいは、キリスト教系の病院へ勤務している卒業生を、ロケしに出かけたものでしょうか。いろいろ想定できます。
同じ長崎町内のことですので、お父様とMさんとは顔見知りでいらしたのではないかな?・・・と想像していたのですが、祭りの囃子方をご一緒されてたとは。^^ 当時の人々のつながりが、どんどん見えてきますね。w
ChinchikoPapa
siina machiko
ChinchikoPapa
広い芝生は、看護婦養成所のキャンパスか、あるいは実習先の病院の庭先で撮影されたものでしょうか。教会堂での写真は、看護婦養成所か実習病院に関係の深い、キリスト教徒だった方の葬儀へ出席している場面なのかもしれませんね。この葬儀と、先にご紹介しています「嘆きの白衣の天使たち」の写真とが、どこかで関連してきそうです。看護婦養成所が椎名町にあったことを考え合わせますと、数多くの実習生を受け入れられるキャパシティの大きな病院としては、やはり国際聖母病院が浮上してきますね。
それから「園児」たちの写真、昭和20年3月中旬に撮影された可能性が高いですね。おっしゃるとおり、同年3月10日の東京大空襲では、たまたま卒業式を行なうために疎開先から一時下町へ帰郷していた、大勢の子供たちが空襲に巻き込まれて犠牲になっています。ただ、幼稚園児までが集団で「学童疎開」したかどうかまでは、地域差や園ごと施設の違いもあるのでしょうが、あまり聞いたことがないです。
施設といえば、聖母病院には比較的大きな「孤児院」が設けられていたらしいですね。敗戦前後に、米軍による救援物資のドラム缶が投下されたのは、メーヤー証言による「憲兵隊に孤児院へ監禁されていた」という証言からだと思われますが、その卒園式の可能性も棄てきれない気がします。今度ぜひ、写真を拝見させてください。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>dorobouhigeさん
siina machiko
ChinchikoPapa
うかがう前には、またメールでご連絡しますね。よろしくお願いいたします。佐伯アトリエの内部展示は、歴博ではなく新宿区の当該部局が準備しているようですので、わたしは詳細を知りません。でも、開館ののち、なぜかすぐに歴博の管轄に移るようなのです。このあたり、お役所の内部事情はよくわかりません。^^;
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
siina machiko
ChinchikoPapa
十字架やキリスト像が、白い布で覆われているらしい・・・というのが、非常に興味深い現象ですね。東京のキリスト教会は、特に欧米人の牧師や神父のいるところは当然「スパイ」を疑われ、「敵性宗教」とみなされていたでしょうから、宗教施設にそのような措置が施されていた可能性もありそうです。憲兵隊が周囲を包囲して監視していた、聖母病院のチャペルが当時、どのような状況や様子をしていたのかはわかりませんが、東京に居住していた「敵性外国人」の強制収容所として使われていた同病院には、「孤児院」も併設されていたことから、おとどけいただいた写真のような光景があったのかもしれませんね。また、高精細スキャニングで拡大して、いろいろと観察してみたいです。
携帯へのメールを差し上げた件、どうやら携帯メールのサーバに容量制限があるようで、わたしのメールがそのパケット容量を超える長さのものだった可能性が大です。しいなまちお・Kさんのサイトへの、写真提供をお願いするメール内容だったと思うのですが、もっと短めに書けばお手元にとどいたはずでした。ご心配をおかけし、すみませんでした。
ChinchikoPapa