現在の早稲田大学文学部や記念会堂の建つ敷地に、戦後すぐのころまで早稲田第一高等学院(現・早稲田高等学院)の校舎が建っていた。冒頭の写真は、一部焼け残った校舎の屋上で1947年(昭和22)2月28日に撮影された、卒業試験を終えたばかりの学院生をとらえた記念写真だ。その様子から、第一高等学院が独特なデザインの校舎だった様子がしのばれる。
昔の高等学校(大学予科)とはいえ、高校生にしてはなにやら生徒たちがみんな老けて見えるのは、全員がとうに大学へ進学していなければならない、21~22歳の学齢に達していたからだ。もちろん、太平洋戦争で学校の講義がすべて中止され、大学の入試も進学も停止されていたので卒業ができなかったせいだ。戦後になってやっと卒業試験が行なわれ、ようやく大学へ進む道が開けたことになる。また、クラスの人数がやや少ないのは、戦災で死亡した学生がいるからだ。写っているのは理系のQ組だから、死亡した学生は戦死ではなく空襲などによる被災だが、文系では学徒動員Click!によりその多くが戦死してしまったクラスもあった。この卒業試験の直後に撮影された記念写真には、実はわたしの親父が写っている。
早稲田第一高等学院の近く、いまだ戸山ヶ原Click!のほうからキジの鳴き声が聞こえてきた1920年(大正9)ごろ、穴八幡社Click!の周辺にはようやく早稲田の学生街が形成されはじめていた。蕎麦屋や喫茶店Click!、洋食屋など、当初はわずか10軒ほどの店が軒を並べているだけだったらしい。その中に、第一高等学院の学生がよく集まった、「カフェハウス」という店があった。“カフェ”と名前が付いているけれど、コーヒーも飲ませるが簡単な洋食も出すという、学校の近くに下宿する学生向きの食堂だったらしい。いわば、早大の正門に近い位置でいまでも営業をつづけている、早大職員や学生相手の「高田牧舎」に相当する、第一高等学院ご用達のような店だったらしい。
大正の中期、この「カフェハウス」に学院生の常連4人組が通ってきていた。のちに、早大教授になる中西敬二郎もそのうちのひとりだった。彼は、毎日「カフェハウス」で昼食をとり、少ないメニューの中からカレーライスとカツライスとを交互に注文していた。ところが、毎日カレーとカツとで飽きあきしてしまい、違うメニューが食べたくなった。そこで、カツライスの飯を丼に移し、カツをその上に載せて、特製の「グレピー」(ソースと小麦粉を合わせたグレービーソースもどきのこと)をかけ、グリーンピースを散らしたソースカツ丼を発明した。
中西自身がポスターを作り、「カフェハウス」の店頭に貼ったのは、1921年(大正10)2月のこと。中西敬二郎とその仲間たちによる証言が、商売や「町おこし」の利害関係が直接からまない、もっとも早い時期のカツ丼発祥物語だ。洋風のソースカツ丼は、早稲田界隈の店でまたたく間に拡がり、たちまち東京じゅうで賞味されるようになった。同年4月には日本橋の洋食屋に、夏になると大阪は道頓堀の店のメニューにまで出現している。
以上は、洋風のカツ丼誕生物語だけれど、揚げたてのカツを手早く出汁で煮て、卵でとじる和風カツ丼も、同じく早稲田の学生街で誕生している。おそらく、中西のソースカツ丼の人気に刺激されて作りはじめたのだろう、いまでも早稲田で営業をつづけている、“大隈家御用”の蕎麦屋「三朝庵」で、和風のカツ丼が出されるようになった。中西発明をメニューに加えた、「カフェハウス」のカツ丼との違いは明瞭で、味つけは蕎麦屋の出汁が用いられ、日本橋生れの親子丼と同様に卵でとじてグリーンピースを散らしている。おそらく、現在ではこちらのほうがカツ丼のイメージとして、広く定着しているのではないだろうか?
大正の中期、おそらく第一高等学院生ばかりでなく早大生も、多くがソースカツ丼あるいは和風カツ丼を味わいに両店へ通っていたと思われ、これらの料理がきわめて短期間で全国的に普及したのは、各地から東京へとやってきていた学生たちが集う学生街の人気メニューだったことが、大きく作用しているからにちがいない。特に、ソースカツ丼の伝播は、わずか2ヶ月で東京の下町中心街へ、また6ヶ月ほどで大阪の繁華街まで達しているのを見ても、大正中期の料理メニューの伝わり方にしては、特異で際立っているといえるだろう。
わたしの親父も、丼物ではカツ丼がもっとも好きだった。若いころは、洋風のソースカツ丼が好きだったようだけれど、歳を取るにつれて和風カツ丼を好んで食べていた。血圧が高く、医者から食事制限を言われても、ときどきコッソリと味わっていたようだ。それは、本来なら学生街のざっかけない多彩な“うまいもん”を、腹いっぱい食べ歩けていた時期に、戦争によってそのすべてを奪われたことに対する、戦後のささやかな“反動”だったのかもしれない。
■写真上:1947年(昭和22)2月28日、卒業試験のあと早稲田第一高等学院の校舎屋上にて。このとき、第一高等学院名物のソースカツ丼を食べたのだろうか?
■写真中上:左は、同じ1947年(昭和22)に米軍によって撮影された早稲田高等学院の焼け跡。黄色い矢印の建物が、冒頭の屋上写真が撮影された校舎か講堂だろう。右は、早稲田高等学院跡の現状。敷地全体は、早大文学部と記念会堂(右手)となっている。
■写真中下:左は、大正後半の早稲田大学構内。右は、昭和初期の早稲田通り。
■写真下:左はソースカツ丼で、右は和風の卵とじカツ丼。
※ざっかけない「丼」物は、おカネがないときに注文するメニューですが、余裕があるときは注文が「重」物に昇格したりします。防災用品店“諏訪”が倒産してしまった良平と、改めて自身の足元を見つめ直している夏子との「丼」と「重」をめぐる会話、夏子のベッドの下から見つかった煎餅を食べながら、下落合の「新宿区っ」からスタートする23区のやり取りが印象的な、『さよなら・今日は』Click!最終回「別れも楽し」(1974年3月30日)の予告編です。
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この記事へのコメント
ナカムラ
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ソースカツ丼を初めて食べたのは、おそらく学生時代じゃないかと思います。和風カツ丼は、物心つくころから食べていたように思いますが・・・。さて、初めてソースカツ丼を食べた場所を思いだせません。東京ではなく、横浜だったような気もします。
ChinchikoPapa
sig
カツどんはうちでは食べないのですが、その反動か、外ではよく食べます。
ところがソースカツ丼は食べていないんですよね。
ラジオもいいですね。聞きながら他のことができるということもありますが、
子供の頃はラジオの前に座って、しっかりと聞いていたものでしたね。
ChinchikoPapa
わたしも、ソースカツ丼よりは和風カツ丼のほうを、圧倒的に多く食べてきています。きっと、蕎麦屋へ立ち寄る機会が多いからかもしれません。
最近、ラジオドラマや落語がけっこうCD化されてますね。やはり、なにか手を動かしながら聞けるというのが、流行している理由でしょうか。仕事をしながらですと、どうしても音楽になってしまいますが、たまには落語を聞いて笑いながら・・・というのも、気分転換ができていいのかもしれません。w
みなせ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしは現在のイメージから、逆に洋食屋のメニューにあるソースカツ丼のほうが高価そうに思っていました。でも、そう言われてみますと、確かに昔はその逆だった可能性が高そうですね。
おカネのない学生たちが食べるのですから、ソースカツ丼は安かったのでしょうね。逆に、和風カツ丼は大学の先生や職員向きで、少々高かったのかもしれません。庭があれば、ニワトリを放し飼いにする家が多かった当時、高価な卵を「自給自足」する目的で・・・という家庭が多かったものでしょうか。
うちの親父も含め、学院の学生たちはビンボーだったようですから(戦中戦後でなおさらですが)、彼らが安心して食べられたのはソースカツ丼だったのかも。だから、学生時代にあまり食べられなかった「高級」な和風カツ丼を、後年に好んでいたのかもしれませんね。いずれにしても、食べたいものが食べられなかった学生時代の、“反動”食欲のような気がします。w
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>hide-mさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございます。>cocomotokyoさん
ChinchikoPapa
銀鏡反応
実は和風カツ丼の元祖「三朝庵」へ昔、カレーうどんを食べに出かけたことがあります。特製のカレー粉を使っていると聞いていたので、そのルーの味わいと香りは如何なるものやと興味津々で口にしたところ、とろりとした舌触りと深く香ばしい味わいだったことを今でもかすかながら、覚えています。
早稲田に今度寄るチャンスがあったら、ソース系のカツ丼に挑戦してみたいです。
みみっぱ
食の歴史というのは、何を紐解いてみても面白いですね♪
ChinchikoPapa
わたしも、さすがに最近は油っぽいものは控えるようにしてますので、あまり食べる機会がないです。三朝庵へは、ときどき散歩で思い出したように寄るのですが、蕎麦と親子丼ばかり注文していたようで、カツ丼の記憶がほとんど薄れています。今度立ち寄ったら、さっそく注文したいですね。
蕎麦屋の和風カレーを、ときどき無性に食べたくなります。小麦粉をフライパンで香ばしく焦がしながら作る出汁風味のカレー丼は、また格別ですね。
ソースカツ丼ですが、ずいぶん前にリニューアルした「高田牧舎」のメニューにあったかどうか、ちょっと記憶にありません。若い子は、ソースカレー丼が好みなのかもしれませんが、中年のわたしには和風のほうが美味しそうに見えます。
ChinchikoPapa
親子丼は、日本橋人形町の鳥屋「玉ひで」が始めたといわれ、いまでもそのまま変わらずに出してますね。いつも行列がすごいので、最近はまったく食べたことがありません。早稲田のほうは、時間によって混みはしますが行列はなさそうです。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>大善士さん
ChinchikoPapa
古田宙
学院が上石神井に移転した後も、旧校舎は本キャンから移転してきた文学部がしばらく使用していましたよ。
文キャンには高層校舎が建ち、記念会堂も姿を消してしまい、学院時代の面影はほとんど何も残ってないです。
ChinchikoPapa
空襲のあと、米軍が撮影した空中写真を見ますと、早稲田第一高等学院の校舎は全焼しており、なにも残っていません。この記事で「校舎か講堂」としています建物は、陸軍軍医学校の化学兵器研究室の建物であることが判明しています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-02-16
親父は戦後すぐのころ、近くの建物を借りて高等学院は授業を行っていたと話していましたので、試験が行われたあとの冒頭の写真は、高等学院のすぐ南側にあり戦後は一時期まったく使われなくなった、旧軍医学校のこのビルを借り受け、荒れた構内に手を入れて同校の授業や試験の教室に使用していたのだろうと判断していたのですが、ちょっと別の可能性が出てきました。
それは、第一高等学院が全焼してしまったため、早大構内にあった第二高等学院の校舎を借りて、敗戦直後から試験などを行っていたのではないか?…という可能性です。
それは、焼けた第一高等学院南側の旧軍医学校ビルを借り、空襲の被害を修復して使用していたとしても、正面のファサードに「W」の装飾を入れるようなことまでしたかどうかという課題です。確かに、授業の一部はこのビルで行っていたのかもしれませんが、試験の直後に撮影された冒頭写真のビルの屋上は、第二高等学院の校舎ではないのか?…という疑問です。
試験のときには、会場を第二高等学院の教室を借りて実施していたのかもしれず、ちょっとこのあたりの事情は親父に訊きそびれてしまいました。もう少し詳しく、突っこんでみたい課題になっています。
古田宙
ChinchikoPapa
親父は、確かに第一高等学院の校舎は全焼して、近くの建物を「借りていた」といっていましたので、それが前回ご教示いただきました、高等学院の南側にあった理工学部の焼け残り校舎のことなのか、本学キャンパス内にあったといわれている第二高等学院なのか、あるいは、使わなくなって空いている第一高等学院に隣接した軍医学校の建物の一部なのか、聞きそびれて曖昧なのです。
この記事の冒頭にある写真は、第二高等学院の屋上のような気がしてきました。お手すきのときでかまいませんので、なにかわかりましたらお教えいただければ幸いです。
古田宙
第二学院は新制学院に移行され、校舎は昭和24年馬場下に新築され、昭和31年に上石神井に移転、この時期には在学しておりました。
ChinchikoPapa
ひょっとすると、冒頭の写真は早稲田大学キャンパス内に建設された、大正期の第二高等学院の可能性がありますね。
4階が増築された理工学部の14号館が、まさに親父が学生時代に学んだ校舎です。早大理工学部は、1967年に新築・移転していますから、親父は現在の大久保キャンパスを知りません。ちなみに、本学にあった14号館のコンクリート建築は、田中角栄の田中土建工業が手がけた校舎として有名ですね。
14号館は、確かずいぶん前に建て替えられ、現在は現代的なビルの校舎に変わっていたかと思います。
りちゃつま
今日になって最終回の予告編をはじめて拝聴したのですがPart5で友二郎が桜の洋館の話を愛子に聞かせますが
その時に妻の名前を言ってました。
既出の吉良秋子ではなく
すみえと結婚した当時…って。
三文字の古風な名前。
それがなんと私の本名と同じ名前なんです。
ありふれた名前ではないのでちょっとビックリしました。
本放送の最終回も見ているはずなのに
50年もたった今わかるなんて。
母親は吉良秋子というのは
見つかった日記の回で明らかになっていたのかな?
どこかに書いてあったのでしょうか?
それとも山村聰さんのアドリブだったのかな?笑笑
名前が同じぐらいでどうってことはないのですが笑
なんだかおかしくて。
これもこのブログのおかげです。
chinchiko papaさま音声アップ本当にありがとう!
ChinchikoPapa
あれ、吉良家の母親の名前は「秋子」だと、わたしはどこかに書きましたでしょうか。書いたとすれば、まったくわたしの記憶ちがい勘ちがいです。「秋子」は、下落合の佐伯祐三の連れ合いさんともつながる、親しい彫刻家・陽咸二の奥さんの名前です。w
あれ、ブランコの上から落ちてきた死んだ母親の日記には、名前が登場していましたっけ? もし、そこに「吉良秋子」というネームが出てきていたら、脚本陣の大失敗になりますねえ。w ちょっと調べてみたくなりました。
ChinchikoPapa
この回は、初めて手術の選択が具体化していく過程ですが、冒頭で洋二が同僚の医師(菅貫太郎)に手術を奨められ、教授(久米明)も懸念しているというシーンからはじまります。ブランコのロープが、“誰か”の手によって切られたあと、愛子が3度目の発作を起こして救急車で搬送され、工具が豊富な防災用品を扱う良平と一作が協力してブランコを修理します。そのあと、路子と冬子がブランコのそばで話している前に、天井から母親の日記が落ちてくる……という設定でした。
日記は、「昭和32年10月4日・水曜日」の愛子の誕生日から始まっているのですが、気づいてしまったのは1957年10月4日は金曜日だということです。w 脚本家は、ちゃんと昔のカレンダーで“ウラ取り”しなかったか、あるいは勘ちがいをしたようですね。w
りちゃつま
調べてくださったのですね。ありがとうございます