最近、仕事に私用に、なぜか霞ヶ関あたりを歩くことが多い。ついでに、ビルの谷間をめぐっては江戸期の大名屋敷の所在跡や、その庭に勧請された稲荷や弁天の有無などを確めてきたりするのだけれど、千代田城Click!の桜田見附(外桜田門/内桜田門)の見える外桜田界隈は、松平安芸守、戸田淡路守、松平美濃守、阿部因幡守、井伊掃部守、相馬大膳亮Click!(下落合で暮らした相馬さん)・・・etc.と、幕府の主要大名の上屋敷がひしめき合って建っていたエリアだ。
1850年(嘉永3)に出版された尾張屋清七版の切絵図「麹町永田町外桜田絵図」でも、その様子をうかがい知ることができるけれど、より詳細に街の雰囲気を知るには、長谷川雪旦・画による『江戸名所図会』が最適だろう。同書の「霞ヶ関」を見ると、大名行列や登城する武家たちがあちこちを往来している様子が描かれている。その絵を見ていて改めて気づくのは、大名行列や大家の行列が通ろうが町人たちはまったく気にせず、縦横に通りを歩き(走り)まわっているということだ。講談や時代劇によって作られたイメージに、大名行列が通るとき道を歩いている庶民は、道端によけて土下座しなければならない・・・という“神話”がある。そんなことは、大江戸Click!の街中だけでなく、日本じゅうの主要街道筋でもありえなかっただろう。
長谷川雪旦の「霞ヶ関」は、ちょうど千代田城詰めの大名や武家たちが役所へ出勤する、早朝の情景を描いたものだと思われるが、肩に荷物を背負った担ぎ売りや町人の女性、江戸見物の大名屋敷めぐりをしているらしいふたり連れなどが、平気で行列のすぐ前方を歩いているのが見える。また、小僧を連れ日傘をさした大店の内儀らしい派手なふたり連れが、出勤途上の大名行列に向かって平然と正面から歩いていく。おそらく、手前の大名行列が前方の行列を意識し、よけるためか少し右手へまがりはじめているので、ふたりの女性は行列と行列の間をすり抜けていくつもりなのだろう。道路端には、行列の進む速度がまだるっこしいのか、急ぎ足で行列を追い抜いていく棒手振り(ぼてふり)の魚屋や荷運びが描かれている。
別に、これが大江戸の街中でなく、周囲が田畑の農地であっても、大名行列が通ろうと農民たちは農作業の手を休めて見物ぐらいはしたかもしれないけれど、わざわざ街道筋まで出てきて土下座をすることなどありえない。明らかに行列の進行を妨げ、意図的に行列に対して悪質な妨害をするなら、斬りつけられても文句は言えず話は別だろうが、商流や物流を阻害したり、あるいは生産性を低下させないよう気をつかうのは、逆に街中や街道を進む大名行列のほうだったろう。
せっかく外桜田まで来たのだから、桜田濠(内濠)の大土塁を見て歩く。千代田城の内濠外濠に面した防衛垣は、すべて石垣で築かれているわけではない。半蔵門から桜田門にかけての内濠は、石垣ではなく他に例がないほど巨大な土塁が築かれた、まるで室町時代の城構えそのままのような風情をしている。江戸期の城郭建築の中でも、千代田城の大土塁は特殊な造りで、きわめてめずらしい設計だ。土塁の表面は芝草で覆われ、その斜面には飛びとびに黒松が植えられていて、江戸期からそのまま変わらない桜田見附とともに、昔日の姿をよく残している一画だ。
子供のころ、芝居を観に連れていかれた国立劇場のフロアからよくお城を眺めたけれど、この大土塁が築かれた桜田濠の風景だったのに改めて気づく。石垣のまったく見えない千代田城も、また穏やかでやわらかい印象を醸しだして面白い。
■写真上:正面から見た外桜田門(高麗門)で、右手が内桜田門(渡櫓門)。
■写真中上:左は、『江戸名所図会』で長谷川雪旦が描く「霞ヶ関」。右は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版切絵図「麹町永田町外桜田絵図」の桜田御門あたり。
■写真中下:芝草が植えられたなだらかな斜面がつづく、千代田城・桜田濠の大土塁。
■写真下:左は、上杉弾正や柳沢信濃守などの上屋敷跡に建つ法務省と東京高裁・東京地裁。右は、法務省の敷地側から見た松平安芸守や戸田淡路守などの上屋敷跡に建つ警視庁。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
「ハケに住む夫人」というと、なんとなく清廉で神秘的なイメージが湧きますけれど、「バッケに住む夫人」では、もういまにも化けて出て取り憑かれそうなイメージになりますね。^^; nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ロボライターさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
ChinchikoPapa
みなせ
ChinchikoPapa
江戸の1歩手前の宿場で「休息」するのは、体裁を整えるための員数ぞろえ・・・というエピソードは、板橋や千住、内藤(のち高井戸)、品川の各宿場にけっこう伝わってますね。大名家常連の口入屋出先も、宿場ごとにあったような話も聞きますので、まあ建て前と格好付けだらけの世界だったようですが、街道筋のダラダラ大名行列も見てみたい気がします。ww
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
SILENT
以下資料館HPです。お知らせ迄
http://scn-net.easymyweb.jp/member/oisomuseum/
ChinchikoPapa
本阿弥光遜の愛弟子だった永山光幹氏死去のニュース、残念でした。師匠の本とともに、永山光幹氏の著作は刀の教科書とでもいうべき存在で、わたしも愛読してきましたので、よけいに残念です。
刀は、本来の造りも大切ですが、その美は研師によって大きく左右されます。焼刃や地肌の研ぎしだいで、同じ作品がまったく別の作品のようになってしまいますので、刀工がめざした美と研師の美意識がピタリと寄り添っていないと、そもそも美術品として成立しません。浮世絵の絵師と刷師に近い関係ですね。
だからこそ、それぞれ時代時代の歴史や刀が造られた背景に深く精通していないと、作品をどのように研げばふさわしいのか、どのように刃文や地を“表現”すべきかがわからないわけで、およそ各時代の作品ごとに得意な研師が存在するわけですが、永山氏はどの時代の刀でも扱える、つまり非常に歴史や作刀史に精通している稀有な方でした。
本阿弥光遜直系の弟子が、またひとりいなくなってしまうのは寂しい限りです。大磯郷土資料館の情報、ありがとうございました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>さーやんさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>マロンさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa