大正末から昭和初期の婦人雑誌には、家庭の主婦向け「修身」というか、押しつけがましい「女庭訓」のような記事がよく登場している。そのほとんどすべては、「夫を陰でささえる良妻の心得」という性役割を男の側から一方的に押しつける内容なのだけれど、当時の商業婦人雑誌の編集者や記者のほとんどが男だったわけだから、明治政府の儒教思想的(中国・朝鮮半島的)な徹底した男尊女卑教育の浸透とともに、むしろ当然といえば当然のことだったのだろう。
当時は、女性が就職して働くなどということは、多くの家庭ではいまだ一般的なことではなく、そもそも女性の就職口でさえ非常に稀で限られていた時代だ。だから少数の幸運な女性を除き、たいていの女性は結婚をしてイヤでも「主婦になる」ことしか、生涯を暮らしていく術(すべ)がなかった。現代のように、共働きの家庭が8割を超えるような状況では、もはや記事の内容や意図さえ“意味不明”かもしれない。あるいは、今日的な視点からみれば効率的あるいは合理的、ないしは省エネで経済的な家庭の台所をめぐる課題の発掘記事・・・なんて捉え方もできるのだろうか。
わたしは料理が好きClick!なので、けっこう台所に立つことが多いのだが、1929年(昭和4)に発行された『婦人倶楽部』12月号の「栄える家の台所・衰へる家の台所」は、多くの女性が結婚することでしか生きていくことができなかった時代、「男子厨房に入らず」というのが常識だった時代の記事だ。当時、料理するのが楽しいと感じていた男たち、女性だけにこんな面白いことを独占させておくのは惜しいしもったいないと感じていた男たちは、非常に恥ずかしくて生きにくい時代だったろう。わたしのような食い意地Click!の張ったうまいもん好きClick!の食いしん坊男は、コソコソと台所に立ちながら情けなく肩身の狭い思いをしていたにちがいない。
記事では、「かうした家の台所は福の神が護つてくれます」という主婦の心得が挙げられている。
(01)きちんと予算を立てる台所
(02)床板がいつもぴかぴか光つてゐる台所
(03)少しの焚落しでもよく始末する台所
(04)必要以外の料理を用意しない台所
(05)いつも美味しい料理をつくる台所
(06)朝の味噌汁を何度も温め直さぬ台所
(07)主婦自ら買出に出かける台所
(08)買物について注意を怠らぬ台所
(09)燃料の経済を忘れぬ台所
(10)時計の備へつけてある台所
(11)出入商人にきちんきちんと支払をする台所
(12)御飯の支度がいつも手廻しよく出来る台所
(13)物をむやみに捨てぬ台所
この中で、わが家で実行できているテーマは(08)(09)(10)(11)(13)ぐらいだろうか。(01)はいちいち予算を立てたりせずカンで食材を注文しているし、(02)はネコもいるのでいつもピカピカというわけにはいかない。(03)は炭火や練炭は使っていないので該当せず、(04)は食べ盛りのオスガキふたりを育ててきたせいか、いつも多めに料理を作るクセがついている。(05)はたまに火の通し方や味付けに失敗するし、(06)は登校や出勤時間がバラバラなので温めなおしはしょっちゅうだ。(07)は東都生協の配達だから買い物はあまり出かけないし、(12)はアイデアに詰まったりすると冷蔵庫の中身とニラめっこしながら、小1時間も考えこんだりしている。
(08)は外で買い物をするときはお財布の中身と相談するし、(09)はガスや電気の始末をこまめにしているつもり。(10)は現代では必須だろうし、(11)は東都生協へ支払いを滞納したことはいちおう一度もないし、(13)はエコ教育を受けているオスガキに教えられることも多い。それにしても、記事ではこれらに合致しない台所は、ややヒステリックに「主婦失格!」の烙印を押しているようにも見える。文章のあちこちに、当時の男のご都合主義や身勝手さが透けて見えるのだ。
読んでいると、クドクドと細々したことまで説教じみた書き方をしててムカついてくる。わたしでさえ、「そんなに言うなら言いだしっぺの原則、無責任なヒョ~ロン家やコメンテーターしてねえで、自分で主体的にやりゃいいじゃねえか」・・・と言いたくなる内容だ。自身ではまったく関わらないし、いっさい行動をせず対案も提起しないのに、否定的なヒョ~ロンや文句ばかり言う口先人間=没主体的人間は、もっとも忌避されるべき卑怯な人間像として、父母やお兄ちゃん・お姉ちゃんたちから教えられて、わたしは育った世代なのだ。
つづいて、「かうした家の台所へは貧乏神が舞ひこみます」では、11条の“やっちゃダメ”が挙げられている。こちらもまた、微々細々と神経質でどうでもいいようなことまで“禁止”扱いにしている。
(01)だらしのない台所
(02)目に見えぬ無駄の多い台所
(03)仕出し屋がよく出入りする台所
(04)女中委(まか)せの台所
(05)しなびた野菜がころころしてゐる台所
(06)金のある間は贅沢に流れる台所
(07)諸道具の置場所を一定しない台所
(08)出入商人と無駄口をきく台所
(09)埃箱や流しを不潔にしてゐる台所
(10)お鍋やお釜から御飯をうつさない台所
(11)御飯をいつも焦げつかせる台所
わが家に当てはまらないのは、めったに出前やデリバリーは頼まない(03)、女中さんなど存在しない(04)、いちおうは清潔にしている(09)、炊飯ジャーでは焦げつきようがない(11)・・・ぐらいだろうか。あとは、すべてどこかで心当たりがあるものばかり。(01)は食事のあと即座に片づけをせずたっぷり食休みをとるし、水切りや自動洗浄機へ洗った食器をそのまま乾くまで放っておくので、だらしない台所ということになりそうだ。(02)はときに電気を消し忘れたり、沸いた鍋の湯をそのままにして温めなおすことがある。(05)は冷蔵庫の中でしなびている野菜があるし、(06)は余裕のあるときはついご馳走をこしらえてしまう。(07)はとても家族間で道具類の情報共有ができてるとは思えないし、(08)はついこの間、富山の薬売りさんと40分も谷川岳登山についてムダ話をしてしまった。(10)はご飯をお櫃に移すなど面倒なので、炊飯ジャーからじかに飯茶わんへよそっている。
こうして、「福の神」に当てはまる項目は5つ、「貧乏神」に当てはまる項目は7つと、わが家の台所では「貧乏神」のほうがやや優勢のようなのだ。それにしても、こんなことを細々とチェックしている編集者の、まるで絵に描いた姑(しゅうとめ)のような男の目のほうが、不気味でしみったれていて気味(きび)が悪い。「いつも美味しい料理をつくる」のは、女性にばかり任せていては実現できないことを肝に銘じるべきなのだ。(爆!) ・・・どこか、すっごく身近からクレームが出そうなので、このへんで。
■写真上:春先になると作りたくなる、江戸東京の名物のひとつ白魚(しらうお)の天ぷら。
■写真中上:1929年(昭和4)の『婦人倶楽部』12月号の「栄える家の台所・衰へる家の台所」。
■写真中下:左は、「福の神」がやって来る「台所の仕事は凡て科学的に研究」するための時計のある台所。右は、外食はあまりしないけれど見かけると入ってしまうのが茶漬け屋Click!。
■写真下:「貧乏神」のいる台所の情景。来客で出前をとる主婦(左)、食後すぐに洗い物をしない主婦(中)、お釜から直接茶わんへご飯をよそる主婦(右)。こんなことを考えては記事にしている、婦人倶楽部編集部の男たちのほうがよほどしみったれでビンボったらしいと思うのだが・・・。
この記事へのコメント
かあちゃん
夫にするなら、料理人より料理好きな男性
というのが我が家の見解です^^
今も昔も、屁理屈ばかり抜かす野郎に
ろくなもんはおりません、へへへ。
ナカムラ
みなせ
sig
女庭訓のような箇条書き、なにもそう目くじら立てないで、それはそれで、いいこと書いてあるじゃありませんか。
これをそのまま、今どきの手料理が趣味の旦那方に読ませてあげれば、結構役に立ちそうではありませんか。笑
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
よく下町では、「言いだしっぺの原則」ということが言われます。なにかについて発「言」をするなら、当然、それについて「行」動するのがあたりまえじゃんか・・・という発想ですね。さもないと、天にツバするがごとく、モノ言う自身の主体性が常に問われてくるのだよ・・・ということだと思うのですが、この雑誌の記者を笑えない、いまだ言いっぱなしでなにもしない、没主体的な人間が少なからずいますねえ。w
ChinchikoPapa
村井先生とともに、言葉だけでなく料理を人まかせにせず、自身の身体で主体的に食の「人体実験」を繰り返し、最後にはイチゴの大量摂取で死んだといわれる、桜沢如一なんて人の話もちょっと聞いてみたいですね。ww
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
ChinchikoPapa
やっぱり、江戸前のシラウオはなんとか生きのびていたんですね。シラウオ漁は、おっしゃるように江戸期によく画題に選ばれた佃島の南側=永代橋あたりと、佃島の北側=両国橋の上下流あたりで、篝火を焚いて行われていたようです。早春の霞がただよう、まだ冷え込みがきびしい大川の夜半、きっと篝火がボッと遠くにかすんで見える風情を眺めながら、当時の町の人たちは春がもうすぐそこまできてるぜ・・・と感じていたのでしょうね。
そろそろ水が澄んできた神田川にも、アユが復活してくれると嬉しいのですが、まだまだちょっと道のりがありそうです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
『江戸前の魚はなぜ美味しいのか』は、さっそく読ませていただきます。
出版情報をありがとうございました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
自分ではなにもしない人間が、大なり小なりなにかしている人間に対して「イチャモン」(とっても批判とは呼べませんので)をつけることに、ことさら反発をおぼえるのは、わたしの“性”(さが)的なところもあるのでしょうか。^^;
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
私はこの助言を会社経営に置き換えて読んでみましたが、よい経営、悪い経営に全てが当てはまると思います。面白く読みました。
それと、こういう昔の雑誌の絵、味がありますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ここに挙げてますのが、箇条書きにしている項目(見出し)の部分だけで、それぞれの項目に付随する記事本文のほうをまったく引用していませんので、その独断的で微に入り細に入りの「修身」を押しつけるような、ネチネチした嫌らしい「~ねばならない」感が、イマイチ伝わりにくかったのかもしれません。男のわたしでさえ、こんなこと言われたら「大きなお世話」だ・・・と、すぐさま反発をおぼえてしまうような文章なのです。w
前提や当時の状況を捨象して、なにか別のテーマに置き換えて味わってみるというのは、昔の記事の楽しみ方としては新鮮で面白いかもしれないですね。
ChinchikoPapa