嘆きの白衣の天使たち。

看護婦たち(聖母病院?).jpg
 今回、小川薫様Click!よりお借りした、貴重な戦前・戦中を通じての落合・長崎地域の写真で、もっとも印象深いのが上掲の写真だ。戦前の装いをした大勢の看護婦たちが、食堂あるいは集会場のような広い部屋に集まって、ほとんど全員が泣いているようだ。中には、祈りを捧げている看護婦もいる。この写真には、いったいどのようなドラマが隠されているのだろうか?
 下落合あるいは長崎界隈で撮影された写真だとすると、これだけ多数の看護婦がいる病院は、国際聖母病院Click!(1943年から軍部の圧力で「国際」を外して「聖母病院」)以外は存在しない。当初、わたしはすぐに1945年(昭和20)8月15日の正午に流れた、「玉音放送」直後の情景が思い浮かんだ。でも、それにしてはおかしい点が、この写真にはたくさんある。まず、看護婦の服装だ。敗戦間近の、緊迫し混乱した状況の中で、臨戦体制の看護婦たちがスカートをはき、きちんとした制服を着ていたとはとても思えない。いつ空襲があるかもしれない状況下、当然、彼女たちは身動きしやすいモンペ姿だったのではないかと想定できるからだ。ましてや、窓には空襲の爆風によるガラスの飛散を防ぐため、まるで英国国旗のように貼られた新聞紙も見られない。それに、看護婦たちは厚着をしており、8月の暑い盛りのコスチュームだとはとても思えないのだ。
 また、聖母病院だとしても、写っている建物はフィンデル本館Click!ではなさそうだ。本館西側の建物、あるいは本館南側へ新たに建てられていた2棟の建物のいずれかだろうか? 患者が亡くなったとして、これほど大勢の看護婦が1ヶ所に集まり、同時に悲嘆にくれるとも思えない。彼女たちにとって、入院患者の死は「日常的」だったと思われ、担当の看護婦ばかりでなく大勢が一斉に悲しむシチュエーションは、なおさら考えにくい。この写真は、やはり戦前に撮影されたものであり、彼女たち全員から親しまれていた、または慕われていた誰か、病院の院長か修道会のシスター、さらに医師ないしは婦長が亡くなったのではないか? あるいは、小川様のご家族が一時期、清瀬にあった療養所へ入院していたとのことだが、そこの情景だろうか? いずれにしても、大勢の看護婦たちが一斉に祈り悲しむ様子は、よほど異常な事態であることは間違いない。
防空壕造り.jpg
 次の写真は、落合・長崎界隈の防空壕造りの様子を写したものだ。すでに、米軍による山手空襲Click!がリアルに予想される戦争末期、おそらく1944年(昭和19)ごろの情景だと思われる。目白通りの南側に建っていた建物が、いっせいに「建物疎開」Click!で解体されたころだろう。これらの貴重な写真を記録したカメラマンは、街で写真館を営んでいた人物だった。
その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 太平洋戦争が始まると、むやみに街中で写真を撮影したり、画家が風景をスケッチしたりすることが、どんどん不自由になっていく。それが、近所で見かけない人間だったりすると、「スパイ」容疑で警察に引っぱられるからだ。だから、当時の写真や風景画は、地域で身近な顔見知りの人たち、その街ではある程度知名度のある人物によって、撮影されたり描かれたりしたものが多い。
防空壕完成.jpg 街のカメラマン.jpg
 当時造られた防空壕は、「壕」といっても地面に穴を掘るだけでは天井が崩れて危険なので、地面をある程度広く掘ったあと、家を建てるように柱や屋根を組んでいるケースが多い。軍部が構築した防空壕は、コンクリート製のものもあって、防空壕というよりはトーチカに近い仕様のものもあるようだが、民間の場合は天井を支えるため木材を組み合わせて造るものが圧倒的に多かった。その柱や屋根の上へ厚く土を盛り、また内部はより深く掘っていく。だから、「防空」といっても250キロ爆弾などの直撃を受ければひとたまりもなく、また近くに爆弾が落ちて生き埋めになったり、地上で大火災が発生して“蒸し焼き”にされた犠牲者も数多い。
長崎界隈畑地.jpg 上原アサ様194411.jpg
 あとの2葉の写真は、戦前・戦中の南長崎界隈を写したものだそうだ。住宅街の中には、いまだあちこちに畑が残っていた当時の様子がうかがえる。小川様のお祖母様を写した写真には、まるで佐伯祐三Click!が描く『下落合風景』Click!に登場するような、大きく傾いだ木製の電柱が記録されている。電柱の太さから、電燈線ではなく変圧器の載る電力線の柱Click!だと思われるが、傾斜を支える工事が近いのか、電柱の下には支柱とみられる丸太がすでに用意されているのが見える。

■写真上:戦前に撮られた聖母病院の情景だろうか、大勢の看護婦が一斉に祈り泣いている。
■写真中上:1944年(昭和19)ごろに撮影された、落合・長崎地域の防空壕造り。前列の右からふたり目が、ビリヤードの東京代表だった小川様の父・上原亀吉様。
■写真中下は、完成した防空壕の前にて。左端の人物が被っているのが、空襲に備えた防空頭巾。は、これらの貴重な写真を撮影しつづけた“街の記録”カメラマン。
■写真下は、当時はいまだ長崎のあちこちに残っていた菜園にて。は、1944年(昭和19)11月に撮影された昔の板塀を背に立つ小川様の祖母・上原アサ様。

この記事へのコメント

  • siina machiko

    写真の掲載と解析と解説をありがとうございます。母のアルバムには貼られていなかった“気になる”写真でした。看護婦さん達の写真だけが場所がわからないのですがやはり戦中やまして終戦の日ではないのですね。防空豪は戦後昭和三十年代まで防火用水が貯められていた場所だと思います。そこを通るたびに母が「ここに防空豪があった」と言っていました。昭和19年11月に写されている祖母はその4ヶ月後の3月10日に下町へ嫁いだ娘(父の妹)を亡くしています。しかも3月8日に実家(私の祖父母と両親と父のきょうだいたちが暮らしていました)に自分の荷物を取りに来て一晩泊まり翌9日に戻りその夜下町大空襲で行方不明になってしまいました。父達は何度も探しに行ったそうですがみつからなかったそうです。昭和46年まで健在だった祖母はその話しになると「あと一日遅かったら…」と無念そうに言うのでした。
    2010年03月09日 01:35
  • ChinchikoPapa

    siina machikoさん、コメントをありがとうございます。
    看護婦さんたちが泣いている写真ですが、窓外を拡大して観察しますと屋敷林と思われる樹木とともに、ところどころ住宅の屋根が見えています。ご家族が一時期、肋膜炎で入院された清瀬の療養所が、周囲をこれほど住宅に囲まれていたか?・・・というテーマも浮かんできそうです。あくまでもわたしの感覚ですが、これは清瀬ではなく下落合ではないかな、という気がします。
    東京大空襲では、いちおう非常におおざっぱな死者数が数えられ、語られていますけれど、一家全滅で証言が取りようのない人々や、証言者のいない行方不明者などを細かく加えれば、実数はもっともっと膨らむと思います。わたしの親戚も、行方不明が何人か出ていますが、おそらく確認のしようがないため罹災者にはカウントされていないのではないかと思います。明日は、65年目の3月10日ですね。
    2010年03月09日 11:21
  • ChinchikoPapa

    いつでも映像でお馴染みの大渦が見られると思いがちですが、鳴門の渦潮はタイミングがあるんですよね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2010年03月09日 11:30
  • ChinchikoPapa

    どちらかというと、ECM録音は静謐すぎてあまり好きではないのですが、アルバムによってはECMでなければ成立しない作品がありますね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2010年03月09日 11:35
  • ChinchikoPapa

    アキバと呼ばれる秋葉原ですが、めぐりめぐって本来の地名音「秋葉」にもどったのは面白い現象ですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2010年03月09日 11:37
  • ChinchikoPapa

    大岡川とか野毛とか聞くと、なつかしいです。子供のころ、親に連れられてときどき散歩をしてました。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年03月09日 11:42
  • ナカムラ

    そうなんですね、3月10日は東京大空襲。65年の歳月が流れたんですね。これからも紛争・戦争がない世界を目指してゆきたいです。
    2010年03月09日 11:59
  • ChinchikoPapa

    NHKの大河ドラマは、もうずいぶん前から見ていないのですが、地元自治体との「アライアンス」度が年々深まっているようですね。nice!をありがとうございました。>isana88さん
    2010年03月09日 12:01
  • ChinchikoPapa

    ほんとうに花姿が、ゴクラクチョウの頭部に見えます。なにか意味があって、そのような姿に進化しているのでしょうね。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2010年03月09日 12:05
  • ChinchikoPapa

    嵐は予約で完売ですか。それほど人気があるんですね。
    nice!をありがとうございました。>ロボライターさん
    2010年03月09日 12:08
  • ChinchikoPapa

    ナカムラさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    年々、東京大空襲の体験者が減っていき(うちの親もそうですが)、だんだん直接の証言が得られない時代になってきました。
    2010年03月09日 12:16
  • ChinchikoPapa

    Popeyeの3D媒体広告、なつかしいですね。
    nice!をありがとうございました。>sigさん
    2010年03月09日 12:30
  • siina machiko

    やはりあの看護婦さん達が写されている場所は聖母病院
    かもしれませんね。そういえば清瀬は昭和三十年代でも小学校の芋ほり遠足の場所でした。母のアルバムと一緒の箱に入れられていた写真の中には他にも看護婦さんたちが病院の庭で写っているものや卒業式らしい集合写真などもあり(それらは戦後のものとおもうのですが)、また看護婦さんは写っていないのですが、どこかの教会で大勢の人達が賛美歌を歌っているような写真もあるのでそれらも下落合か目白のどこかのような気がします。
    2010年03月09日 16:33
  • ChinchikoPapa

    年間に5万5,103kwhもの発電量というのは、すばらしいですね。
    nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2010年03月09日 19:21
  • ChinchikoPapa

    siina machikoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    冒頭の写真ですが、おっしゃるとおり戦前の清瀬にしては、周囲の環境が住宅街化されすぎているような雰囲気があります。
    ご承知のように、聖母病院は東西を谷戸に挟まれた丘の上(青柳ヶ原)に建っており、しかも敷地が南へいくにしたがって傾斜していますので、光りの加減も考慮しますと、昭和初期に建物内から南、南東、あるいは南西を向いて撮影しますと、窓外にはこのような景色が見えていた可能性がありますね。
    教会での賛美歌の様子や卒業式、病院の庭などの情景写真を合わせて考慮しますと、限りなく聖母病院の可能性が高いように思います。どなたか、聖母病院の職員あるいは入院患者に、お知り合いでもいらしたものでしょうか。
    2010年03月09日 19:33
  • ChinchikoPapa

    選挙の際、いちばん情報を詳しく積極的にチェックするのは、けっこう国民審査の最高裁判事の判例かもしれません。nice!をありがとうございました。>トメサンさん
    2010年03月10日 00:16
  • ChinchikoPapa

    予定調和が見えるコテコテの時代劇と、落としどころが見えないポストモダンな現代劇との間に拡がる「小意外」から「大意外」へのズレ幅を不快に感じず、すべて楽しめる人というのは感性が豊かということなのでしょうか。それとも・・・。 nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
    2010年03月10日 11:27
  • ChinchikoPapa

    たいへんな状況がつづくとき、「焦っちゃだめだよ。時が満ちるまで何も産まれて来やしないんだから」という言葉を思い浮かべます。ネイティブ・アメリカンの格言らしいのですが、奥深い言葉ですね。nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
    2010年03月10日 23:44
  • ChinchikoPapa

    いくつもnice!を、ありがとうございました。>漢さん
    2010年03月14日 00:31

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Excerpt: 1931年(昭和6)に竣工した聖母病院Click!のフィンデル本館Click!の“装甲”が、厚さ60cmと知ったときには唖然としてしまった。同時期の軍施設よりも分厚い装甲で、ちょっとした地震などにはビ..
Weblog: Chinchiko Papalog
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子供たちの背後に隠された十字架。
Excerpt: 1945年(昭和20)の、おそらく春先に撮影された子供たち77人の記念写真がある。小川薫様Click!からお借りした写真の中の1枚だ。子供たちの半数ぐらいが、筒状に丸められてリボンでとめられた紙を手に..
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