佐伯祐三Click!がパリで死去した翌年、1929年(昭和4)1月15日から30日まで、1930年協会第4回展が上野公園の東京府美術館で開催された。この第4回展は、佐伯の追悼展あるいは遺作展の色合いが濃く、約100点の作品が一斉に第8室会場へ展示されている。これらの作品は、1928年(昭和3)の秋にパリから下落合1146番地の外山卯三郎Click!のアトリエへ船便で送られてきた、第2次滞仏時に制作された主要な作品が中心となった。
夫と娘の弥智子Click!をいっぺんに失い、1928年(昭和3)10月31日に帰国していた佐伯米子は、同展に先駆けて知人や関係者に向け、展覧会への招待状を発送している。厚手の紙に印刷された上掲のハガキサイズの案内状が、初めて目にするその現物なのだが、封筒に入れて郵送されたらしく裏面は白紙となっている。この案内状は、米子から佐伯アトリエのごく近く下落合630番地に住んでいた、東京美術学校で佐伯の教師だった森田亀之助Click!あてに出されたものだ。森田亀之助は、「制作メモ」Click!にも「森たさんのトナリ」Click!として登場しており、第1次滞仏時には1926年(大正15)1月にナポリで佐伯と落ち合い、一緒にイタリアを旅行した間柄だった。招待状にはチェックと思われる斜めの線が鉛筆で入れられているので、森田は会場へ出かけたのだろう。
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故佐伯祐三の遺作約百点を一九三〇年展の一部に展覧致しますから何卒御覧下さいませ
佐伯の絵を集めてみて頂くのももうこれでおしまひでございます
昭和四年一月自十五日/至三十日
於上野公園東京府美術館 佐伯米子
森田亀之助様
恐入ますが御出下さいます節これをお持ち下さいませ
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文面を読んですぐにも引っかかるのが、「佐伯の絵を集めてみて頂くのももうこれでおしまひでございます」と、米子夫人がことさらナーバスな物言いをしていることだ。この表現には、おおよそ3つの要因が考えられる。第1に、夫と娘をほぼ同時に失ったばかりの、悲嘆に暮れていた時期の文面であるため、文言がどうしてもネガティブになりがちだった・・・という想定。第2に、佐伯が死去して新作はもう描けないので、1930年協会展へ出品するのはこれが最後の機会であり、同展では佐伯作品を二度と観ることができませんよ・・・という意味合い。
そして第3に、作品群が米子の手許を離れて“人手”にわたってしまうので、「もうこれでおしまひでございます」と皮肉っぽく、半ば当てこすりの感情も含めて表現している・・・という解釈だ。1929年(大正4)1月に開かれた1930年協会第4回展の東京会場(東京府美術館)ののち、同展は2月11日から20日の期間で、大阪の朝日会館と大阪朝日新聞社本館(大広間)に会場を移して開催されている。そして、正確な開催時期は不明だが、おそらくあまり間をおかず祐三の兄・佐伯祐正によって美津濃運動具店(2階フロア)で開催された、「佐伯祐三・追悼遺作展」Click!へとつづいていく。「遺作展」では、第2次滞仏時の主要作品のほか、下落合で描かれた『下落合風景』Click!や静物、さらに祐正の手許にあった第1次滞仏作品なども同時に展示されているようなので、1930年協会展に設けられた佐伯遺作コーナーよりも、展示規模が大きかった可能性が高い。この「遺作展」以降、佐伯の作品群は大阪の祐正から東京の米子の手許へ、返却されている形跡が見られないのだ。
つまり、1930年協会展が開かれる少し前、それは米子がフランスから佐伯祐三と弥智子の遺骨Click!を抱えて1928年(大正3)10月31日に帰国し、大阪の光徳寺で11月5日にふたりの葬儀が行われた際、義兄の祐正から「祐三の遺作は、パリ行きを二度にわたって支援した光徳寺が管理する」・・・と言明されていたのではないか。当時、祐三と弥智子とを一度に失って帰国した米子に対し、佐伯の実家としては家族を失った“気の毒な嫁”というよりも、「あんたが側に付いてはんのに、なにしてたんや?」と、決して良い感情を抱いていなかっただろう。
だから、1930年協会第4回展の招待状を発送する時点では、すでに第2次滞仏時に描かれた佐伯作品のほとんどが、米子の手許には残らないことを知っていたのではないだろうか。すなわち、第3のケースを考えれば、「もうこれでおしまひでございます」という、どこか悲壮とも投げやりとも受け取れるような表現に、つながっているのではないかと思われるのだ。
1930年協会展に展示された、佐伯の滞仏作品のほとんどは、兄の祐正を通じて兵庫県芦屋の佐伯コレクター・山本發次郎Click!へと大量に譲られている。それを東京から眺めていた米子は、どのような想いにとらわれていたのだろうか? 彼女は、新橋の実家Click!へと身を寄せたまま、鈴木誠Click!が留守番をしていた下落合の佐伯アトリエへは、その後しばらくもどってはいない。
■写真上:おそらく1928年(昭和3)の暮れに発送されたとみられる、佐伯米子から下落合630番地の東京美術学校教師・森田亀之助にあてた「1930年協会第4回展」招待状。
■写真中上:1966年(昭和41)3月6日、落合第一小学校で佐伯米子(左端)が佐伯祐三の『下落合風景』では最大サイズの「テニス」Click!(50号)と再会した瞬間のシーン。佐伯が南隣りの青柳家Click!へプレゼントしたもので、のちに同校教諭だった青柳辰代Click!が寄贈している。写真中央に立っているのが当時の落一小校長だと思われるが、ご存じの方はいらっしゃるだろうか?
★その後、落合第一小学校で開かれた「下落合風景を囲んで」の集いは、落合新聞の竹田助雄が取材しており詳細Click!が判明している。
■写真中下:1929年(昭和4)の、おそらく佐伯一周忌近くで開かれた大阪・美津濃の「佐伯祐三・追悼遺作展」と思われる会場写真。1930年協会展は、滞仏作品が展示の中心だったはずで、このように下落合で描かれた作品が数多く並べられたとは考えにくい。左側の人物が、佐伯祐三の兄・佐伯祐正で、右手には未知の『下落合風景』が2点Click!並んでいる。
■写真下:日本橋三越で開かれた「佐伯米子展」の会場写真で、中央の松葉杖姿が佐伯米子。おそらく、文部大臣賞をつづけて受賞した1960年代後半の撮影ではないかと思われる。
この記事へのコメント
ナカムラ
アヨアン・イゴカー
昔は、こんな風だったのでしょうか。上方に展示され、鑑賞者を見下ろしているのも不思議な光景です。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
佐伯が下落合にアトリエを建てたのは、「中村彝にあこがれて」というような解説をする本も見られますけれど、どうもそのような感触はいろいろな資料に当たる限り希薄のような気がします。むしろ、美校関係者の紹介で・・・と考えた方が自然ですね。美校の同級生には、すでに下落合へアトリエをかまえていた、おカネ持ちの二瓶等もいます。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>まるまるさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
いまでは、あまり考えられない展示のされ方ですね。特に、壁の上部に架けられている作品は、照明の光が反射してよく観えなかった・・・なんていうような「作品評」もあったようです。現代のように、あまり展示のレイアウトには、細かくこだわらなかったのかもしれません。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>shinさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>のぶりんさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa