大江戸Click!の昔から、夏が近づくと、あるいは秋の風が立ちはじめるとやってくる雷に、市民たちは悩まされた。現在でも、まったく事情は変わっていない。いままで晴れていた空がにわかにかき曇り、夕立とともに遠雷が聞こえはじめ、アッという間に頭上へとやってくる。ちなみに、昨年の落雷によるシステム障害は、公表されているのみだけでおよそ500件。電柱などに落ちて、大電流がケーブルを伝い、サーバやネットワークスイッチを瞬時に破壊して被害をおよぼすのだ。停電や瞬電による事故も多く、クラウドのある側面では文字どおり雷クラウドの被害を想定し、システム障害に備えたSaaSやPaaSだけでなく、物理レイヤのHaaSレベルから分散冗長化が必要だろう。
昔から東京では、季節の変わり目に襲来するこれらの雷のことを、「大山雷」あるいは「日光雷」などと呼んで怖れてきた。西の方角からやってくる雷を、相模の丹沢山塊にちなみ大山講Click!でも有名だったせいか「大山雷」と呼び、北の方角から急速に近づく雷を、東照宮のある方角からということで「日光雷」と名づけていた。おそらく、大江戸の市民たちには、ちょうど大山街道(大山道)や日光街道の上をトレースするように、刻々と雷雨が近づいてくるような感覚があったのだろう。「大山雷」や「日光雷」は、街道の起点であったおもに日本橋地域の表現だと思うけれど、これが千住や品川あたりではまた異なる雷の名称があるのかもしれない。
下落合界隈の昔を取材していると、必ず行き当たるのが落雷の記憶だ。曾宮一念Click!は、子供時代をすごした霊岸島でもことさら雷が大(でえ)っきれえだったが、下落合に住むようになってからも、下町以上に雷にはさんざん悩まされている。以前、文化村の小説Click!をご紹介したが、午後に突然やってくる「嵐」には雷が付きものだった。落合地域は、どうやら雷雲が湧きやすく、また通りやすいエリアのようだ。また、下落合には巨木が多いせいか、昔から落雷の被害も多かった。1943年(昭和18)に出版された、曾宮一念の『夕ばえ』(求龍堂)から引用してみよう。
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私は少年の頃雷を恐れた。近年東京では雷が少なくなつたと思つてゐたら昨年の如く午後から夜に入つてもはげしく鳴りつゞけて都心では大きな建物を焼いてしまつた。今の私の家のある附近は雷の通路なのではないかと思はれる位に家の真上を通つて鳴る。少し遠ざかつたと思ふと忘れ物でもしたやうに又引き返したり、ひどく力を入れて足踏みをし逡巡する。それとも第二の別の雷が通るのか、幾度も家の真上を通過しつゝ猛烈に光つて鳴つて附近に落ちる。大山雷と日光雷とが杉並の方からと板橋の方からと合流の衝に当つてゐるものとしたら物騒千万である。
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樹齢数百年を超える樹木もめずらしくない下落合では、少し前まで雷はこれらの木々に落ちていた。中でも、空へ拡がるように伸びるその枝ぶりから落ちやすいものか、ケヤキが被害に遭うケースが多い。近衛町の元・近衛邸の車廻しに植えられた、双子のケヤキの片方に落雷し、うち1本がのちに20mほど南へ移植されていることは、すでに記事Click!でご紹介している。おそらく、車廻しに残るケヤキには注連縄が張られているので、落雷して弱ったほうのケヤキを残し、元気なほうのケヤキを移植しているのではないかと思われる。
昭和の初期、諏訪谷の宅地造成が完了する際に、尾根筋から大六天の境内下の道端(諏訪谷の湧水源)へ移植されたと思われる、巨木のケヤキClick!にも雷が落ちている。近衛町のケースとは異なり、このケヤキは落雷のために倒れる危険性があったため、ほどなく根元近くから伐採された。1990年代まで、その巨大な伐り株が残っていて、春になると伐り株の横あいから若芽が次々と伸びていたが、先ごろ撤去されてその跡はアスファルトとコンクリートで覆われてしまった。このケヤキは、曾宮邸の庭近くへ移植される以前から、曾宮は『荒園』(1925年)などの作品にも描いており、また移植後もエッセイなどへ書きとめている。同書から、再び引用してみよう。
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この頃出そろふ桐の木の穂は翌年五月に咲く蕾で、これが出ると、この元気旺盛の樹木も枝を伸ばさない、そろそろ打ちつゞく旱に病葉を落とすやうになる。私の家から見える欅やカンポ梨の大樹も鬱蒼と茂つて毎夏尾長鳥が樹間を往来するのが下から美しく眺められる。この七月下旬から八月初旬こそまことに盛夏であると言へる。
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20年ほど前まで、オナガは群れをなしてグェグェと地味な鳴き声を立てながら、下落合のあちこちを飛んでいたのだけれど、このところまったく見かけなくなってしまった。きっと、ハシブトカラスの群れに駆逐されてしまったのだろう。都内のカラスは、このところ減りつづけているそうなので、再びオナガの群れを見ることができるようになるだろうか?
※2011年の夏現在、カラスの減少とともに数多くのオナガが再び見られるようになった。
曾宮の文章は、1943年(昭和18)に書かれているので、ほぼ現在と同じ風情の諏訪谷界隈を写しているのだろうが、中でも興味深いのは、ケヤキとともに「カンポ梨の大樹」が登場していることだ。現在でも、大六天の境内北端には、途中から幹が伐られた大きなカンポナシが生えているのだが、この木が曾宮の書いたカンポナシと同一のものか、それとも“二代目”なのか、さらにはケヤキの巨木を移動したのと同時期に、諏訪谷から移植されたものかどうなのかは不明だ。
■写真上:雷雨が通りすぎたあと、下落合の夕空に架かった虹。
■写真中上:1947年(昭和22)の空中写真にみる、落雷前の諏訪谷(左)と近衛町(右)のケヤキ。
■写真中下:左は、諏訪谷の大樹ケヤキの跡。右は、離れて移植された近衛町の双子のケヤキ。
■写真下:左は、1925年(大正14)制作の曾宮一念『荒園』(部分)に描かれた巨木。右は、葛飾北斎が文政~天保年間に制作した『富嶽三十六景』のうち、富士の雷を描いた「山下白雨」(部分)。
この記事へのコメント
SILENT
最近入手しました。鹿島の神様でもあるようですね。
神様はタケミナヅチとタケミカヅチと対の神様のようですね。
雷神好きですよ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしは曾宮一念とはちがい、雷が昔から大好きなんですね。w 遠雷が聞こえると、「おっ、きたきた」とつい嬉しくなり高揚感があります。
子供のころ、海辺の家の2階から、海へ落ちるブルーやピンク、イエローの稲妻を何時間も飽きずに観ていたことがありました。あの美しさと、美しさに似合わない大音響に、魅了されたんだと思います。一度、家から50mほどのところにあった魚屋さんちに落雷し、アンテナを伝ってテレビが火を吹き、酒を飲みながら番組を見ていた魚屋のオッサンが気絶したことがありました。
生命にはまったく別状がなく、近所の子供たちはもう有頂天で、「魚屋のオッサン気絶事件」をサカナにお店の前でクスクス笑っていたのを憶えています。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
カミナリは怖いです。昔は高いもの、尖ったものに落ちるといっていましたが、最近はどこに落ちても不思議は無いものだそうではないですか。困りましたね。10年ほど前に家から10mほどの電柱のトランスに落雷したことがあり、テレビから煙が出ました。パソコンは電源を入れもしないのにスイッチがぽかぽかしていて、最初は使えたのですが、数日後に壊れてしまいました。被害甚大でした。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ビルに落ちて電力線に高電流が流れると、ビルに入居している企業丸ごとシステムダウンというケースも聞きますね。最近はミッションクリティカルなシステムが当り前になっていますから、雷の季節になると電源部品を用意して24時間待機・・・なんてサポート部隊の話も聞きます。
さすがに雷鳴が近くで聞こえると、PCの電源は切るようにしていますが、ほんとうはコンセントからACケーブルもすべて抜いたほうがいいのでしょうね。こういう状況を考えますと、アプリもデータもすべて強固なiDCのサーバ側に置いておくクラウドに魅力を感じるのですが(たとえばこのブログのように)、わたしのようなファットクライアント世代では、まだ「どこに置かれているのかわからない自分のデータ」という観念が強く、ブラウザだけのシンクライアントには不安を感じてしまいます。うーーん、歳を取った証拠でしょうか・・・。^^;
ももなーお
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>トメサンさん
ChinchikoPapa
秩父あたりは、いかにも積乱雲がモクモクと発生しそうですね。都心への北西ライン上は、“カミナリ銀座”なのかもしれません。勤め先のある飯田橋も、季節の変わり目には毎晩ゴロゴロしてますので、こちらは北からやってくる日光連山あたりの別のラインがあるのでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa