明智小五郎と怪人二十面相の闘いを読んでいると、つい笑ってしまうことがある。文字どおり「笑って」しまうのだが、このふたり、自身を誇示しようとするとき、あるいは自分のほうがアタマがよく、先読みができて余裕のあるところを相手に思い知らせようとするとき、必ず「ははは・・・」と笑うのだ。1979年(昭和54)の講談社版『江戸川乱歩全集』から、ふたりのやり取りを引用してみよう。
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「ははは・・・・・・、きみはすこし興奮しすぎているようですね。ぼくには、こんなことは、いっこうにめずらしくもありませんよ。だが、二十面相君、きみにはすこしお気の毒ですね。(中略)」
そんなふうにいうものの、明智もなかなかたのしそうでした。ふかくすいこんだ、たばこのけむりを、ふうっとあいての面前にふきつけて、にこにこわらっています。
「それじゃ、ぼくも約束しましょう」 二十面相もまけてはいませんでした。
「博物館の所蔵品は、予定の日には、かならずうばいとってお目にかけます。それから、日下部家の宝物・・・・・・、ははは・・・・・・、あれがかえせるものですか。なぜって、明智君、あの事件では、きみも共犯者だったじゃありませんか」
「共犯者? ああ、なるほどねえ。きみはなかなかしゃれがうまいねえ。ははは・・・・・・」
(同書「怪人二十面相」より)
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こんなふたりの会話が、エンエンとつづいていくのだ。笑っている場合じゃなくても、つい余裕のあるところを見せようとして「ははは・・・」と条件反射のように笑ってしまう、このおかしな探偵と怪人、80年後の今日からみると、明智は自分のことをつい「名探偵」と言ってしまったり、二十面相は自身を「天才」と呼んでしまったりと、ふたりそろって“大ボケかまし”じゃないか・・・と思ってしまうのだが、どれほど追い詰められようが、切羽詰まっろうClick!が余裕を見せざるをえないのが、さすが下町Click!ではなく山手の怪人と探偵なのだ。そういえば、同時代には「わははは・・・」と笑ってばかりいる黄金バットとナゾ-の対決もあったので、このふたりもひょっとすると乃手出身なのかもしれない。
明智小五郎は、旧乃手の麻布・龍土町に住む山手人だし、二十面相は新乃手にアジトを展開する、これまた山手の盗賊なのだ。焦らなければならないのに、このふたり「ははは・・・」と笑ってすませるところ(内心は必死だったりするのだが)、わたしとしても見習わなければならない。二十面相は、「ははは・・・」と笑いながら、乃手に散在する西洋館を探しては、けっこう小まめに大家や不動産屋と賃貸契約を結んでいる。そんな隠れ家のひとつが、陸軍の近衛騎兵連隊Click!や陸軍幼年学校、軍医学校、第一衛戍病院など軍事施設が集中している戸山ヶ原Click!にもあった。
怪人二十面相が、初めて東京に出現したのは1936年(昭和11)だから、戸山ヶ原の南側、西大久保のあたりを除いては比較的人家が少なく、武蔵野の雑木林や原っぱが散在する人気(ひとけ)のない一帯だったろう。近所に住む画家たちが、いまだスケッチブックやキャンバスを片手に通っていたころのこと。下落合からも、散歩がてら30分ほどで行ける近い距離だ。そんな緑の多い住環境に建っている瀟洒な西洋館が、二十面相のお好みなのだ。彼は、明智探偵の助手である小林少年を誘拐して、戸山ヶ原の隠れ家へ拉致している。地下室に閉じ込められた小林少年は、天窓から見える風景から、いま自分が戸山ヶ原の一画に拉致されていることを知る。
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まどの外、広っぱのはるかむこうに、東京にたった一ヶ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう。じつにおあつらえむきの目じるしではありませんか。/少年探偵は、その建物と賊の家との関係を、よく頭に入れて、なわばしごをおりました。そして、いそいで例のかばんをひらくと、手帳とえんぴつと磁石とをとりだし、方角をたしかめながら、地図をかいてみました。すると、この建物が、戸山ヶ原の北がわ、西よりの一隅にあるということが、はっきりとわかったのでした。 (同上)
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小林少年は素直なので、いちいち「ははは・・・」と笑ったりしないのだけれど、二十面相と対等にわたり合うところはタダものではない・・・といちおう読んでは思うのだが、よくよく考えてみると二十面相がドジを踏んでいるにすぎないのだ。当時は「東洋一」と謳われた陸軍射撃場、周囲への騒音や流れ弾の危険性から、全体が独特なカマボコ型のコンクリートで覆われたのが1928年(昭和3)のこと。射撃場のセメントに限らず、戸山ヶ原に展開する膨大な陸軍施設に使われた大量のセメントや玉砂利は、旅客輸送がスタートする以前、津田沼の鉄道第二連隊が「演習」と称して敷設Click!した西武電気鉄道(現・西武新宿線)を利用して、大正末に秩父や多摩方面から貨物列車で運んできたと思われることは、すでに何度か記事Click!に書いたとおりだ。
怪人二十面相は、子供の小林少年にまでやすやすと見破られてしまう、特徴的な建築物の近くに隠れ家を設けるなど、ハナから危機管理の意識が薄いといわなければならない。明智小五郎と怪人二十面相との闘いを通読すると、その推理は「古畑仁三郎」以上に“穴”だらけだし、犯罪計画も偶然性に依存しかねない、非常に脆弱な基盤の上に成立しているケースが多いみたいだから、このふたり、どうやら自分の推理や“しでかしたこと”の矛盾が気になりだすと、あとで結果論的にどう整合性がとれる説明が可能なのかが心配になり、「ははは・・・」としばらく笑っている間に、あれこれ必死で考えている似たもの同士だったのではないだろうか?
それはつまり、子供向けのラフな探偵小説を書くにせよ、江戸川乱歩Click!がさすがに物語のツジツマ合わせに窮してきたり、締め切りが間近に迫っているのに落としどころが見えないでいると、思わず「ははは・・・、明智君、わたしの犯罪にぐうの音も出ないようだね」、「ははは・・・、二十面相君、すでにキミのトリックはすっかり暴かれているのさ。さもないと、そろそろ編集者がうるさく言ってくるのでね。ははは・・・」などとイスの背にもたれながら、ひとりで笑っていた・・・のかもしれない。
■写真上:カマボコ型の射撃場跡の一画に建つ、早稲田大学理工学部の校舎。
■写真中上:講談社版『江戸川乱歩全集』(1979年)に掲載された、篠田昌三の挿画より。
■写真中下:1947年(昭和22)の空中写真にみる、射撃場と怪人二十面相の隠れ家の位置関係。
■写真下:上は、1957年(昭和32)に明治通り側から撮影された射撃場。下左は、篠田昌三の挿画より。下右は、諏訪社の本殿で隠れ家は同社のすぐ東側にあったと思われる。
この記事へのコメント
Nylaicanai
アンテナの感度、バツグン? (^^ゞ
でも、読みたくなってきました。
「怪人二十面相」というタイトル、探してみます!
水無瀬
この時期に津田沼あったのは鉄道第二連隊。津田沼=第二連隊というのが小生の在所の通り相場で、明治末年に千葉にできた鉄道連隊が大正7年に二分され、第一連隊が千葉に、第二連隊が津田沼に設置されました。
朝鮮半島・満州に鉄道を敷設するために国内各地で敷設演習を行ない、民間会社に払い下げられたりします。津田沼から松戸に向かう新京成電鉄なのは、演習線の上をそのまま走っているので、揺れること揺れること。
小生、毎日の通勤で「戦争遺産」に苦しめられている次第です。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
明智シリーズの「怪人二十面相」は、もうやめようと思ってもついズルズル次々と読んでしまいます。当時の子供たちは、もう勉強そっちのけで読んでいたにちがいありませんね。二十面相の“隠れ家”は、新宿のほかに渋谷や世田谷などに分散していて、家賃負担もけっこうたいへんだったんじゃないかと思います。^^;
ナカムラ
ChinchikoPapa
茶々や寧々はどんどん入れてください。w 「鉄道第二連隊」のご指摘、ありがとうございます。この記事ばかりでなく、過去の記事に2ヶ所、同様の表記がありましたので、さっそく併せて修正させていただきました。元資料がそのような表記になっていた可能性もあり、ちょっと気になりますので気をつけていたいと思います。
新京成電鉄も「戦争遺産」だったとは・・・。何度か乗車したことがありますが、揺れ方までの印象はありません。今度乗ったときに、いろいろと観察してみたいと思います。ご指摘、ありがとうございました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
きっと、いつか戸山ヶ原を舞台に書いてやろう・・・と思っていたのかもしれませんね。うがった見方をしますと、怪人二十面相は自己顕示欲が強くて愉快犯的な側面もありますから、すぐにバレるアジトを設置して明智との追っかけっこゲームを楽しんでいた、なんて可能性もありそうです。
戸山ヶ原の周囲は、部分的に焼け残った住宅が点在してますので、ときどき「オヤ?」と見とれてしまう、二十面相が隠れていそうな西洋館や和洋折衷住宅に出会えますね。^^
SILENT
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
大磯は、どっしりとした大きくて豪華な西洋館が多いですね。明智に追いつめられた二十面相ですと経済的に苦しく、賃貸料が払い切れないかもしれません。w
オニのお話ではなく、どちらかといいますと江戸東京の各地にも伝わる火祭り、左義長(せいと払い)がテーマの記事になりそうです。地域によっては、「セエトバレエ」「セートバレー」という音への転訛も見られるみたいです。左義長の発祥地は、民俗学では出雲地方らしいということになっていますが、詳細は不明のようですね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>麻里圭子さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>フィルコさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ほりけんさん
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
それにしても、理工学部のあるところに、かまぼこ型の射的場があったのですか。この射的場は、十分に目立つメルクマールですね。
No14Ruggerman
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
読んでいて、ほのぼのしてくる探偵小説ですね。^^; でも、改めて感じてしまうのは、この当時の探偵小説で成立していたストーリーが、携帯電話のある今日ではほとんどすべてが成り立たない・・・という事実でしょうか。
それは、誰かに何かを通報する、あるいはコミュニケーションをとるという「知らせる」リードタイムが、犯人が逃亡したり、トリックをしかけたり、事件解決へ向けた推理を働かせて先回りをしたりする、重要な“余裕”になっていることに気づきます。
この探偵と怪人が現代に出現したら、次々と入ってくる情報にふりまわされて、単なる追っかけっこに終わってしまいそうですね。
ChinchikoPapa
わたしも、その交通公園で遊びました。親父が学生時代、3月10日の東京大空襲で東日本橋を焼け出されたあと、戸山ヶ原北側の諏訪町に下宿をしていました。子供のころ連れられて、その下宿界隈がどうなったのかを見に出かけた際、遊園地のようだった交通公園に立ち寄った憶えがあります。
sig
子供の頃「怪人二十面相」や横溝正史の探偵ものを読んで、得体の知れない東京の怖さのようなものを感じていました。
でも、はははと笑う二十面相は確かに怖さは無かったですね。
黄金バットは容姿を見ただけで怖かったので、とうとう紙芝居は見ずじまいでした。おしいことをしました。
ChinchikoPapa
わたしの親父は、黄金バットの話はずいぶんしていましたが、怪人二十面相についてはあまり話してはくれませんでした。ひょっとすると、江戸川乱歩の作品には隠微で怪しい雰囲気の漂う作品もありますので、読むのを家で禁止されていたのかもしれません。ちょうど、怪人二十面相が出現したとき、親父は小学校の高学年だったはずなのですが、小説よりも映画のほうが面白かったのかもしれませんね。
デンマーク映画の「スカイシップ」は初めて観ましたけれど、当時からこれだけの一大スペクタクル作品が創られていたとは驚きです!
ChinchikoPapa
ひまわり
確か鎌ヶ谷大仏のあたりはグルッと90度か100度くらいカーブしていた
ように記憶しています。
ChinchikoPapa
新京成電鉄がクネクネしているのは、なにか線路敷設の実験でもしたのでしょうか。鉄鎌ヶ谷大仏あたりの急カーブは、上を走る汽車のスピードと線路のカーブとの関連で、積載重量と速度とのバランス実験でもしたんでしょうかね。深く調べると、いろいろなエピソードが眠っていそうです。
ぼんぼちぼちぼち
ChinchikoPapa
江戸川乱歩の挿画家は、いかに気持ちの悪い絵を描くかが勝負・・・みたいなところがあったんでしょうね。気味が悪くないと、編集者から「もっとグロテスクに!」という注文が出てたんじゃないかと。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
大学で教えているものです。
ChinchikoPapa
明治から大正にかけ、陸軍の戸山ヶ原は付近に住む人々の散歩コースになっていました。夏目漱石が、大久保に住んでいた寺田寅彦のところへ出かけるのも、戸山ヶ原を横断して散策がてら歩いていましたね。ところが、徐々に住宅が増えてくると射撃場の流弾被害が増え、立入禁止のエリアが増えていきます。怪人二十面相がアジトを設置したころは、コンクリートの射撃場ができたせいで、宅地化に拍車がかかったころではないかと思います。w
この記事で取り上げたのは、山手線東側の戸山ヶ原ですが、江戸川乱歩は山手線の西側に拡がる戸山ヶ原も、明智小五郎が登場する『黒手組』の犯行舞台に設定しています。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2017-01-10
乱歩による怪しげな事件が、頻繁に戸山ヶ原界隈で発生するのは、乱歩自身がすぐ北側の下戸塚(早稲田)に住んでいたせいもあるのでしょうが、市街地の中に残る陸軍施設=広大な緑地が、乱歩の妄想をめいっぱい膨らませたのではないかと思います。
ChinchikoPapa