東邦生命の太田清蔵Click!により、下落合の相馬邸跡から福岡県の香椎中学校(現・香椎高等学校)へ移築された「黒門」Click!から、「明治二年改修」の記載がある標札が見つかっていたことがわかった。これで、同門が外桜田の相馬藩上屋敷に建っていた両袖Click!(出番所×2)の正門だったのは、ほぼ間違いないだろう。1867年(明治元)の秋、明治維新とともに相馬藩は1万両を明治政府へ寄進しているので、同年に津和野藩上屋敷へと転居を命じられた際、上屋敷の正門を津和野藩の藩邸へ移築する許可を得ていたものと思われる。そして、「明治二年改修」の標札は、元・津和野藩上屋敷へ黒門の移築が完了した際に、同門の部材に残されたものにちがいない。
「明治二年改修」の標札について、『香椎高等学校五十年誌』(1991年)から引用してみよう。ちなみに、文章中で「南部黒門」あるいは「盛岡南部家」となっているのは、初代校長・長沼賢海以来の「相馬黒門」「相馬家」の錯誤であり、「目白にあった旧藩邸」というのは「下落合へ大正初期に建設された相馬邸」の誤りだ。天領(幕府直轄地)の御留山に、大名の藩邸は存在しない。
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世に南部黒門と喧伝するものは旧盛岡南部家の江戸藩邸門で、その建造は江戸中期頃か。明治二年改修の標札があった。昭和十五年(編者注、正しくは十六年)太田清蔵氏香椎中学を創設せらるるや、九大名誉教授長沼賢海氏を校長に迎え、その高邁なる理想にもとづき期するところあって、昭和十八年当時東京都下目白にあった旧藩邸から、遠くこの地に移建せられたものである。/後風害に倒るること両度、当時の正門は廃せられ、今この長屋のみを遺存する。
(同誌「南部黒門の遺構」より)
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貴重な情報や資料をお寄せくださったのは、いつものように将門相馬家ご一族の相馬彰様Click!だ。しかも、相馬様は香椎高等学校あるいは福岡市の教育委員会にまでお問い合わせくださり、貴重な黒門(出番所や中間長屋)のカラー写真や、同校の香綾会「香綾会館」に保存・展示されている、黒門の主要部材の写真までお送りくださった。
黒門が解体されたあと、1990年(平成2)まで建っていた出番所や中間長屋のカラー写真を見ると、改めて同門の規模が実感できる。写真が撮られたとき、出番所の前に公園でも造成されていたのか、手前に駅などでよく見かけるプラスチックベンチが見えている。そのサイズと比較しても、黒門の規模はかなり大きい。出番所の前に吊り下げられた、訪問客が打ち鳴らして来訪を長屋に詰める中間へ知らせる雲版(板/うんばん)も巨大で、この門が下落合に建っていたClick!とき、当時の子供たちへとてつもなく巨大な門・・・という印象を残したのが実感できるサイズだ。
また、「香綾会館」に展示されている写真を拝見すると、保存されているのは黒門自体の部材ではなく、付属していた中間長屋および出番所(袖)の部材であることがわかる。つまり、1990年に同建築を解体する際、中間長屋の鬼瓦をはじめ出番所などの部材の中で、江戸期の彫刻などがほどこされた貴重なものが保存されたのだろう。でも、これだけ当時の部材が揃い、細かな意匠までが判明しているので、その気になれば黒門を両袖・長屋ごと再建するのも難しくはなさそうだ。それでは、門や袖の各部名称とともに、保存された「黒門」部材をご覧いただきたい。
下落合の旧・相馬邸跡=御留山Click!では、財務省官舎の跡地を利用して「おとめ山公園」Click!の拡張が予定されている。現在の公園面積よりも、1.7~1.8倍ほどの広さに大きく拡がる予定だ。相馬邸の敷地でいうと、相馬家母屋の南側建築=居間Click!が建っていたあたりまでが、公園敷地として確保されることになっている。新宿区の中山弘子区長Click!は、「埋もれた歴史の発掘という観点を活かして整備する」と秋の議会で答弁しており、江戸期の徳川将軍の鷹狩り場だったころの、あるいは「江戸名所図会」に描かれた“落合ほたる”Click!の名所としての、御留山とその周辺に眠る「歴史の発掘」を意識しているのかもしれない。
新宿区は同時に、拡張された「おとめ山公園」内に、資料館のような建物を予定しているとも聞いている。わたしとしては、現状の御留山と同様に森や草原を拡大して、新宿区の緑を少しでも回復してほしいと願っているのだけれど、新たに大きな箱モノはいっさい不要だが、現在の管理棟をリニューアルして、あるいは既存の建物を活かしての小さな「御留山資料館」なら、公園内にひとつあってもいいと思う。そこでは、周辺から出土した旧石器から、戦前の相馬邸Click!までの長大な歴史を踏まえた、さまざまなテーマごとの企画展を開催すれば面白いにちがいない。
おとめ山公園は四季を問わず、東京じゅうから散策する人々を集めている。散歩のついでに、資料館をのぞく人たちも数多くいるにちがいない。「下落合相馬坂の由来展」(勝手に言ってます/爆!)というような企画展があれば、「香綾会館」から相馬様を介して、黒門の貴重な部材をお借りして展示することもできるだろうし、ミニチュア黒門のある相馬邸のジオラマだって、鮮明な邸写真が見つかっているので造れてしまうだろう。戦前、実際に黒門を見上げて強い印象を持たれている下落合住民の方々と、「黒門再会プロジェクト」を起ち上げることだってできそうなのだ。
■写真上:福岡で解体の少し前に撮影されたとみられる、黒門の出番所と中間長屋。
■写真中上:上は、大名屋敷門などの各部名称。下左は鬼瓦(左)で、下右は雲版(板)。
■写真中下:左は梁の下にある斗供(ときょう)で、右は梁前部の装飾である虹梁(こうりょう)。
■写真下:上左は、向かって右側の木鼻(きばな)。上右は、向かって左側の木鼻と手前は破風軒下の懸魚(げぎょ)。下左は、手前は懸魚で奧が中央部の木鼻。下右は、江戸東京たてもの園に保存されている、大正期に再建された宇和島藩伊達家の上屋敷表門。本来は両袖門だったが、スペースの都合から左側の片袖を落して再建されているのが面白い。ひょっとすると伊達家では、同門を再現する際には下落合の相馬邸黒門を参考にしているのかもしれない。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございます。>shinさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
横尾 恵子
ChinchikoPapa
もちろん、写真の流用はOKです。身のまわりにある見慣れたものが、少し掘り下げてみると意外に深くて広大な物語や歴史に行きつく……というのは、いつもわたしが拙サイトで繰り返し書いてきたことでした。福岡と下落合が直結しましたね。
このような情報交換やコミュニケーションは大歓迎ですので、「じゃあ、黒門があった相馬邸ってなに?」というようなテーマで、バリエーションのコンテンツをお作りになりたければ、ご自由に相馬邸の記事をご利用ください。^^