負け犬さんによる太宰の映評のあとで、どこか似ている性格の画家をご紹介することになった。
下落合には、軒並み画家たちが住んでいた一画がいくつかある。九条武子邸Click!あたりからまっすぐ西側へ、ちょうど薬王院の森(戦後は新墓地)の北西辺にかけ、下落合800番地を中心に戦前戦後を通じて大勢の画家たちが住んでいた。大正末から昭和初期にかけてだけでも、鶴田吾郎Click!、鈴木良三Click!、鈴木金平Click!、夏目貞良Click!、満谷国四郎Click!、服部不二彦Click!・・・などなど、下落合のアーティストビレッジのような様相を呈している。同時代に暮らしていた人たちもいれば、時期がズレて住んでいるケースもある。
久七坂筋の諏訪谷周辺にも、画家が集合して暮らしていた時期があった。曾宮一念邸Click!を中心に、牧野虎雄Click!、片多徳郎、川村東陽Click!、里見勝蔵Click!、村山知義Click!、森田亀之助Click!(美術家)、蕗谷虹児などだ。きょうはその中で、『酔中自像』で有名な西洋画家だが水墨画も描いた、帝展無鑑査の酔っ払い画家・片多徳郎にスポットを当ててみたい。片多が下落合732番地へ引っ越してきたのは、1929~30年(昭和4~5)のころだ。この地番は、曾宮アトリエClick!の道を隔てた斜向かい、ちょうど牧野虎雄アトリエのまん前あたりだ。同じころ、片多邸の裏側(南側)、下落合596番地には村山知義が“仮住まい”をしていたはずだ。片多は曾宮より4歳ほど年上で、曾宮が東京美術学校へ入学して1年後には卒業しているので、在学中はほとんど交流はなかったらしい。ところが、近所へ引っ越してきたのを発見して、曾宮は片多を怖るおそる訪ねている。1938年(昭和13)に出版された、『いはの群れ』(座右寶刊行会)から引用してみよう。
●
昭和五年の春頃から私はポツポツ散歩をするやうになつてゐた、或る日のこと、今迄空いてゐたすぐ近くの家に「片多徳郎」の表札を見つけた。しかし半ば知つて半ば知らないこの先輩、酒飲みで気むづかしさうなこの人を私一流のコワガリからそつと訪ねもせずにゐたが其の前年の「秋果図」(帝展出品二十号長形)に引き付けられてゐたので其後小品を大分かいてゐられる噂をきいて思ひ切つて訪ねた。コワゴワあつてみると昔の青年はかなりに年をとつてはゐたが少しもコワクないのに安心した、・・・ (同書「晩年の画」より)
●
以来、曾宮と片多との交流は深まる。酒を飲みすぎては(アルコール中毒症か肝臓病だろう)、入退院を繰り返す片多に、当時は同じように病気がちだった曾宮は特に親しみをおぼえたらしい。面白いのは、片多が断酒してシラフで描いた作品に、曾宮はあまり魅力を感じず、逆に酔っ払って描いた作品のほうに強く惹かれていった点だ。
●
一昨々年は房州白浜での作品を見に行つた。此時は酒を最も節して健康の続いた頃であらう、砂浜や海や燈台の二十点位見せてくれた、然し私は此の時の作品からは余り魅力を受けなかつた、といふのは夏の終りの緑と白砂の景色そのものが画因として私に興味が無かつたせいもあらうがそれよりも此時の画はあまりに平明な写生画で片多氏としては常識的な風景画であつたからであらう。(中略)世の中には酒は飲まぬが仕事にはいつも酔つてゐる人もある、又一生涯ちつとも酔ふことなく単に製造を続ける人もある。 (同上)
●
酒が切れたときの片多作品は、あまりに「常識的」すぎてつまらなかったようだ。片多にとって酒を飲むことはマイナスではなく、より大胆に「仕事に酔える」状態を獲得できるという意味では、必要悪だったのではないか・・・と曾宮は観察している。しばらくして、片多は再び酒を飲みはじめ、目白通りを挟んだ長崎に画室を借りて50号の大作、人物画を仕上げにかかった。人物画のモデルは、アビラ村の吉屋信子Click!が生涯に唯一恋をした男、甲斐仁代Click!の連れ合いである中出三也Click!だ。この当時、甲斐と中出のふたりは目白文化村Click!の北側、第二府営住宅の住居から、林芙美子Click!が記録したようにバッケ堰Click!のさらに向こう、上高田へと引っ越したのちのことだろうか。
●
晩年の作には限らないが氏の画は画面の美しさに特殊なものがあつた。近頃の術語でマチエールの美しさである。立派な水墨画家でありながら(中略)油絵具に惚れてゐると自から言つてゐたのも此処に在ると思ふ。小品でも一気にかき放すことはなかつたらしく一度かき放しても再三上にゑのぐの層を加へていつた、だから軽妙爽快と言ふよりは寧ろドロリとした手触はりに、良き陶器の如く、よき磨きをかけられながら深く沈んでゐた、・・・ (同上)
●
片多徳郎の作品は、近年では収蔵する美術館も増え展覧会も開かれるなど、その人気はウナギのぼりだ。1934年(昭和9)初頭に完成したらしい、晩年作である画家仲間の中出三也を描いた『N-中出氏の肖像』以降、片多は酒を控えることをやめ死ぬまで飲みつづけた。このあと、幻覚症状が現れるほどのアルコール依存症となり、同年4月に名古屋の寺で自裁している。曾宮一念が、この破滅型の先輩の死を悼んで「晩年の画」を書いたのは、その直後の5月のことだ。片多が下落合732番地へ引っ越してきてから、わずか4~5年のちのこと、まだ44歳の若さだった。
■写真上:牧野虎雄アトリエの前、下落合732番地の片多徳郎邸があったあたりの現状。
■写真中上:1936年(昭和11)の空中写真にみる、諏訪谷とその周辺に住んでいた画家たち。これまで判明しているだけの記載であり、さらに多くの美術関係者が住んでいたと思われる。
■写真中下:左は、最晩年の1934年(昭和9)に中出三也を描いた片多徳郎『N-中出氏の肖像』。右は、1928年(昭和3)制作の『自画像』。確かに、一見怖そうな面立ちをしている。
■写真下:左は、東京芸大に残る制作年不詳の片多徳郎『婦人像』。右は、村山知義が自宅を増改築した昭和初期に、かなり長期間仮住いをしていたと思われる下落合735番地の一画。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>No14Ruggermanさん
ChinchikoPapa
ナカムラ
ChinchikoPapa
蕗谷虹児は、曾宮アトリエの西隣りに見えています、大きな白い谷口尚真邸(海軍大将)のすぐ北側(下落合622)にあったかと思います。ちょうど、記事中の空中写真が撮影されたときには、すでに住んでいたんじゃないかと・・・。
確か、1938年の「火保図」には名前も収録されていたと思いますので、明日会社のPCで確認してみますね。確かに、分野は違いますけれど、一世を風靡した蕗谷虹児も加えるべきでしたね。ご教示ありがとうございます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
また、記事末には1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる蕗谷邸を追加しました。ちょうど、先日書きました、川村東陽vs曾宮一念へ掲載した写真のあたりが、蕗谷邸跡ということになりますね。ご指摘、ありがとうございました。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ビアンカさん
ChinchikoPapa
ナカムラ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ネーム入りの地図を見てまして、「これは?」と思う苗字に行き当たりますと、やっぱり画家や美術家という確率が驚くほど高いのに、改めて驚いてしまいます。写真には記載しませんでしたが、牧野虎雄邸と片多徳郎邸の間の道をあと少し東へたどり左折しますと、火の見やぐらの下には前田寛治がいたようですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
佐藤春夫の『神々の戯れ』といいますと、1929年(昭和4)の制作ですね。ちょうど、下落合で仕事をしていたころと重なりそうです。わざわざ、ありがとうございました。
最近、美術関連の資料で、片多徳郎の名前を目にすることが増えています。わたしの感触ですが、「いちばん好きな画家」というより、3番めに好きとか5指に入るとか、そんな愛され方をしている画家のように感じますね。もう少し、下落合での姿をひろえればと思っている画家のひとりです。
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
片多徳郎は惹かれる画家ですので、その作品はけっこうリサーチしたのですが、落合地域を描いたと思われる画面は見つかりませんでした。下落合風景をシリーズで描いていた、二瓶等や笠原吉太郎の作品もほとんどが見つかりませんので、すでに戦災などで失われてしまってるのかもしれませんね。
pinkich
ChinchikoPapa
片多徳郎は、ずっと気になっている画家ですね。曾宮一念によれば、かなりのアル中だったようですが、斜向かいに引っ越してくるやはりアル中気味の牧野虎雄とは異なり、作品数が失われて少ないのが、この画家の印象をきわめて薄くしている要因だと思います。
ただ、最近さまざまな資料で片多徳郎の名前を見かけますので、長崎側の住居ともども、もう少し追いかけてみたい人物ですね。どこか、強く惹かれる要素を備えた画家に映ります。
pinkich
pinkich
pinkich
ChinchikoPapa
下落合の転居が、1928年(昭和3)の可能性があるとしますと、村山知義・籌子夫妻の仮住まいアトリエと、まちがいなく時期的にかぶってきますね。おそらく、歩いて30秒以内のところに同じようなアトリエ付きの住宅(下落合735番地)があって、上落合の自宅をリフォーム中の間、村山夫妻はそこを借りています。
この一画も、下落合800番地界隈と同様に、地主が画家たちが集まりやすいエリアだとターゲティングを行い、小さなアトリエ付きの借家を建てていった経緯を感じますね。
曾宮一念は、家の南側の道筋を東にたどって、「片多徳郎」の表札を見つけていますので、片多邸はまちがいなく北向きだったと思います。つまり、北側は道路に面していて空いていますが、南側にはすぐ隣家が迫り庭も狭くて、家全体が採光不足で屋内がかなり暗かった可能性があります。
昭和初期になると、目白文化村あたりを境に、下落合の東部は借家の賃料もかなり高かったでしょうから、片多徳郎には広いアトリエ付きの住宅を借りるのは、経済的に苦しかったのかもしれませんね。
曾宮一念は、酒を飲みながら描く作品のほうがシラフの作品よりもいいと書いてますが、アルコール依存症を克服して新たな画境に立ち、より多くの作品を描けてたなら、まったく異なる姿でその作品群が語られていたのではないかと思うと残念です。
pinkich
pinkich
pinkich
ChinchikoPapa
長崎町での片多徳郎の様子も、ちょっと知りたいですね。おそらく、長崎アトリエ村資料室のチームでは、付近の地元住民の方々からの聞き取り調査も含め、かなりの情報が集まっているのではないかと想像していますが、お訊ねしたことがありません。
片多徳郎の美校同期には、遠山五郎や小出楢重などが目につきますけれど、もうひとり片多徳郎以上に現在では名前を知られていない、近藤芳男も西洋画科の同期です。片多と同様に、下落合で暮らしていた近藤芳男についても、近々書きたいと思っているのですが、この連休も仕事でつぶれ、なかなか時間がとれません。
pinkich
ChinchikoPapa
遠山や小出よりも、上級なのですね。当時、誰かの“引き”あるいは紹介で、美術教師の職を転々としている画家がいますが(曾宮一念もそのひとりですね)、そのような画家の常として、赴任先の所縁からか各地の美術館で作品が収蔵されているのが面白いです。
いまの藝大も、一般の大学に比べたら1つの科は30人前後/1学年ですので、いい意味でも悪い意味でも横のつながりは濃いのではないかと思います。もっとも、大正当時の“絆”に比べれば、現代はもっとドライになっているのでしょうけれど。
pinkich
ChinchikoPapa
1934年(昭和9)当時の、名古屋の地元で発行されていた新聞や、同時期の美術誌の記事に詳しい経過が掲載されているかもしれないですね。アルコールの悪癖で、なにか精神的に追い詰められ焦燥感にかられていたものか、幻覚症状が進み絶望的になったのか、あるいはなんらかの不治の疾患が判明したものか、自死の要因が気になります。寺を訪ねているところが、どこか“救い”を求めているように感じるせいでしょうか。
pinkich
ChinchikoPapa
片多徳郎と山下鐡之輔は親しかったんですね。山下鐡之輔というと、同じ東北出身の萬鐵五郎や、フュウザン会つながりで岸田劉生とか木村荘八の名前が浮かびますが、のちの春陽会つながりでしょうか。
数多くの女性と交渉をもつことが、「男の甲斐性」とか「男の道楽」などといわれていた時代ですので、当時は破滅タイプの人間とはみられなかったのではないかと思いますが、なんとなく人間関係を築くのが苦手で、交渉ベタのような感じがしますね。
pinkich
ChinchikoPapa
片多徳郎の遺作展は、新宿紀伊国屋の2F展示場で開かれていますので、石井柏亭のコメントは1935年(昭和10)10月以前のもののようですね。片多徳郎クラスですと、作品の販売先や所有者も記録されハッキリしていたでしょうから、当時、展覧会の開催時には、比較的作品を集めやすい画家だったのではないかと思います。
同年発行の「アトリエ」11月号によりますと、『霹靂』をはじめ代表作から素描までが展示された、生涯を振り返る展示内容だったようで、展評では『霹靂』のころがピークだったと規定していますね。
遺作展の総評は、片多徳郎を晩年になるほど不遇で「置きざり」にされた画家だと位置づけていますが、おそらく今日同様の展覧会が開催されれば、かなり異なる位置づけがなされそうですね。
pinkich
ChinchikoPapa
画家の「売り上げ」と景気は、大きく連動しているのは、いまも昔も変わらないようです。油絵という表現法が、現代の住空間に合わないせいもあるのでしょうが、一部の画家作品を除き暴落に近い価格の低化がとまらないですね。
片多徳郎のサインは、若いころに「T.katata」とふった作品を見ますけれど、後年には漢字+印(篆刻?)が多くなりますので、「かただ」と言い習わした美術関係者がいて、それが広まったのかもしれませんね。
pinkich
名古屋市の墓地で 片多徳郎書伯自殺 酒豪で聞こえた元帝展審査員 7日前に飄然家出 】 豊島区長崎東町1の1の377元帝展審査員洋画家片多徳郎氏45歳は、昨年来アルコール中毒症が昂じ同年10月から本年2月まで巣鴨脳病院に入院し、やや回復して退院後も到底画筆に親しみ得ず、専ら自宅付近の高島医院の手当を受けていたが、去月26日飄然外出したまま行方不明となり、2日に至り家人外出目白署に捜索願いをだした、同署では非監置精神病者の失踪として全国に手配中、同夜に至り片多氏はすでに去る28日名古屋市内において自殺し、当時身元不明のため市役所の手で仮埋葬されていたことが判明、往年帝展の中堅作家とし、また、画壇随一の酒豪として酒中の仙とまでいわれた氏のこの悲惨な死に知友はひとしく暗然としている。
pinkich
pinkich
ChinchikoPapa
また、わざわざ当時の貴重な新聞記事を掲載いただき、ありがとうございました。死亡してから4日もたって、ようやく自殺者が片多徳郎であることがわかったのですね。なんとも、痛ましい最期です。
曾宮一念が『いはの群れ』を出版したのは1938年(昭和13)ですから、片多の自死からわずか4年余りしかたっておらず、いまだに強烈な印象を残していたものでしょう。精神的な病といえば、曾宮も病んだ最初の夫人を抱えていましたから、決して他人事のようには思えなかったのではないかと思います。
おっしゃるとおり、記事を読むと片多はもともと酒豪であり、酒の飲みすぎでアルコール中毒になって、錯乱したあげくの自死……という印象を、読者は強く受けますね。遺書がなかったことも、そのような想定をさせる原因となったものでしょうか。病気の治療中に、あるいは酒を飲みながら、片多は日常的に家族や知人へどのようなことを語っていたものか、いまとなっては取材も不可能なのがもどかしいですね。
pinkich
片多書伯 生前の念願叶う 遺作展を飾る出世作 哀話の「花下竹人 」 去る五月、名古屋で悲惨な最期を遂げた帝展審査員故片多徳郎氏の遺作展は来春1月10日から25日まで上野府美術館に開かれる春台展の一室を借りて開催されることとなったが、出品作約140点の中に一つの哀しい思い出の作品が混じって関係者を涙ぐませているー文展第13回大正7年に出品して非常な好評を博した出世作「花下竹人」がそれだ。これは故人が飛鳥山で見つけた乞食を早速その場でスケッチし、そのスケッチによってその秋50号の大作に仕上げ額縁まで自分で作って出したもの 苦境にあった時代だったので直ぐに手放してしまったが仲介者があったため飼い主の北海道久保某氏の素性もわからずに終わった、だが快心の作として死ぬまでもう一度見たいと口癖のようにいっており、一度は京都の画商三角堂に飾られていると聞いてわざわざ出かけて行ったがーー持ち主が買手がつかなかったため又持ち帰ったのだろう、その時もすでになく、以来杏として絵の行方が知れず、探しあぐんだ故人は薄命の中に死んで了った、ところが今度遺作展開催となって「あの作が出品されなければ歯が抜けたようだ」というわけで方々探索、遺児の三吉君草吉君をはじめ世話人が奔走していると小樽の小間物商で久保なる人の息が芝区三光町で弁護士を開業しているそこに問題の絵があるはずとの消息が同地の新聞美術記者から入った、弟子達が検分すると正しく花下竹人そしてかつて現在の所有主が神戸在住当時、京都の画商に3日託して陳列させたことも判明したというのである。
pinkich
ChinchikoPapa
『花下竹人』は、飛鳥山のサクラが咲きほこる樹下で、乞食が尺八を吹いている構図のようですね。実際の画面で見てみたかったです。タブローは失われたようですが、習作が大分県立美術館にかろうじて収蔵されているみたいですね。これで習作のトリミングどおり、50号Mタテの画面となると、かなり印象に残る作品となりそうです。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/1063;jsessionid=144B1B963C570858C173BB74E45722C0?artId=204&artCondflg=1
1919年(大正7)当時の文展会場を想像すると、片多の作品は群を抜いて来場者の目を惹いていたんじゃないかと思います。
pinkich
ChinchikoPapa
片多徳郎がいた豊島区の住所は、長崎東町1丁目1377番地ではないかと思います。長崎東町が存在していた時代(1932~1939年)、地番は「丁目・番地」までの表記で、戦後にみられる「丁目・番地・号数」表記はいまだ存在しません。
長崎1-1377は、武蔵野鉄道の椎名町駅の北西で、近くに不動湯がある界隈、つまり長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」のごく近くか、そのエリア内部ですね。記事末に、1932年(昭和7)に作成された1/10,000地形図の、長崎東町1-1377界隈を掲載しました。ご参照ください。
わたしの場合、昔の住所地番と現在の場所がすぐに比定できるよう、さまざまな組織や企業によって発行された地図を、変更が激しい地域は年ごと、そうではない地域でも数年おきに参照できるようにしています。たいがいそれで、昔の住所がどのあたりになるのか、“あたり”をつけることができます。
pinkich
ChinchikoPapa
わたしは、佐伯作品の表現に惹かれるのはもちろんなのですが、落合地域の街角がどのような風情をしていたか、そして描かれた街にはどのような人たちが住み、どのような生き方をして、どのような物語を紡いでいたのかに、より興味を感じるようです。
下落合の昔の風情はこうだったんだ……というのを基盤に、それぞれの時代に変貌したであろう風景を目にしながら、そこで暮らしていた人たちはなにを感じ、どのような考えをもって生きていたのかに、やはり興味が湧くのでしょうね。
pinkich
ChinchikoPapa
椎名町駅の北側は、空襲の被害をあまり受けなかった地域ですので、長崎神社(氷川社)や金剛院をはじめ、その周囲の住宅群も戦後までそのまま残っていました。桜ヶ丘パルテノンも、ほとんど無傷でしたね。だから、画面と当時の長崎写真とを比較すれば、かなり正確に場所を特定できる可能性があります。
ただ、目立つ坂がほとんどなく、緩やかな台地上のエリアですので、大分市美術館の「絶筆」はどこか別の場所を描いている可能性が高そうですね。