西武電気鉄道が、おそらく大正時代の後期(1925年か?)に設計した、プラットホームの図面を入手した。ひとつが、島状のホームの両側を線路が走る「停車場設計平面図/添断面図(落合・井草)」、もうひとつが、2本のホームの中間を線路が走る「中間停車場設計平面図(久米川・小平等)」の2枚だ。氷川明神前の旧・下落合駅Click!は、この図面をベースに建設されている。
面白いのは、「停車場設計平面図/添断面図」の図面が、「落合・井草」となっている点だ。西武電鉄に、当初からこのような駅名は存在しない。「井草」の場合は、上井草駅と下井草駅だ。「落合」のケースも同様、落合地域にできた駅は下落合駅Click!と中井駅Click!だ。つまり、図面に書かれた地名は駅名ではなく、その地域で建設する予定駅の総称とみられる。設計図が制作された時点では、まだ個々の駅名は決定していなかったろう。換言すれば、落合地域にできた下落合駅と中井駅は“双子”であり、4つの駅すべてが同一図面で建設されていることになる。
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当初のプラットホームは、1輌編成の車輌が停車できる長さで十分だった。事実、開業からかなりの年月の間、西武電鉄の電車は1輌のまま走りつづけている。でも、設計図を見ると車輌編成が長くなったときのことを考え、かなりホーム増設の余裕をみて線路を敷設していたことがわかる。特に島状ホームの場合は、ホームが延長された場合には線路を敷き直さなければならなくなるため、かなり長めのスペースをあらかじめ確保していた様子が見てとれる。
もうひとつの「中間停車場設計平面図」は、現在の西武新宿線ではポピュラーになっているプラットフォームの仕様だが、1927年(昭和2)4月の時点では久米川駅や小平駅など、東京市からかなり離れた駅で採用されていたようだ。設計図のプラットホームも、市内の駅に比べてかなり長めに計画されている。もちろん、これは利用客が市内より郊外のほうが多かったからではなく、郊外から市内へ、あるいはその逆のコースで物資を運ぶ、長い車輌編成の貨物列車を考慮していたせいだろう。中央の斜線の部分が客車利用時のプラットホームであり、左右に延びた長いホーム全体が、貨物列車の停車を想定しているものと思われる。
氷川明神前にあった旧・下落合駅のあたりを、1936年(昭和11)の空中写真で観察していると面白いことがわかる。下落合駅が、現在の聖母坂下へ移動Click!したのが1930年(昭和5)7月。空中写真は、その6年後に撮影されているにもかかわらず、島状ホームの痕跡がはっきり確認できるばかりか、駅があったあたりの線路の色が、他の線路の色と明らかに異なっているのが見てとれる。プラットホームの撤去・移動にともない、線路や敷石などのメンテナンスを同時に行なったため、他の線路部とは異なる色合いのまま残ったのではないだろうか。
戦後すぐのころ、1947年(昭和22)に撮影された空中写真では、より島状ホームの痕跡をはっきり確認することができる。もちろん、現在ではこの少しずつ拡がる“すき間”はなくなり、線路はくっついて平行に修正されているのだけれど、空中写真ではわたしが下落合を歩きはじめていたころ、1974年(昭和49)の時点まで線路のふくらみが確認できるので、修正されたのはそれほど昔のことではなさそうだ。線路の修正工事は、1970年代の末ぐらいだろうか。

1930年(昭和5)7月3日、聖母坂の下にできた新しい下落合駅がオープンする。2代目・下落合駅は島状ホームにはならず、上掲の2枚目「中間停車場平面図」の設計図面が採用された。わざわざ幅を拡げて線路を敷き直す手間やコストを避け、島状ホームではなく中間型ホームにしたものだろう。でも、当初の島状ホームに用いられていたと思われる数多くの大谷石を、現在の下落合駅のプラットホームClick!でも確認することができる。
面白いお話を、堀尾慶治様Click!からうかがった。図面を見ると、開業当初から西武電鉄各駅のプラットホームはちゃんと造られていたように思えるのだが、堀尾様は久米川に親戚が住まわれており、しばしば開業後の電車に乗って久米川駅に降りられている。ところが、久米川駅にはプラットホームが存在せず、土手のような盛り土の上で乗降していたそうなのだ。「開業」というと、のちに作成された同鉄道の「公式」記録ともあいまって、すべての計画が完成したと思われがちだが、高田馬場仮駅Click!の開業時期なども含め、後世の“つじつま合わせ”に留意しなければならない。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。
■写真上:旧・下落合駅があった、氷川明神前の西武新宿線の現状。
■写真中上:上は、大正後期(1925年?)に作図された「停車場設計平面図/添断面図(落合・井草)」。中は、その部分拡大。下は、同じく「中間停車場設計平面図(久米川・小平等)」。
■写真中下:上左は、別角度からみた下落合駅跡の現状。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同駅跡。下左は、1929年(昭和4)に作成された「落合町市街図」にみる氷川明神前の下落合(志もをちあい)駅。下右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同駅跡。
■写真下:左は、1932年(昭和7)の鷺宮駅。右は、戦後の撮影と思われる中井駅。
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この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ナカムラ
ChinchikoPapa
わたしも、あの踏み切りのところを通るたびに、つい周囲をキョロキョロしてしまいます。特に下落合駅跡の南側へ、東京富士大学のビル建設のために地面が掘り返されていたときは、コンクリート片や大谷石片などが混じってないかどうか、目を皿のようにして探したのですが、なにも見つけられませんでした。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>トメサンさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ほりけんさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>たいせいさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
No14Ruggerman
その空き地を「シャンソン広場」と呼んでいたのですが、多分「シャンソン化粧品」の跡地だったのではないかと思います。(化粧品のガラス瓶などが散乱していて、とても野球をやるような場所ではなかったのですが・・)
*「さよなら・今日は」が放映されていた時期より数年前のことです
ChinchikoPapa
一時期、下落合や高田の神田川沿いには、製薬や化学、化粧品などの企業や工場が集まっていた時期があったようですね。いまでもエステー化学や、少し下流になりますが大正製薬などに、その名残りが見られます。
あの踏み切りの南東側に、大正末から戦後のころまでずっと空き地があったのは、地図や空中写真でおおよそつかんでいたのですが、その後、シャンソン化粧品があったというのは初めてうかがいました。その跡地で野球をされていたというのも、とても面白いですね。
実は、あの空き地にはずっと注目してまして、下落合駅からの引込み線、すなわち西武電鉄が開業当時、高田馬場仮駅の設置さえ間に合いそうもなくなったとき、まさにこの空き地あたりに下落合駅を起点とする、始発や終点の電車を引き入れる操車場=「折り返しの場」があったらしいからです。当時の西武電車は1輌でしたので、それほど広い操車場がいらなかったんですね。
この物語については、目撃者の方の貴重なお話もうかがっていますので、改めて近々書いてみたいと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa