いま新宿歴史博物館で企画が進んでいる、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!を中心とした美術展で、どうしても作品のゆくえが知りたい洋画家がいる。佐伯祐三が、『K氏の像』として肖像画を描いている笠原吉太郎Click!だ。同作は佐伯から笠原家へとプレゼントされ、長く同邸の居間に架けられていた。そして、笠原は逆に『下落合風景』を描く佐伯祐三の肖像を描いている点でも、同展ではぜがひでも欠かせない存在なのだ。すでに、『K氏の像』は和歌山近美から同展に借りられそうとうかがっているので、笠原作品もその隣りに並べてぜひ展示したい。
笠原吉太郎は、佐伯祐三とほぼ同時期に『下落合風景』シリーズClick!を描いており、佐伯よりも早く1925年(大正14)ごろから『下落合風景』シリーズClick!にとりかかっている松下春雄Click!ともども、大正末から昭和初期にかけて急速に変貌する新宿・落合地域の風景をとらえた、かけがえのない画家のひとりなのだ。笠原吉太郎が下落合に住むようになったのは、1918年(大正7)ごろとかなり早く、瀟洒な西洋館を八島さんの前通りClick!沿いに建設している。6年間もフランスに留学し、リヨン国立美術学校の意匠図案科を首席で卒業した彼だが、関東大震災Click!を境に農商務省の図案の仕事をやめて、本格的な画業に専念するようになった。
笠原をめぐる大正末の周囲の状況を、1973年(昭和48)4月に発行された『美術ジャーナル』掲載の、外山卯三郎Click!「画家・笠原吉太郎氏を偲ぶ」から引用してみよう。ちなみに、外山卯三郎の夫人・一二三(ひふみ)Click!は結婚する以前、笠原吉太郎のもとへ絵を習いに通っている。
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当時パリ遊学から帰っていた前田寛治が目白(下落合)にアトリエをもち、その中間の早稲田側の谷に下る台地に、里見勝蔵がおり、宮坂勝が移ってき、その奥のところに佐伯祐三のアトリエがあったのです。もっと早稲田寄りの丘の中腹に中村つね(ママ)の家があり、目白通りをへだてて中央美術社の田口省吾のアトリエがあったのです。当時、すでにこれらの画家たちを中心とした<一九三〇協会>が結成されており・・・ (外山卯三郎「画家・笠原吉太郎氏を偲ぶ」より)
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笠原吉太郎は、ここに書かれている1930年協会にも参加しているが、1926年(大正15)に早くも「第1回笠原吉太郎個人展覧会」を開いていた。銀座の宮沢家具店が会場となり、笠原吉太郎後援会が主催している。佐伯祐三が新宿紀伊国屋で個展を開く、1年も前のことだ。また、昭和初期の笠原邸界隈の様子について、同誌の高良武久Click!の文章から引用してみよう。
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この辺りには画家が多く、私の家の直ぐ右隣りに笠原吉太郎氏のお宅があり、左隣りには川口軌外氏、近くに吉田博氏や片田徳郎(ママ)氏、少し離れて満谷国四郎氏、佐伯米子氏などが住んでおられた。私は絵が好きだったのでこれ等画家たちの名前を知っていたが、実際に交誼のあったのは笠原さんを初め、吉田博氏と川口軌外氏であった。(高良武久「笠原さんを憶う」より)
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「片田徳郎」は下落合596番地に住んだ、いま人気が高まりつつある片多徳郎の誤植だが、川口軌外Click!が現在のアトリエを建てる以前、高良家の左隣り、すなわち南隣りに住んでいたというのがめずらしい情報だ。高良武久が笠原の思い出を同誌に寄せているのは、彼の『下落合風景』を中心とする作品群が気に入って譲ってもらっていたからであり、笠原の作品群はのちに妙正寺川沿いに建設された、高良興生院Click!に架けられていた可能性が非常に高いということになる。
先日、高良とみClick!について取材する際にも、下落合の高良興生院跡へ出かけているが、改めて調べてみても高良家はすでに同所にも、また周辺のマンションにもお住まいではなかった。同家が、1927年(昭和2)の5月ごろに制作された『下落合風景を描く佐伯祐三』をお持ちかどうかはわからないが、佐伯の『K氏の像』とともに展覧会ではどうしても欲しい作品なのだ。あるいは、笠原家のご子孫の方が所蔵されているのだろうか? 同誌には、笠原吉太郎の次女であり、関東学院女子短期大学の安藤寿々代教授へのインタビューも掲載されている。
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父の一周年記念祭に、遺品として頒けて貰った作品二十一点と、父が生前親交を結んだ佐伯祐三画伯が描かれた父の肖像画とを自宅に展示して、知己の方々を招待いたしました。父えの愛情と、理解を深めたかったからです。(安東寿々代「あの当時はのびのびした時代でした」より)
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わたしもぜひ拝見したかった、下落合の笠原邸で開催された展覧会だが、笠原吉太郎は1954年(昭和29)に78歳で死去しているので、その1周忌というと同展は1955年(昭和30)に行われているのだろう。わたしは、残念ながらまだ生まれてもいない。笠原邸で行われた1周忌展でも、佐伯の『K氏の像』は展示されているが、おそらくその横には笠原の『下落合風景を描く佐伯祐三』が、並べて展示されていたのではないかと想像するのだ。
同作がなぜ重要なのかといえば、下落合で仕事をする佐伯をとらえた唯一の作品であるのはもちろんだが、1927年(昭和2)の4月時点でも佐伯はいまだ近所Click!を歩きながら、『下落合風景』の連作をつづけていたのであり、残された「制作メモ」Click!に記載されている1926年(大正15)秋の30点余のタイトルだけに限定し、佐伯は『下落合風景』を「30点余り制作した」とする、従来の「公式」記録は明らかに誤りだと思うからだ。
それは、同年の冬以降に描いたと思われる『下落合風景』が多数存在していること、さらに1927年(昭和2)の1930年協会第2回展Click!や、新宿紀伊国屋の個展Click!、1929年(昭和4)に大阪の美津濃で開かれた遺作展Click!へ出品された『下落合風景』と思われる作品に、未知のものが多く存在していること、そしてなによりも佐伯は下落合のアトリエで独自の画布Click!を600枚も制作していること・・・などを考え合わせれば、とても30点余どころではない作品数を想定できるからだ。それは、機会があるごとに当サイトでも書いてきたけれど、わたしは佐伯の『下落合風景』はゆうに100点を超えるボリュームではないかと考えている。詳細は明らかにできないけれど、すでに今年に入ってからも未知の『下落合風景』が発見されていたりする。あとどれぐらいの『下落合風景』が全国に眠っているのか、想像もつかないのが現状なのだ。
1927年(昭和2)5月に描かれた『K氏の像』は、先に同年4月に制作された『下落合風景を描く佐伯祐三』に対する返礼・・・という意味合いもこめられていただろう。来年春に予定されている新宿歴史博物館での美術展では、『K氏の像』と『下落合風景を描く佐伯祐三』を、55年ぶりにぜひ対面させてみたいと思っているのだけれど・・・。どなたか、笠原吉太郎の同作か、あるいは連作『下落合風景』についてご存じの方があれば、ぜひ情報をお寄せいただければと思う。
■写真上:おそらく昭和初期のころ、野外で制作中の笠原吉太郎をとらえた貴重なショット。下落合の住宅街で制作していると、ギャラリーがたくさん集まってきたことが笠原の記録に残されている。ひょっとすると、佐伯祐三の仕事にも多くのギャラリーが集まっていたのかもしれない。
■写真中上:左は、1927年(昭和2)4月に制作された笠原吉太郎『下落合風景を描く佐伯祐三』。右は、1927年(昭和2)5月に描かれた佐伯祐三『K氏の像(男の顔/笠原吉太郎像)』。
■写真中下:左は、1954年(昭和29)2月に死去するまで下落合679番地に住んだ笠原吉太郎。右は、1931年(昭和6)に描かれ「第6回個展」に出品された笠原吉太郎『赤いタンク』。
■写真下:ともに、1927~1928年(昭和2~3)ごろに制作された笠原吉太郎『下落合風景』。
この記事へのコメント
ナカムラ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
55年前の笠原邸展覧会に、『下落合風景を描く佐伯祐三』が展示されていなかったとしますと、もし今回の美術展で両作が展示されれば、およそ80年ぶりの邂逅ということになりますね。戦後の「美術ジャーナル」に画像が掲載されているということは、戦災で焼けていないはずですし・・・。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>トメサンさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
笠原豊喜
吉太郎の孫です
吉太郎の子供の代はほとんど他界しております
現在私は米国カリフォルニア州に住んでいます
記事に出てくる安藤寿々代の娘(私のいとこ、カナダ在住)
にも連絡しましたが、『下落合風景を描く佐伯祐三』の所在は
知らないそうです
祖母が以前にどなたかに譲ってしまったのではないかとの
事でした
mail address : toyokasa@gmail.com
ChinchikoPapa
また、貴重な情報をありがとうございました。そうでしたか、『下落合風景を描く佐伯祐三』は行方不明なのですね、残念です。
もし、同作の所在が判明したら、ぜひカラー画像でご紹介したいと考えておりました。朝日晃氏が2001年に書いた『そして佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)には、同作の画像が紹介されていますので、そのころにはまだ所在がわかっていたものでしょうか。
カラー画像といえば、笠原画伯が描かれた『下落合風景』シリーズもカラーでご紹介したいのですが、残念ながら作品自体もカラー画像も見つけることができませんでした。したがいまして、昨年、新宿歴史博物館で開催されました「佐伯祐三-下落合の風景-」展では、残念ながら作品を展示できていません。そのかわり、図録の「“下落合風景”をめぐる人々」には、お祖父様の項目を設け、少し書かせていただいたしだいです。
そういえば、展覧会には笠原画伯のご姻戚の方が、おひとりおみえになりました。たまたま、わたしの子供が展覧会へ出かけているとき、『K氏の像』の前でお目にかかったようです。
わざわざご連絡をいただき、ありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。また、のちほどメールでご挨拶させていただきます。
ChinchikoPapa
笠原哲郎
なんか、嬉しいです。
ChinchikoPapa
笠原吉太郎画伯には、6人の子息子女がおられ12人のお孫さんにめぐまれたとうかがっています。うち、9人の方がご健在で、そのうち3人の方からとても貴重な情報をいただいています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-31
上記の記事につづき、しばらくお曾祖父様の記事がつづくと思います。^^