うちのオスガキがふたりとも通った母校、近くの御留山Click!に隣接する落合第四小学校の校歌の作詞者が、ずっと「不明」のままだ。少し前までは、「作詞:不詳/作曲:林良夫」と表記されていたのだけれど、近年「作詞:当校教諭」に変更された。じゃあ、作詞者名はわかってもよさそうなもんじゃんか・・・と思うのだけれど、直接的な“証拠”がないので確定できないでいる。作詞は、富永熊次という戦前に同校へ赴任してきた教師だったようだ。
富永熊次教諭は、1939~1941年(昭和14~16)に落四小へ赴任してきており、在任期間は2年間と非常に短かった。そして、「♪紀元は二千六百年~」の1940年(昭和15)2月に、落四小学校の校歌は制定されている。当初は、おそらく歌詞は3番まであったのだろうが、3番は時節がら軍国主義的な内容だったものか戦後にカットされ、現在は2番までが歌い継がれている。現在ではひらがなで表記されている歌詞だが、作詞当初の表現は以下のようなものだ。
★落合第四小学校・校歌(1940年制定)
一 蓑を借らんと言ふ人に 花を捧げて文の道
励ましたりし縁(えにし)の地 我が学び舎は建ちにけり
我らの心 磨かんと
二 鷹を放ちて将軍が 武士(もののふ)の道練りしてふ
所縁(ゆかり)も深きお留山 我が学び舎は建ちにけり
我らの躰 鍛えんと
1番の太田道灌にまつわる室町期の“山吹の里”Click!伝承は、下落合からは少し東へ離れた地域のエピソードなので、どうせなら鎌倉街道が通う落合という視点から、もっと古い七曲坂の“頼朝”伝説を採用すればよかったのに・・・と、わたしはオスガキが在学中から思っていた。でも、富永教諭は山手の小学校を次々と転任していたようなので、そこまで地域の伝承を掘り下げてじっくりと作詞できなかったものだろう。落合第四小学校は、1932年(昭和7)に開校し今年で77周年になるが、1940年(昭和15)までの8年間、同校には校歌が存在しなかった。
当時、落四小で富永教諭が担任だった6年1組の生徒たちは、校歌が同教諭によって作られている“現場”を目の当たりにしており、「作詞:不詳」ではないことを新宿区教育委員会へ申し入れてきた。でも、最終的に富永教諭が作詞した直接証拠が見つからないため、「作詞:同校教諭」という表記にとどまっている。富永教諭は、1997年(平成11)11月に95歳で死去しており、教員時代の遺品はほとんど整理されてしまってもはや存在しない。
ところが、ちょっと調べてみたところ、同じ新宿区内の淀橋第四小学校の旧校歌が、富永熊次の作詞であることが判明した。1930年(昭和5)に制定された校歌だが、このとき富永教諭は同校に赴任していたものだろう。淀四小の旧校歌は、作詞されたのが落四小よりも10年も早いため、軍国調の歌詞がなかったせいか、長い間3番までが歌い継がれてきた。
★淀橋第四小学校・旧校歌(作詞:富永熊次/作曲:北川正義/1930年制定)
一 朝夕に心をば磨けと 神の作られし
鏡掛けたる柏葉の 徽章頂く第四校
二 時代の塵に曇らざる 清き心と操とは
美空に高き富士の嶺の 千歳の雪に類ふべき
三 昔ながらの緑葉に 輝く我等の鏡をば
さらに磨かんいざさらば さらに磨かん諸共に
淀四小と落四小とで、歌詞の表現を比較すると、両作がよく似ているのがわかる。1番に地域の故事や謂れを詩に織りこんでいること、2番に望める「山」が登場していること、「心を磨く」というフレーズが重なること、そして詩全体に通底する透明感・清楚感・・・などが共通項だろうか。
“現場”でリアルタイムの目撃情報が、同校の教え子側からハッキリしている点、淀橋区(新宿区)内の校歌を同様に作詞している強力な傍証などから、落四小の校歌は「作詞:富永熊次」としてもいいのではないかと思うのだけれど、本人の作詞ノートや学校側の証拠としての書類などが出てこないと認められないらしい。淀橋区は戦時中、激しい空襲を繰り返し受けており、紙の証拠資料がなければ作詞者と認定できない・・・というのは、いかがなものだろうか? 1940年(昭和15)の当時、落合第四小学校へ通われていた方で、富永熊次教諭を憶えていらっしゃる方、あるいは校歌制定時のことをご記憶の方がいらっしゃれば、ぜひコメントをお寄せいただきたいと思う。
■写真上:御留山に隣接した、1932年(昭和7)開校の落合第四小学校。
■写真中:左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落四小学校。校庭の南側が切り立ったバッケ(崖地)のままで、同校を建設する際に出た土砂により氷川明神社の池が埋め立てられている。右は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真の同校。
■写真下:左は、1955年(昭和30)の落合第四小学校。右は、同年の淀橋第四小学校。
★記事を書いてから堀尾慶治様より、1993年(平成5)11月14日のクラス会で撮影された、当時は91歳の元落四小教諭・富永熊次氏の写真をお送りいただいた。右側が落四小の校歌を作詞したと思われる富永熊次教諭で、左側が堀尾様。
この記事へのコメント
ももなーお
http://www.warabe.or.jp/library/doyo/ongakuka-m.htm
でも、行政ってお堅いというか融通が利かないというか、誰かに難癖でもつけられると責任問題になるからまずいっていうのがみえみえですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
おおっ、あの田村虎蔵ですか! URL先のリスト以外にも、「われは海の子」や「村の鍛治屋」も、昔の小学校唱歌は彼が作ったものが圧倒的に多いですよね。めちゃくちゃメジャーな校歌じゃないですか。確か、住まいは旧・牛込区(新宿区)の築土八幡下あたりで、新宿区の記念プレートも建っていたんじゃないかと思います。
昔ほどではないにせよ、やっぱりお役所の壁というのは厚くて堅いようですね。そんな担当者ばかりでないのは、最近わたしも重々承知はしているのですが、まだ「昔気質」の部局もありそうです。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>shinさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ほりけんさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
ChinchikoPapa
sig
この事情なら、作詞者としては十分認められてもいいですね。
「当校教諭」とまで表記することにしながら、「書き物」が残っていないという理由だけで氏名を明記できない・・・それがお役所と仕事いうものなんですね。
ChinchikoPapa
状況証拠は十分ですよね。ただ、紙の資料が存在しないだけで「投稿教諭」という表現にとどめているところが、とてもお役所的です。じゃあ、逆にたどれば、落四小学校で校歌を作詞しそうな教師をピックアップするとなると、富永熊次教諭しか残らない・・・ということで、当人同然ということがいいたいのでしょうが、そこまで表現を「工夫」するなら、ズバリ当人の名前を出してもぜんぜんかまわないのではないかと思うのですが・・・。w
ChinchikoPapa
No14Ruggerman
37年前に落四を卒業した者ですが、ひょんなことから先月このブログに出会い、以来釘付けとなりました。
現在四国で単身生活を送っていますが、これまで全国津々浦々転勤や出張で訪れた際「新宿区出身」と自己紹介するとそれだけで一目置かれました。しかしたまに地方でも新宿に詳しい方に出くわし「新宿区のどちらですか」と訊ねられ「下落合です」と答えると「ああ山手線の外側(のいなか)ですね」とのリアクションに卑屈になることもありました。
このブログにめぐり会い改めて下落合の素晴らしさや歴史の重み、更に様々なる新たな発見をし、下落合プライドを掻き立てられました。ありがとうございます。今後も楽しい記事をよろしくお願いいたします。
ところで落四の校歌ですが、気になった点がひとつあります。当初の歌詞の2番の最後の部分は「我らの心鍛えんと」だったのですね。在学中は歌詞が難解で、1番2番とも最後のフレーズくらいしか理解できていませんでしたが、自分らの頃は1番が当初と同じ「心磨かんと」で2番は「からだ鍛えんと」と歌っていました。いつから「心」が「からだ」に変わったのかまた興味がわいてきました。
それから私が開設した稚拙なブログにniceをいただきましてありがとうございました。さすが博学ですね。「いたんぽ」とは「いたどり」のことで、地域によっては「いたずり」とも言うそうです。この他にもあと2点聞いたこともない食物を教わったのでいずれまたブログで触れるつもりです。
ChinchikoPapa
四国に単身でのご出張、おつかれさまです。落四小学校を卒業されたのですね。^^ わたしは、下落合とは高校時代に足を踏み入れたときからの関わりですので、落四小は子供たちが通った範囲だけのことしか知りません。でも、校庭から眺める新宿駅周辺の様子が、1970年代と今日とではいかに変わったか・・・、なんだか当時の風景が夢のように感じられます。
こういうブログをやっているせいでしょうか、山手線の駅名で表現される「めじろ」という地域名には馴染めず、「しもおちあい」といういにしえからの地域名の響きのほうが好きです。これは、根っからの地付きの“下落合人”の方々も、よく言われますね。別に古老の方だけでなく、わたしと同年齢の方々も「しもおちあい」が好き・・・という感覚。それだけ、強烈なアイデンティティが形成されている街なのだと思います。
記事に掲載しました歌詞は、1940年(昭和15)現在のものかと思います。3番が不明なのは惜しいですが、時代とともに(特に戦後は)少し手が入れられているのかもしれませんね。
ブログのスタート、おめでとうございます。ぜひまた、お気軽にコメントをお寄せください。w
ChinchikoPapa