エロシェンコと鶴田と曾宮の道連れ。

彝アトリエの曾宮一念.jpg
 下落合で近所同士だった中村彝Click!曾宮一念Click!は、生活上においてもなにかと共通点やつながりが多い。中村彝とはまったくちがう経緯で、新聞記者だった父親の関係から曾宮一念も父没後の翌年1914年(大正3)以来、今村繁三Click!から生活費の支援を受けていた。この今村が催した「牛鍋会」Click!が契機となって、曾宮は中村彝と知り合うことになる。曾宮は毎年作品を今村へ贈っていたが、支援がなくなった1933年(昭和8)にアトリエの庭に繁っていた桐の木を描いた作品(25号・30号)も二科展へ出品したあと、2作とも今村へプレゼントしている。
 曾宮一念の主治医は、彝と同じく遠藤繁清Click!医師だったが、曾宮は結核ではなく若いころから頭痛持ちだったのは、のちに悪化する緑内障による視覚障害の兆候が早くから出ていたからのようだ。遠藤医師の紹介で、1927年(昭和2)に富士見療養所へと入所するけれど結核の兆候は見られず、体調が完治しないまま退所している。遠藤医師が渡欧する際、曾宮は滞仏中の佐伯祐三Click!の治療を依頼しているけれど、すでに死去したあとClick!で間に合わなかった。曾宮は1930年(昭和5)ごろ、中村彝のパトロンだった新潟県柏崎に住む洲崎義郎Click!邸へも一時逗留している。そのあたりの様子を、『画家は廃業』(静岡新聞社/1992年)から引用してみよう。
  
 柏崎の隣村の比角村にある洲之崎(ママ)という旧家にも行きました。中村彝の絵を幾つも持っている、たいへんな中村びいきです。ですから中村の絵は、後援費をくれていた今村繁三とその洲之崎義郎の二人が所蔵していたと言っていいでしょう。二人とも戦争の初期に家の事情もあり、売り払ってしまっております。 (同書「越後」より)
  
中村彝アトリエ.JPG 曾宮一念アトリエ跡.JPG
 また、彝の友人だった小熊虎之助Click!ともつき合いがあり、どうも夢見の悪い曾宮へいろいろと心理的なアドバイスをしているようだ。小熊が書いた『夢の学』という本を、彼は薦められて読んでいる。中村彝の没後、東京美術学校で曾宮の1年後輩であり、彝の弟子でもあった宮芳平Click!を菅野女学校の美術教師へ推薦したのも彼だ。曾宮一念は、後輩の画家たちの面倒をよくみており、また下落合とその周辺に住む画家ネットワークの重要なハブ的存在となっていった。1923年(大正12)12月1日に、彝アトリエへ霞坂秋艸堂Click!会津八一Click!を紹介しに出かけたりもしている。
 曾宮は、新宿中村屋Click!に滞在していたワシリイ・エロシェンコClick!とも偶然に出合っている。エロシェンコは、目白駅から東へしばらく歩くと目白台にあった東京盲学校へ通っており、また下落合370番地から雑司ヶ谷大原に住んだ竹久夢二Click!や、上落合の辻潤宅Click!あるいは神近市子宅など、目白・落合地域には友人・知己も多く住み頻繁に姿を見せていたにちがいない。でも、曾宮が出合ったのは新宿中村屋の店先だった。(カッコは引用者註)
  
 ある日新宿までパンを買いに行きました。/そしたら、パン屋の店先の水道の蛇口のところに顔を洗いに来ていたのでしょう、金髪がモジャモジャとした外国人の姿を見ました。幾日か経ってから鶴田(吾郎)が私の家に寄ったとき、その話をして、外人がエロシェンコだと知り、中村と一緒に肖像画を描くことになったということも、そのときに聞きました。 (同書「エロシェンコ」より)
  
 そればかりでなく、鶴田吾郎Click!と中村彝が下落合の彝アトリエClick!で制作する当日、つまり1920年(大正9)9月9日の初日に、曾宮は当時住んでいた柏木の借家を出て大久保駅へと向かい、彝アトリエへ見物に出かけようとしている。ちなみに、この年の9月に曾宮は柏木に住んでいたのであり、中村彝が用意してくれていた下落合の借家では暮らしていなかった。ドロボーに入られたあと、すぐに引っ越しているのかもしれない。大久保から電車に乗り、新宿から山手線へ乗り換えた曾宮は、偶然同じ電車にエロシェンコと鶴田が乗っていたのに気づく。
制作中の曾宮.jpg 写生中の曾宮.jpg
  
 それじゃ、その日アトリエ(と)なる中村の家へ一緒に行ってみようと、翌日大久保駅から目白駅まで行きました。同じ電車に乗ってきたようで、階段を上って行くのが見えました。/「これから中村のところに連れて行くところだ」/というわけで、裏道をゆっくり歩いて十五分、中村の家へ歩いて向かいました。私はあとから付いて、前に鶴田とエロシェンコが話しながら歩いていました。鶴田は満州の新聞社に勤めていましたから、ロシア語が堪能でした。/私は中村の家まで付いて行きましたけれど、この後すぐに絵を描くらしいから、その足ですぐ帰ることにしました。そして午後、鶴田とエロシェンコが帰る時間に待ち合わせ、一緒に電車に目白から新宿まで乗って戻りました。これは私とエロシェンコとのふれあいの最後でした。 (同上)
  
 1920年(大正9)9月9日の制作初日、中村屋から下落合までエロシェンコを連れてきたのは鶴田吾郎であり、相馬黒光Click!の姿は見えない。他日、描きつづけようとする疲弊した彜を、鶴田と黒光がふたりがかりで止めているので、制作期間のうちの何日間かは鶴田ではなく、相馬黒光がエロシェンコを中村屋から下落合まで送迎しているのだろう。
 曾宮一念は、あちこちに書き残しているように人物画が苦手だった。(でも人物マンガClick!の腕はピカイチだった) カッチリと決まった形象のものを描くのが嫌いで、想像をはさめる茫洋とした風景や、自由に描ける事物を好んでモチーフに取り上げている。でも、まったく描かなかったわけではなく、夫人の肖像などのスケッチ作品が残っている。エロシェンコと鶴田とともに彝アトリエの前に立ったとき、ちょっとした気まぐれを起こしてエロシェンコの茫洋としたモジヤモジャ頭に惹かれ、鶴田とともにアトリエの中へ顔を出していたら、曾宮作の「エロシェンコの肖像」スケッチが残っていたのではないかと思うと残念だ。無関心だったわけではなく、興味があって道連れになったのだろうから・・・。
どんたくの会.jpg 画家は廃業1992.jpg
 翌年、曾宮一念と鶴田吾郎のふたりは、諏訪谷に面した曾宮アトリエClick!で近所の絵画好きを集めた画塾、「どんたくの会」を起ち上げることになる。でも、関東大震災Click!で画塾は消滅し、ようやく第2次「どんたくの会」がスタートするのは、8年後の1931年(昭和6)になってからのことだった。

■写真上:中村彝アトリエの曾宮一念で、背後に見えているのは南側の庭に面した居間。
■写真中上は、現存する林泉園の中村彝アトリエ。は、諏訪谷の曾宮一念アトリエ跡。
■写真中下はアトリエで制作中の、は写生中の曾宮一念で富士宮へ移住後の写真。
■写真下は、1931年(昭和6)に下落合で再開する第2次「どんたくの会」で、右端に立っているのが曾宮一念。は、98歳の曾宮へインタビューした『画家は廃業』(静岡新聞社/1992年)。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    AEOCのメンバーは、あとあとまでキラキラ活躍していますね。
    nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2009年10月11日 11:11
  • ChinchikoPapa

    キンモクセイのいい香りをかいでいると、突然、銀杏のつぶれた匂いが漂ってくる季節になりました。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2009年10月11日 11:17
  • ChinchikoPapa

    陽水の「小春おばさん」が唄われたのは高校時代なのですが、記憶が非常に薄いです。ジミー時田は、初めて歌を聴きました。^^; nice!をありがとうございました。>漢さん
    2009年10月11日 12:55
  • ChinchikoPapa

    (35)のいちばん上のメールアート作品、好きですね。
    nice!をありがとうございました。>ナカムラXY
    2009年10月11日 12:58
  • ChinchikoPapa

    手元に学生時代の純「六法」と、のちに購入した「判例六法」の2種がありますけれど、実際に開いて参照するのは「判例六法」のほうが多いようです。nice!をありがとうございました。>トメサンさん
    2009年10月11日 15:06
  • ChinchikoPapa

    映画史のかなり早期から、セミドキュメント映画が創られていたのですね。
    nice!をありがとうございました。>sigさん
    2009年10月11日 18:43
  • ChinchikoPapa

    素人とボクシング経験のある人とでは、同じパンチでも10発目、20発目の威力がまったく違いますね。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年10月11日 18:46
  • ChinchikoPapa

    高知フィルムマラソンの催し、なつかしい作品が並んでいて1日楽しめますね。nice!をありがとうございました。>Qちゃんさん
    2009年10月12日 20:29
  • ChinchikoPapa

    成果物がほとんどゼロで「平和賞」受賞というのは、少なからず異様に感じました。nice!をありがとうございました。>井関太郎さん
    2009年10月12日 20:33
  • ChinchikoPapa

    船舶模型が、ほぼ実物そのままの工程で製作されているとは驚きです。ないのは、進水式と公試運転ぐらいでしょうか。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2009年10月12日 20:41
  • ChinchikoPapa

    栗の実やドングリを見ると、とたんに“秋心”がつきます。きれいですね。
    nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2009年10月12日 20:46
  • ChinchikoPapa

    空気が澄んでいて、“秋色”は美しいですね。きれいなアルバムをありがとうございました。そして、nice!もありがとうございます。>まるまるさん
    2009年10月13日 13:39
  • ChinchikoPapa

    下落合のケースですと、消防法を認知している新宿区建築課の担当者が誰もいなかった(当人たちも認めています)ことにより、違法建築へそのまま「建築確認」を出してしまった・・・という経緯があります。耐震設計のテーマも同様ですが、トータルな視点からの建築について詳しくない自治体の建築部局というのは、いったいなんのために存在しているのでしょう。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2009年10月13日 14:41
  • ChinchikoPapa

    こちらにもnice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2009年10月19日 23:58

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