1916年(大正5)から旧・牛込区(現・新宿区の一部)の喜久井町、のちに転居して同区戸山町に住んでいた水彩画家に堀潔がいる。下落合でもお馴染みの満谷国四郎Click!や吉田博Click!、中村不折Click!らによって設立・運営されていた太平洋画会Click!に属し、東京府(都)あるいは新宿周辺の風景を膨大な水彩画に残しており、多くの作品が絵ハガキなどへ採用されている。
堀潔の作品群も、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!で壊滅的なダメージを受けている。自宅に保存していた、数多くの作品が一夜のうちに灰になり、そればかりでなく戦災では堀の家族も犠牲になっている。そのため、いまに残る戦前の風景作品の多くは、空襲時にかろうじて焼け残ったスケッチブックをもとに、改めて制作時の記憶をたどりながら、戦後に描き直されたものも少なくない。佐伯祐三Click!の山發コレクションClick!と同様、新宿界隈にアトリエをかまえていた画家たちも、かけがえのない作品の多くを戦災で焼失している。
冒頭の作品は、1964年(昭和39)に制作された堀潔『日本聖書神学校・メーヤー館』だ。下落合の七曲坂筋に建っていた、1912年(明治45)にW.M.ヴォーリズが設計・建築Click!した宣教師館(メーヤー館)を、北側の1924年(大正13)まで暫定的に初代・英語学校の校舎として使われていたとみられ、同じくヴォーリズ設計と思われる姉妹建築の敷地あたりから、南を向いて描いている。
メーヤー館は、先述の山手空襲でもかろうじて焼け残ったけれど、北側に建っていた姉妹建築の旧・英語学校は、1944年(昭和19)に目白通り沿いで実施された「建物疎開」により、惜しくも解体・撤去されている。もし、北側の建築が戦後まで残っていたら(メーヤー館が焼け残っていることでも、その可能性は十分にあった)、ヴォーリズ作品がもう1棟、下落合で発見されていただろう。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
堀潔がこの作品を描いたとき、メーヤー館の北隣りにはすでに前年から、南北に細長く白っぽいビルができているので、彼はおそらく完成したばかりのビルを背にメーヤー館を描いているのだろう。メーヤー館の様子も、昭和初期の風情とはだいぶ異なってきており、館のまわりを取り囲んでいた高さ150cmほどの生け垣がすでに見えなくなっている。また、モノクロの作品画像なので館全体のカラーリングが不明だけれど、屋根瓦のくすんだ赤、ないしは濃いオレンジ色は変わらないものの、1964年(昭和39)当時のメーヤー館は、現状の外壁が淡いグリーンで窓枠が濃いグリーンの配色ではなく、外壁がクリームで窓枠がグリーンのカラーではなかっただろうか。わたしが、1974年(昭和49)に初めて目にしたメーヤー館が、確かこの配色だった。
では、外壁=クリームと窓枠=グリーンが、ヴォーリズが建てた1912年(明治45)当時の配色かというと、どうもそうではないようだ。メーヤー館のすぐ南にアトリエをかまえていた中村彝Click!は、1919年(大正8)ごろ立てつづけにメーヤー館を描いた作品を残しているが、描かれた建物の外壁を拡大してみると、どうやら薄いグリーンに見える。ただし、メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校、すなわちヴォーリズの姉妹建築と思われる建物の外壁は、薄いグリーンではなくベージュで塗られていたようにも見える。もっとも、中村彝が現実の色彩を忠実に作品へ反映しているとは限らず、あくまでも画家の目を通した彩色である点に留意する必要があるだろう。
堀潔は、中村彝がちょうど下落合へアトリエClick!を建てたのと同年に、同じく新宿エリアの喜久井町へ住みはじめている。といっても、1916年(大正5)当時の堀潔は、わずか4歳にすぎなかった。1912年(明治45)生れの堀は、太平洋画会の大先輩である中村彝とは、25歳も年齢が離れている。冒頭の『日本聖書神学校・メーヤー館』は、彜が描いた1919年(大正8)から45年の時を隔てて描かれた姿だ。それから再び、40年余りの年月がすぎたとき、メーヤー館は下落合から姿を消し、堀の作品制作から再び45年めの今年、メーヤー館はヴォーリズの作品だったことが判明した。
堀潔は、『東京百景』と題するシリーズ作品を残している。昨年(2008年)の夏、新宿歴史博物館で開催された「堀潔が描く東京百景~明治・大正・昭和~」展は、数多くの観客を集めていたようだ。(わたしは行きそびれている) 堀作品の人気がきわめて高いのは、失われてしまった懐かしい東京(新宿)風景の記憶という側面もあるのだろうが、水彩画にしては非常に鮮やかな色づかいと、そこはかとなく漂うユーモラスな画題や情景とに惹かれるからではないだろうか。
■写真上:1964年(昭和39)に制作された、堀潔『日本聖書神学校・メーヤー館』(水彩)。
■写真中上:左は、1947年(昭和22)の空中写真にみるメーヤー館の描画ポイント。右は、堀が描いた北西の壁面を下から仰ぎ見たところで、見えているのは壁面左手にある2階の窓。
■写真中下:上左は、1919~1920年(大正8~9)ごろに制作された中村彝『風景』(部分)のメーヤー館で、外壁は薄いグリーンで塗られている。上右は、1920年(大正9)に制作されたと思われる中村彝『目白の冬(スケッチ)』(部分)。下は、同じく中村彝『目白の冬』(部分)。左側がメーヤー館で右側が旧・英語学校の建物だが、ともにヴォーリズの建築作品だと思われる。
■写真下:ともに堀潔の作品で、『三越新宿マーケット』(左)と『市電の飛び乗り』(右)。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>@ミックさん
ChinchikoPapa
sig
下の2点、今日のイラストに通じるような軽快な描写がいい感じですね。
ももなーお
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
熱烈な堀潔ファンが多いのは、おっしゃるとおり現代的なイラストに通じる表現で、なによりも親しみやすい作品だからではないかと思います。あと、東京市民にとても身近な街並み風景を描きつづけたという点も、ファンが多い要因ですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
新宿に住んでいながら、わたしが堀潔の名前を知ったのは、お恥ずかしいことにそれほど昔ではありません。やっぱり、自宅のアトリエに置かれた作品群のほとんどが、戦災で焼失してしまったのが大きく影響しているのかもしれませんね。
下落合にあった日本聖書神学校の校舎(旧・目白福音教会宣教師館=P.S.メーヤー館)は、2006年に千葉県へ移築・保存されています。下落合からなくなってしまったのは残念ですが、いまでも変わらずに美しい姿を見ることができるのはうれしいです。
ナカムラ
ChinchikoPapa
ときどき山手線と中央線、そして西武新宿線がかたちづくる三角デルタ地帯のようなエリアを歩いてみるのですが、大久保も東中野も、そして中野も案外近いのに改めて驚きます。ブラブラ散歩がてら歩いていると、じきにどれかの駅へ着いてしまう・・・という距離感で、この周辺に住んでいた人々は今日とは異なり、昭和初期にはほとんど乗り物を利用していないんじゃないかと思えてきました。
ももなーお
ChinchikoPapa
はい、ピーコック裏にあったグリーンで斜めの西洋館です。すでに移築作業は終わっているかと思いますので、行かれればどなたでもご覧になれると思います。ただ、邸内は「見学会」とかが催されないと、難しいかもしれませんね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ばん
ChinchikoPapa
NHKでのお仕事、おつかれさまでした。また、もうひとりの「大物」くんは暑そうですね。うちのネコも、板の間にベタッと寝転がっては涼んでいます。
アヨアン・イゴカー
ChinchikoPapa
いまの新宿通りにある三越デパートとは、建物の規模も形状も違いますので、同じ新宿の別の場所にあった「三越市場(マーケット)」ではないかと思います。新宿通りは大きな「百貨店(デパート)」仕様ですが、こちらは地域密着型の「市場(スーパーマーケット)」仕様の小規模店舗ではないかと想像しています。
ChinchikoPapa
>takagakiさん
>シルフさん