江戸時代の初期まで、現在の飯田橋から目白通りを少し入ったあたりには白鳥池(しらとりいけ)が拡がっていた。その当時、白鳥池があった場所は現在の凸版印刷の本社ビルがある大曲(おおまがり)から、小石川崖線の小日向Click!(こびなた)下あたりまでということだが、わたしは白鳥池は本来、もっと広大で東西に長く、大きく拡がっていたのではないかと考えている。江戸初期、1657年(明暦3)に埋め立てを完了したのは、おそらく最終形の姿をしていた白鳥池だったろう。白鳥池の痕跡は、いまだ大曲近くに残る白鳥橋という名称に見ることができる。
わたしは江戸期のさらに以前、たとえば全国に鎌倉街道が整備された鎌倉時代には、白鳥池は現在の大曲あたりから、目白崖線の椿山Click!下あたりまで拡がっていたのではないか?・・・と想像している。たとえば、江戸川橋の周辺に武家屋敷や寺社、町家が建ちはじめた江戸初期、地面からにじみ出る水に悩まされた記録が残っている。現在の地蔵通り商店街がある、当初は寺社と田んぼだらけだったあたりだ。この現象は、崖線の斜面からの湧水ではなく、平地の地面から沁み出る水=湿地を表現しており、そこが埋立地であることを示唆している。いや、ひょっとすると江戸川橋のさらに西側、早稲田のほうまで白鳥池の端緒がかかっていたのかもしれない。下戸塚(早稲田地域)もいわゆる「早稲田田圃」として、畑ではなく水田が早くから開拓されていた地域だ。もともと、白鳥池は「縄文海進」時に形成された、考古学では「奥東京湾」と呼ばれる大きな入り江の一部が海岸線の後退とともに取り残され、やがて湧水の流入により真水化した湖の名残ではないかと思われる。同様の湖水は、現在よりもはるかに大きかった不忍池や、江戸期に埋め立てられていまは存在しない神田の広大なお玉ヶ池(不忍池より大きかったといわれる)と同様なのではないだろうか。
白鳥池は、江戸初期に神田上水Click!(関口から下流は江戸川Click!)として整備されることになる、平(pira=ピラ:崖)川と呼ばれた河川の流れこみによってできた大きな池だった。今日の妙正寺川や善福寺川など、当時から多くの副水流をしたがえ、古代より蛇行を繰り返しながら流れていたようだ。その豊富な水流が、凹地が存在する早稲田-江戸川橋-小日向-大曲の一帯に、大きな白鳥池を出現させていたのだろう・・・と考えている。余談だけれど、ピラ川(崖川)が流れる崖線の淵、つまり崖っぷちのことは原日本語(アイヌ語に継承)ではピラ・オ(pira-o:崖地)と呼ばれ、関東の地名では「平尾」あるいは「広尾」の漢字が当てはめられることが多い。
さて、課題は平川(のちの神田上水)ではなく、白鳥池のほうだ。江戸初期に行われた白鳥池の埋め立ては、代々実施されてきた干拓の最終的なもので、さらにもっと以前から、白鳥池は埋め立てられつづけてきたと思われる。そして、その埋め立てに必要な大量の土砂は、いったいどこから運んできたのか?・・・というのが、きょうのテーマだ。もちろん、平川(神田上水)をサンドイッチにするような南北に存在する崖地、つまり平川の河岸段丘を削って埋め立てる方法も行われただろう。でも、江戸期のように神田山(現・駿河台)を切り崩して、日本橋を埋め立てたような大規模で高度な土木工事が、たとえば鎌倉期に行われたとするのは、ちょっと早計だと思うのだ。
天然の崖地を削り取っていくのには、膨大な労力と手間・時間がかかる。なぜなら、自然に形成された段丘斜面は地層が何重にも複雑に入り組んだ強固な地盤であり、ブルドーザーやパワーショベルなど存在しない当時では、相当な人力と専門の土木技術が必要になる。でも、あらかじめ人によって積み上げられた大量の土砂が存在すれば、地面は自然に形成された地盤に比べてはるかに軟らかく脆弱であり、天然の地盤を掘削するのに比べ労力は半分以下・・・とまではいかないまでも、ずいぶんと削り出す負荷が軽減されることになる。あらかじめ人工的に構築された大量の土砂とは、平川(神田上水)沿いに展開した「百八塚」Click!のことだ。
この無数に存在した「百八塚」の伝承は、江戸後期に描かれた『江戸名所図会』にも記載されているが、それら古墳Click!と思われる墳丘は「往古(そのむかし)」に生きていた昌蓮(のちに出家した名前だと思われる)の時代までは存在したとされ、それを今日では室町期と解釈されることが多い。
●
いまその所在さだかならず。里老伝へいふ、往古昌蓮といへる富民、仏に供養のため、高田の辺より大久保までの間、すべて百八員の塚を築くと。いまは、ことごとくその所在をしらず。
(市古夏生/鈴木健一・校註『江戸名所図会』天権之部より)
●
『江戸名所図会』では、昌蓮自身が「百八塚」を構築したとの伝承を収録しているけれど、それが考えにくいことはすでに記事にも書いた。昌蓮は、あらかじめ存在していた墳丘を、死者に関するなんらかのメルクマールとして認識し、「仏」を供養するためにその墳丘上または丘下へ、たとえば大久保の金山地蔵(金山古墳)に象徴されるような石仏を建立し、奉ったにすぎないのだろう。奉られた「塚」を発掘すると玄室や石棺、古墳期の副葬品などが発見されることからも、それは明らかだ。江戸期に入ってさえ、戸塚(十塚)の新田開拓Click!では墳丘が壊されつづけ、中から古墳期の副葬品が多数出土し、近隣の寺々へ奉納されている記録が残っている。
つまり、鎌倉期あたりから『江戸名所図会』が書かれた幕末までに、あらかたの「百八塚」は開拓されつくして平地になり、あるいは「高田富士」Click!に象徴的なように別の姿へと改変され、また古墳の羨道が発見されて以降その名がついた穴八幡Click!(高田八幡)のように寺社の敷地となって、その姿を消していったのだ。そして、平地にならされるときに出る大量の土砂をどうしたのかといえば、おそらく白鳥池、ないしは付随する湿地帯の干拓へと使用されやしなかっただろうか。
下戸塚(早稲田)から高田、下落合、上落合、大久保(北新宿)にかけて残るさまざまな地元のフォークロアや、1947年(昭和22)に撮られた焼け跡の空中写真にみられる数多くの“ミステリーサークル”Click!の存在から、その大小さまざまな古墳の数は、“無数”を意味する「百八」のその名のとおり、わたしは膨大な数におよぶと考えている。
■写真上:江戸初期まで白鳥池が残っていた、現在の大曲付近。
■写真中上:1991年に出版された鈴木理生『幻の江戸百年』(筑摩書房)の古代地形図。白鳥池の東端は、やはり目白台の下=早稲田界隈まで想定されている。右下に見える大きな池は、神田のお玉が池(桜が池)。江戸全期を通じて、急速に埋め立てられていった
■写真中下:左は白鳥池にちなんだ白鳥橋の付近で、右は白鳥池跡(江戸初期)の現状。
■写真下:左は、椿山(椿山荘)の下を流れる神田川(旧・平川/神田上水)。右は、目白台の南に位置する新江戸川公園の池。このあたりは、いまだあちこちに湧水池が見られる。
この記事へのトラックバック
落合地域東部の放射線測定値。(上)
Excerpt: 以前、子どもの夏休みの自由研究で、目白崖線沿いに堆積する土の酸性度Click!を調べたことがあった。酸性雨による土と植生への影響を、検査の試薬を手にして江戸川橋Click!から目白文化村Click!ま..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-08-04 00:53
中央線から旧・神田上水へ墜落。
Excerpt: 敗戦の翌年、1946年(昭和21)6月4日(水)に東中野駅と大久保駅間の神田川鉄橋で、大きな事故が発生した。いまでは、とうてい考えられない事故だ。この鉄橋は、下落合駅から南へ1,200mほどの旧・神田..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-10-20 00:01
下落合の犀ヶ淵にひそむUMAの謎。
Excerpt: ずいぶん以前に、田島橋(但馬橋)Click!をめぐり、神田上水にひそむ“怪獣”の話が登場したことがあった。コメント欄で益田様にご教示いただいたのだが、田島橋の近くに犀ヶ淵と鳥居ヶ淵という小名が、『江戸..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-08-23 00:02
下落合の海が見たい!
Excerpt: 少し前、ブログ9周年を記念する記事Click!で、落合地域から産出する化石のことについて触れたのだが、確かに過去の記事には貝化石について触れたものはあるけれど、かんじんの化石の詳細や種類についてはなに..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-02-10 00:00
島峰徹もビックリの地下式横穴古墳群。
Excerpt: 1934年(昭和9)4月、第二文化村Click!の下落合1705番地に住んでいた島峰徹Click!は、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移転したあとに建設中の、東京高等歯科医学校(現・東京..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-10-11 00:02
相馬俊子は巨大古墳の丘上に立ったか。(下)
Excerpt: 新宿停車場の西口を出ると、少なくとも1910年(明治43)まで淀橋浄水場との間に、東側がまるで丸山ないしは摺鉢山と名づけてもよさそうな、こんもりと繁った小山が目の前にあった。この小山は、当時までクッキ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-03-22 00:00
大鍛冶・小鍛冶たちの目白。(中)
Excerpt: では、創建時期のわからないほど古い「幸神社」Click!について、江戸期に判明している由来を収録した、寛政年間(1789~1801年)に書かれている金子直德『和佳場の小図絵』の現代語訳、海老沢了之介『..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-09-15 00:02
この記事へのコメント
アヨアン・イゴカー
それに要した治水・土木作業の記録はあるのでしょうか?
ナカムラ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
江戸時代の最初期の埋め立て、つまり平川を整備して神田上水ができたとき、すでに白鳥池は姿を消しつつあったと思いますので、詳細な資料は残っていないんじゃないかと思います。松尾芭蕉が幕府の仕事で、神田上水の大堰があった関口あたりに赴任して住み(関口芭蕉庵)、現場工事の進捗を監督していますが、そのときにはすでに白鳥池は存在しなかったんじゃないかと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ピラトリ(ビラトリ)地域は、萱野茂さんの仕事で有名になりましたね。すずさわ書店からシリーズで出た、萱野茂・編の神謡集はいまでもときどき手にします。
明治に入って、関東地方の古墳破壊は拍車がかかったようですが、古くはナラ時代から、謂れのわからなくなった墳丘の土砂を崩して、別の墳墓に造りかえるというようなことが行なわれていたようです。人々が多く住んでいた痕跡があるのに、それに見合う墳墓が見つかりにくいというのは、すでに破壊されてしまったという経緯のほか、その上に寺社や墓域が造成されて発掘調査が不可能になった、あるいは古墳時代末期から多くなる横穴型墳墓(やぐら)形式が普及して、よほどの好条件でないと自然による風化をまぬがれなかった・・・というような事情があるのかもしれません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yuki999さん
sig
今回の拙ブログでは大変失礼してしまいました。問題はないでしょうか。
古墳を湿地の埋め立てに使ったというのはとてもよく分かりますね。
それにしても、更にその前の時代に古墳を造成する時は大変だったでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
はい、大丈夫です。奥様がお元気になられて、ほんとうによかったです。^^
巨大な古墳を築造するときは、かなりたいへんだったでしょうね。比較的やわらかい、河原などの土砂を掘って積みあげていったのかもしれませんが、それにしても膨大な労力だったと思います。また、築造したあとの墳丘が、雨などで崩れたり土砂が流出したりしないよう、土固めのいろいろな意匠や設計がなされたのではないかと思っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>イリスさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa