子供のころ、縁日かなにかで「おみくじウグイス」というのを見たことがある。少し横長の大きな鳥かごに入れられ、よく飼いならされたウグイスが、おじさんの指示を受けるとかわいい鳥居の鈴を鳴らし、奧にある小さな社殿までつたわっていって、そこの小箱に入れられたたくさんのおみくじの中から、ひとつ選んで引いて持ってくる・・・という趣向だった。それで吉凶を占うわけだけれど、当時としては占い料がけっこう高かったように思う。もう、とうに絶滅してしまった露天の商いだろうが、東京の街中だけでなく箱根の芦ノ湖畔など、観光地でも見たことがあった。
この「おみくじウグイス」、いつも鳥がウグイスとは限らず、メジロやスズメだったこともあっただろうか。でも、メジロだろうがスズメだろうが、やることは一緒なのだ。「ウグイス」という名が付いていたのは、東京の根岸Click!(鶯谷)あたりが商いの発祥地だからかもしれない。このような露天商は、確か「三寸(さんずん)」というのだろう。野師(香具師)は、大きく分けて2つ、または3つに分類できるとは親父の話だ。いまの祭りや縁日ではお馴染みの、金魚すくいや綿あめ、お好み焼きなどは、みな静かな商売の「三寸」に分類されるのだろう。それに対し、大声で口上や能書きを道ゆく人に浴びせて、“売(ばい)”を繰り広げるのを「転び(ころび)」といった。
「転び」は、おそらく客をその気にさせて買わせる、説き伏せ購買気分を盛りあげて買わせる・・・という、「ひっかける」の意味に近い「転ばせる」をちぢめて、「転び」と呼ばれるようになったのではないか? 近ごろでは、なかなかお目にかかれなくなってしまった「転び」たちは、俗に「啖呵(たんか)」あるいは「的屋(てきや)」と東京では呼ばれている。「的屋」は、もちろん江戸の街々にあった「的矢(まとや)」からきているのだろう。そして、野師の中でも大がかりな仕掛けをするグループ、たとえば覗きカラクリとか生き人形、見世物小屋などを運営する人たちを「立師(たてし)」と呼ぶらしいのだが、わたしは当然、彼らの商売をもはや知らない世代だ。立師たちは、野師と一緒くたにすると怒ったらしく、祭りや縁日などで地廻りの親分は商売の“地割り”にけっこう気をつかったとか。
さて、わたしが「おみくじウグイス」だか「おみくじメジロ」を見たのは、およそ露天や夜店の趣きとは縁がなさそうな銀座の真んまん中だった。浅草や深川あたりならわかるけれど、銀座に野師が出没するのはちょっと解せないので、記憶ちがいかとも思ったのだが、間違いなくあれは銀座だった。念のため調べてみると、銀座には戦前、毎月7日に「地蔵の縁日」というのが開かれていて、おそらくその名残りが1970年前後まであったものだろうか。おみくじを引いたのがウグイスだったか、似たようなウグイス色(メジロ色)のメジロだったか、いまとなっては判然としない。
鳥つながりで、ついでに・・・。2月ごろ、銀座を歩いていたら目を疑う光景に出くわした。和装に山高帽をかぶり、鼠色のトンビを羽織った男が、ゆうゆうと柳並木の下をステッキ片手に歩いていたのだ。またしても、この世のものではないものを時空のゆがみから見てしまったのか?・・・と、思わず目をしばたいたのだが、どうやら現実に歩いている男性なのだ。口髭があったかまでは確認しなかったけれど、一瞬、100年ほど前の銀座へタイムスリップしてしまったような気分になった。とうに絶滅してしまったと思っていたトンビだが、どっこい新派の舞台上ばかりでなく、現実に生きていたのだ。ひょっとすると、「トンビ愛好会」のような団体が銀座にはあるのかもしれない。
新派では、トンビを着た男たちが実によく登場する。時代設定が、もっともトンビが流行った明治後半から大正期にかけてだからだろう。ウグイスつながりで、『湯島』Click!でもトンビが登場することがあるのだが、現実に着て歩いている人を街中で見かけると、やはりギョッとして見てはいけないものを見てしまったような、過去の亡霊が現われたような、不思議な気分になる。余談だけれど、『湯島』の「お蔦」を82歳で演じ、かすれた声色でヨロヨロしながらシナをつくる喜多村録郎を見た安藤鶴夫が、ギョッとして「お蔦」ならぬ「お蔵」入りにして欲しいと言った話は有名だ。わたしも、文学座の「女の一生」で、60歳をすぎた杉村春子がセーラー服を着て出てきたときには、ギョッとしてもうどうしていいのかわからず、いてもたってもいられないような不思議な気分になった。
「おみくじウグイス」は、いまでもどこかの縁日や祭りに登場しているのだろうか? いまの子たちは、小鳥がおみくじを引いてきたとしても「超カワイー!」と感じるだけで、別にそんな芸はものめずらしくないのかもしれない。銀座のウグイスが引いてきたおみくじは、はたして吉だったのか凶だったのか、わたしはまったく憶えていない。1970年を境に、とうに絶滅してしまったものだろうか。でも、トンビは21世紀の今日まで、なんとか生きながらえているようなのだ。
■写真上:1926年(大正15)の秋に制作された佐伯祐三『下落合風景』Click!(「八島さんの前通り」Click!)にも、目白通りへと歩いていくトンビを着た男性が描かれている。
■写真中上:ウグイス(左)とメジロ(右)で、下落合ではよく見かけるお馴染みの鳥たち。最近、春先に花々をわたるメジロのことを、ウグイスだと勘違いしている方が多い。
■写真中下:左は、1918年(大正7)に撮影された「草土社」メンバーの記念写真。トンビを着ているのが銀座の岸田劉生(手前左)で、ハイカラな洋装が日本橋の木村荘八(後列右端)。右は、戦後すぐのころに撮られたと思われる新派『婦系図(おんなけいず)』のお蔦役・喜多村緑郎。
■写真下:木村荘八が描く、和装のトンビコート(左)と洋装のインバネスコート(右)。
この記事へのコメント
ナカムラ
見ると、メジロが気絶していたことがあります。かわいそうなので手の中で介抱してやっていたら、気がついて10分くらいしてから放してやりました。看板は緑の木のポスターだったのです。間違えたんでしょうね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>@ミックさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしが最後に「おみくじウグイス」を見たのは、1970年すぎの箱根でした。遊覧船の発着所近くで、おじさんは呼びこみの声をあげるでもなく、四角い鳥籠の前にジッと座っていたのを憶えています。そのころには、それがどのような「商売」なのか、道ゆく人の大半はわからなくなっていたのかもしれませんね。わたしも、親父にうながされるまで気づきませんでした。
小鳥の寿命は短く、それを仕込む手間ヒマに比べて、上がりが少なくなっていったのも“絶滅”する要因だったのかもしれません。
看板の樹木へ突っこむとは、そそっかしいメジロもいたものですね。(笑) 先日、鎌倉の大町あたりを歩いていたら、トンビの急降下でソフトクリームのコーンカップをさらわれました。羽を拡げると1mをゆうに超える鳥ですが、人間に触れずに指先のカップだけつかんでいくのは、見事な手並みでした。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
SILENT
sig
2月頃銀座で見かけたトンビの男というのは、TVか何かを撮影していたのではないでしょうか。同好会ならありうるかもしれませんね。でなければ、酔狂すぎます。
大道で商売をする人たちのこと、こういう話は大好きです。
それにしても最近は見なくなりましたね。後継者が枯渇したのでしょうね。
ChinchikoPapa
ということは、「おみくじウグイス」も21世紀まで生き残っている可能性がありますね。今度、鎌倉へ出かけたときには、あたりをキョロキョロしてみます。いまでは、きっと1回の占い料は200~300円ぐらいはするのかもしれませんね。情報をありがとうございました。
ChinchikoPapa
わたしも、とっさにTVのロケを考えたのですが、どう見ても男性は一般人の雰囲気で、銀座4丁目方面へ歩いていきました。調べましたら、いまでも銀座の紳士服店や呉服店では、インバネスとトンビの双方とも“現役”で売られているのですね。きっと、この地域ではニッチな市場が、とぎれることなくつづいていたのでしょうね。
とらさん
そうですね、このごろは、声は聞こえど、姿は見えません。
確かに、我が家の周りの環境もすっかり変わり、野鳥が庭に来ることができなくなってしまいましたね。
田舎に住んでいたつもりが、家ばかりの環境下なってしまいました。
自分がどこかへ移動しなければ、昔の環境を手に入れることが出来ませんね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
80~90年代に比べて、家の近所では野鳥が増えてきてはいるのですが、妙な現象も見られます。夏になっても、北へ帰らないカルガモとか、山へ帰らないヒヨドリとか・・・。お馴染みだったオナガの群れが見えなくなったのと、スズメが増えないのはハシブトガラスのせいだと思うのですが、そのかわりセキレイやカワセミをよく見かけるようになりました。猛禽のツミが、ときどき電線にとまっているそうですが、わたしはまだ一度も見たことがありません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>isana88さん
アヨアン・イゴカー
ChinchikoPapa
もともとは、木村荘八が描き分けているように、洋装用でコートに袖がまったくないのが「インバネス」と呼ばれたコートで、明治の前期にイギリスから入ってきた当初のものはこちらですね。ところが、まだまだ和装が多かった当時、インバネスを改良して和服用に幅広の袖をつけ、和服の袖を収められるようにした日本独自の和装コートが、「トンビ」と呼ばれて区別されていたようです。おそらく、和服の袖を収めた体形が三角形に見えるので、トンビと名づけられたものでしょうか。
ところが、途中からその境界が曖昧となり、袖がないコートも俗称和名の「トンビ」と呼ばれるようになり、下に着ている服装が和装だろうが洋装だろうが、一括して総称「トンビ」として通るようになり、「インバネス」という呼称がすたれていった・・・というのが経緯のようです。