以前からこちらでご紹介Click!している、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)が、当主・相馬孟胤(たけたね)の逝去直前である1936年(昭和11)1月に制作されたものだと想定されていたのだが、その後の追跡調査で、ひと世代前の当主・相馬順胤(孟胤の父)が死去する以前、すなわち1915年(大正4)に相馬家の新邸が御留山Click!に完成した際に、撮影・制作されたものであることが判明した。
これらの写真は、昭和初期の下落合・御留山をとらえたものでなく、さらに20年ほどさかのぼった大正初期の下落合風景を記録したものだ。そして、同写真帖の制作目的が新邸への入居とほぼ同時に、下落合の近隣へ挨拶用に配布されたものだということもわかった。ご教示いただいたのは、いつもわたしのサイトへ貴重な情報をお寄せくださる、将門相馬家ご一族の相馬彰様Click!だ。
あとふたつ、相馬様よりビッグニュースがとどいた。ひとつは、下落合の相馬邸で暮らした方々の写真を、拙サイトでご紹介してもよいとの許可をいただけたこと。相馬家のみなさんが集って開かれる「相馬会」でご検討くださり、正式にOKをいただいた。同写真帖に収録された、邸の玄関先で撮影されたとみられる、1915年(大正4)の家族の肖像が上掲の写真だ。
前列中央の、向かって左側に写っている相馬碩子(せきこ)は、右隣りに写り1919年(大正8)に死去する相馬順胤(ありたね)の妻(孟胤の母)であり、越前(福井県)丸岡藩藩主・有馬道純の娘にあたる。日本の歴史がお好きな方なら、「あれっ?」とすでにお気づきだろう。つまり、丸岡藩有馬氏は藤原純友の末裔といわれており、ここで関東の平将門Click!と直結してしまうことになるのだ。相馬家と二宮尊徳Click!の記事でも感じたことだが、ごく限られた地域史を丹念にドリルダウンClick!していくと、より大きな「日本史」をテーマとする位相ないしは地層が立ち現われてくるケースの典型だ。このような地域サイトを起ち上げているとき、もっともダイナミズムを感じる瞬間。
記念写真に写る後列中央が、次世代の当主・相馬孟胤であり、その左側に立つのが下落合でも「アマリリスジャム」でお馴染みの植物学者・相馬正胤、また孟胤の右側に学習院の制服を着て立つのが、毎年開催された学習院恒例のクロスカントリースキーで優勝した相馬広胤だ。ちなみに、1908年(明治41)に行われたクロスカントリースキーで、広胤の1位につづいて3位入賞したのが、相馬邸の隣り(現・近衛町Click!)に住んでいた近衛文麿Click!だった。
相馬孟胤は、1936年(昭和11)2月に逝去するまで下落合で暮らしたけれど、その跡を継いだ相馬恵胤(やすたね)もまた、1939年(昭和14)に中野ヘ転居するまで下落合に住んでいた。そして妻に迎えたのが、“議会政治の父”と言われ軍部を批判しつづけた尾崎行雄(咢堂)の次女であり、昨年(2008年)11月に死去した相馬雪香だ。ここでもまた、下落合で面白い偶然が生じている。同じ尾崎行雄の長女・清香も、下落合の同じ町内に住んでいた。
二二六事件Click!の際、岡田啓介首相が身をひそめた下落合1146番地のプール付き大きな西洋館・佐々木邸Click!だ。“福井の私鉄王”と呼ばれ、帝国議会代議士でもあった佐々木久二の妻が、佐々木清香だったのだ。相馬家と佐々木家は、直線距離でわずか700mほどしか離れていないので、当然頻繁な往来があっただろう。ときには、尾崎咢堂も下落合へ姿を見せていたにちがいない。佐々木清香は、下落合で幼稚園を開園したが、1945年(昭和20)4月13日の空襲で被災している。妙正寺川の砂洲へ避難していた高良とみClick!たちが、急いで消火に駆けつける白百合幼稚園Click!のことだ。白百合幼稚園は再建され、戦後も数多くの卒園生を送りだしている。
さて、相馬彰様からご教示いただいたビッグニュースのもうひとつ。下落合から九州の福岡県へ、東邦生命の社長・太田清蔵によって移築され、その後、台風によって倒壊してしまったと伝えられてきた相馬邸の正門=「黒門」Click!が、現存しているらしいことがわかった。もし、それが事実だとすれば、往年の相馬邸の風情をいまでも直接かいま見ることができる、貴重な建築ということになるだろう。いや、大江戸Click!の大名屋敷の遺構としても、きわめて重要な文化財ということになる。このテーマは新事実がわかりしだい、こちらで引きつづきレポートしたいと思っている。
■写真上:1915年(大正4)制作の、『相馬家邸宅写真帖』に掲載された家族の肖像。
■写真中上:同写真に写っている、下落合の相馬邸で暮らした人々。
■写真中下:上左は、下落合の相馬邸で1938年(昭和13)に撮影された相馬雪香。畳敷きの縁のある廊下のどこか(表座敷か?)で撮られたもので、相馬雪香『心に懸ける橋』(世論時報社/1987年)より。上右は、中庭に面した表座敷の西側と思われる相馬邸の畳廊下。下左は、相馬邸が下落合から中野ヘ引っ越した2年後、1941年(昭和16)に撮影された相馬恵胤・雪香夫妻の家族写真で、同じく『心に懸ける橋』より。下右は、鎌倉の扇ヶ谷(やつ)にあった相馬師常の屋敷跡に残る相馬天王社(八坂大神社)。主柱はもちろん、出雲神のスサノオだ。
■写真下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」より。下は、相馬邸の黒門。
この記事へのコメント
漢
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも散歩をしていると、このごろ暴走自転車にヒヤッとします。数ヶ月前、近くを歩いてるおばあさんの背後から自転車が突っ込み、歩道へ顔を打ちつけて救急車騒ぎになりました。顔じゅう血だらけのおばあさんを助けてるのは、近所の人やたまたま歩いていた人たちで、当のぶつかった若い子は自転車の脇へ茫然とたたずんでいるだけ・・・という風景に、さすがのわたしもキレそうになりました。
ChinchikoPapa
SILENT
相馬家の系譜も凄いですね。
ChinchikoPapa
大磯と下落合がつながっているのは、わたしだけかと思いましたら佐伯祐三がつながり、小津安二郎が作品でつながり、堤康次郎が国府津の文化村開発の拠点としてつながっていて、まだまだ掘り起こすと思いがけない深い関係が出てくるかもしれませんね。楽しみです。
北斎の作品では、連続コマ割りマンガのような動的な絵は珍しくないですけれど、きょう載せられている歌麿の海女絵はめずらしいですね。さしずめ、「歌麿漫画」というところでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>emiさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ロックケーキ
相馬会で許可が頂けたのも、ChinchikoPapaさんが熱心かつ誠実に研究されているからこそでしょうね。
当時のお話はずっと昔のことのようでもあり、ついこの前の出来事のようでもあり、不思議な気がします。
黒門の後続レポート、とても楽しみに待っています!
あと大変失礼ながら、お子さんと写っている相馬雪香さんの写真上の説明書きが「孟胤の妻」となっておりますが、これは「恵胤の」ではないでしょうか?私の理解ミスでしたらお見捨て置きください。
ChinchikoPapa
お名前の記載ミスは、いちばんマズイ誤りですね。失礼などととんでもない、助かりました。記事を編集していますと、どうしてもコピー&ペーストを使ってしまいがちですが、今後の戒めにしたいと思います。また、なにかお気づきの点がありましたら、ご遠慮なくご指摘ください。
「黒門」につきましては、明日あたり、資料類が最終的に揃いそうな気配ですので、遠からずご報告できるのではないかと思います。黒門の移築時に、誤伝とか誤認が少なからず絡んでいそうで、少々ややこしいのですが、資料を整理してまとめてみたいと思います。
ありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
マーチ
ChinchikoPapa
懐かしいとおっしゃるところをみますと、氷川明神あるいは太素神社の祭礼の日、大きく開放された相馬邸が黒門をくぐられて、邸内を散策されたことがおありなのでしょうか。^^