鎌倉駅西口から今小路(今大路)をわたった北西部、千葉常胤屋敷跡を左折して無量寺ヶ谷(やつ)の佐助トンネルのあたり、参詣者が多い銭洗弁天や佐助稲荷のある一帯から西のエリアは、鎌倉時代に「隠れの里」と呼ばれていた。また、古くは「葛原ヶ岡(くずはらがおか)」という呼称も北部一帯ではつかわれていた。同名にちなんだ社(やしろ)も、桔梗山の北に現存している。そして、この地域には御霊社が、深沢をはさみ東西に並んで建立されている。東が湘南モノレールの湘南深沢駅近くの深沢御霊社、西が藤沢に近い川名御霊社だ。東の深沢御霊社は、銭洗弁天の北450mほどの位置、葛原ヶ岡から1185年(文治元)ごろに移設されたものだ。
隠れの里は、鎌倉期には市街地から遠く離れ、相当に山深い秘境と感じられた一帯だったろう。でも不思議なことに、鶴岡八幡宮が非常時の際には、佐助ヶ谷(やつ)の隠れの里が「御旅所」、つまり臨時の遷座所として指定されていた伝承が、同八幡宮の『旧貫御境内記録』(1871年)まで残っていた。なぜか、隠れの里はかなり重要な地域として意識され、位置づけられているのだ。
1185年(元暦2)8月27日、この隠れの里の御霊社が突然「鳴動」したことになっている。鎌倉幕府の歴史を日記風に細かく記録した、『吾妻鏡』の当該箇所から引用してみよう。
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午の刻御霊社鳴動す。頗る地震の如し。この事先々の怪たるの由、景能これを驚き申す。仍って二品参り給うの処、宝殿の左右扉破れをはんぬ。これを解謝せんが為、御願書一通を奉納せらるるの上、巫女等面々に賜物(各々藍摺二反か)有り。御神楽を行わるるの後還御すと。
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御霊社をつかさどっていたのが男の「神主」ではなく、原日本の風情そのままに女性の巫女(今日的な神主の“助手”などではない)だった点にご留意いただきたい。男性が社(やしろ)へ封じられた神々に仕えはじめ、むしろそれが一般化して女性を神職から排除していくのは、仏教や儒教をベースとした朝鮮半島の男系(父権)思想が、ナラを中心とする近畿地域に根づいてからのことであり、原日本の文化や習慣の色濃い地域ではそれほど古くからのものではなく、また中世においてさえ全国的に一般化されたものでもなかった。
さて、『吾妻鏡』では「地震の如し」としているので、地震ではなく局所的な「鳴動」だったことを強くうかがわせる記述だ。もちろん、「鳴動」というのはメタファーだと思われ、「隠れの里」で起きたなんらかの事象、あるいは御霊社に象徴させたなんらかの「託宣(情報)」を記録したものだろう。そこで、「葛原ヶ岡」という地名が俄然気になってくるのだ。「くず」という音は、ヤマト朝廷の昔から「国巣」などの漢字が当てられ、独自の文化を持つ日本先住の山岳民だと考えられてきている。また、「葛原親王」と結びつけられた伝承も、後世の「源平」姓絡みで少なくない。「クズのような人間」という表現が残るように、当初は明らかに蔑称として用いられているが、平安期以降は「葛」の字が当てられ、おしなべて「特殊技能」を備えたプロ集団を指すようになっていく。
特殊技能とは、金(かね=本来は鉄のこと)を生産する大鍛冶=タタラ集団をはじめ、武器や農具を生産する小鍛治=鍛冶集団、黄金(こがね)や銀、銅、丹(水銀)など鉱脈を専門とする探鉱集団、水脈や地層などをリサーチする地質調査集団、木彫りや石彫りを得意とする彫刻家集団、探偵や物見(スパイ)をなりわいとする忍び(草)集団など、農地耕作以外のある技能に秀でた集団を指すことが多い。宮崎駿のアニメ『もののけ姫』に描かれた、山奥で暮らすタタラ村落も「葛」の例だ。
つまり、秘境と呼ばれるエリアで独特な生産活動や仕事をこなす、技能エキスパートの村々の一般名称として、「くず」という語音および「葛」の字が、中世以降に当てはめられている形跡が多々見られる。1969年(昭和44)に出版された、沢史生『鎌倉歴史散歩』(創元社)から引用してみよう。
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こうした秘境は人を寄せつけない。ただし隠れの里の“しきたり”にしたがった者だけが、その里の美女と契ったり、当時は貴重であった膳椀を貸して貰ったという話が残っている。(中略) 隠れの里の人たちは表向き御霊社に奉仕していた。頼朝は隠れの里をたずね、そこの娘と契った。それから二ヵ月、妊娠した娘のツワリがはじまった。「御所さまのお胤を頂いた」それで里人がさわいだのだ。漁色家ではあったが頼朝は政子がこわい。藍摺二反ずつを与えてなんとかなだめた。
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・・・と、御霊社の「鳴動」を頼朝の恋愛譚にしてしまっているが、はたしてそうだろうか?
確かに、典型的な生っ粋の東女・政子さんは、頼朝の浮気相手の屋敷を打(ぶ)ち壊しに軍勢を差し向けたり(軍の指揮権が、明らかに政子にもあったことが『吾妻鏡』にもうかがわれる。のちに頼朝の死後、朝廷が関西の武士をかき集めて“反乱”を起こした際、箱根での迎撃作戦を主張するあらかたの幕臣たちを尻目に、19万の幕府軍を3軍に分けていっせいに京へ突撃させたのも彼女の意思決定だ)、ヘタをすると頼朝自身さえどんな目に遭わされるか知れたもんではないほど怖いのだけれど、妾女が「お胤」を宿したにもかかわらず、当時はかなり貴重品だったとはいえ織物二反ではあまりに勘定が合わない。「鳴動」とは、鎌倉幕府の命を受けていた隠れの里の人々が、なんらかの功績を上げたのに対する報酬ではないだろうか?
その功績とは、重要な情報をもたらしたのかもしれないし、なにか貴重な地質学的な発見をしたか、あるいは軍事的に優れた技術を編み出したか・・・、いずれにしても表面上は部外秘にされていたであろう、葛原ヶ岡に住むエキスパート集団の大きな成果に対して、『吾妻鏡』は御霊社の「鳴動」という比喩で事象を記録したのではないだろうか。そして、隠れの里は鶴岡八幡宮が非常時の際、「御旅所」として指定されるほどに重要なエリアだと当時から意識され、わざわざ北にあった御霊社を隠れの里の中心部と思われる深沢まで遷座させている。余談だが、今日では有名な「鎌倉彫」も、鎌倉の秘境で暮らしてきた専門技能集団からの伝承だという説がある。
さて、落合界隈にお住まいの方はもうお気づきだろう。東京の新宿北部には、頼朝伝説が数多く残るエリアとしても有名だ。鎌倉街道のひとつ、雑司ヶ谷道(東京府による新井薬師道)から、目白崖線に通う下落合の七曲坂Click!は、頼朝が開拓させたという伝承が残っている。また、頼朝自身が奥州戦の際に休息したという言い伝えもある。目白崖線の通称・和田山(現・哲学堂公園Click!)には和田氏が館をかまえ、周辺域からは鎌倉時代の遺跡(住居跡)も数多く見つかっている。
そして、旧・下落合の西部には、御霊社Click!がふたつ並んで建立されている。下落合(中井)御霊社Click!と葛ヶ谷御霊社Click!だ。下落合の西北部=現・西落合は、戦前までは「葛ヶ谷」と呼ばれる地域だった。鎌倉と同様、ふたつの御霊社とともに下落合でも「葛」が登場している。つまり、鎌倉の隠れの里=葛原ヶ岡と下落合の葛ヶ谷は、2社の存在とともに見事な相似形なのだ。
いつか、藤稲荷の由来を民俗学的なアプローチで記事Click!にしたことがあったけれど、「葛」地名と御霊社の存在も、民俗学的には非常に興味深い符号だ。はたして、鎌倉期の落合葛ヶ谷には、どのような技能を持ったエキスパート集団が暮らしていたのだろうか? 地形あるいは自然をめぐる地域的な特徴や、周囲に残る痕跡Click!などから、わたしは鉱物(鉄)の採集や精錬(タタラ)、そして製品(目白Click!)にちなんだ専門家集団ではないかと想像しているのだが・・・。
小田原城廓内の八幡山一帯が、相州伝(鎌倉期の鍛刀様式)を受け継ぐ鍛冶場だったのと同様に、和田氏が館を目白崖線に築いた鎌倉期、あるいはそれよりもはるか以前から、すぐ東側の葛ヶ谷には、砂鉄を精錬し加工する落合版「隠れの里」が形成されていたのではないだろうか。
■写真上:鎌倉の山々は、それほど高くはないが非常に奥深いのが特徴。
■写真中上:上は、沢史生『鎌倉歴史散歩』掲載の隠れの里の地図。下は、深沢周辺の現状写真。山が崩され湘南モノレールが通い、新興住宅地として拓けて鎌倉「隠れの里」の面影は皆無だ。
■写真中下:左は、1960年代の深沢御霊社。右は、目白崖線上に建つ下落合(中井)御霊社。
■写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合・葛ヶ谷地域。下左は、鎌倉期に和田氏が館をかまえていた和田山(井上哲学堂)のバッケ。下右は、現在の葛ヶ谷(西落合)住宅街。
この記事へのコメント
アヨアン・イゴカー
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
そうですね、いまの「日本史」の教科書は、あまりに近畿地方の歴史に偏りすぎてて、知らず知らず「関西史」が「日本史」だと思いこまされている(刷りこまれている)ような気がします。そこには、「蝦夷史」も「東北史」、「関東史」、「中部史」、「中国史」、「四国史」、「九州史」、「琉球弧史」などは、おもに「地域のテーマ」として扱われ、権力者にご都合主義的な「正史」ないしは「中央史」の中ではことさら軽んじられています。
地域ならではの昔ながらの風情ある街を、「小京都」などと「自虐」的に表現するのも、その刷りこみのせいではないかとさえ思えてきます。もっと、自身の地域や街のオリジナリティを前面に押し出せばいいのに・・・とも感じます。本質的な捉え方は、明治以来まったく変わっていませんので、つくづく多角的かつより多面的な「日本」の歴史を見ていく必要があるかと思いますね。地方ならではの文化や歴史を、「辺境」とする明治以来の「日本史」は、もううんざりでたくさんです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-06-21
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
SILENT
知り合いのおじさんが行列に出るのだが面を付けても恥ずかしいと言っていたのを思い出しました。頼朝の子をやどしたと言う孕み女が有名な行列ですね。御霊社がこんなにあるとは知りませんでした。御霊社はどんな人々が祀られているのか興味がありますね。歌舞伎の曽我もので御霊信仰との密接なつながりと、鎌倉の権五郎神社の五郎信仰にも興味が出てきています。七里ケ浜で黒い砂鉄の砂浜と、針磨橋を連想しました。鎌倉駅の近くの正宗鍛冶は駅の西側一帯の広い土地を持っていたと店で聞いたことがあります。
sig
今回は特にハラハラドキドキの力作記事でした。くずの由来も面白かったし、なるほどと思いました。時代と場所的に考察すると、いずれにしても鉄の精錬、刀剣などに関係があったのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yuki999さん
ChinchikoPapa
わたしも、稲村ヶ崎近くの御霊社は子供のころから何度か訪問しているのに、サザエのつぼ焼きやシラス丼ばかり食べて、かんじんの行列はまだ見ていないのです。おたふく面をつけて恥らうように歩く、頼朝の「愛人」をぜひ見てみたいのですが、いまだ果たせないでいます。
おっしゃる通り、「五郎」伝説との絡みが非常に興味深いです。平安期以前からの伝承と思われる「(弥)五郎」伝説など、どのような事実がベースとなって誕生しているものか、とても惹かれますね。
相州伝の鍛冶場で、確実にたどれるのが鎌倉駅西側の正宗井戸のある一帯ですが、ここに室町末から江戸末期まであった屋敷は「相州綱広」屋敷で、正宗とは直接関連が裏づけられていません。(現在でも綱広の流れをくむ刃物店が、鎌倉駅西口近くにありますね) 正宗や貞宗の相州伝と、綱広一派の相州伝とは、技術的にも別物と考えてもいいかもしれません。江戸期に綱広相州伝をマスターするために、江戸の刀鍛冶が短期入門したのも綱広屋敷ですが、逆に江戸後期になると綱広が相州伝の研究をするために、江戸の水心子正秀や大慶直胤のもとへ出かけていった(弟子入りした)という記録もみえます。それだけ、江戸期になると鎌倉期の相州伝作品の鍛え方がわからなくなっていたわけで、試行錯誤が繰り返されていました。いまでも正宗や貞宗の技法は不明のまま、その作品を超えられないでいますね。
正宗や貞宗が、鎌倉のどこで鍛刀していたのかは不明ですが、少なくとも焼き入れの湯桶に使用する清廉な水が湧く山あい(谷間)で、しかも海砂鉄は用いず、川砂鉄あるいは山砂鉄を用いていたのではないかと思います。神奈川の名のとおり、優秀な鋼(目白)を精錬するタタラ集団が、横浜から三浦にかけておそらくたくさんいたんじゃないかと思います。
ChinchikoPapa
優れた武器を製造する地域をたいせつに扱うのは、当時としては自然だったでしょうね。でも、たとえば優れた太刀を鍛えたとか、美しい拵えの金工細工を仕上げたとかだとしますと、『吾妻鏡』はそのまま事実を伝えたんじゃないかと思ってしまいます。そこに、なにか比喩を使わなければならないほど、幕府にとっての機密事項があったんじゃないか?・・・と考えるのは、ややうがちすぎでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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