聖母坂沿い、シェークスピアの作品を演じる幕なし書割なしで16世紀エリザベス朝の舞台様式を備えた、下落合の大きな西洋館を文字どおり“舞台”にした、久生十蘭Click!のミステリー中編『ハムレット』(1946年・昭和21)には、次のようなシーンが出てくる。
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落合の小松の邸はいくつも破風をもったエリザベス朝式の建築で、ポーチには白い柱が並び、バルコンには獅子の紋章を浮出しにした古風な金具がつき、ダイヤモンド格子の明層窓には彩色硝子が嵌っているというぐあいですが、・・・(中略)
翌朝早く家を出てバスで落合まで行き、聖母病院の前の通りを入って行くと、突当りに小松の邸が見えだしました。数えてみますとあれからちょうど二十八年たっているわけでしたが、家の正面がすこし汚れ、車寄せのそばに防空壕が掘ってあるほかなにもかもむかしどおりになっていました。呼鈴をおしますと、阪井から電話で通じてあったとみえ、執事の北山が玄関へ出てきました。
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聖母坂に通うバスを降りて、小松邸にやってきた「わたし」は、おそらく新宿駅方面から関東乗合自動車(関東バス)を利用したのだろう。聖母坂Click!(補助45号線)が拓かれた翌年、1932年(昭和7)から運行がはじまった関東バスは、銀色の車体に赤いストライプの入ったボンネット仕様のバスで、現在のマイクロバスほどの大きさだった。開業当初は、輸入されたフォード製の車体で保有台数はわずか4台。開業日は、いくら乗っても乗車賃が無料だった。
1935年(昭和10)前後、関東バスの営業所と車庫が聖母坂沿いに建設された。「関東乗合自動車車庫」と呼ばれ、ちょうど現在のホヤコーポレーション(保谷硝子)本社のまん前あたりだ。車庫は島津直(株)のビルからサークルKサンクスの下あたりまで造られ、ホヤショウルーム(現・鍼灸院)があったあたりは同じ経営のタクシー会社が設立されていたようだ。当時の関東バスは、聖母病院の少し上が始発の停留所で、小滝橋を経由して新宿駅まで運行していた。
目白通りは、目白駅を始発にして早くから乗合自動車Click!が走っており、目白文化村Click!を経由して練馬方面Click!まで運行していた。だから、関東バスは下落合から小滝橋を経由して、新宿駅方面へと向かうタテの路線営業を計画したのだろう。当時の様子を、『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)に収録されている、堀尾慶治様Click!の「戦中・戦後 あれこれ」から引用してみよう。
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今、宅配弁当屋さんかクリーニング店のある所辺が折り返しで新宿駅の方に行くバスの発着停留所がありました。昔のバスは車体が短いので通りからちょっと路地に入る様な感じで曲がると人が押す把手がついたターンテーブルになっていて、車掌さん(切符を売るバスガール)が押して出発出来る様に向きを替えオーライとなる訳です。
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聖母坂の上、ちょうど福の湯Click!の南あたり、森田亀之助邸Click!のすぐ近くに、バスの方向を変えるターンテーブルが設置されていたようだ。森田邸からも、バスが回転する様子が見えたかもしれない。バスガールが車体を押してバスの方向を変えるなど、いまからは想像もできない光景だ。
現在の落合第一地域センター(旧・島津工場)と、関東乗合自動車車庫との間にはモダンなアパートメントが建っていた。当時としてはかなりの高層で、吹き抜けの中庭がある「グリン・スタディオ・アパート」(いま風に言えばグリーン・スタジオ・アパート)だ。このアパートは、1945年(昭和20)の二度にわたる落合地区の空襲でも焼けず、戦後までシャレた風情をそのまま残して建っていた。わたしは、アパートそのものは目撃していないけれど、コンクリートと一部大谷石で造られたグリン・スタディオ・アパートの基礎から地下室の部分は、1970年代以降しばらく見つづけてきた。
非常にていねいに造られた地下室の様子から、かなり美しい近代建築だったのではないだろうか。わたしが見たころには、すでに1階部分は駐車場になっており、地下室はまるで廃材置き場のような利用のされ方をしていた。当初からしばらくは、なにかの工場跡(下落合ドラマClick!に登場するクレヨン工場跡を疑った)だと想像していた。ひょっとすると、地下には当時としてはきわめて斬新な、アパート住民の専用駐車場があったのかもしれない。
銀色のボディに赤いストライプの車体デザインは、現在のケービーバス(関東バス)にも基本的にそのまま継承されている。『ハムレット』の「わたし」がバスを降り、聖母坂から少し入ったところにあったエリザベス朝式の大きな「小松邸」は、いったいどのあたりに建っていたものか。久生十蘭の描写から、破風がたくさん並んだ西坂の徳川邸Click!(新邸)がモデルのような気がするのだが・・・。
■写真上:「聖母病院前」停留所の近くにて、現在の聖母坂を走る関東バス(KBバス)。
■写真中上:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる関東乗合自動車車庫。下左は、開業時の関東バスでフォード製のものがたった4台しかなかった。『おちあいよろず写真館』(コミュニティおちあいあれこれ編/2003年)より。下右は、関東バス車庫跡の現状。
■写真中下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる車庫。すでに、北側のグリン・スタディオ・アパートが建っている。右は、1938年(昭和13)の「火保図」でターンテーブルのあったあたり。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の車庫とその周辺の様子。右は、1958年(昭和33)7月に「別冊宝石」78号に掲載された、久生十蘭『ハムレット』の松野一夫による挿画。
※1975~76年ごろの「グリン・スタディオ・アパート」廃墟。
この記事へのコメント
sig
写真を見るとほんとにかわいい乗合自動車ですね。
ターンテーブルで向きを変えるのは、サンフランシスコのケーブルカーと同じですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
小さなバスで、かわいいですよね。ただ、10人も乗ればいっぱいになりそうで、混み合ったときは車体の外に取りついて、まるで「買出し列車」のような有様で乗っていたのでしょうか。^^;
関東大震災の直後に、新宿を走る乗合自動車を撮影した写真が残っていますが、やはり屋根まで人が取りついて乗っていました。もっとも、緊急災害時なのでそのような状況だったのかもしれませんが・・・。
SILENT
聖母病院で勉強された方がこの町の知り合いでおられ、話の中で、その方の父上が曾宮一念さんと懇意にされていた事も聞いて
世の中は狭いなと思っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
このような東京地方サイトを始めてから、わたしもつくづく「世間は狭い」と感じました。思わぬところから、人と人との繋がりが見えてきて驚きます。
中村彝の弟子のひとりである洋画家・宮芳平が、一時期、平塚に住んでいたことがありまして、わたしが小学生のときに通っていた画塾(平塚市菫平)を開いていた、元美術教師のお爺ちゃん先生が、短い期間のようですが実は宮芳平に師事していた・・・ということがわかりました。面白いですね。^^
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>jsさん
ももなーお
懐かしく拝見しました。
ChinchikoPapa
そうなんです、必ず西武線の踏み切りを渡るんですよね。だから、開かずの踏み切りになってしまう朝のラッシュアワーに、うっかり関東バスに乗ってしまうと、とんでもないことになってしまいます。踏み切りの手前で、10~15分待ちなんてことになって、せっかく間に合うつもりで出ても遅刻してしまうケースもありそうです。
ときどき、7~8時ごろ家を出ることがあるのですが、西武線の踏み切りを避け、日立目白クラブの下まで出て山手線のガードをくぐり、高田馬場駅まで歩くこともしばしばです。そうしないと、踏み切りでどれほど待たされるのかわからず不安だからです。西武線を越えられる歩道橋もあるのですが、やっぱり地上を歩きたくて・・・。^^
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
yamaurushi
7、8年前になりますか、解体直前の、堤康次郎氏の旧邸の残材をいただいたことがあります。場所は中落合2-7、今コンフォリア下落合という建物にかわってるところです。北側が徳川邸由来ときいてましたので、間違いないと思います。確か新婚の夫人のために最初に建てたもの?、と聞いた記憶がありますが、根拠、真偽わかりません。外観は和風ですが、中は立派な洋間もあり、大正期の水洗トイレとか、もありました。
なにかご存知のことがありますでしょうか。?
ちょうど今、そのときもらってきた戸袋の板を加工して、銘々皿をつくっているところです。(30日~2月4日、三越本店の漆芸展に出す予定です)。戸袋だから、杉だろうと洗って削ったら、見事に目のつんだ檜板でびっくりしました。
このような詳細なサイトをつくられていることに驚き、感激しております。
ゆっくり読ませていただきます。
どこに書き込もうか迷いましたが、一番近いところの図がでているここにしました。
非公開でお願いします。
yamaurushi
ChinchikoPapa
すみません、So-netブログのコメント欄は公開/非公開の選択や、管理者によるコメントのチェック機能がありませんので、掲示板のように自由に書きこめてしまうのです。^^;
中落合2丁目7番地の、西坂と聖母坂にはさまれて岬のように突き出た丘は、戦後まで丸ごと徳川さんの敷地で、その後南側(池と静観園の一部があったところです)をおそらく相続かなにかで手放されていると思います。
同地番の一部の邸宅から、堤康次郎邸の残材が出たとしますと、おそらく移築されたあとの部材ではないかと想像します。堤康次郎が、下落合で初めて自邸を建てたのは1916年(大正5)ごろで、下落合575番地(現・下落合3丁目2番地あたり)でした。もし「新婚の夫人のために最初に建てたもの」という伝承が残っているとすれば、おそらくこの最初の邸の部材ではないかと思います。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-09-29
ただ、1925年(大正14)に箱根土地が目白文化村から国立へ移転するのと同時に、堤家も国立へ引っ越していますので、下落合575番地の邸には堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂一家がしばらく住んでいます。その後、解体されて移築されたのかもしれませんね。
また、もうひとつの可能性としては、堤康次郎だけ国立に残し、ほどなく家族は再び下落合へもどってきていますが、そのときは長坂家が住んでいた下落合575番地へは帰らず、おそらく新たに建設した邸へ引っ越しています。
この邸がどこにあったのか、確実な記録を見つけられないのでわからないのですが、下落合には堤が所有する土地や邸がたくさんあったとみられますので、そのうちのひとつに新築ないしは転居したのだと思います。こちらの邸の可能性も、あるのかもしれませんね。
いずれにしましても、1950年代ぐらいまで中落合2丁目7番地(旧・下落合2丁目655~720番地)は大垣・徳川家の所有地だったと思いますので、そこに堤邸があったとは考えにくく、初期の邸を解体したときに出た部材を使って、新たにどなたかが邸を建設されたのではないでしょうか。
そういえば、戦前は今村銀行の経営者で、成蹊学園の理事でもあった大金持ちの今村繁三が、戦後はほとんど財産を失って、ちょうどそのあたりに家を建てて住んでいましたね。
あまり明確に規定できない情報ですが、なにかお役に立てたでしょうか。
やまうるし
他にも別な面で多少のかかわりがあるのですが、ここでは控えます。
それとソネットブログでも管理機能で、コメントの設定で、承認後掲示、のようにできると思います。
当方のブログがそうなってます。というのは、たまにしか更新しないので、クズコメントが寄せられるもので・・・
ありがとうございました。
ChinchikoPapa
さっそく、管理メニューを確認しましたところ、「承認」機能のラジオボタンが何気なくありましたねえ。広告表示をOFFにして、ほぼデフォルトで使用してきましたから気づきませんでした。w 途中で付加されたものでしょうか。
徳川邸の南側にあった邸は、ひょっとすると1956年(昭和31)に死去した今村繁三に関連があったのかもしれない・・・、なんだかそんな気がしてきました。今村は、同年4月に下落合2丁目707番地で死去していますが、この地番は現・中落合2丁目7番地内です。
今村は戦後、同地番に戦前とはくらべものにならないほどの「小」さくて「瀟洒」な家(戦前の邸が、いくつかの別荘まで含めていずれも巨大すぎるのですがw)を建てて暮らしていましたが、彼のことですから建築の部材にはこだわった造りをしていたのではないかと想定できます。ひょっとすると、堤邸のいい部材をどこかで手に入れて、終の棲家を建てている可能性がなきにしもあらずですね。
ちょっと、これから気をつけてみたいと思います。こちらこそ、貴重な情報をありがとうございました。
ChinchikoPapa
前のコメントで、西坂・徳川邸の全貌の記事をご紹介するつもりでしたが、すっかり失念してしまいました。下記のページです。ご参照ください。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23
やまうるし
不確かな情報にお答えいただき感謝してます。
一枚だけあったはずの写真や、堤家のことを書いた本(市販流布のもの)とか探してみましたが、どれも出てきません。
貴サイトの存在に今まで気づかなかったのは迂闊でした。
また新しい情報がえられましたら、当方からもお知らせしたく思います。
ところで、このあたり、現在の中落合2丁目7番地あたりもいわゆる
目白文化村圏内(3期?)に入ると考えていいのでしょうか?
それと、中落合2丁目17−19。聖母病院の西側にあたるところに、大きなお宅がありますが、そこの庭の手入れをしたことがあります。庭の中に昔、画家のアトリエだったという半地下の建物の跡があったことを思いだしました。
ChinchikoPapa
ぜひ、なにか新しいことがわかりましたら、コメントをお寄せいただければ幸いです。心より、お待ちしています。
西坂・徳川邸のあたりは、箱根土地が開発したいわゆる「目白文化村」には入りません。徳川邸にいちばん近いのは第三文化村ですが、その境界からも、150mほど南へ下がっています。詳細は、こちらのサイトをご覧ください。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm
そこは第三文化村の洋画家・吉田博アトリエだったお宅です。現在は、下落合の料亭「桃山」の社長が住んでおられますね。吉田アトリエ時代は、庭にクリケット場があったようですが、戦後はふつうの庭園になっているのかもしれません。このサイトにも、ご子孫がおみえです。^^
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-09-12
やまうるし
吉田博氏のアトリエでしたか。今の主の方はもちろん存じ上げておりますし(先様は覚えてない)、料亭のほうの手入れもしたことがありますが、個人情報とおもわれますので、あえて書かなかったのですが(笑)
一応今回の展覧会の出品作品の由来として、堤邸とのかかわりは留保することにします。もしかかわりがあるとすれば、子供のできなかった第二の正妻の方との屋敷かとも思われますが・・・
いずれにしても焼け残った貴重な建物が失われたのは残念でした。
銅製の網戸、床の間の板、ガラス戸とか保管してあるのですが・・・
当方在住の地も箱根土地開発でして、用地取得に際しては、かなり問題があったことが伝わっています。
ChinchikoPapa
「桃山」の社長とは、実は近くのカフェで知り合いお話したことがありまして、学生援護会があった敷地の1950年代の様子についてうかがっていました。学生援護会のひとつ前は機動隊の宿舎だったのですが、そのまた前、戦後すぐのころは何が建っていたのかをお訊ねしてました。
「第二の正妻」の東京における邸という可能性も、なきにしもあらずですね。いずれにしましても、西坂・徳川邸の南側敷地が売りに出されたとすれば、戦後ではないかと思います。ただし、借地として提供していた可能性もありますので、そうなると戦前からの可能性もありそうですね。
箱根土地の仕事は、よくいえばダイナミックでそれまでには存在しなかった付加価値を産み出しているように見えますが、悪くいいますと荒っぽくて大雑把で、きめ細やかな仕事がまったくできていない・・・という感触をおぼえています。いまだに、西武線も西武デパートも利用しない、生粋の下落合住民の方さえおられるぐらいですので・・・。w
やまうるし
かなり雪が降りました。大騒ぎしてますね。昔は坂で遊んだことでしょうね。
社長さんとお知り合いだったのですね。地番まで書いてしまったのまずかったかもしれません・・・
小生在住地も始め明治大学を誘致するとの思惑で開発されたようですが、失敗。その後、一橋が移ってきました。教養が小平(今は国立へ)、本校が国立と見事に国土計画の路線です。
ChinchikoPapa
昨日のような大雪が降ると、下落合の急坂はクルマ通行止めになりますので、子どもたちや大人までがスノボや段ボールの「そり」で遊んでいます。昨日も、西坂は全面通行止めになりクルマが進入することができず、子どもたちの格好の「スキー場」になっていました。大正時代から、あまり変わっていない雪の日の「下落合風景」ですね。w
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-10-25-1