寺斉橋の南詰め、上落合716番地にアトリエをかまえて住んでいた洋画家・林重義と、佐伯祐三Click!はいつごろ知り合ったのだろうか? ふたりとも母校が北野中学校Click!(ただし林重義は中途退学)であり、同中学には両画家の作品がそろっていまに伝えられている。そして、まったく同時期に下落合と上落合に住んでいるので、地元での往来もあったのかもしれない。佐伯は、『下落合風景』の1作「上落合の橋の附近」Click!で、林の自宅近くの寺斉橋を描いている。ただし、同じタイトルを当てはめてもおかしくない作品のモノクロ画像が、もう1点Click!現存しているが・・・。
★のちに上記「上落合の橋の附近」と思われた作品実物を日動画廊のご好意で間近に拝見し、「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)の1作であることが判明している。詳細はこちらの記事Click!で。
林重義は、佐伯が二度めの渡仏をしたのと同時期に、やはりパリに滞在していた。そして、佐伯が制作をしていたパリ郊外のヴィリエ・シュル・モランで、林は彼の仕事ぶりを間近で観察している。おそらく、佐伯のモンパルナスにあったアトリエにも、林は顔を出しているだろう。パリ14区プールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の佐伯アトリエは、4階建ての貸しアトリエの3階フロアを借りて、佐伯一家の親子3人と、佐伯の長姉・杉邨(佐伯)文榮の娘で洋裁を勉強しにパリへ留学した杉邨てい(のちにハープ奏者)との4人が住んでいた。1階上の4階には、同じく洋画家の熊岡美彦が住み、1階下の2階には薩摩治郎八の夫人であり、絵を趣味にしていた薩摩千代子がアトリエとして利用していた。つまり、この貸しアトリエは日本人だらけだったことになる。
熊岡美彦の証言によれば(1929年の『美術新論』11月号)、彼はこの建物の廊下で薩摩治郎八とすれ違っている。もともと、パリの薩摩治郎八=藤田嗣治サロンClick!を快く思っていなかった熊岡は、廊下ですれ違ってもあえて無視していたのか、「一面識もないと言つてよい」(同前)と書いている。さて、佐伯祐三はどうだろうか? 熊岡側の記録には、佐伯の名前は登場するけれど、特に親しく付き合ていた様子は見られない。薩摩治郎八(千代子)側からの資料にも、貸しアトリエにおける佐伯の記録はみられないようだ。でも、佐伯の住まいからみれば1階違いの2階と4階だ。なんらかの交流があったとみても、別に不自然ではないだろう。
先日、川島芳子Click!のドキュメンタリーで、陸軍特務の「吉薗資料」が傍証のひとつとして、正面から取り上げられていた。周恩来とのやり取りの記録Click!が事実だったとすると、同資料の信憑性は飛躍的に高まることになる。同じく、遺言でレコードを手わたされた山口淑子(李香蘭)Click!の証言も、きわめて重要だ。もし、同資料の内容が事実だったとすれば、佐伯祐三とその周辺に与える影響ははかり知れない。ただし、わたしは佐伯が住んだ下落合で、あるいは吉薗周蔵が開院し、また牧野三尹Click!医師が開業していたその周辺域で、いまだそれらしい“ウラ取り”ができない。
3階の佐伯アトリエには、渡仏後わずか数ヶ月で100点をゆうに超える作品が仕上がっていた。それは、洋画家・伊藤廉が「かなり大きなアトリエの中にはもう混雑するくらゐに沢山の絵があつた。私が訪ねたこの日は十二月七日である」(1935年『みづゑ』7月号)と、1927年(昭和2)暮れの様子を記している。伊藤廉は、モンパルナスの佐伯アトリエを頻繁に訪ねていた。
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佐伯君でもう一つ憶ひ起すことは、佐伯君がよく「うんこ」の話をしたことである。美しい風景を見ると「うんこ」がしたくなるといつたり、ことに食事中に突然そんなことを言ふ癖があつた。(中略) ビリエ・モンバルパンに佐伯君たちが居たので、一日林と二人で訪ねていつたことがあつたが、その夕食の時に大きな田舎のパンを胸に抱き込んで切りながらこんな大きさの「うんこ」が出たらなど云ひ出した。そのとき「うんこ」の話をしたがるのは狂人になる前振れ(ママ)だと私が言ふのを引きとつて「絵かきなんかははじめから狂人だ」と佐伯君は言つた。この日はことの外「うんこ」の話が多かつたやうに記憶してゐる。(伊藤廉「佐伯君の死とその前後」より)
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この文章を読むかぎり、1928年(昭和3)2月初旬(伊藤は3月初めと誤記憶)、サエキくんClick!いや「佐伯君」の言動は、かなり度外れた非常識で“変”はあるけれど、自身を客観視できユーモアを交えられる余裕とともに、比較的“正常”な精神状態にあったのがわかる。伊藤廉や林重義が、佐伯の仕事ぶりを目の当たりにするのは、この直後、再びモランを訪ねたときのことだった。
ふたりがモランの路上で佐伯を発見したときに、彼が描いていた作品は現存している。鉛管から直接キャンバスへ絵具をなすりつけ、家の煙突から立ちのぼる煙を表現した『モラン風景』だ。林重義と伊藤廉は、佐伯の背後にまわって仕上がりつつある『モラン風景』の様子を、じっくり観察していた。同じく、1935年(昭和10)の『みづゑ』7月号から引用してみよう。
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(前略)絵具をつけるのに掌でぬ(ママ)すりつけたり、穂先がかたまつた筆でたゝきつけたり造作もなく直線を引きはなす大変な速度を見てゐておどろいた。絵具でよごれた手は上着へでもズボンへでもなすりつけるし、パレツトへ絵具をおし出したら、鉛管の蓋をしないで箱へほり(ママ)込むのだし、クウトーを使つた場合にぬぐはないから、イーゼルも箱も汚れる。佐伯君の立つてゐる地面も絵具がとんでゐる有様で、この村の旅館の、オテル・グラン・モーランといふのだがそこの主人が気狂沙汰だと云つたやうに、それは度はずれたものだつた。佐伯君はかうして日に数枚を描き上げてゐたのである。(同前)
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佐伯は仕事が終ると、描いた作品を「集めてかへつた」ほどの枚数を、たった1日で仕上げていた。この驚異的な制作スピードClick!は、気に入った風景が見つかったときの『下落合風景』Click!についてもいえる。つまり、佐伯が書き残した「制作メモ」Click!のタイトルは、1タイトル1作品とは限らないのだ。それは、いつかも記事に書いたように、「八島さんの前通り」Click!に相当する絵が、少なくとも4~5枚は現存しており、「制作メモ」に記されたキャンバスの号数と、必ずしもすべてが一致してないことを見れば明らかだ。また、雪景色の連作「諏訪谷」Click!も2点現存している。
さらに、気に入った風景は、日を変えて何度か描いた形跡もある。曾宮一念アトリエ前の「セメントの坪(ヘイ)」Click!に関していえば、「制作メモ」では15号となっており、相応のモノクロ画像も残されているが、曾宮自身は40号Click!の作品で個人蔵として現存していると証言している。画家が画布サイズを15号と40号とで取り違えるはずはないので、これも同じ風景をキャンバスサイズを変えて、別の時節に同一の描画ポイントから制作しているのだろう。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
二科の林重義と伊藤廉は、創作意欲が湧かなかったり表現のスランプに陥ったりすると、林にとっては後輩で伊藤にとっては同年輩である、佐伯の仕事ぶりを見学してたようなフシが見える。モンパルナス162番地のアトリエやモランを訪ねたときも、作品がうまく描けずに悩んでいた時期らしい。佐伯の仕事を観察することで、彼から創作エネルギーをもらっていたのだろうか。
伊藤はのちに、山本發次郎Click!が所有する作品を集めた1937年(昭和12)3月の「遺作展」で、佐伯の早逝についてアランの視点を借り、「もつとも純粋に高められた精神の状態に、佐伯君の肉体がついてゆけなかつたのだ」と総括するように書き残している。
■写真上:左は、下落合のアトリエで撮影された佐伯一家と杉邨てい(左端)。右は、この写真の撮影ポイントと思われる位置で、家族の背後には玄関右手(北側)にあったアトリエつづきのドアがある。また、画面左手には東向きの窓があり、4人はアトリエの採光窓に向いている思われる。
■写真中上:左は、『下落合風景』で1926年(大正15)9月26日に描かれたと思われる「上落合の橋の附近」(可能性のある2作のうちの1点)。右は、同じ方角から見た現在の寺斉橋。佐伯の描画ポイントからは、家々が視界を遮って寺斉橋を見ることができない。
■写真中下:左は、1928年(昭和3)2月制作の『モラン風景』。右は、朝日晃『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)に掲載された1992年現在の同所で、64年間ほとんど変わっていないのに驚く。
■写真下:左は、1925年(大正14)の東京美術学校卒制である伊藤廉『自画像』。右は、制作年代不詳だが滞仏作品ではないかと思われる林重義『バレリーナ』。
★lot49sndさんより、伊藤廉の自宅兼アトリエについて貴重な情報をいただきました。もともと、佐分眞アトリエだった西洋館へ、のちに伊藤廉が引っ越してきているようです。詳細はコメントをご参照ください。1927年(昭和2)に発行された「瀧野川事情明細図」の市外瀧野川大字西ヶ原字第六天1081番地の佐分邸(左)と、現在の同邸の写真(右)を掲載しました。(写真はGoogleより)
この記事へのコメント
SILENT
昨年トイレ川柳で 人生も水に流してトイレ出る って応募したのを想いだしました。尾籠な話で申し訳ありません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
この「うんこ」話をエンエンとするくだりは、どうやら佐伯祐三の「躁」状態を感じさせますね。若いころから「躁鬱」の変化が激しかったらしい彼(義姉の証言)ですが、「鬱」状態に入るとほとんどしゃべらなくなり、ちょっとしたことで感情を爆発させるような性格の側面が、前面にグッと押し出されてきたようです。ところが、いったん「躁」に入ると、意欲の高揚とともに周囲が唖然とするような、攻撃的とでもいうべき圧倒的な制作活動を繰り返したような印象をおぼえます。
「制作メモ」(9月)を作るほどに、『下落合風景』をものすごい勢いで描いていた時期が「躁」、その少し前(8月)に「描くものがあらへん」と友人に手紙で書き送った時期が「鬱」としますと、いろいろ面白いことが見えてきそうです。「描くものがあらへん」のに、どうして翌月からモチーフを見つけて爆発的に描き始めたのか?・・・という、佐伯バイオリズム創作説が立てられそうです。^^ モランも、きっと「躁」の周期に入っていたんだろうと思うんですね。
うちのネコは、高いところへのぼると、なんとなくトイレへ行きたくなるようです。^^; 川柳、いいですね。子供の結婚、定年、離婚・・・と色々な物語を思い浮かべてしまいました。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>漢さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Kimukuta
そしてフザけた内容の記事を書いてるのかと思ったら、すんごい重厚な参考書みたいな内容で、馬鹿な俺なんかには解読できない暗号の羅列にしか見えない感じw
ちゃんと勉強してこなかったからか、人名さえ分からない程で、とっかかりさえない為に厳しい。
いや、全くお恥ずかしい限りw
ChinchikoPapa
(笑) HNは、うちの下のオスガキが「チンチコリン」と、近所の喫茶店で名乗っていたことに起因しています。いまから10年ほど前、小学生時代のことでした。いまや彼は180cmほどありますので、ほんとはブログ名も「デカリンPapalog」としたほうが正解なんですけど。^^
わたしも、小中高校を通じて、学校教科書の勉強が大ッキライでしたので、いまさらながら勉強している始末です。ww
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Simple
落合さんが以前、「ニューリーダー」の連載で、救命院の所在地を書いていますよ。参考までに。(1997年3月号)
豊多摩郡野方村字上高田92番地(現在の中野区上高田1丁目50番地:地主・鈴木)及び96番地(現在の上高田2丁目16番地:地主・小池)の畑地と同郡中野町大字中野(字小淀)96番地の小住宅(現在の中野区中野中央1丁目11番地:家主・伴田 ⇒ 現在はほとんど神田川の水面に没しているとのこと)
ChinchikoPapa
はい、住所が登場してますね。実は、中野の救命院跡、2階で結婚式を挙げたとされる菓子店跡、吉薗と親しかったとされる小淀の牧野医院跡、上高田のケシ畑を含めた自邸跡・・・等は、すでに取材しています。でも、牧野医院の存在と牧野医師の写真(すでに記事に掲載していますが)は確認できたものの、他の確認および痕跡は得られません。
先日、佐伯の未公開の「新発見」資料(1920年の暮れに佐伯から山田新一へ出したハガキ)を記事にしましたけれど、同年暮れには家造りにいまだ着手しておらず、フランス行きに思いが傾いていたところをみますと、吉薗資料とは決定的に矛盾することになります。同資料では、佐伯夫妻は下落合に建てたばかりの自宅から、1920年の年末あたり(?)に確か救命院を訪れていることになってたかと思います。
つまり、米子夫人が1957年にこしらえた誤りだらけの年譜をベースに、1920年の暮れに自宅+アトリエが完成したという年譜記述が、1980年代ぐらいまでつづいていたわけですが、同資料はその古い年譜に沿って記述されているような心象を強く持ってしまいました。同年暮れに、おそらく父親の相続手続きが長引いたのでしょう、佐伯は下落合に自邸を建ててもいなければ東京にさえいません。わたしは、自邸+アトリエの完成は1921年の秋以降だと考えます。(大工は新築祝いを兼ねて、中元ではなく歳暮を持ってきているのも示唆的です)
もっとも、意図的に年代を狂わせて記録が残されているのだ・・・と言われてしまいますと、もはや返す言葉が見つかりませんが。^^; 牧野医師の日記、あるいはメモ、書簡のようなものが見つかれば、はっきりしそうですね。大正期の「ヨード治療」では、いちおう有名医師だったわけですから、可能性がないとはいえないと思います。
Simple
釈迦に説法でしたね。(笑) 失礼しました。
「ニューリーダー」(1999年9月号、10月号)を読みなおしてみました。
これは、佐伯の文案である「救命院日誌」をどう解釈するかの問題だと思います。
「救命院日誌」には、「大正9年9月18日新居の着工」、「11月21日に佐伯だけ引っ越し」、「11月末に本願寺で結婚式」、「12月6日に米子入居」と書かれており、落合さんはこのままでも旧来の朝日説を覆していると考えて正しいと解釈しています。ただし、家だけでアトリエの増築は10年か、11年か特定できていません。
しかし、信頼性の高い「周蔵手記」には「大正9年9月末日 佐伯は「金を工面して家を建てたい」と言っているようだ。藤根さんは応援することにしたらしく、酒井なにがしから土地を借りられるまでにしたらしい。」と書かれており、今回の新発見のハガキの内容(9年12月に家を建てるか渡仏か迷っている)と相反はしないように思います。この記載を見ても9月18日の新居着工という「救命院日誌」の記載とは齟齬がありますよね。また、10月の「周蔵手記」にも新築に記載はなく、「10月は一度も佐伯は来なかった」と書かれています。残念ながら「周蔵手記」にはそれ以外の記載はないようです。
以上から、私は米子年譜をベースにしたという説には反対です。
ChinchikoPapa
たとえば、落合地域と同じように上高田あるいは東中野に住み、地元に密着した取材や調査、証言や伝承集めを行ったとすれば、なにか断片的にでも救命院、あるいは吉薗に関わる足跡が見えてくるのかもしれません。ただ、なにも発見できず確認(ウラ取り)ができなかったとすると、それは吉薗という人物が存在した事実の痕跡が見えてこない・・・ということにはならず、「特務だから痕跡がないのは当たり前」というところに結びついてきそうなのが、あらかじめ徒労感とともになんとも非生産的な感覚をおぼえてしまうところです。w
吉薗資料について検討するには、「戦前に新宿には歌舞伎町(丁)はなかったから、資料はニセモノ」的な、調査不足で非常に浅いレベルの「反証」では歯が立たないでしょうね。(歌舞伎座があったので、戦前から場所こそ違いますが歌舞伎丁の通称はありました) わたしはどちらかといえば、吉薗を追いかけるよりは佐伯の周辺を丹念に追いかけたほうが、なにか見えてくるかもしれない(あるいはなにも見えないかもしれないが)・・・という関わりの感覚でいます。
余談ですが、佐伯の『下落合風景』のひとつ「洗濯物のある風景」にこだわり(佐伯は季節を変えて二度、同じ風景を描いています)、『絵馬堂(堂)』が桜ヶ池不動堂の大正末の姿ではないかと、同時期の写真がないか中野中央図書館にまで調査・収集をお願いして、ことさらしつこくこだわっているのは、実はこの延長線上の数百メートル先に、Simpleさんも書かれています上高田にあったとされる、吉薗宅とケシ畑の敷地があるからなのです。
それから、佐伯の風景画に関する描画法、つまり自作のキャンバスにどのような順序で筆を置いていってるのかという、画家特有の描画グセがもっと研究されてもいいように思いますね。『佐伯』展をご一緒した美術家の方が言われていたことですが、画家には制作上のクセがあり、特に同時期の作品はそのクセが顕著だということもいわれます。吉薗資料の作品類を実見していないので、なんとも言いようがないのですが、それらが佐伯の描画グセどおりに描かれているものか、非常に興味があります。ただ、カラー画像から判断する限り、それが未完の習作や下描きだとしても、佐伯にしてはあまりにデッサンがヘタすぎる・・・という感触はありますね。
あと、「新発見」のハガキですが、あれはこれから公表が予定されている資料の、ほんの一部にすぎません。某美術館に保存されているものですが、いちおう公表が予定されているこれまで未発表の資料は、写真類を含めてまだいろいろと残っています。これらを精査すれば(わたしは残念ながら精査する立場にありませんが)、吉薗資料との齟齬はさらに増えてくるのではないかと想像しています。(それらが、なぜ公表されていないのかという理由も含めて検討する必要があるかと思いますが) また、公表が予定されていない資料(ごく私的でプライバシーが絡む通信類だそうですが)も、ダンボールにひと箱ぶんもあるといいますから、これから追々調査・検討がなされていくのだと思いますね。
Simple
私は落合さんの説を全面的に信じている訳ではありませんが、国事に関わっていた吉薗周蔵の手記における佐伯の位置づけに妙にリアリティーを感じています。(周蔵が重要な仕事をしていた時期の手記にはほとんど佐伯が登場しないなど)
新発見のはがきなど、どんどん公開されて欲しいですね。これまで一部の人達が作ってきた佐伯像がどう変わるか興味深いです。できれば吉薗資料なども合わせて研究すればよいのでしょうが、それは難しいのでしょうね。
長々とお付き合い頂きありがとうございます。
ChinchikoPapa
おっしゃっている、まさにその点が重要なポイントのひとつだと思います。従来は、吉薗資料についてAll or Nothingの論議ばかりが目立っているようですが、個別の資料の具体的かつていねいな事実確認や検証がなおざりにされ、ある部分に齟齬があると全否定され、またある部分が適合していると全肯定される・・・というような、白黒のレッテル張りばかりが先行している印象が強すぎるようにも思います。
戦後、佐伯がひときわ有名な洋画家となり、作品の価格がうなぎのぼりになっていく過程で、単なる知己程度だと思われる元級友が、「無二の親友」になって本を出版してしまったりww、贋作が掃いて棄てるほど作られている状況を考えあわせますと、より地道で淡々とした事実確認と検証がとても重要だと感じます。
今回の『佐伯』展では、未発表と思われる米子夫人の手紙(某美術館のものではない資料を含め)も、いくつか拝見することができたのですが、筆跡や文体、表現グセなど、すべての点において吉薗資料に残る「佐伯米子からの手紙」にそっくりで、リアリティの高さに改めて驚かされます。だから、すべての資料がホンモノだとは限らず、やはり残された個々の資料を慎重かつ具体的に、ひとつひとつ検証していく作業(気が遠くなる仕事ですね)がどうしても必要だと感じるのです。
吉薗資料について、佐伯の側から有利な資料が出るたびに肯定派は「そらみろやっぱり」となり、不利な資料が出ると否定派が「ほらみたことか」・・・というようなやりとりは、生産的でないのはもちろん、いつまでたっても事実(史実)に近づけないような、まだるっこしい感触をおぼえますね。
lot49snd
ChinchikoPapa
伊藤廉のアトリエが、現存しているのですか? 実は、焼け跡の東京中の空中写真を眺めていたとき、飛鳥山の東側に前方後円墳のような痕跡を見つけたのですが、それが七社神社でした。
今度、ゆっくり歩いてみようと思っていましたので、ついでにぜひ伊藤廉のアトリエも拝見してこようと思います。情報を、ありがとうございました。
lot49snd
ということは、この家の元の持ち主は佐分真ということになります。
なかなか面白くなってきました。
ChinchikoPapa
StreetViewで、さっそく元・佐分邸/伊藤邸を見つけました。すごく立派な大正期の西洋館ですね。1927年(昭和2)発行の「瀧野川事情明細図」には、佐分邸として記録されています。
当時の住所は、市外瀧野川 大字西ヶ原 字第六天1081番地だったようですね。字を省略すると、市外瀧野川西ヶ原1081番地と呼ばれていたのでしょう。小字に「第六天」の地名があるところをみますと、どこか近くに湧水源があって、疫病が流行った江戸期に第(大)六天が奉られたものでしょうか。ますます、行ってみたくなりました。w
lot49snd
竣工したばかりのアトリエの前に立つ佐分眞の写真を載せておきました。
ChinchikoPapa
実は、この連休中に王子を散歩する予定でいまして、サクラには遅すぎですが佐分眞アトリエには、ぜひ寄ってみようと思っています。紙の博物館で、下落合在住の画家たちの作品が数多く展示された展覧会以来ですから、半年ぶりぐらいでしょうか。それにしても、立派な西洋館ですね。楽しみです。^^
lot49snd
洋館はとても手入れが良く、築90年には見えません。
新緑の飛鳥山も気持ちの良いものですよね。
震災の影響で閉まっていた青淵文庫も公開が再開されているようです。
晩香廬の内部は当分駄目のようですが・・・
ChinchikoPapa
すごくきれいに維持されているのは、写真を拝見してもよくわかりますね。だんだん昔の建材や部材が手に入らなくなってきて、ちょっとした修繕をするのもたいへんになってきているのは、ご近所でもときどきうかがう話です。
明治建築ですと日本じゅう、大正建築ですと東京じゅうを、建材や部材を求め、さらに当時の技術を伝承している専門家を求めて探しまわっている・・・というのが実情のようですね。もちろん、それだけコストもかかるのでしょうから、たいへんなご苦労だと思います。
新緑の飛鳥山、楽しんできます。^^
W
小生、落合莞爾氏の本を読み、どこまで真実か、四苦八苦しながら(w)裏付けを模索している者です。
> 吉薗周蔵が開院し、また牧野三尹医師が開業していたその周辺域で、いまだそれらしい“ウラ取り”ができない
…とのこと。 http://www.kishu-bunka.org/rogho/saeki/vol-7.html によると、救命院の住所は中野町大字中野九六番地だそうですね。小生も時間が取れたら現場を追ってみようと思っています。何か裏が取れれば良いのですが、さてどうなるやら…。
ChinchikoPapa
「吉薗資料」は、残念ながら誤りが多くてついていけません。お調べになるのなら現場の「地取り」(聞き込み調査)の前に、法務局へ行かれて土地の登記簿謄本を参照されるところからスタートされたほうがいいかと思います。
たとえば、佐伯アトリエは酒井億尋の所有地(下落合661番地)を借りて住んでいたことになっているそうですが、下落合の旧家である山上家の畑地を宅地に直した敷地を借りて、山上家の土地に酒井邸と佐伯邸は建てられているのであり、当該の敷地が酒井家の所有地だったことはただの一度もありません。
つまり、さまざまな「説」が成立する大前提となる、基盤の情報部分から、もう一度疑って調べられたほうがいいかと思います。それには、大久保駅近くにある法務局で、古い土地台帳は閲覧・コピーができますので、「吉薗資料」の基盤からつぶされていったほうがいいかと……。
それが、この10年余の間、地元への聞き込みと記録された過去データの“ウラ取り”をしてきた、わたしの実感です。
橋本操
年2回発行の会報に、今回「北野ゆかりの地めぐり」のイラストいりマップ記事に、林重蔵のアトリエ跡地の情報に、貴殿のこのサイトの
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-04-17
を、掲載致し度、お許しを頂き度、お願いいたします。
2018年3月末までに、ストップの連絡が無い場合には、印刷に移行します。ご容赦ください。
ChinchikoPapa
当サイトの名前をどこかにお入れいただければ、ご自由に掲載していただいてかまいません。また、上落合の林重義と下落合の佐伯祐三につきましては、こちらでもかなりの記事を掲載していますのでご参照ください。
また、両画家の絵が校長室に架かる北野高校で、なにかエピソードが語り継がれていましたら、ご教示いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
佐分良平
ChinchikoPapa
わたしは2011年に、西ヶ原へ外からのアトリエ見学にうかがいましたが、当時の面影をそのまま残していたのを思いだします。かなりていねいなメンテナンスをされているらしく、美しくて立派なアトリエでしたね。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2011-06-25