ソーダ水の中に「明日の目白」が見えた。

ソーダ水と明日の目白.jpg
 「目白文化協会」Click!の「青年部」に参加していた堀尾慶治様は、協会メンバーの拠点だった喫茶店「桔梗屋」の隣りに開店していた、書店「桔梗屋」でアルバイトをされていた時期がある。学校の教科書を売る仕事だった。喫茶店「桔梗屋」が先に開店し、書店が追いかけての営業なので、目白文化協会に参加されたあとのエピソードだろう。目白通りの南側は、建物疎開Click!で1,500m(幅20m)にわたって破壊されていたが、戦後すぐのころから人々はもどりはじめている。
 喫茶店「桔梗屋」は、1946年(昭和21)からほんの4~5年の期間しか開店していなかったらしい。1947年(昭和22)に撮影された空中写真には、黒っぽい屋根の喫茶店の建物と、その前にあった小さなガーデンらしい様子がとらえられている。屋根には、北側に張り出したオーニングのようなかたちも写っている。目白通りから「U」字状の小路が、喫茶店のエントランスと思われるあたりまでつづいており、文字どおりカフェテラスのような仕様だったのだろう。
 堀尾様に喫茶店のメニューをうかがったところ、よく憶えていらっしゃらないそうだ。戦後も間もないころなので、コーヒーや紅茶があったかどうかもご記憶になく、もしコーヒーが飲まれていたとすれば目白文化協会の有力者ルートか、あるいは進駐軍から仕入れていたのではないかとのこと。当時、目白通りのあちこちには「M.Ave(エム・アヴェニュー)」というプレートが取り付けられ、占領した米軍のジープやトラックなどが頻繁に往来していた。
喫茶店桔梗屋.JPG 青年部記念写真.jpg
 そのかわり、目白駅の西側にある階段の途中、金久保沢Click!(現・目白3丁目)の斜面あたりに店開きしていた、“喫茶店”(かき氷屋さん?)のメニューはご記憶だった。かき氷のほかに、甘いソーダ水などもすでに置かれていたようで、その爽やかな炭酸と甘い風味から平和になった日本を実感されたようだ。聖母病院のフィンデル本館まで見とおせた、焼け跡の下落合で飲むエメラルド色のソーダ水は、いったいどのような味がしたのだろう。この喫茶店の近くには、竹ひごで作る模型飛行機などを売る店や、駄菓子屋なども戦後すぐのころからオープンしていたらしい。
 目白文化協会は、「成人部」と「青年部」とに分かれていたが、双方が共催するイベントは女性の手を公然と握れるダンスパーティーのみで、ふたつの部が共同でなにかを開催することは特になかったようだ。成人部が企画し、徳川邸Click!の黎明講堂で開かれた「目白文化寄席」は、意外にも4~5回しか催されなかったとのことだが、青年部のほうは月に何度か集まって演劇や仮装舞踏会などを、精力的に企画し開催していたらしい。徳川邸の黎明講堂で撮影された、織田作之助・原作『航路』の上演を記念する青年部の記念写真が残されている。集合写真にネームのキャプションを入れられたのは、この劇にも参加されていた堀尾様だ。
青年部演劇1.jpg
青年部演劇2.jpg
 目白文化協会が制作した版画が1点、いまに伝えられている。ひょっとすると、イベントの広報などで利用された作品なのかもしれない。タイトルは『明日の目白』で、1947年(昭和22)4月に描かれたものだ。手前にはテラスを備えたビアホールがあり、遠景のバッケ(崖)上には学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)を思わせる、スパニッシュの西洋館が見える。山麓にも目白文化村Click!のようなハイカラな家々が、濃いみどりに囲まれて点在している。学習院昭和寮のさらに向こうには、2両編成の山手線が走っているのが見てとれる。街が荒廃した敗戦直後、穏やかで平和な日々が目白・下落合界隈でつづくよう、願いをこめて描かれているのだろう。それにしても、『明日の目白』に描かれた今日の下落合から、みどりClick!が急速に失われつつあるのは残念だ。
 すぐにも「下落合を描いた画家」シリーズClick!にも加えたい『目白の明日』なのだが、この版画の作者がわからない。 画面の右隅に、「麥」または「秀」のように読めるサインが見えるのだが、いったい誰が描いたものだろう? 目白文化協会には、版画家の吉田博Click!も参加しているので、第三文化村の八島さんの前通りにアトリエClick!をかまえていた吉田家のどなたかの作品なのかもしれない。サインを「麥」ではなく「ホダ」と解釈すれば、1947年(昭和22)の当時は20歳だった、吉田博の二男である版画家・吉田穂高(ほだか)の可能性が高いようにも思える。彼は子どものころから、「ホダ」くん(ちゃん)と呼ばれていなかっただろうか・・・?
その後、下落合348番地に住んだ海洲正太郎Click!の作品と判明した。
明日の目白1947.jpg 学習院昭和寮尖塔.JPG
 敗戦直後の目白通りに、鮮やかなネオンの光を浮かびあがらせた喫茶店「桔梗屋」は4~5年で閉店してしまうのだが、そのあとに入ったお店は一杯飲み屋の「ひさご」だった。喫茶店「桔梗屋」に置かれていた連絡ノート「桔梗抄(らくがき帳)」(その後は「寄せ書き帳」とも)は、そのまま「ひさご」へと受け継がれ、引きつづき周辺住民の方たちが記入しつづけることになる。
 だが、10年ほどで「ひさご」も店じまいをしてしまい、同店の女将だった方が練馬へと転居して以来、目白文化協会の活動を記録した貴重なノートは行方不明のままだ。もし、このノートが発見されれば、『明日の目白』の作者がわかるかもしれない。

■写真上:目白駅前で飲むソーダ水の中から、平和な「明日の目白」が見えたにちがいない。
■写真中上は、喫茶店「桔梗屋」の様子で店の北側には小さなガーデンが見え、エントランスらしい位置にはテラスのオーニング状のものが見える。は、目白文化協会の青年部記念写真。
■写真中下:徳川邸の黎明講堂で演じられた、舞台『航路』(織田作之助・原作)の記念写真。
■写真下は、1947年(昭和22)4月に制作された作者が不明な版画『明日の目白』。は、『明日の目白』でもイメージされた、学習院昭和寮の尖塔部へとのぼる最後の階段。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    真紅のボケを見つけると、その鮮やかさにドキッとしますね。
    nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2009年04月01日 11:36
  • ChinchikoPapa

    掲載されている陶芸のような作品に、森でふいに出会ったら立ちすくみそうです。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2009年04月01日 11:40
  • ChinchikoPapa

    若沖の鶏軸画を、先日まとめて観る機会がありましたが、写真ではわからない軸から浮き上がるようなリアリティに驚きました。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2009年04月01日 11:44
  • ChinchikoPapa

    学生時代に名画座のヌーベルバーグ特集かなにかで、『勝手にしやがれ』は観ました。『気狂いピエロ』とのカップリングだったでしょうか、疲れました。^^; nice!をありがとうございました。>漢さん
    2009年04月01日 11:51
  • ChinchikoPapa

    オスガキたちが「エビちゃんはいい」というのですが、わたしはうーんうーん。^^;
    nice!をありがとうございました。>ponchiさん
    2009年04月01日 15:24
  • ChinchikoPapa

    「In A Sentimental Mood」が、「Psychedelic Mood」になってますね。エリントン顔色なしの、シェップの面目躍如といったところです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2009年04月01日 15:31
  • ChinchikoPapa

    『稲村ジェーン』以来、「真夏の果実」には弱いわたしです。「真夏の過日」を思い浮かべるからなんでしょうか。nice!をありがとうございました。>shinさん
    2009年04月01日 15:35
  • ChinchikoPapa

    神田川沿いのサクラは、まだ2分咲きのものと8分咲きぐらいに開花しているものと、今年は不揃いでバラバラですね。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2009年04月01日 18:46
  • ものたがひ

    初々しい『明日の目白』です。もしも、ホダくんの作品だとしたら、とても興味深いです。吉田穂高さんは、作品の発表は1948年の日本アンデパンダン展の油彩から、とされているようですが、二十歳の時の、町の風景をテーマとした版画が、実はあったとしたら…?
    目白文化協会で活躍されている写真を拝見すると、可能性が高いようにも思えます。『明日の目白』の作者が誰だか、私も知りたいです。
    2009年04月01日 19:56
  • ChinchikoPapa

    ときどき掲載されるビデオクラブの様子、とても楽しそうですね。
    nice!をありがとうございました。>sigさん
    2009年04月01日 21:52
  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
    「青年部」が上演した、演劇記念写真の中央に写っていますので、どうやらサインは「ホダ」であり、作者は吉田穂高氏に間違いないように思います。
    青年部では演劇部への参加のほかに、「あらくさ会」というのを結成していたらしいですね。もう少し調べて、ぜひ「下落合を描いた画家たち」へ掲載したいと思います。親子でこのシリーズに載るのは、初のケースですね。^^
    2009年04月01日 21:59
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>甘党大王さん
    2009年04月04日 18:46
  • ChinchikoPapa

    考えてみますと、わたしは子供のころ児童向けの劇に連れて行ってもらった憶えが一度もありません。いつも大人向けの芝居ばかりで、ときに新派などでは退屈して寝ていました。拝読していますと、児童劇を観られなかったことがとても残念です。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年04月05日 10:32
  • 吉田隆志

    北沢様、ご連絡ありがとうございました。吉田博の孫。吉田隆志です。
    『目白の明日』の作品のことが気になりましたので、ご連絡いたしました。
    私も最近この作品を母の遺品の中に見つけました。私の記憶に間違えがなければ、おそらく父、吉田遠志の太平洋での同期、海洲ショウタロウ(正太郎?)の作品と思います。よく「麥」というサインをしていた様に記憶しております。私が落合中学に通っていた頃、学校の近くの海洲(カイズ)さん、といつも読んでいたお宅の二階の絵画教室に通っていたことも思いだしました。「未来の目白」を描いた作品と理解しておりました。叔父、吉田穂高を当時から「ホダジ」と私どもは呼んでおりました。
    2009年05月06日 14:51
  • ChinchikoPapa

    吉田隆志様、さっそくご教示をいただきありがとうございます。
    目白文化協会の青年部に、当時参加されていました地元の方にうかがっても、『明日の目白』の作者につきましては不明とのことで、今までわからずにおりました。貴重な情報をお教えいただき、ほんとうにありがとうございます。ネットでサーチをした限りでは、児童書籍の挿画を担当されたことがおありのようですね。引きつづき、「海洲正太郎」についてちょっと調べてみたいと思います。
    穂高画伯は、お家では「ホダジ」と呼ばれていたのですね。「ホダ」くん(ちゃん)などと勝手な想像を書いてしまい、たいへん失礼いたしました。<(_ _)>
    美術分野に限らず、目白・落合地域に眠るさまざまな物語を書きつづけているのですが、お気づきの点がございましたら、ぜひまたご教示をいただければ幸いです。貴重な情報をありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。
    2009年05月06日 20:15

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